天使の図書館ブログ

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動物たちの王国【第一部】-16-

2014-02-05 | 創作ノート
【エンシュア・リキッド】(アボットさんのHPよりm(_ _)mバニラ味の他に、コーヒー味やストロベリー味があります。ちなみに経口摂取された方の話によると「げろまずっ!!」、「飲んで飲めないことはないが、進んで飲みたくはない」……ということでしたが、実際はどうなのか、わたしも一度飲んでみたいです^^;)


 さて、今回は頚椎損傷の方のことについて、少し。。。

 う゛~んでも実はわたし、頚損の方の病気について、色々詳しく知ってるわけでは全然ないという(^^;)

 にも関わらず何故このことを取り上げようと思ったかというと、前回の遷延性意識障害の方のことについてと、次に書こうと思ってる脳死のことについて、少し関わりがあるからというか。

 あの、頚椎損傷と聞いて多くの方が思い浮かべるのが、「首から下が動かない」ということだと思います。わたしもずっとそう思ってたんですけど、ある時、利き手の指のうち、三本くらいは動かせる……という方に会ったことがあって、一言で「頚椎損傷」といっても、人によって病状が違うのだとその時に初めて知りました(^^;)

 それと、この方の場合はその三本くらいの指でごはんをきちんと食べられるというのもびっくりした点だったかもしれません。もちろん入浴や排泄には人の手が必要であるにしても……でも、自分の手でごはんを食べられるってやっぱり大きいですよね。

 他に、首から下は動かないのだけれども、人に介助してもらえばまったく問題なく食事できる方もいらっしゃれば、同じく頚椎損傷といわれる方で、二十四時間人工呼吸器が必要、気管切開しているので当然食事のほうは経管栄養(経鼻栄養)……という方がいらっしゃいます。

 あの、わたしがここで次の脳死の話の前段階として何を言いたかったかというと、遷延性意識障害の方でも、人によって病状的なものが異なるということ、また頚椎損傷の方でもそれぞれ症状に違いがあるっていうことだったり(^^;)

 つまり、わたしもそうなんですけど……お医者さんや看護師さんみたいにあらゆる種類の患者さんと何百人と出会う、という環境でもない限りは、素人考えとしてはひとりの「頚椎損傷」の患者さんと出会ったら、やっぱりその人を基準に「頚椎損傷とはこういうもの」、といったように捉えてしまうと思うんですよね。 

 ここから先の話は次回に回すとして、この前文では頚損の方のことについて、とりあえず続きを。。。

 ↑の三本指が動く方は、一度しかお会いしてないんですけど、とても明るくて性格のさっぱりした方でした。施設にお邪魔した時、ちょうど入浴後で、これから体の処置をして着替えるというところだったんですけど……「わたしねえ、こう見えてナイスバディなのよ」と言って、ベッドの上で裸のまま笑っていらっしゃったのがとても印象的でした。

 なんていうか、わたしがもし同じような状態になって、お風呂に入るのも排泄するのも人の手が必要となったら……たぶん、そんなふうには笑えないと思うんですよね。介護する人がよっぽど親切な人で優しく、プライヴァシーも守ってくれるというのでもない限り、人からじろじろ見られるのも絶対嫌だろうし、軽く被害妄想的なものも入ってきて「何見てやがる!!」的に、そういう性格のひねた方にいっちゃうんじゃないかな~なんて。。。

 なんにしても、この方とお話してみて印象的だったのが、そうした彼女の天真爛漫な性格と、動かせる三本の指で「美味しい、美味しい」と言ってお食事されてる姿だったかもしれません。

 そしてこの方と出会った二か月後くらいだったと思うんですけど、同じ頚損の方で、二十四時間人工呼吸器が必要、食事はすべて経管栄養(経鼻栄養)という方のお宅で、入浴介助をすることになりました。

 あの、やっぱり……前者の方の場合だとコミュニケーションを取れるっていうのは絶対的に大きいなと思いました。それと、自分の手でごはんを食べられるっていうのも、生きる上で大きな楽しみのひとつをある程度コントロール出来るという意味で、少しはストレスが少なくて済むというか。

 気管切開してる方の場合、喉の穴があいてるところに小さいポッチみたいのを入れるとしゃべれる(でも掠れ声みたいな感じ)というのがあると思うんですけど、この方の場合はそういう形でコミュニケーションを取るとか、そういうのが全然なかったんですよね。

