天使の図書館ブログ

 オリジナル小説サイト「天使の図書館」の付属ブログです。

動物たちの王国【第一部】-17-

2014-02-06 | 創作ノート
【栄養ボトル】(密林さんのHPよりm(_ _)m)


 す、すみません。今回はちょっと他に言い訳事項が生じてしまったので、脳死のことについての補足は、次回かまたその次にでもと思います(^^;)

 ええと、今回はですね、マーゲンチューブの思ひ出☆というほどのことではないんですけど、何かそんなようなことについて(笑)

 わたしが看護師さんの仕事を見ていて、「大変だな~☆」と思ったことは多々あるものの、その中でも「マーゲンチューブを入れる」というのは、看護師さんにとってストレスの大きい処置のひとつであるように見えました。

 何分、意識不明の患者さんが相手の時にはまだいい(?)にしても、これが意識のある方が相手で、しかも軽く痴呆の入った御老人だったりすると……苦労して入れたマーゲンチューブを十分と立たずに引っこ抜いてくることがあったり(^^;)

 そういう時に助手が頼まれるのは、看護師さんが他の用事を足してる間、その方のことをさり気なく見ていることだったりするものの、まあ正直「そんな暇ないよ☆」ということのほうが多いので、目を離してる間ミトンをしてもらうということもありました。

 もちろん、このミトンをしてもらうという行為を、虐待と見る患者の御家族などもいらっしゃるので、なんとも難しいところではあるんですけど……そこの病院では正直、極々たまに一時期的に患者さんの手を拘束させてもらうということがあったと思います。

 いえ、そんなしょっちゅうとかじゃなくて、やむをえない時だけあくまでも一時的にということなんですけど、前後の事情が何もわからず、たまたまそういう場面だけを見た場合、虐待であるように見えなくもないかもと思ったりしました。

 ええと、病棟の看護師さんというのはとにかく忙しく、そんな時に苦労して入れたマーゲンチューブを引っこ抜かれた場合……もはや「OMG!!」としか叫びようがなかったり(OMG=Oh,My God!!の略・笑)

 そこで、「ごめんね、△△さん。記録とる間だけちょっと我慢して」ということで、ミトンをはめてもらったり、看護師さんによってはカルテ自体をその患者さんの病室に持ちこんで、見張りながら記録を取ったりすることもありました。

 でもこの場合でも、記録することに集中しすぎるあまり、ハッと気づいた時には△△さんが片手にマーゲンチューブをぶら下げていたり(OMG!!)、日勤の看護師さんの勤務が終わって、その方が「もう自分に責任はない」と思い、ミトンを外した途端――今度は夜勤の担当看護師さんが「OMG!!」と叫ぶ事態になっていたり……きっとマーゲンチューブにまつわるエトセトラ(?)な事態というのは、日本中、世界中の病院であるのではあるまいか……とすら思ったほどでした(^^;)

 もちろんお医者さんとってはまあ、「マーゲンチューブが抜けたぐらいなんだ☆」くらいな感じなのかもしれません。でも、↓のモデルってほどじゃないにしても、軽く参考になったある先生がいて……急患の患者さんがICUに運ばれてくることになったんですけど、その先生が調子にのって(?)「おう、マーゲンチューブくらい俺が入れてやるぞ」と言ったらしいのですが、結局何回やっても入れられず、最後には看護師さんが自分でやったということがありました(笑)

 今にして思えば、たぶんあれ研修医の先生だったのかなって思うんですけど……軽くヤブくさい臭いが漂ってて、助手のわたしの目から見てさえ「あれで本当に大丈夫なの??」と心配にすらなるほどでした

 なんにしても、今回の言い訳事項はマーゲンチューブということでよろしくお願いしますm(_ _)m(つまり、↓の記述は、わたしが看護師さんを見ていて感じた心象風景みたいなものが元になってるというか^^;)

 あと、褥瘡についても「褥瘡の思ひ出☆」という感じで、書きたいことがあったんですけど、今回は本文も長いのでこのへんで、と思います。

 それと、わたしが本文などで書いてる経管栄養っていうのは、栄養ボトルって書いたほうがいいのかなって、あとになって思ったりしました。この栄養ボトルに前回のトップ画のエンシュアを入れ、人肌くらいに温めてからマーゲンチューブや胃ろうに繋いだりするのですが、「この説明じゃわかりずらいよー☆」と思われた方がいたら、本当にすみませんm(_ _)m

 それではまた~!!



