天使の図書館ブログ

 オリジナル小説サイト「天使の図書館」の付属ブログです。

動物たちの王国【第一部】-1-

2014-01-13 | 創作ノート
【生と死】グスタフ・クリムト


 まだまだ全然準備不足なんですけど……無謀にも連載をはじめようかと思います(^^;)

 なのでまあ、「あ、そーいやこのへんわかんない」っていうことが出てくるたびに、一旦連載止めて調べたりとか、そんな感じになるかな~と思ったり

 わたしの中でこのお話は間違いなく医療小説じゃなくて恋愛小説なんですけど、第二部あたりから若干ミステリーの要素が絡んでくる部分もあるかなって思います。

 第一部のほうは、翼の救命センター時代のお話で、第二部から見ると(また前作や前々作から見ても)過去のお話っていうことなんですけど……第二部がようやく<現在>のお話みたいな感じなので、そう考えると実際結構長いです(^^;)

 どうでもいいことなんですけど、第一部を読む限りにおいてタイトルがなんで「動物たちの王国」なのかって、さっぱりわかんないと思ったり(←?)

 ちなみに保存ファイルのタイトルのほうは、「こちらR医大病院救急部」になってます(笑)「R医大病院?聞いたこともねえな」という感じですけど、当然フィクションなので、「蘭々病院救命センター」とでもなんとでも、Rの部分は適当な文字を入れていただければと思います

 あと、医療的な知識についてはものっそ怪しいので、あまり真に受けられないことをオススメしますm(_ _)mまあ、そんな人たぶんいないかな~とは思うんですけど(笑)

 一応翼が腕のいい医者って設定なので、間違った書き方してると相当間抜けだとは思うんですけど(汗)、そのあたりは仕方ないと思って自分的に諦めることにしましたorz

 ちょっと今「これが脳低体温療法だ!~脳死を防ぐ新医療~」(NHKスペシャルセレクション)や「脳死・臓器移植の本当の話」(小松美彦さん著/PHP新書)といった本を読んでるんですけど、こういう本とかもちゃんと読み終わってから連載とかしろよとは一応思うんですよね(^^;)

 でもまあ、そういうことも含め、直しを入れるのはあとからでもいいわけで、とりあえずの第一稿目はこんなもんでいっか☆という、何かそんな感じでお願いします(何ヲ?´・ω・`)

 それではまた~!!



      動物たちの王国【第一部】-1-

 ――どうして誰も助けてくれないの?

 ――娘がこんなに苦しんでいるのに!!

 ――人殺し!人殺し、人殺し!!

 ――あんたたちは全員、ただの人殺しよ!!


 その日、とても冷たい雨が降っていたことを、翼はよく覚えている。

 縄が途中で切れたことで首吊りに失敗した女性が、母親に発見され搬送されてきたのだ。だがすでに、その二十代の娘には手の尽くしようがなかった。縊死というのは簡単に言えば、頸部がなんらかの紐状のものや縄によって絞められることにより――呼吸や脳の血流が阻害され、脳や臓器に回復不能な機能障害が起きることである。

 この二十五歳の女性の場合、中途までは首吊りが成功していたのであろうが、最後の最後で死には至らず、床に倒れていたところを母親に発見されたのである。とはいえ、彼女が首を吊ってから病院に搬送されるまで、かなりの時間を要してしまった。救命救急センターへ辿り着いた時にはすでに<脳死>と呼ばれる状態に限りなく近かったのである。

 脳低体温療法といった治療の甲斐もなく、やがて彼女が<脳死>に陥ってしまうと、翼ともうひとりの医師とは<脳死判定>を行うことになった。脳死判定の基準は、1.深昏睡、2.瞳孔固定(両側4ミリ以上)、3.脳幹反射の消失、4.平坦脳波、5.自発呼吸の消失……マニュアル的なことを列挙すれば、この用件を満たした患者ということになるだろうか。だが、当然のことながら患者家族にこの医師にとっての「マニュアル」を朗読して聞かせ、ムンテラの代わりとすることは出来ない。

 何故なら、患者には自発呼吸がなく、人工呼吸器を外してしまえばやがて死に至るのだとしても――髪の毛や爪が伸びるといった生理現象は起きるため、「娘はまだ生きているのに殺すつもりなのか」と詰め寄られても無理はないからである。

