天使の図書館ブログ

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動物たちの王国【第一部】-18-

2014-02-07 | 創作ノート


 前段階が長かったですけど(汗)、やっと脳死について書けます(^^;)

 あの、このことが書いてあった参考サイトさんのURLは載せないものの、たぶん<脳死>で検索した場合、割とすぐ出てくるページなので「ここのことかな??」というのはわかると思います。

 いえ、とても偉いお医者さんがおっしゃってることなので、わたしもかなりのところ同じ意見ではあるんですけど……でもわたしも以前、<脳死>ということについてある情報の一面だけを見て「そうか。じゃあわたしもドナー登録しようかな」と思った経緯があるので、そのことを少し書いておきたいと思いました。

 そのページにあるのは、脳死後の人の脳がどうなるのかという画像なんですけど、脳死の方の脳というのは、その後溶解をはじめる……という画像が掲載されています。そしてこうした画像を見せた時に「あそこまでになって生きているとは思いたくない」と、多くの方が脳死を納得されるということでした。

 わたしも以前までずっとそう思っていましたし、何より、植物状態ならばまだ万に一つの可能性があるにしても、脳死の場合はそこから甦ってくる可能性がない(本などを読むとはっきりゼロと書かれています)ということで、「脳死は人の死とは言わないまでも、そうした状態で生き続けるのは本人にとってつらいことでもあるし、自分のことに関していえばその時点で人工呼吸器を抜いてもらいたい」と思いました。

 でも「脳死・臓器移植の本当の話」(小松美彦さん著/PHP新書)という本を読んで、気が変わってしまったんですよね(^^;)あの、自分のことに関しては↑の意見でべつに構わないんですよ。でも「脳死は人の死」みたいに一律に決めることは絶対に出来ないと思いました。

 前に書いたラザロ徴候のこともそうですけど、自分の身近な人が手足を動かしたり、髪や爪が伸びるといった生理現象を見たら、それを「死んでいる」とは見なせないと思うんですよね。でも脳が溶解してるという写真を見せられたりすると、「この状態ならば確かに脳死は人の死と見なされても仕方ない」という結論のほうに流れていきやすいだろうと思います。

 そもそも「人の死」とは何かというと、六十兆個ある細胞が常に生まれては死にのサイクルを繰り返しているのが止まり、この六十兆個ある細胞がすべて死んだ状態のことを「死」と呼ぶらしいのですが、この六十兆個あるという細胞がすべて死んでしまうのが心停止後ということですよね。

 そして普通はこの「心停止」を持って人の死としてきたんだけれども、脳死状態の方というのは、医療現場に「人工呼吸器」なるものが登場したことから、いずれ心停止するにしてもそれが繋がっている限りは、実際の死が訪れるまでに時間がかかる……ということなんだと思います。

 つまり、それが一週間後か二週間後、それとも二十日後なのかはわからないにしても、「遠からず」いずれ死ぬということだけは確定的である。それであるならば、まだ心臓が動いている間に移植で助かる人たちの命を助けようではないか、ということになるのはとてもよくわかります。

 わたしもそうした移植医療には賛成ではあるものの、でも妊娠した状態で脳死に陥った妊婦さんが子供を生むことが出来る(脳死を人の死であるとしたならば、死体が生命を生むということになる)と聞いたりすると、「え。ちょっと待って」と当然思いますよね。

 前々回頚椎損傷の方のことを少し取り上げたんですけど、わたしが言いたかったのはつまり、こういうことだったんです。一般的なイメージとして、頚損と聞くと「首から下が動かない」と思うと思うんですけど、片方の指が動く方もいれば、常に人工呼吸器が必要な方もいる……同じ病名を告げられていても、症状がより重かったり、違いがあるのと同じように、脳死患者さんも人それぞれ違う「個別性」が当然あるんじゃないかっていうことだったんです。

「脳死・臓器移植の本当の話」の中のお話によると、脳死後も長く生きていらっしゃる患者さんの多くは、脳の一次性障害(脳挫傷、脳出血、脳腫瘍など、最初に脳そのものに障害が起きたもの)によって脳死状態に陥った患者さんであることが多いそうです。つまり、脳死に陥ったあと、一週間とか二週間とか、そのくらいでお亡くなりになる方の場合は、脳そのもののダメージによってではなく、たとえば交通事故の方の場合であれば、内臓全体のダメージなどが原因でお亡くなりになるということなんですよね。