       動物たちの王国【第一部】-17-

「ちょっと、誰か手伝ってくれるー?」

 以前ならばこういう時、峰岸がよく親友のヘルプに入ったものだった。だが、彼女が異動となった今、鈴村は何をするにもそれなりに仲の良いの看護師にものを頼むようになっている。

「あの、わたしで良ければ……」

 ちょうど手の空いた唯がそう申し出ると、「べつにあんたでも誰でもいいのよ」と、鈴村はいつもの調子で言った。そして唯が彼女について112号室に入っていくと、その個室には二度目の脳梗塞で長らく意識が戻らず、ターミナルと宣告された患者が横たわっていたのだった。

「林さん、こんにちは~。今日は春うららといった陽気ですよー」

 そんなふうに言って唯は林葉子という名の七十歳の患者の手を握りしめた。仮に意識がなかったとしても、耳だけは最後まで聴こえている可能性があるため、そういった適度な声かけといったものを看護師たちは必ずしている。

「馬鹿ね。林さんはもう死んでるのよ」

「えっ!?いつ亡くなったんですか?」

「ついさっきよ。家族に死亡宣告したのは及川パンダ部長。林さんの家族には待合室で待ってもらってるの。で、死に化粧を施したら、いつもと同じように下の霊安室へ運ぶわけだけど……ねえあんた、これどう思う?」

 唯が林葉子の顔をよく見ると、彼女は髪を整えられ、綺麗に薄化粧を施されている。体のほうの清拭も済み、綺麗な病衣に着替えてもあった。つまり、あとは専用のストレッチャーに移して運ぶくらいしか、唯にはすることがない。

「えっと、どうって……とても綺麗に化粧がされていて、完璧だと思います。流石鈴村主任っていうか」

「そういう無駄なヨイショはどうでもいいのよ。あたしが言ってるのは林さんのこの口のこと。うまく綿を詰めて口が半開きならないようにしたいんだけど、どうしてもうまく口が閉じなくてね。なんかこのままだとあまりにも間抜け面だっていう気がしない?」

「…………………」

 確かに、言われてみると林葉子の口はぱっくりと開いていて、うっすらと塗られた口紅がその間抜けさ加減を強調しているように見えなくもない。

「んーと、でもどうでしょう?なんかこれならこれで可愛いんじゃないかなっていう気もわたしはしますけど。なんていうか、軽くお魚さんみたいな感じで」

「お魚さんねえ」と、鈴村はぷっと笑った。「あんたも少しは言うようになってきたわね。一年前のこと、あんたは覚えてる?あたしや結城先生が太った意識不明の患者に「どうもならんな、このデブ公は」って言うたびに、「患者さんに対して失礼です」とか真顔で言ってたじゃないの」

「あ、あれは……」

 唯は真っ赤になって反論しようとして止めた。

「っていうより、昔のことはもうあまり言わないでください。恥かしいですから」

「べつにいいじゃない。あたし、あの頃は本当に羽生さんのことが心配だったのよ。こんな神経の細い繊細な子、うちで持つかしらと思って。でももうあれから一年経つのねえ。どう?救急部の看護師として、これからもやっていけそう?」

「えっと、今でも交通事故の患者さんとか、運ばれてくるたびに身の竦む思いがします。処置室で結城先生のことが時々怖いって思うことも変わりありません……でも、あの頃は結城先生さえいなかったら、毎日こんなに暗い気持ちにならないのにって思ってたんですけど、そこは変わりました。特に及川部長と結城先生がいる時は、ふたりに任せておけば大丈夫だっていう安心感みたいなものがすごくあって……これが他の先生っていうことになると、なんていうか……」

「そうよね。あなたもだんだんわかってきたでしょ。『こいつ、頼りないんだよな』とか『おいおい、看護師でもわかるミスしてんじゃないわよ』みたいに、看護師が手を出せないことについても色々見えてくるものね。結城先生は口は悪いけど、まあ言うだけのことはあるし、及川部長は救急部やめて自分で脳外科病院でも開院すればざくざく儲かるだろうにっていう腕前だし。ただ、若手がなかなか育ってこないのよねえ。中堅クラスの医師なら結構いるけど、結城先生みたいに頭ひとつ以上飛び抜けた奴がなかなか現れないし……」

「結城先生は特別だと思います」

 唯も林葉子の口がなんとかぴったり閉じないかと、色々工夫してみたが無理であった。そこで鈴村とともに「これも一種の愛嬌」ということにし、一、二の三でストレッチャーに遺体を移す。