 そもそも、「脳死」とは一体なんなのか、「脳死は人の死か」ということに明快に答えられる医者など日本国内にひとりもおるまいと、そのように翼は思っている。翼にしても「脳死」について言語化して答えるのは非常に難しい問題だった。翼にとっての「脳死」とは、あくまでも経験的に理解しているものだったからである。つまり、何十人となく脳死状態の人間、またそれとは違って脳幹だけは生きている植物状態の患者を診続けてきたことによって、植物状態であれば奇跡的に回復する可能性はあっても、脳死と診断された患者には回復の見込みはないのだと理解しているばかりである。

 だが、こうした経験則的な理論を今初めて具体的に脳死を理解しようという患者家族に説明するのは、毎回のことながらとても苦しい時間となる。まずは植物状態と脳死とではどう違いがあるのかの説明にはじまり、その患者の外傷の治療経過などを説明するのだが……この自殺未遂女性のケースの場合、今の医療で出来ることはほとんど何もなかった。<脳死>と診断されるケースは、翼のいる救命センターでは圧倒的に交通事故が絡んでいる場合が多い。つまり、体に負った外傷を手術したり治療したりといった過程があるのだが、この女性に関していえば人工呼吸器に繋ぎ、脳低体温療法を行い、経過を見守るという以外、医師に出来ることは何もなかったのである。

 人工呼吸器や心電図モニターといった医療機器に囲まれている彼女は、さながら眠りの国の美女といった趣きだったかもしれない。首に縄の痕が残っているという以外には、特にこれといった外傷もなく、顔つきのほうも実に安らかだった。

 入院後、三か月ほどが過ぎた時、ようやく母親のほうでも娘の<脳死>という状況を受け容れたようで、人工呼吸器が外されるということになった。母親の意志としては出来ればこのまま、回復不能の<脳死>という状態であったにしても――娘の面倒を見続けたいとは思っていたようである。だが、そのための転院先を探したとして、月々にどのくらいの費用がかかるかという話になると、彼女の顔はすっかり青ざめていた。

「あのお母さん、身内がひとりもなくて、娘さんが亡くなったら天涯孤独の身の上らしいんですよ」

 カンファレンスルームで毎日行われる症例検討会で、いかにも気が進まなそうに、翼はその報告をした。つまり、運ばれてきた日と同じように冷たい冬の雨が降る中を、霊安室から患者をひとり見送ったということを……。

「母ひとり、子ひとりか。それはつらいな」

 ホワイトボードを後ろにして、議席の上座で及川道隆救急部部長が呟いた。救命センターでは去りゆく患者の話よりも、当然現在治療中の患者のことがメインで話し合われるとはいえ、搬送されてきた時の母親の取り乱し方が尋常でなかっただけに、その現場に居合わせた医師たちには、彼女の印象が色濃く残っていた。

「もちろん、自殺患者が運ばれてくるのなんて日常茶飯事ですけど」研修期間を終えて一年目の堺悟が言った。「『人殺し』なんて言われたのは、僕もあの時が初めてですよ。交通事故とか脳梗塞とか色々、患者の家族が取り乱すのはいつものことですよね。でも『人殺し』なんて言われるのはちょっと……」

「そうだよなあ」と、こちらは救命センター二年目の大河内卓。「あのお母さん、娘が死んだらおまえらのせいだって、俺たちに食ってかかったんですよ。死んだら絶対恨んでやる、訴えてやるって、徳川師長がなだめるのにそりゃ苦労したんですから」

「それで、一段落ついてICUに入ったら、今度は『娘が苦しがってる。何かしてくれ、助けてくれ』って、もうそればっかりで……でも僕思うんですけどね、自殺したのは言ってみれば本人の責任じゃないですか。あのお母さんもこんなことになる前に――それとなく娘から出ていたであろう自殺のサインに気づくべきだったんじゃないですかね」