 意志疎通は常にお母さんを通じてなので、言ってみればお母さんが通訳も兼ねているというか、あとはお顔の表情などでなんとなく感情を推察するとか、そんな感じだったかもしれません。

 この方のお宅にお邪魔している間、わたしが思ったのはとにかく「お母さんの介護が素晴らしい」ということだったかなって思います。

 わたしがその前まで見たことあるのが、結構年齢が高めのお年寄りが多い……というせいもあったと思うんですけど、経管栄養や胃ろうで栄養を摂取されてる方の場合、結構痩せてて口から食べ物を食べないとやっぱりこうなるのかなといった印象だったんですけど、その二十代の女性はお肌もツヤツヤでむしろ少しお肉もあるかな??といった印象でした。

 何を言いたいかというと、やっぱり若いって凄いなと思ったというか(^^;)背中を見ても褥瘡の影など微塵もなく、それはお母さんがそれだけ大切に介護されてきた賜物であるのと同時に、やっぱりお年寄りで寝たきりの方と比較した場合、この肌のツヤは絶対出てこない!と思ったというか。

 なんていうか、その方のことで印象に残ってるのが他に、とにかく「苦しい」ということでした。あの、そうした状態だから気の毒とか可哀想とか、そういうことじゃないんです。もちろん、お母さんは娘さんの介護で大変と思うし、娘さんのほうでも色々と思うことがたくさんあるとは思っています。でもそうしたこととは少し別に――もう十年以上口から食事を摂取していない、経管栄養のエンシュアのみで食事を済ませているということが、「とても苦しい」と自分的には思ったんですよね。

 それとも、もうそうした状態で十年以上も過ぎてしまえば……食欲というものすらわいてこなくなり、そうしたことについて人は達観できるようになっていけるものなのでしょうか。。。

 わたしが今ここに書いたことと、次に書こうと思ってる脳死のことについてはあまり関連がないんですけど、やっぱり一言で頚椎損傷の患者さんといっても最重症の方もいらっしゃれば、「首から下が動かない」という一般的なイメージに反して、指だけでも動く方などがいらっしゃることもある……ということだけ、ちょっと覚えておいていただければと思います(^^;)

 それではまた~!!



       動物たちの王国【第一部】-16-

 翌日、翼が岡田に対して予想していたことはほぼ当たっていたことが報告された。岡田直幸は唯のことを一流のリストランテへ連れていき、緊張しながら次のようなことをまくし立てたらしい。「羽生さんにおつきあいしている方がいることは知っています。でも僕たち……っていうのは、僕と三井のことなんですけど、羽生さんのことが好きなんです。この四月に救急部に来た時、自分たちは医者として全然ぺーぺーだったけど、羽生さんが結城先生に怒鳴られても頑張る姿を見て、随分勇気づけられました。その、こんなこと言われても困るとは思ったけど、一応自分たちの気持ちだけ、伝えておきたいなと思って……」

「そんで、岡田のその赤い薔薇のような情熱的な告白に対し、唯はなんて答えたんだ?」

 二時過ぎに遅めの昼食を取りながら、翼はそう岡田に話の先を促した。惨めな医療兵士の宿舎に今いるのは、堺と三井、それに翼の四人だけである。朝に「残念ながら振られました」と、事の結末だけ聞いていた翼は、気の毒な振られ部下三名に対し、上司として近くの中華飯店から丼ものをとってやることにしていた。もちろん自分の奢りとして。

「その、「先生たちのお気持ちはとても嬉しいです」って。でもそんなふうに自分が結城先生に怒鳴られてでも頑張れたのは、仕事が終わったあとに彼氏が愚痴を聞いたりして支えてくれたからだって、そんなふうに言われちゃって……」

(なるほど、そうか。そういう図式だったのか)と翼は思い、三名の振られ部下と同じように初めて心が傷つくものを感じた。
 
「バカだなあ、直幸。俺のことなんか気にしないで、自分のことだけもっと強調すりゃ良かったのに。俺と直幸が仲いいって羽生さんも知ってんだからさ、その条件じゃ最初から分が悪すぎだよ。彼女は優しいから、男の友情にヒビが入ったりしたら自分のせいだみたいに、当然思っただろうし……」

「いや、いいんだよ」と、やけ食いするように天津飯を食べながら岡田が言う。「っていうかさ、俺の場合はあれだよ。俺と三井がふたりとも好きなんだけど……みたいに言えたから、彼氏いるってわかってるにも関わらず、告白できたんだ。で、実際そうして良かったとも思ってる。そうすることで気持ちが吹っ切れたとかじゃなくて、ふたりきりで食事できただけでも幸せだったし」