「結城先生は特別って、じゃあ今ではあいつのこと、見直したってこと?」

 家族待合室の前を通る時、泣いている数名の家族に鈴村と唯は神妙な面持ちで頭を下げた。そして鈴村はといえば、エレベーター待ちしている時にそう会話の続きを繋げた。

 おそらくこういう時、死者への哀悼の意をこめて、無駄口など叩くべきではないのだろう。だが鈴村も唯も、霊安室へ患者の遺体を運ぶということを、これまで何度となく行っている身である。鈴村に至っては数え切れないほどといって差し支えない。ゆえに、こうしたことはふたりにとって何も「特別」ではないことになっていた。

「結城先生は凄い方だと思います。最初はお医者さんとしての腕は素晴らしくても、人間としてどうなんだろうって思ってました。でもそのうちだんだん……わかってきたんです。本当に愛情がなかったら、あそこまでのことはとても出来ないって」

「本当の愛情ねえ」

 霊安室に林葉子の遺体を運ぶと、鈴村と唯はそこで線香を一本上げ、そして救急病棟のほうへ引き返してきた。あとは葬儀屋の人間が到着次第、及川部長と新しくやって来た松村師長が家族と挨拶し、患者の遺体を厳粛な気持ちで見送ることになるだろう。

「あの、実はそれって鈴村主任もそうだなってわたしは思います」

 霊安室からの帰り道、鈴村と廊下を並んで歩きながら唯は言った。

「徳川師長も言ってました。鈴村主任はきちんと、見てるところは見てる人だって。結城先生もそうですけど、言いたいことがあったら本人の目の前ではっきりずばっと言うところとか、なんだかんだ言って結局面倒見のいいところとか……わたしもいつかそんなふうに、器の大きい人間になれるといいんですけど」

「まあ、羽生さんには羽生さんの道があるわよ。北島さんと田村さんと時田さんが三人ともどうにか生き残ったのは、なんと言ってもあなたのお陰ね。あなたもここに来た時、みんな自分の仕事で忙しくて、自分から聞かない限りはあまりものを教えてもらえないことに驚いたでしょ。『今日はちょっと三浦さんが教育係をやってちょうだい』なんて徳川さんが言うと『ええーっ!?』なんて嫌な顔されたりね。でも今ではそれが何故だったのか、羽生さんにも少しはわかるんじゃない?」

「わかります、とても。あの頃わたしはとても甘ったれていて、それが態度にも出てたと思いますし……新人で右も左もわからないんだから、一からものを教えてくれるのは当然だくらいに思ってて。でも、自分が彼女たちから物を聞かれたりすると、時々ドキッとすることがあるんですよね。なんでって、大体これはこういうことだろうくらいに理解してることを、あらためて言葉で説明しようとすると、今度はそれが難しかったりして……新しく四月に新島さんが入ってきたじゃないですか。彼女もすごく熱心に色々なことを聞いてくるんですよ。で、間違いのない正しい知識を伝授しなくちゃって思うんですけど、微妙にこのへんの知識はあやしいなと思って、軽く誤魔化して説明したり……そういうことをしてる内に、結城先生の凄さがつくづくわかりました。あんなに淀みなく矢継ぎ早に研修医に質問する間も手は休めず、医学的に正しい知識を相手に伝えるって、変な言い方ですけど、結城先生まだ若いのになんでそこまで出来るのかなってよく思います」

「まあねえ。右も左もわからないど新人に一から丁寧にものを教えるのは、ある意味当然のことではあるのよ。ただ、なんでもかんでも手取り足取り教えればいいってものでもないし、時には突き放すことが相手の成長に繋がることもあるわけでしょ。何度教えても相手が覚えないようだったら、当然そこで怒ったり怒鳴ったりする必要もあるし、そういう時にどのくらい相手に「本気」になれるか、受け取る側でも本気で受け取れるかってことよね。そこがうまくいかないと、穴の空いたザルに水を流しこむみたいになっちゃう。まあ、あいつに比べたらあたしなんてまだ楽なほうよ。『あ、この子はザルだわ』と思ったら、とっとと見切りをつけるタイプだから」