「さて、それはどうかな」と、及川部長が十数名いる医師たちの前で腕を組んで答える。「自殺のサインなんて、その道の権威である精神科医にだって読み取るのは難しいことだからな。たとえば、本人がもう完全に死ぬという意志を固めていた場合、最後にはニコニコ周囲と接してから首を括りに山へ向かうなんてのはよくあることさ。あの娘さんもたぶん、苦労している母親に心配をかけまいとして、悩んでいる素振りなんて少しも見せなかったのかもしれない。ましてや、自立して住まいを別々にしてたっていうんなら、尚更のことだろうな。堺、おまえだってそうじゃないか?もし母親がおまえに『研修のほうはどうだい、悟?』なんて聞いてきたら、おまえはどう答えてた?色々うまくいってなくても、鬼のような上司に毎日尻をぶっ叩かれてるなんて、本当のことを言えたか?」

「それは……」

 口籠もっている堺にかわり、ここで通例通り翼が茶々を入れた。

「及川部長、その鬼ってのは俺のことですかね。俺、そっちの趣味はないんで境の尻を叩いた記憶はないにしても、まあボロ雑巾の如くこき使ってはやりましたよ。それでよくここに戻ってきたなっつーか、こいつもしかして真性マゾなのかなとは思いましたけどね」

 O型にテーブルの並ぶ会議室で、いつもと同じく笑い声が上がった時、コンコンとドアがノックされた。看護師のひとりがICU患者の急変を知らせ、その患者の担当医だった翼が立ち上がる。

 また彼に続いて大河内がICUへ向かってみると、そこでは死を待つばかりだった患者のひとりが――翼によって心臓マッサージを受けているところだった。大河内は自分の上司である人物が、今のように規則正しく律動的に心臓マッサージするところを、今まで数え切れないほど目撃している。

 だが今日は、急患が運ばれてきたばかりの時のような、顔の形相が変わるほどの緊迫感が感じられない。もちろん手を抜いているわけではなく、その理由が何故なのかも大河内にはわかっていた。患者は高橋豊という名の、三十七歳の男性だった。子供もふたりいることを思えば、鬼のような上司としても意地でも三途の川から連れ帰りたかったに違いない。しかし、結果論から言ってみたとすれば……このまま死なせてやったほうが、おそらく本人のためではないかと思われる患者であった。

 高橋豊は自分はなんの落ち度もない交通事故に巻きこまれ、運ばれてきた時には意識不明の重態だった。翼や大河内、また先ほどカンファランスの場にいなかった葛城健輔主任による、懸命の救助活動により、体の外傷については手術でどうにかなったものの――肝心の意識のほうが戻ってこないという状態が続いていた。そして植物状態になって約一か月が過ぎた今……高橋は転院先を探しているところであった。ここで出来る限りのことをして延命することが、果たして当人にとっても家族にとっても幸せなことであるのかどうか、それは誰にもわからないことだったに違いない。

 大河内が鬼上司を手伝いにICUへ入ってみると、なんと高橋豊は心臓マッサージによりフラット(平坦)になっていたモニターに、正常な波形を表しはじめていた。マスクをして顔の表情の隠れている鈴村美鈴、三枝美穂子といった看護師も、翼も大河内も何も言わなかった。

 ただ淡々と医療的な作業をし、翼はいくつか看護師に指示を与えてからICUの一室を出ていく。

「果たして俺は今、正義の味方よろしく正しいことをしたと思うか、大河内?」

 そう聞かれた大河内は、尊敬する先輩に向かってニッと笑うだけだった。

「そんなもの、ギャランドゥだって結城先輩、いつも言ってるでしょうが」

「ギャランドゥねえ」と、自分が言ったことながら、アホくさくなって翼は溜息を着く。

「つまり、ギャランドゥってどういう意味だって、答えられる奴がいたら言ってみろって、先輩いつも言ってるじゃないですか」

「ああ、あれな。実をいうとあのあと、葛城先生に言われたんだよ。魅力のある女のことをギャランドゥって言ったり、へそ毛のことをギャランドゥって呼んだりするんだと。だから大河内、おまえも覚えとくといいんじゃねえか。患者に対するセクハラ防止として、いい女が診察室にやって来たら「さっきの女はギャランドゥだった」とか、へそ毛の生えてる患者に対して「こいつ、ギャランドゥだ!」って言ったりするのが正しい使用法らしいからな」