 わたし、思うんですけど……身体に深刻な外傷がある方の脳死後二十日した時の脳が溶解してるって、すごくわかる気がするんです。でも、脳死状態になってその後二年も生きていた、それどころか十何年も生きていた方の場合だと、同じように「脳が溶解してる」とは、ちょっと信じられない気がするんです。

 そして現在の医学ではまだ、脳の中の脳細胞のすべてが死んでるのかどうか確かめる術がないという以上――「脳死」ということについては、もっと慎重になる必要があるんじゃないかと思いました。

 つまり、「脳死」→「移植」ということがすでに人々の間でプロセスとして受け容れられているにはしても、「自分の娘(息子)が死んでいるとは絶対に受け容れられない」と親御さんが言われた場合などは、当然時間をかけるべきだと思うんですよね。

 これはわたし個人の勝手な想像ではあるんですけど……テレビに出てくるような良心的で素晴らしいお医者さんなどに偶然出会えればいいものの、「え?何コイツ。これで本当に医者なの??」といったお医者さんや、何やら態度の冷たい看護師さんにたまたま当たってしまった場合……状況はより複雑でやるせないものになるんじゃないかなって、そんな気がしています。

 長くなりましたが、一応誤解のないように最後に付け加えておくと、大抵の方はガンなど、他の病気が原因でお亡くなりになることのほうが多く、脳死という特殊な状況に陥る可能性はそう高くないこと、また、法律でも「脳死は人の死」と一律に定められているわけではなく、「人の死なのかどうか、いまだ議論の余地のあるグレーゾーンの中で脳死患者さんは臓器を提供している」ということを最後に付け加えておきたいと思います。

 それではまた~!!



       動物たちの王国【第一部】-18-

「どうした、結城。おまえのほうからあらたまって話があるだなんて珍しいな」

 翼は自分の上司である及川救急部部長とふたりきりで話すため、大学病院の事務室横にある応接室まで、彼のことを呼んでいた。ちなみに三階にあるこの並びに医局があり、手術室も同じ階に存在している。

「我が愛すべき救急部にはプライバシーってものが皆無ですからね。だからちょっとパンダとふたりきり……いや、一匹とひとりきりで話がしたかったっつーか」

 及川部長のことを陰でこっそりパンダと呼びだしたのは、実は翼である。クマちゃん先生こと茅野正がクマならば、及川部長はなんの動物に似ているだろうと思ったのだが――すぐにパンダだと思い至った。何故といって彼は平時は目があるのかないのかわからないくらい細いのだが、手術時にはそれがマックスまで開眼する。そしてまるでお釈迦様のように見てないようで色々な事を実によく見ているのである。翼はそのことに気づいた時、クマなどよりパンダのほうがよほど凶暴で恐ろしいのではないかと感じた。何故といって普段は愛くるしく笹なんぞのんびり食べている割に、黒く縁どりされた目は、その黒い毛すべてを抜いたとすれば、決して笑ってなどいないからである。

「なんだ?おまえが患者に対し、ハゲと言ったりハゲてる男には精力絶倫が多いだの、そんな話をしてるっていう例の件じゃあるまいな。まさか蓮見院長にハゲと精力絶倫の間に因果関係及び医学的根拠は何もないとか、そんなことを追求されたわけじゃないんだろ」

「違いますよ。俺の親父と院長が同期で仲良かったらしいとか、そんなことはあまり関係ないんですけどね、蓮見院長は単に、短く言えば「適当にうまいことやってくれ」みたいに言っただけです。これからは脂肪肝の患者には決してデブなんぞと口が裂けても言ってはいかんとか、研修医を仇名で呼んで本名で呼ばないなどもっての他だとか、そんなことも一切注意されませんでしたね。まあ、そういうことですよ」

「じゃあ、一体何が問題だ?」

 白衣のポケットからマイルドセブンを取り出す及川の姿を見て、翼もまた同じようにセブンスターを取りだした。院内は喫煙ゾーン以外は禁煙だった気がするが、テーブルの上にマーブル大理石の灰皿があるところを見ると、この部屋は例外なのかもしれない。

「俺、この大学病院の救急部を辞めようと思って」

「なんでだ?」

 及川部長はいささかも顔色を変えず、煙草に火を点けていた。このどっしりと鷹揚に構えた感じ……医師としても人間としても、このような貫禄が出るためには、自分にはどう考えても修行が足りないと、翼はいつもそう感じる。