 鈴村がくすくす笑ってそう言ったところで、ナースステーションに辿り着いた。するとさっそくとばかり、新島弥生が情けない顔をして唯のほうまで擦り寄ってくる。

「せえ~んぱーい。マーゲンチューブがなかなかうまく入りません……」

 はいはい、マーゲンねと唯は思い、看護大学を卒業したばかりの新島を連れ、111号室へ向かった。彼女のかわりに自分がやるのは簡単だが、それでは本人のためにならないだろう。何分相手は意識不明でもあることだし、新人の実験台になってもらうというのは失礼な言い方だけれど、唯は手出しを控えるということにした。

 マーゲンチューブというのは、鼻から胃に向かって入れる、経管栄養を繋ぐための管である。これがあるお陰で患者たちは口からものを食べられなくても――栄養のある飲み物を鼻から胃に直接摂取することにより、生命を維持できるのである。

「あ、食道じゃなくてまた気管のほうに入ったみたいよ。もう一回やり直しね。それと、斉藤さんは意識がないからまだいいけど、マーゲンチューブは当然、意識のある人にも入れることがあるから、その時にはもっと大変かもしれないわ。なんでって、鼻からこれを入れられるのは異物感があって気持ち悪いってみんなそう言うもの。あと、認知症の方なんかだと、何度も自分で引っこ抜いてきたりするから……その度に入れなおしたりとかね。だから一回一回本当はそんなに時間かけられないのよ。まあ、中には特別入れずらい人もいるから、そういう場合は仕方ないんだけど」

「そうですよね。意識不明の方で練習できるなんて、むしろわたしはラッキーだっていうことですよね」

「まあ、そういうこと。わたしはちょっと他に仕事があるから別の病室へ行くけど、もしどうしても出来ないようだったらまた声をかけてね」

「……はい」

 唯としても本当は、新島弥生が出来るまでこのまま見守っていたいところではある。だが、新人にそれほど時間がさけるほど、救急病棟というのは暇なところではない。

 唯が今日自分が担当になっている病室にバイタルを取りにいく途中、廊下で綾瀬真治という名の研修医とすれ違った。彼の後ろには北島と田村と時田がおり、何か互いに冗談を言い合ってしきりに笑いあっているようだった。

(なんだか、軽薄そうな先生ね)と、唯は直感的にそう感じたものの、何分結城医師の例があるため、人を見かけで判断してはいけないと、思わず自分を戒めた。

「唯ちゃん、今綾瀬先生のことを見て「なんて軽そうな先生なんだろう」って思ったでしょ」

 意識不明の寝たきり患者の洗髪、手浴・足浴等を終えた藤森が、唯の後ろをついてきてそう言った。

「正直なところを言うとね。でもまあ、うちにはこの人を軽薄と言わずして誰が軽薄なのかっていう代名詞の結城先生がいるから……見た目で勝手に決めつけたりしちゃいけないわよね」

「さーて、どうかな。でも唯ちゃんも、うちに来て一年で大分言うようになってきたね。ま、その調子で図太くなっていかないと、看護の世界では生き残っていけないんだけどもさ。けど綾瀬先生の場合、実際相当軽い人みたい。見た目っていうより、頭の中がっていうことなんだけどね」

(どういう意味かしら)と思いつつ、唯は重症患者四名のいる110号室で、患者のバイタルをそれぞれ測りはじめた。四名とも、交通事故・自殺未遂・脳梗塞といった事情により、それぞれ意識がなく人口呼吸器を友とせざるを得ない患者たちだった。

 藤森が唯の仕事には手出しをしないまま、ただ噂話をするためだけに医療機器の機械音が虚しく響く部屋に、束の間留まっている。

「なんかね、綾瀬先生、結城先生に「壁際でペンペン草みたいになってんじゃねえぞ!!」って怒鳴られた途端、処置室から出ていって戻って来なかったんだって。なんでも、なんとかいう有名病院の御曹司らしいよ。で、変にやたらとプライドだけが高いっていう最悪なタイプみたい。さっき、北島さんや時田さんなんかと笑って話してたでしょ。彼女たちには中途半端な医療の知識を披露して、なんかいい気になってるみたいね。あの子たちもちょっと馬鹿だとわたしは思うな。確かに綾瀬先生は見た目格好いいかもしれないけど……結城先生に比べると、二流のハンサムって感じ。もちろん本人にこんなこと言ったら、「黙れ、このブタ」って速攻言われそうだけど」

「ダイエットはもう、諦めたの?」

 唯は患者の痰をサクションチューブで取りながら、そう聞いた。

「そうねえ。やることにはやってるのよ、一応。色んなサプリメントを試してみたりね。でも宗治がさ、べつに俺はおまえが太ってても気にしないって言うんだもん。俺はありのままのおまえが好きだからって」