 そう言って西条秀樹の歌を歌いだす翼に続き、大河内は救急部の医局へ戻っていった。夜勤と交代するためのカンファランスはすでに終了しており、彼らはすでに退勤時刻を迎えていたからである。


 * * * * * * * * * * * * * * *


「ほえ?新人の歓迎会をいつにするかって?」

 冷たい雨の降りしきった三月がすぎ、四月になると――桜が咲くのと前後して、毎年恒例ともいえる季節がやって来た。

「そんなん、リンリンさんとみーたんがふたりでチャチャッと決めてくれりゃいーじゃん。いつもどおり」

(なんでわざわざ俺に相談するかね)という意味をこめて、翼はふたりのベテラン看護師のことを見返した。

 リンリンというのは鈴村美鈴のことで、みーたんというのは彼女と同期の看護師、峰岸京子のことである。ふたりとも救急部で働いている期間がともに長く(鈴村は二十年以上、峰岸は十年である)、彼女たちふたりを敵にまわすことは救急部でなんの手助けも得られぬ瀕死の状態を表すとも、一部の人間からは囁かれていた。

「だって去年の忘年会と今年の新年会、たまたま結城先生が夜勤に当たってて超つまんなかったんですよ。だから今回の新人の歓迎会は結城先生に取り仕切って欲しいってゆーか……」

 電子カルテにデータを打ち込むその傍らで、峰岸にそう囁かれ、翼は何度かコキコキ首を鳴らした。

 ふたりとも日勤で、すでに帰り支度を終えたらしく、手にシャネルとコーチのバッグをそれぞれ持っている。おそらくはこれから地下のロッカールームへ向かい、着替えを終えるなり、今日一日あったことをベラベラくっちゃべる予定に違いない。

「そうよお、結城先生。葛城先生の女装と大河内先生のタネがバレバレの手品。そこにあれこれ突っ込みを入れる結城先生がいなかったら、つまんないったらありゃしない」

「そうかあ?葛城先生のマリリン・モンローの女装なんか、俺は見れなくてちょうど良かったと思ったがな。つーかべつに見たくもねえ。あと、大河内の手品はもうマンネリ化してるから、俺が入れなくても別の奴が同じようにツッコミ入れればそれでいいだろうよ」

「でも、そうは言ってもやっぱりねえ……」

 鈴村は親友の峰岸と奇妙なしなを作って視線を交わしあうと、ナースステーション前の廊下を横切る、ひとりの看護師に目を留めた。今年の四月に入ってきたばかりの羽生唯だった。

「看護部にも結城先生の覚えめでたい新人がふたりも入ったことだし、ドクターに至っては研修医含め七人も新人がいるんですよ!ここは先輩医師の結城先生に一肌脱いでもらわないと」

「幹事なんかめんどくせえよ。誰か他の奴に……」

 翼がそう言いかけると、昔懐かしい黒電話のベルが鳴り響いた。すぐに指令室の医師が受け取り、電話の応対をしている声が、こちらまで聞こえる。

「はい……はい。バイクとトラックの衝突事故ですね。バイクのほうはCPAですか。それは厳しいな。えっ、比較的軽症のトラックのほうはもう搬送先が決まってる?じゃあうちにバイク野郎のほうを受け容れてくれってことですよね。やれやれ……いや、いいですよ。連れてきてください」

 指令室に詰めていた医師が外に出てきて何か叫ぶより速く、話を聞いていたスタッフたちはすでに動きはじめている。当然のことながら翼も「夜間救急搬送口」へ向かったわけだが、その時には鈴村も峰岸も忽然と姿を消していた。せっかく珍しく定時に仕事が終了したのに、このあたりをうろついていたのでは、ついうっかり夜勤と間違えられ、物を頼まれかねないとよく承知していたからである。

(ま、新人の歓迎会については、大河内か堺あたりにでも適当に押しつけよう)

 面倒な幹事などさらさらやる気のない翼は、そう内心で呟いて、同じく夜勤シフトの同僚とともに救急車のサイレンが近づくのを待つことになる。

「松平恭平、まだまだ若い美空の二十八歳、夢もあれば希望もあるかもしれない人生を送っている最中に、不慮の事故に遭遇……おい、研修医A!俺たちはこれから一体何をすればいいんだ?」