「まあ、短く説明するとしたら、きっかけはふたつくらいありました。ひとつは最近失恋したこと、それとふたつ目があの綾瀬っていう小生意気な野郎ですかね。実質的には使いものにならんくせに、やたら大きな顔をしたがる奴なんて、これまでにも一杯いましたよ。でもあいつは本当に駄目ですね。スカと言ったらいいのか、カスと呼んだらいいのか……まあ、なんとも言えん使えん野郎です。で、いつもの俺であれば、そんな奴のことは即座にひねり潰してぎったんぎったんにしてやるところなんですが……そんな値打ちすらない奴に物を教えて何になるのかと思いました。けどまあ、左にクズがいるかと思えば、右にT-1000がいて、そいつは相当使える奴です。俺はカスのことは無視してT-1000に特に集中し、自分が及川部長や茅野さんから教えてもらったことをすべて伝えたいと思っています」

「ティーセン?そいつはもしかして、栢山錬二のことか?」

 及川自身、久しぶりに骨のあるのが入ってきたと思っていたため、おそらく翼もそのように感じているだろうと想像してはいた。とはいえ、仇名の意味がさっぱりわからない。

「これは珍しく、俺じゃなくて大河内の奴が名づけたんですよ。映画のターミネーター2の敵役に、T-1000っていうどこまでもしつこく追いかけてくる奴がいるでしょう?大河内がそいつと栢山がすごく似てるって言うんです。顔がっていうんじゃなくて、あの人並み外れた疲れを知らぬ体力を見てそう思ったって。あいつ、二十四時間寝てないような状態で、数時間後にはまた勤務に就くって時に、大学病院のまわりを一周してたらしいですね。なんでも大学時代はワンダーフォーゲル部に所属してたらしいです。だから俺、最初の頃はワンダーフォーゲルとか、おい、そこの山岳部って呼んでたんですけど、あいつのことはすぐ栢山って名前で呼ぶようになりました。頭のほうも切れて計算も速いし、こっちが教えたことについては1教えたところを10も20も覚えようとするような奴です。久しぶりに教え甲斐のある奴に出会えて、あいつがいる時はちょっと面白いですよ」

「ふうむ、なるほど。けどおまえはうちを辞めるんだな?」

(まるで昔のおまえみたいじゃないか)とは言わず、及川は煙草の灰を落としながらそう聞いた。これだけの男が「辞める」という言葉を口にした以上、それは相当考えてのことであり、今自分がここで「待遇を改善するから……」などと言っても無駄であろうと、及川にはわかっていた。

「ええ。本当は名残り惜しいんですけどね。自分ほど救急に向いてる奴はいないって、自負してもいましたから……けど、意外に俺の場合失恋パンチってのが結構効いてて、絶対自分の手に入らないものがまわりをチラチラ動いてる状態がつらくなったんです。あれが手に入れば自分はまだ山の上を目指せるのに、なんで思う通りに出来ないんだみたいな、身勝手なことですけど……俺の場合母親が成績上がったらあれ買ってくれるこれ買ってくれる方式で俺のことを育てたもんで、どうもその影響が今も残ってるんですかね。そのやり方で手に入らなかったものが何もなかっただけに、今は山の中腹でフィリップモリスの看板に出会って、訳がわかんなくなってる感じです」

「フィリップモリス?」

(まったく、いつもおかしな話しかしない奴だな)と、及川はそんなふうに思いながら翼の話を聞いていた。また彼が失恋したという相手が羽生唯のことであろうとも、及川は直感的に察していた。無論、翼のほうではそんなこと、名前を出さなければ流石のパンダにもわかるまいとしか思っていなかっただろうが……。

「うちのマンション、十階建てなんですよ。で、まわりに似たような階数のマンションとか、十五階建てとか二十階建てのマンションなんかが結構建ってるんです。俺、自分がどの科に進むか決める時、その十階建てのマンションの最上階で、ぼんやりベランダから外を見てたんですよ。仮に外科の朝比奈教授の教室に入るとして、そのてっぺんにあるのはまあ、教授って職ですか。けど、うちのマンションの斜め向かいの一番上には、フィリップモリスの看板が飾ってあるんですよ。『意味わかんねえよなあ』って俺、その時思いました。たぶん、どの道を進むにしても、てっぺんにあるのはフィリップモリスの看板なんです。で、こんだけ苦労してのぼった先にあったのがこれなんだから、この看板には何か意味があるんだろうって、人は何か啓示的な意味を読みとろうとしますよね。けど、うちの救急に運ばれてくる患者のうち、ある人が助かって別の誰かが助からないのが何故なのか、さっぱり意味がわかんないみたいに――そこにはおそらく意味なんてないんだと思います。だから俺今、フィリップモリスの煙草なんて一度も買ったことねえのに『やべえ。なんでこんなところにフィリップモリス』とか思ってるとこなんですよ」