「お熱いわねえ」と、唯は使用済みのサクションチューブを、専用の消毒バケツに入れながら笑った。「実際、宗治さんってそういう人よね。自分が料理人だからかな。奈々ちゃんが思いっきり好きなものを色々食べてる姿が好きだって、そう言ってたし」

「でもさあ、彼氏が料理人ってのも困りものなんだよね。料理がうまいから、出されたものなんでもパクパク食べちゃう。これじゃあダイエットしろったって、絶対無理よ」

「奈々ちゃんのその話はいつも、わたしにはただのノロケにしか聞こえないけどな」

 唯は他の病室もまわって同じ手順を繰り返すと、最後に新島弥生のいる111号室まで来た。

「どう?うまくいったみたい?」

「は、はい……!!どうにかこうにか。でもちょっと鼻のところから血が出てしまって……」

「あらら。じゃあちょっと軟膏塗っておこうかしら。あとわたし、一度記録が済んだら体位交換したいから手伝ってくれる?」

「わかりました!!」

 新島弥生に軟膏のある場所を教えると、唯は藤森の隣に座って電子カルテを開いた。一年前までは何をどう書いたらいいのか、果たしてこれで間違いはないか、記録を取るのにも随分時間がかかったものだった。今は手順を踏まえて簡潔に書く術を唯はよく心得ている。けれどこれも新人の新島に教えなければならないことのひとつに違いない。

「綾瀬くん、挿管がうまくいかなくて、結城先生に恥をかかされたって思ってるみたいね」

 北島と時田と田村が研修医の綾瀬真治と別れ、自分が担当の病室に散らばっていくと、鈴村がいかにも人の悪い笑顔を浮かべ、そう言った。

「あー、それわたしも聞いたわ」と、三枝美穂子。「『ペンペン草が出しゃばるな!!患者を殺す気か!?』って怒鳴られたって。そうよねえ。そのあとも患者さんの前歯が二本、挿管でボキッと折れてたし、IVHを入れる手際が悪くて出血が止まらなかったり……結城先生実際頭ハゲそうよね。あんな仕事できないのにプライドだけ高くて、女子にはモテたいみたいな最悪の研修医を押しつけられて」

「そんなにひどいんだ」と、藤森が呆れた顔をする。「じゃあ、あの二流の顔の良さを差し引いても最悪ってわけね。わたし、そこまでひどい研修医は見たことないかも。大体仕事出来なかったとしても、研修医のお医者さんって基本的に謙虚だったり、黙って話聞いてたりするじゃない。その部分がもしないんだとしたら……あちゃーって感じじゃない?」

「ほんと、結城先生、一体これからどうするのかしらね」

(まったく困ったものだわ)というように鈴村が首を振っていると、噂をすれば影というべきか、そこに当の翼本人が現れる。どう見てもイライラしているのがわかり、唯は彼が昔、自分の前でもよくこんな感じだったことを思いだしていた。

「なんだ?俺がどうしたって?」

「アホな研修医の面倒見るベテランも大変よねって話をしてたのよ。どうかね、結城くん。今年の新人さんたちは」

「あー、たったのひとりだけ、いることにはいるな。俺がつっとばか見るべきところがあると思う奴が。でもあとは並か並以下、松竹梅の竹と梅。それと箸にも棒にも引っかからないカスがひとりいるってところか。まあ、カスじゃなくてKSってことにでもしとかないと、部下にカスと名づける横暴な上司がいるとかなんとか、院長にチクられちまうんだけどな」

 翼は自分が目を通さなければならない書類の山を片付けるべく、看護師たちには背を向け、いつもの定位置で書き物仕事を続けた。

「おやおや。その相手というのはたぶん、ASのことじゃないの、結城先生」

 鈴村がそうズバリと大きな声で言うと、翼は肩を竦め鼻で笑った。

「実際、蓮見院長に呼ばれて驚いたよ。あいつ、ろくに挿管も出来ないくせして、将来は脳外科病院の跡取りになる予定なんだと。綾瀬威彦って言ったら、脳外科学会じゃちょっとした有名人らしい。けどまあ、カエルの子はカエルじゃなくて、デンデン虫だった……なんていうことがこの世の中にはあるらしいな。院長には「なんとかうまく医術を教えこんでくれたまえ」なんて言われたけど、流石の俺にも出来ることと出来ないことがあるからな。「そいつは無理です」ってはっきり言ってやったぜ」