「オカピー、羽生さんと何食べにいったんだ?」

 堺が若干嫉妬心を滲ませながらそう聞く。彼は中華丼をすでに半分以上胃の中へ突っ込んだところだった。

「イタリア料理です。ベルモットからはじめて、マリネにリゾット、ミラノ風カツレツ……羽生さんは途中から「美味しいけど食べきれない」って言ってたっけ。でも実際良かったですよ。だってコース料理だから最初の一皿とかコーヒー一杯だけ飲んだらそれでさよならってわけにもいかないし。で、気まずい告白タイムが終わったあと、羽生さんは言ってました。「このことは看護師たちの誰にも言いませんから、安心してください」って」

 ボーノボーノと呟きながら、岡田はどこか遠くのほうに視線を彷徨わせている。その様子を見ていて何故ここにいる四人の男が羽生唯に惹かれたのか、翼は初めて理解できた気がした。何故といって大抵の場合、「ここだけの話だけどォ、わたしオカピー先生に告白されちゃった!えへっ!!」とでも、同僚に言いふらすのが普通だろうからである。

「ああ、そうだよなあ。告白して何が一番怖いかって、その点だもんな。次の日に意味ありげにニヤニヤしながら藤森さんにでも当てこすりを言われた日には……立ち直るまで時間かかりますよ、マジな話」

 一口餃子を頬張りながら三井はそう言い、翼のコップにお茶がないのを見るとそこにウーロン茶を注いだ。

「結城先生だったらどうしますか?自分の親友と同じ女性を好きになったりしたら……身を引くか、それとも抜けがけしてでもどうにかモノにしようとするか……」

 翼にとって親友、と聞いて真っ先に思い浮かぶのは画家の時司要のことである。

「そうだなあ。現実問題として俺の一番にして唯一の親友とは、好みの女が違うわけ。俺は電話して呼んだらすぐに足を開いてくれる女しか基本的に相手にしてない。けどあいつはなあ……ある意味俺以上のたらしであるにも関わらず、なんつーのかね、相手の女性が持つ精神性がどーのということを非常に大切にする奴なわけ。おまえらもどうせあれだろ?あのお嬢ちゃんなら、患者に普段そうしてるみたいに、プライヴェートでも自分に優しくしてくれそうとか思ってんだろ」

「実際そのとおりだと思います。というか、僕はそこに疑いの余地を挟みません」

 堺が腕組みをして神妙に頷く姿を見て、翼はホイコーロー丼を食べる手を止めた。患者には優しいが同僚にはそれとまったく別の顔を見せる看護師など、別に珍しくもない。けれど、(そういやあいつはそういう意味で裏表があまりないな)と、自分で言っていて初めて気づいたのである。

「そうですよ。俺が羽生さんの中で好きなのがそこです」と、三井が相槌を打つ。「だって、俺や岡田が結城先輩に色々言われて恥かかされたりしても、彼女は「何もなかった振り」をしてくれますからね。なんていうか、ちゃんとこっちの立場を立ててくれるんですよ。あーあ、こう言っちゃなんだけど、羽生さんがつきあってくれるって言うんなら、俺べつに職業がトラックの運転手でも全然良かったなあ」

「だよなあ。俺の体が軽くメタボってて、頭に白髪が混じってて肌もガサガサな上歯が黄色くても全然良かったんだ。てっきり俺、羽生さんのことだから凄くいい男とつきあってんだろうなって勝手に妄想してたんだけどさ。実際出会いって大切だよなって話。たまたま最初にぶつかった相手が羽生さんにとってはあの男だったんだろうなって思うと……なんでそれが俺じゃなかったんだって、つい思っちゃうっていうか」

 振られ男三人衆がさらにぐだぐだと何か話しはじめるのを尻目に、翼はいつも通り裏口から外に出、煙草を一本吸った。何分正月が明けたばかりということもあって、当然ながら室内の格好のまま外に出るのは寒い。だがやはり翼としては気分転換にここで一本吸うという習慣がやめられないのだった。

(まあ、院内が少し暖かめなせいもあるんだけどな。けど、五分くらい煙草吸って体が冷えたあと、中のあったかさを感じると、よし、また一頑張りすっかって気になんだよな。ついでに頭がすっきり冴えるってのもいい感じだし)