「おまえほどの男でも、失恋なんてすることがあるのか」

 こちらは単なる興味本位で、及川はからかうように笑って聞いた。

「そうですよね。おかしいですよね、この俺ほどの男が……っていうのは冗談ですけど、まあ日頃の行いが悪いと、人間どっかでしっぺ返しを食うものなんでしょうね。だからこれはそういうことなんだと思って諦めることにしたんです。せっかく「結城先生は素晴らしい人」みたいに向こうが錯覚してるのに、無理強いなんてしたらその翌日にはカスの烙印を押されて終わりでしょうから。その転落劇だけはどうにかして防ぎたいっつーか。いや、マジな話耐え難いっすね。自分があの綾瀬みたいな野郎と同じカスに過ぎないなんて思い知るのは」

「なんだ?『♪恋は魔法さ~』という歌をおまえは知らんのか?そのまま素晴らしい人の地位に留まれる可能性だってあるかもしれないんだぞ」

「いや、それはないっす。つーか、まあ時間もないんでこの話はこのくらいで勘弁してください。あと、俺が辞めるっていうことはなるべくギリギリまで黙っててください。『結城先生どうして辞めちゃうの?』、『お願い、辞めないで~』とか言われたら、俺の固い決意もぐらつきそうですから」

「残念だな。うちのシャアの奴はいつもこう言ってるんだぞ。もし結城くんがなんの役職名もない今の状態に嫌気が差して辞めたいなんて言ったら、いつでも自分は今の座を下りてもいいって。なんでもシャアはザビ家のガルマを謀殺したのち左遷されたとかなんとか……俺にはあの人の言うことはよくわからないんだがな。実際、待遇面で不満があるなら俺のほうでなんとかする。もし気が変わってこのまま救急部にいたいって結城が思ったら、遠慮なくいつでも言ってくれ」

「ははっ。葛城さんは兵士宿舎の冷蔵庫に、いつもドクターペッパーを入れてるんですよ。それにマジックでシャア専用って書いてるんですけど、あれ、わざわざシャア専用なんて書かなくても誰も飲まないってみんな言ってますね。なんにしても俺は葛城さんのことが好きだし、尊敬もしてます。部下の俺を適当に泳がせておいてくれるのも、葛城さんが人間として器がでかいからですしね」

「まあ、俺は結城のお陰でこれまで随分楽をさせてもらってきたからな。そろそろパンダも笹の葉ばっか食ってねえで、若手に噛みついて実は草食じゃなく肉食だったって思い知らせてやるとするか」

 ――そうなのである。郡司部長を仮に本気にさせたとしたら、自分以上に恐ろしいということを翼はよく知っていた。しかも綾瀬真治の専攻は及川と同じ脳外科である。近いうちに血の雨が降るだろうと思うと、翼としては少し楽しみな気がしていた。

 なんにしても、大学病院の救急部を辞めると決意するまで、実際翼の心には様々な葛藤があった。けれどある時、マンションの十階のベランダに出て煙草を吸っているうちに……ふと気づいたのである。今のこの状況は、医学生だった頃、専攻をどうするか決めかねていた頃の状況に似ているなと。

 電話で女性を呼び、食事とセックスをしたあと、その時も今と同じようにビルの谷間に沈む夕暮れを眺めていた。その時の女性とその日翼が呼んだのは別の女性だったし、斜め向かいのビルに架かっているフィリップモリスの看板も別のものに変わってはいる。けれど、違いといえばそのくらいのものだったかもしれない。

 眼下の五叉路では車が引っ切りなしに行きかい、その五叉路の道のひとつは、繁華街へと続いていた。あの時も今も、周囲の状況は何も変わっておらず、ただ自分だけが五叉路の道のうち、どこへ行くべきか、どの道を通るのが正しいのかと思い迷っている気がした。

 その日翼は、自分でも非常にらしくないことをしたと思った。つまり、羽生唯のことを考えながら別の女性と寝たということを。起きてから翼は(何故そんなことをしたんだろうな)と不思議だった。これでは自分の良心を誤魔化すために、次に彼女と会う時には高級なバッグか靴でも買ってやらねばなるまいと、そんなふうに思いながらベランダに出た。

 そこでぼんやり煙草を一本吸っていると、ベッドに横たわっていた女性がやがて起きだし、「くしゅん!」とくしゃみをひとつした。「ちょっと翼、寒いじゃない」と言われ、翼はただ黙ってベランダの窓を閉める。

 そしてそのまま室内のほうを何気なく見やっていると、女はまずベッドの下に足を下ろしたあと、下の毛が丸見えの状態でブラジャーをつけていた。それから立ち上がって薄いパンティをはく。

(普通、逆なんじゃねーの?)