「ま、そりゃそうよね。人からものを教わるっていう態度がなってないような奴に、何か教えたって無意味だもの。それでも、人の命が懸かってなければそれでもいいのかもしれないけどね。問題はあの子が何もわかってやしないくせにやたら格好つけたがるってことよ。若い看護師たちの前でいい格好でもしたいってわけ?今時の子のモラルっていうのは、一体どうなってんのかしらね」

 鈴村はこの言葉を、ナースステーションに戻ってきた北島と田村、それに時田の三人娘に聞こえるように言っていた。三人は綾瀬が少しばかり格好いいせいか、話しかけられると馬鹿のように呆けて聞き入っていることがある。だがそんなことをしている暇があったら、今以上に仕事に対して意欲を見せろと鈴村は言いたいのだろう。

(強いなあ、主任は)と、唯はこういう時、つくづくそう感じてしまう。鈴村はもちろんわかっているのだ。彼女たちが三人でおそらく自分のことを「厳しすぎる」だの「あそこまで言わなくても」といったように、後で文句を言っているだろうことは。それでも言うべきことはきっちり言うというのが、あくまでも鈴村の流儀だった。

 もちろん、鈴村にしても彼女たちのことをいくら教えても理解しない「ザル」とまでは思っていないだろう。けれど自分にとって心地良いものしか「見ざる・聞かざる」といった状態になっている部下に、真正面から問題と取り組むのを教えるのは難しいことでもある。何かをきっかけに、本人たちがそのことに「気づく」ということがない限りは……。

 それから唯は、新島と一緒に体位交換やオムツ交換をしてまわり、尿量や便の量をチェックしたのち、今度は彼女にカルテの記録の仕方について教えようと思った。正直なところを言って、自分の仕事だけでも手一杯なのに、人にものまで教えるのは大変なことだと唯は思っている。これがICUということになると、さらに大変さに輪がかかるということも。

 けれど、新島弥生は素直な性格をしているし、何よりその一生懸命な一途さに唯は惹かれるところがあった。もしかしたら去年の四月の自分に似ているせいかもしれないと、そう思いもする。

 そしてその日の夕方、尿バッグの尿を唯が捨てるために病室を順番に回っていると、カーテンを閉め切った四人部屋の一室で、北島と田村がこんな話をしているのが聞こえた。

「あ、褥瘡の薬、もしかして一種類しか塗ってなくない?」

「でも、もうテープでしっかり閉じちゃったし、今日くらいいいじゃない。明日担当になった人が二種類塗れば」

 ――この時ばかりは流石の唯も、カッと頭に血が昇った。

「あなたたち、一体何考えてるの!?患者さんに苦しい姿勢を取らせてるんだから、無駄なおしゃべりしてないで、手早く済ませるべきなのに。意識がなくてもね、ううん、意識のない人だからこそ、人としての尊厳を大切にしなくちゃいけないの。北島さん、あなたはナースステーションで記録でも取ってなさい。田村さんはそのまま片桐さんの体を押えてて。あとのことはわたしがやるから」

 七十二歳のこの片桐勲という名の患者もまた、脳梗塞で救急搬送されてきた患者だった。それもこれが二度目の梗塞である。長く寝たきりの状態で家族が自宅介護していたものの、その間に臀部に大きな褥瘡が出来てしまっていた。

 唯は厚手の医療用テープを剥がすと、処置台の上から二種類ある内の二番目の塗り薬を取り、田村に「塗ってないのはこっちのほうの薬なのね?」と確認を取った。彼女は普段怒ったことがなく、優しいだけの唯が顔すら赤くして憤慨していることに驚いたのだろう。気弱そうな顔をして「そうです」と答えていた。

 それでも怪しいなと感じた唯は、「間違いないでしょうね」ともう一度念を押した。自分もそうしたことが以前あったからわかるのだが、仲のいい看護師と話しているうちに、手順のどこまでを行ったかを忘れてしまうということが極たまにある。

「間違いありません。というか、一番目の薬と二番目の薬は、少し色が違うでしょう?たぶん間違えないように若干色が違うのかもしれませんけど、一番目のは真っ白で二番目のは少しブルーがかってるんです」

「あ、本当にそうね」

 唯はこの時になって初めて、自分が怒っていることに気恥かしいものを感じ、普段の口調と顔の表情に戻った。そして褥瘡に真っ白い軟膏を塗ったあとがあるのを確認し、ブルーの薬を木べラで重ねて塗ることにした。

