大本が、示した「事柄」は、
いくつにも、とれる事柄である。
よくにた話(内容)としては、
日月神示(ひふみ神示)があるが、
封印されていた神が、国常立であり、
同じ神であると思わせる、一番大きなところが
同じ語り口調(?)である。と、言う事かもしれない。
大本のほうも、
「****ざ」という口調であったが、
日月神示も自動書記でありながら、「*****ざ」という
語り口がある。 . . . 本文を読む
証明できることではないので、
あくまでも、歴婆の勝手な解釈でしかない。
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弥生人と縄文人
代理の考えでは
まだ、縄文人は個人、個人が「魂」と会話できていたのではないかと思う。
それは、自分の魂というだけでなく、
自然からもききとっていたのではないだろうか?
そう考えれば、例えば氷河期になるまえに、
こうしなさい、ああしなさいと
乗り越えられる方法もおそわっただろう . . . 本文を読む
素戔嗚と天照の誓約ののち、
天照が三姫神を沖の島にいくようにと・・・
沖の島がかなりの「重要ポイント」であったのは、
いうまでもないことなのであるが・・・・
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物書きの視点でいうとき、
起承転結はむろんであるが、
書きたい中心点というのは、
全体の1/100ページもあるかどうか・・
なのだけど、
中心点を書いていきたいと思っても
いろんな設定が必要になってく . . . 本文を読む
天日矛を祀る出石神社に立春祭 (立春の日)があり、
「神馬藻(なのりそ:ホンダワラ、アカモクなどの褐藻ホンダワラ類)」と呼ばれる海草を奉納する慣習がある。とのこと。
やはり、白蛾は、白く乾燥した藻と取るのが、正解の様に思える。
天日矛が持ってきていた太刀に
胆狭浅の大刀(いささのたち)の太刀というのがある。
単純に読むと、胆が狭く浅い・・・
なにか、悪口でしかない気がしてくる・・・。
. . . 本文を読む
つぬがあるしと(天日矛) の足跡をたどると
どうにも、饒速日ではないか?
と、思われる記述が出てくる。
古事記
日本書紀 垂仁3年条本文
日本書紀 垂仁3年条別伝
日本書紀 垂仁88年条
珠2貫
羽太玉
葉細珠
羽太玉
浪振比礼
足高玉
足高珠
足高玉
浪切比礼
鵜鹿鹿赤石玉
鵜鹿鹿赤石珠
鵜鹿鹿赤石玉
風振比礼
. . . 本文を読む
またも、話がもどってしまうが、
魏志倭人伝の中
簡単に表現すると
ー卑弥呼がおっちんじまったときによ、
どえりゃあ、でかい墓をつくって、100人ほど一緒にうめくさったでよぅー
と、いう内容がある。
この100人ほどというのは、まず、ありえない。
(以前書いたように、秦の始皇帝などの墓の様子他が
おえらいさんは、墓に殉死者・殉葬者を埋めるという風聞を生んだ)
(あるいは、エジプトを . . . 本文を読む
旧事本紀のなかで、
神武天皇、応神天皇・・他
身の丈 10尺・・などという表記がある。
はてには、角がはえていたの、鱗があったの・・・
まあ・・・ありえないとは、いわないが・・・
なぜ、そういう妙なはなしが、でてくるのかも、
なにか、理由があるのだろうとかんがえることにしておいたが・・・
仲哀天皇まで、身の丈10尺・端正な顔立ち・・・
イケメンなら、3m以上あっても . . . 本文を読む
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その斑の布にかかわるのではないかと思うことがある。
気比神宮、誉田別皇子とイザサワケの「な」を「か」えようというあたりである。
「 」内を漢字で書くのも、意味合いをゆがめそうなので、
あえて、平仮名で・・・・
*******年代が違っているが*****
国史において気比神が再び現れるのは持統天皇6年(692年)で、その記事では越前の国司が角鹿郡の浜で獲った白蛾を献上し . . . 本文を読む
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一方で魏志倭人伝の信憑性をうたがう。
現代でも、あの、あたりの方は、(ニュースなどから)
「日本人を小ばかにしたような態度である」
日御子(日巫女?)を卑弥呼ととってみたり。
邪馬台国も
じゃじゃ馬ーーーあばれ馬。転じて、人の制御に従わず扱いがむずかしい人、特に女性を言う。
ここからも、邪馬・・・
あばれ馬のような‥台がおさめる国 と、いいたいようだ . . . 本文を読む
ウガヤフキアエズ王朝の神武(あるいは、饒速日)を
日御子が制圧し、
邪馬台国を建国?
これが、仲哀天皇の時。
と、すると・・・
189年前後か? - 一人の女子がいて、名を卑彌呼という。年増だが嫁がず、神鬼道に仕え、よく妖術を以て大衆を惑わす。
この時代の年増というのは、いくつをいうのであろうか?
江戸時代であるが
年増女(としまおんな)は、娘の年頃を過ぎた女性。女性の年齢によって . . . 本文を読む
気比神宮が、
本当の宇気比の場所であると、考える前に
記紀でいわれる誓約をみると
宇気比で生まれた神々があちこちに祀られる事になるが、
これは、また、すなわち
その統治権でもあろう。
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この三姉妹の女神は、アマテラスの神勅により海北道中(玄界灘)に降臨し、宗像大社の沖津宮、中津宮、辺津宮、それぞれに祀られている。
多紀理毘売命- 別名:奥津島比 . . . 本文を読む
宇波西神社のウガヤフキアエズから、話が
気比神宮のイザサワケ
神功皇后
卑弥呼
と、ながれていってしまい、
代理の中で収集がつかなくなってしまっている。
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気比神宮の名前から、
大きな「宇気比」があったと考えている。
一般的に、宇気比を誓約(うけひ・うけい)とかんがえているが、
誓約 は、誓って約束する・・・ということであり
宇気比 は、文字通り 精神(考え . . . 本文を読む
探してみるもんだwww
魏志倭人伝につづられた「卑弥呼の殉葬、奴婢100人」というところから、
AD200~AD300辺りの時期に、かなりの数の殉葬を行ったところが、
邪馬台国ではないかという逆発想でしらべはじめたのだが、
なんのことはない、始皇帝がやっていたことだったようである。
むろん、時期がちがっているが、
古代メソポタミア・古代エジプト・・あたりも、おなじようなことをやっている . . . 本文を読む
持統天皇の名前がでてきたこともあり・・・
いくつか、思う。
持統天皇の話の中に
大化2年に出された薄葬令により天皇としては初めて火葬された。この陵は古代の天皇陵としては珍しく、治定に間違いがないとされる。天武天皇とともに合葬され、持統天皇の遺骨は夫の棺に寄り添うように銀の骨つぼに収められていた。
と、いうものがある。
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薄葬令(はくそうれい)は、大化2年(646年)、身分に . . . 本文を読む
もうひとつの奇妙。
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『古事記』ではその後の経緯として、武内宿禰に連れられた太子(応神天皇)はイザサワケと名の交換を行ったとする(易名説話)。説話によれば、太子が角鹿(敦賀)の仮宮を営んでいると、夜の夢にイザサワケが現れて名を交換するよう告げられた。太子が承諾するとイザサワケは翌朝に浦に出るように言い、太子が言われたとおりにすると浦には一面にイザサワケの献じた入鹿魚(イルカ) . . . 本文を読む