 そんなふうに冷静に観察しながら、翼は女が下着のようなスリップドレスを着はじめるのには関心を持たず、もう一度正面のフィリップモリスの看板と向きあった。

 六本木でキャバ嬢をしているいささかケバ目の化粧をしている女は、「また何かあったら電話してね」と、そう言い残して去っていった。残り香はジミー・チュウのオードトワレ。いつもつけている香水が違うので、翼は彼女のお陰で随分そうしたものに詳しくなった気がする。

 彼女に「どうしても」とせがまれて同伴出勤したこともあるし、店に高級な酒を何本も入れてやったこともあるという、お互い持ちつ持たれつの、損得ずくの関係だった。それを翼はこれまで自分の性格に合った良い関係だと思ってきたし、面倒になれば携帯の番号が繋がらなくなるという、ただそれだけのことだった。

(けど、今俺が感じてるこの心の虚しさは一体なんだ?)

 相手の女性は、化粧のせいもあるが色白で、スタイルが良く、肉体的なことで言うならば何も文句のつけどころがなかった。にも関わらず、それほどいい女と寝ておいて「虚しい」などと自分が思う日が来るとは翼は思ってもみなかった。

 翼は、外科の朝比奈教授の教室のてっぺんに立ったところで、そこにはフィリップモリスの看板があるのみであるとそう思い、救急部を自分の行くべき道、生涯の住処であるとこれまで考えてきた。もちろん、「生涯」などといっても、人間いつどこでどうなるかはわからない。何より、四十代に差しかかる頃には体力的に夜勤をこなすことがつらくなっているだろうなとも思った。けれど、続けられる限りは……とずっとそう心に決めていたのだ。

 それなのに今、翼は自分の仕事にやり甲斐を見出すことが出来ずにいる。綾瀬真治のことなどは、翼の中で小さいことだった。奴は自分が何かしなくても、いずれ自滅する運命にあると、そう確信していたからである。だが、決して外科医になってはいけない人間、何かの間違いで医学部の門を叩いたものの、医者になってはいけない人間もこの世にはいるのだとわかったこと、それは翼にとってある意味面白い発見ともいえた。

(つーことはあれか。俺はやっぱりあのお嬢ちゃんが自分のものにならねえから、欲求不満の鬱状態になってるってわけか。別の女と寝てもそれが治らないなんざ、確かにちっと重症らしいと思うが、それにしてもな……)

 こんなことのために転職を考えるなど、翼にはありえないと感じられていた。だがそれだけではなく、綾瀬真治という研修医のこと、また別の教え甲斐のあるT-1000こと栢山錬二の顔が頭をよぎる。栢山は新人ながら、とてもよく出来るタイプの医師だった。研修医として二年、医大内、また外部の病院で研鑽を積んだのち、再び救急部へ戻ってきたのだが――彼が医大内の他のどの科も選ばず、救急部へ来てくれたということ、そのことが翼はとても嬉しかった。

(もしかしたら、茅野さんや及川部長も今の俺みたいな気持ちだったのかな)

 翼はそう思うと、なんだか少し不思議な気持ちになる。自分が茅野元部長や及川現部長に学んだこと、それを栢山に伝え、「こいつがいれば救急部はどうにかなるだろう」という思いでR医大病院を去れるということ……それはかつて茅野が自分に「俺は結婚云々じゃなくて、おまえがいるからこそここから安心して去っていける」と言ってくれたことに通じる、何かがあった。

 それと、これは蜷川幸恵や羽生唯を見ていて翼が初めて気づいたことなのだが、医師だけでなく看護師たちにも自分が同じ<何か>を残せたということ、そのことを思うと翼は救急部に対する未練がましい気持ちをどうにか断ち切ることが出来た。

(まあ、唯の奴に関しては……今もまだちょっと複雑なんだけどな)

 そして翼が彼女に対する「想い」までも断ち切ろうと心に決めたその翌日――翼が住むマンションの斜め向かいのビルでは、看板の架け替えが行われていた。とりあえず翼がここに住みはじめてからフィリップモリスの看板が他のメーカーの煙草や別の商品を宣伝するものに変わったことは一度もない。

 だが、翼がゴヤールというフランスの有名ブランドの看板にそれが変わったことに気づくのは、それから大分たったのちの日のことであった。



 >>続く。





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