「これでよし、と。片桐さん、ごめんなさいね。時間がかかってしまって……」

 もちろんこれは田村に対する嫌味ではない。唯は――というより他の看護師もみなそうだが、相手が意識不明の患者であっても、小まめに声かけをしながら普段の処置を行っている。

 それから片桐の病衣を整えて体位交換を終えると、処置台のものを片付けながら唯は話を続けた。

「この二種類の軟膏は薬局長の話によると、某製薬会社の画期的新薬なんですって。もちろんそんなに劇的な効果があるかどうかはわからないけど……何日かしたらまた薬局長がどのくらい効果があったか、写真を撮りにくると思うの。そういう意味でもね、きちんとしておいて欲しかったのよ」

「いえ、羽生先輩の言ってることは正しいです。わたしたちが間違ってました。本当にすみません」

 その時の田村の顔の表情を見ていて、唯はほっとした。それは自分が本当に悪かったと思っている表情であり、あとから「羽生先輩ってちょっと……」というように陰口を叩くような顔つきではなかったからである。

(三人とも、ひとりひとりはとてもいい子なのに、どうして三人一緒になるとどこかベタベタダラダラした関係になるのかしら。もっとこう、三人でお互いを高めあって……みたいになるといいのだけれど)

 唯はその日、北島と田村と時田が帰ってから、この件をナースの休憩室で鈴村主任に報告した。もちろん主任から注意がいけば、「羽生先輩がチクった」というように思われるかもしれない。けれど、唯としてはやはり黙っておくわけにいかなかった。

「そうね。あの子たちが三人揃った時には、ひとりをICUにやってもうふたりはそれぞれ離れるようなポジションにしたほうがいいわね。このことはわたしのほうから松村師長に話しておくわ。羽生さんは何も心配しなくていいのよ。あなたがそう言ったから……みたいには話さないし、あの子たちにもわからないようにそうしてもらうから」

 誰がその日のICU担当になるか、あるいはどの病室の担当かは、すべて師長が決めることになっている。そしてこの新しくやって来た松村師長は、堀田師長に比べ「すこぶるまとも」で日常会話がきちんと伝わる、実に話せる師長でもあった。

「それにしても、三人が三人とも居残ってくれたのは良かったんだけど、仲が良すぎるっていうのもある意味考えものね。というより、羽生さんが色々尻拭い的に面倒みたから今の自分たちがあるって、あの子たち忘れてるんじゃないかしら。今じゃすっかり、自分たちだけで物を覚えたみたいな顔して仕事してるものね」

「いえ、わたしも反省してるんです。北島さんたちが救急部に来た時、わたしもまだ今以上に半人前で中途半端で、人間的にも未熟でした。人から嫌われるのが怖いとか、いい人だと思われたいとか、たぶんそういう気持ちも凄くあって、あまり厳しい教え方が出来なくて……」

「ううん、そんなことないわ。羽生さんは十分よくやってるほうよ。わたしなんて、看護師になって一年目の時には、もっと全然チャランポランだったもの。今日は憧れのイケメンT先生は来てるかな~とか、そんな子だったしねえ」

 ここで鈴村は煙草を吸いながらくすくすと笑った。堀田師長が休憩室に貼った「院内禁煙」という四文字熟語に似た言葉は剥がされ、とっくの昔にゴミ箱に捨てられている。

「まあ、面倒な役割を押しつけて悪いけど、新島さんのことも同じ調子でよろしく頼むわね。羽生さんは人を教えるのに向いてる気がするから、将来は看護学校で先生にでもなったらいいかもしれないわよ」

「そんな……絶対に向いてないと思います」

 鈴村が松村師長に今の話をするために師長室へ行くと、唯は帰り仕度をして地下のロッカー室へ向かった。以前、高見沢由紀らが自分の噂話をしているのを不意打ちのように聞いた時、唯はとても悲しかったことを覚えている。けれど今ではそれも、昔あった小さな点のようにどうでもいいことだった。おそらく自分は北島と時田と田村の三人がこの場で陰口を叩いているのを聞いたとしても、さしてショックのようなものを受けないだろう。ただ「自分の伝えたいことが伝わらなかった」ことを残念だと感じる、それだけに違いない。

(もしかしたら結城先生も、こんな気持ちなのかもしれないわ)

 唯は鈴村主任とふたりきりで話したかったので、他の日勤帯の看護師が全員帰るのを待ってから、いつも最後まで煙草を吸っている鈴村に先ほどのような話をしたのだが――その間、他の看護師たちがこんなふうに噂するのを聞いていた。