 翼は中庭の多くの樹木がすっかり葉を落とし、あたりの景色がすっかり殺風景になっているのを見渡した。午後からは一時雪になるでしょう……などと、テレビで天気予報士が言っていたとおり、いつそうなってもおかしくないような曇り空だった。

「あの、結城先生……」

 金属製の重い扉がガチャリと開かれた時――翼はそこに薄いブルーの制服を着た羽生唯の姿を認めて驚いた。以前あったように、思わず手に持っていた煙草を落としてしまったが、翼はそれを寒さのせいにして、新しい煙草にもう一本火を点ける。

「おまえ、岡ちゃん先生に告白されたんだってな」

 唯が用件を言う前に、翼は思わずそう茶化していた。

「べ、別にあれはそういうんじゃないんですっ。岡田先生の気持ちっていうのはたぶん、ちょっとした気のせいっていうか、そのくらいのことだと思ってますし……きっとわたしなんかよりもっといい人が、先生には現れると思ってますから」

「ふう~ん。おまえって意外に残酷なのな。岡田はおまえに告白するの、相当勇気がいったと思うけど。それがただの気のせいとは、あいつも気の毒に」

「わたしが言ってるのは、そういう意味じゃありません。お互い、あれは気のせい程度の軽いものだったっていうことにしておいたほうが……これからも一緒に仕事しやすいと思ったもんですから」

「なるほどね。で、おまえはこの冬の寒空の下、俺に何を話しにきたわけ?」

 この時唯は、ほんの数か月前ここにいた時とまったく同じことをしていた。つまり、紺色のカーディガンのボタンをもじもじといじってばかりいる。

「きのう、結城先生に玄関口で声をかけられて、びっくりしたんです。岡田先生とお食事してる間も、なんとなくそのことが気になってしまって……お話してる間も、結城先生はどうしてそんなに顎がしゃくれてもいない岡田先生のことを「しゃくれ顎」なんて呼ぶのかなって一瞬考えてしまったくらい」

 ここで唯がおかしそうに笑うのを見て、(こいつ、意外に恋愛上級者なんじゃねえのか)と、翼は少しばかり怖れ入った。もちろん翼にはわかってはいる。自分が限りなく100%に近いくらい、99.9%男として見られていないだろうということは。

「オカピーは若干だけど、軽く顎がしゃくれてっだろ。俺だってまさか、思いっきり顎のしゃくれた奴のことをしゃくれ顎なんて呼んだりしねえって。そんくらいの思いやりってもんはこの俺にもあるからな。けどまあ、いつも真面目くさって四角四面に叱り飛ばすより、「てめえは顎がしゃくれてるくせに生意気言いやがって」とか「そんな顎のしゃくれた奴は釈由美子のポスターでも部屋に張って寝てろ!」だの言ったほうが――多少おかしみがありつつ本意が伝わっていいだろってだけの話」

「やっぱり、そうなんですね」

 唯がここで手のひらを擦りあわせて白い息を吐くのを見て、翼は驚いた。何より、そんな彼女のことを一瞬抱きしめたいと感じた自分に対して。

「……俺がきのう玄関口で待ってたのは、アレだ。岡田と三井がふたりで「♪喧嘩をやめて~」みたいなことをやってるから、おまえに少しはその気があるのかどうかと思って、直接聞こうと思ったわけだ。もちろん、おまえにつきあってる野郎がいるのはわかってる。けどまあ、今つきあってても将来結婚するとしたらお医者さんがいいわ!とか、そういう気持ちがもしおまえにあるとしたら……」

「ありません」

 妙にはっきりと唯はそう言った。外の空気と同じくらいの清澄さだった。

「わたし、なんか駄目みたいなんです。一緒に働いてる人のことは、何故かそんなふうに思えなくて……それに、三井先生も岡田先生もいいところのお坊ちゃまだって聞きました。それに引き換え、わたしの実家なんてただの貧乏なラーメン屋ですよ。なんていうか、そういう意味でもわたしはさっき「気のせい」って言ったんです。わたし、昔からよく言われるんですよね。ピアノなんて弾けないのに、「ピアノ弾けそうに見える」とか「バレエ習ってたんじゃない?」みたいに……実際は家がすごく貧乏で、ろくに習い事なんて出来る環境じゃありませんでした。看護学校も奨学金を貰ってようやく出た感じです。だから、岡田先生も三井先生も、そういうイメージ的なものを持ってて、少し勘違いされてるんだろうなと思って……」