「あの綾瀬って研修医のガキは、どうしようもない悪タレらしいわね。なんでも、救急部の看護師たちにランキングをつけてるらしいわよ。それも仕事が出来るとかそんなことじゃなくて、Aは年増、Bはデブ、Cは胸がでかいとか、そんなふうにね」

「やっだあ、大島さん。そのBっていうの、間違いなくわたしじゃないですか」

 ここで藤森奈々枝がテーブルに並ぶお饅頭を食べつつ、けらけらと笑う。

「何言ってんのよ。救急部で太ってるのは、何もあんただけじゃないでしょ」

 そう言って大島みどりは、自分のお腹まわりをぽんと叩いている。彼女は三十代後半で、背が高いだけでなく、なかなか良い体格をしていた。

「じゃあAの年増ってのは、あたしのことね。あのガキ、近いうちに間違いなく締めてやるわ」

「それがね、鈴村主任のことは年増だけど結構好みなんですって。だから二十くらい年離れてても全然オッケーでつきあえるとか言ってるらしいわ。ただ、鈴村さんが自分に夢中になるだろうから、そうなったらちょっとうざいとかなんとか……」

 ここでその場にいた看護師十名ほどは、声を揃えて大笑いした。

「一体なんのギャグなのよ、それ!!あのガキ、命知らずにも程があるわね。まあそれでも、医者としての腕はあるとか、まだそれはないにしても将来の姿を垣間見せる何かがあればいいわよ。けどあいつ、ほんっとーに何もないスッカラカンじゃないの。あれで本当に医大出れたのかって疑っちゃうくらいね。脳みそなんて軽く叩いたらコンコンってノックの音がしそうだもの。まったく、困ったお坊ちゃまが入ってきたもんだわ」

「気の毒なのは結城先生よ」

 と、別の看護師がどら焼きを食べながら言う。勤務後に看護師たちは大抵、十五分か二十分、話が盛り上がった時には三十分以上もこうしてだべってから帰途に着くのだった。

「なんかねえ、綾瀬先生のお父さんって超有名な脳外科の先生なんですって。で、医学界じゃ結構力を持ってる人らしくて……ボンクラ息子の言い分をすべて丸呑みにして、蓮見院長にこう言ったらしいわよ。「そちらの救急部に、ひどく横暴な医者がいるそうですな。患者に対してはデブだのハゲだの肉体的欠陥を言い募り、研修医を含めた部下たちのことはザコ呼ばわり……まるで軍隊の一平卒に命令するような口調で口答えを許さないのだとか」みたいなことをね」

 ここでもまた、救急部の看護師たちは声を揃えて笑っていた。大島がまた言う。

「まあねえ。綾瀬くんはまだ自分が小さすぎて、結城先生の大きさがわかんないのよね。あたしが救急部に入ってきた時、あの人なんて言ったと思う?『あんた、いいガタイしてんなあ。アマゾン川でワニを絞め殺したことなんか、一度や二度じゃねえだろ』って言ったのよ」

「結城先生らしいわねえ」

 看護師たちはケタケタ笑いあったあと、「あたしたち今、ナチュラルキラー細胞が相当活性化されたんじゃない?」と言い、また大笑いした。

「なんにしても、救いようのないお坊ちゃん先生が入ってきたらしいけど、あたしたちは全員結城先生の味方よね。結城先生の場合顔がどーのとか最早関係ないもの。あれで今の三分の一ほども格好良くなかったとしても、やっぱりあたしたちの間では結城先生って同じ評価だったと思わない?」

 ……唯はそうした看護師たちの話を思いだし、満員電車の中で笑いだしたくなるのと同時、少しばかり悲しみに似た寂しい気持ちを覚えた。唯の知るところによれば、当然蓮見院長は結城先生の本意を理解し、おそらくは適度にフォローしてくれたことだろう。それでもあの綾瀬真治という医師がこれからも馬鹿でボンクラだった場合、彼が窮地に追いこまなければいいと、そう願わずにはいられなかった。

(大丈夫よね、結城先生は凄い人だもの。今度もきっと、あの小生意気な先生のことをギャフンと言わせて終わるに違いないわ)

 けれど、この時の唯の奇妙な胸騒ぎと不安は的中した。何故といってこの一か月後に唯は、結城医師がR医大病院を正式に退職するという噂を耳にしていたからである。



 >>続く。





最新の画像もっと見る

コメントを投稿