(それは違うぞ)と翼は思ったが、もうそれ以上説明する気にすらなれなかった。なんにしてもふたりの間で用件は終わり、先に唯が院内へ戻り、翼はある種の感慨のようなものにさらに五分ほど耽ってから、仕事をする脳のほうに頭のスイッチを切り替えたのである。

 ――この時点で翼には、羽生唯のことを自分にはどうかすることは出来ないということがはっきりしていた。後輩の堺医師やふたりの研修医のことはまるで関係がなく、また羽生唯の言うカースト的分類によれば、自分もその上位に属するのであるからして……といったこともまったく関係がない。ただ、翼はこの時はっきりと悟った。もし何かするとしたら、今こそふたりきりの好機であるというのに、何も出来なかった。そしてこの「何も出来ない」関係というのを羽生唯とは続けていくしかないのだということを……。

(畜生。あんなお嬢ちゃんにこの俺がいいようにされるとはな。いや、俺だけじゃねえ。堺と岡田と三井の奴も、後ろ髪引かれ隊みたいになってやがる。くっそ、どうにかしてやりてえな、唯の奴。このあいつの一人勝ちみたいな状況だけは、どうにも我慢できん)

 この時から翼は、そうした一種の逆恨み的感情と、彼女を部下としても女としても純粋に可愛いと感じる気持ちの板挟みになった。つまり、唯は高岡タキのことがあって以来、その後もICUでなかなか普段医師が気づきにくいことを提案してきたのだが、それは彼女が相当ICU看護について家に帰ってからも勉強していることを意味していた。翼が看護師たちの能力に求めているのはあくまで「そこそこ出来てくれればいい」という程度だったが、羽生唯は蜷川幸恵と同じくその一線を越えようとしているのだということが、翼にはわかっていた。

(そうなんだよな。なんであいつが俺にだけ集中してそういう話をしたがるのかは、俺にもわかってる。他の医師に言ったんじゃ、下手すりゃ「看護師のくせに上司に言い逆らうな」とか「看護師は医師の指示通りのことをやっていれば良い」ってことにもなりかねないからな。やれやれ。つまりあいつはあれか。ようするに男よりも仕事を取ったってことか。あの程度の男が相手なら、めくるめく恋愛の炎に身が焦げつくあまり、仕事中もつい彼のことを考えてミスるとか、そんなことはなさそうだからな)

 何より、羽生唯のことを見ていて翼が教えてやりたくなるのはその点だったかもしれない。(つきあってる彼氏がいようとなんだろうと、こいつは男のことなんぞ何もわかっちゃいねえ)とよく感じるのである。それでいて、看護師の能力としては高いものを持ちつつあり、その点については翼も恋愛的なことを抜きにして純粋に部下として可愛いと感じるのだった。

 十月に入ってきた北島悠子と時田麻里と田村舞子は、その後五か月が過ぎた三月になっても、看護師としてあまり伸びなかった。本人が一生懸命やっているにも関わらず伸び悩んでいるということではなく、三人が三人ともに伸びる気があまりないのだった。とはいえ、ルーティンワークとしての仕事はある程度覚えもしたし、救急患者に対しても時に翼に怒鳴られつつ、大分対応が素早くなったとは言えたに違いない。

 やがて四月になり、また新しく看護師や医師たちの入れ替わる季節が巡ってきた。何よりこの時の人事で救急部にとって一番大きかったのは、堀田師長が小児科病棟の副師長として六階に上がることになったことであろうか。「やったわ!半年もの間耐えた甲斐があったわね、わたしたち!」と、看護師たちが喜んだのも束の間――峰岸京子が内科病棟へ行くことになったのには、誰もが落胆の色を隠せなかった。

 彼女の場合、他の看護師たちとは違い、そのような異動願いをかねてより提出していて、それがようやく叶ったというわけではない。堀田師長が鈴村と峰岸の間には人間関係的に癒着があり、あのふたりが大局として救急部にいることは他の看護師たちに悪影響を及ぼす……といったように告げ口したのである。その結果としての人事であるということを、峰岸は他科の親しい看護師から噂として聞いていた。

 当然のことながら、この人事にもっとも打撃を受けたのは鈴村である。鈴村はこれまでの間にたくさんの出会いと別れを繰り返してきたが、クマちゃん先生こと茅野医師が救急部を退職した時以来の大きなショックを受けた。しかも心臓外科病棟の副師長をしていた自分と同い年の看護師が新たに救急部の師長として収まることになっており――彼女はこれからも万年看護主任の地位に留まるしかないようでもあった。



 >>続く。





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