「えっと、まずは確実な気道確保でしょうか」

「研修医B!おまえは?」

「き、気管挿管による人工呼吸が必要かと……」

「研修医C!」

「や、薬剤を使用した胸骨圧迫でしょうか?」

「研修医D!」

「そ、その……鑑別診断と原因の検索……」

「やれやれ。揃いも揃ってマニュアル通りのへなちょこな答えばっかだな。お、おいでなすったか」

 水平線の彼方に船影を捕えた時のような仕種をしつつ、翼は救急車が止まり、後ろからストレッチャーが下ろされるのを待った。翼の背後にはこの春に来たばかりの研修医が四人、他に新米の医師がひとり、それに看護師がふたりいた。

 新人が息を殺すように緊張する中、翼とベテラン看護師のひとりだけは、比較的バイタルが平常通りだったといえるだろう。

「よう、砂川さん。按配のほうはどんなもんかな?」

「どんなもんかなって先生……CPAですよ」

 翼が顔馴じみの救命士に挨拶すると、彼は事故が起きた現場の説明をした。その間、他のスタッフたちはストレッチャーから初療用のベッドに一、二の三で患者を移している。CPAとは心肺停止の状態であり、心機能が停止したことにより、当然呼吸もなければ意識もない状態を指す。そしてここへやって来るまでに、三十分以上もの時間を要したことから――蘇生についてはほとんど絶望的、あるいは仮に蘇生に成功しても意識が戻ってくるかどうか、極めて危うい状態といえた。

 だがもちろん、まだ医師としての若さに燃える研修医たちは一人一人がまさに必死だった。交代で規則正しく胸骨を圧迫し続け、挿管したり心電図モニターを装着したりと、自分たちに出来ること、わかることから順にやりはじめている。

「抹消、入りました!」と、新人ナースの蜷川幸恵が報告し、翼が頷く。

「くそっ!挿管がうまくいきませんっ!!」

「落ち着けって、研修医A。見本ならもう、俺と大河内あたりが何回も見せてるはずだからな。ま、おまえたちも授業で習ったとおり、確かに中には特別挿管しずらい患者もいる……いや、こいつはそんなんでもないだろ。研修医B、Aと胸骨圧迫をかわれ」

「は、はい……」

 研修医Bの名倉健二が、同期であるAの藤原京介と交代した。彼らは確かに翼が、どんな患者に対しても当たり前のように簡単に気管挿管するのを見てきた。だが同じように軽々と一発でとは、なかなかいかないのが今の彼らの現実だった。
 
「あ、入りました!!挿管チューブ固定します!!」

 慣れてくると看護師に頼んで、自分は別の仕事に移るところを、名倉は嬉しさのあまり自分で行っていた。この間も看護師長の徳川美咲が採血した患者の血液を検査室へ送ったり、アドレナリンが投与されたりといった作業が続いている。

 翼は翼で、もうひとりの新米医師太平照政と足の怪我や骨盤骨折の様子を診察し、溜息を着いていた。仮に命を取り留めたところで――右足は膝下から切断するより他、どうしようもない状態だった。

「おい、胸骨圧迫一旦やめて、脈をとれ」

 翼の指示に従い、研修医Cと呼ばれた大柳浩平が脈をとる。

「……触れません!!」

「じゃあ、胸骨圧迫は研修医Dに交代。ボスミンもう一本だ」

 この作業がもう一回繰り返された時、ずっと平坦だった心電図モニターに波形が現れはじめた。「VF(心室細動)!!」と大柳が叫ぶと同時、蜷川幸恵がすぐ除細動器をセットし、翼の手に渡した。

「離れろ」

 言われなくてもわかっているとばかり、誰もが松平恭平のまわりから離れる。松平の体が一度ビクッと震え、また初療ベッドの上へ落ちた。

「もう一回!!」

 同じ作業がまた繰り返された時、心臓が洞調律となり、松平の命がどうにか繋がったらしいことを知らせた。

「心拍再開!!」

「血圧、110/50です!!」

「よし、まずはCT撮りに行くぞ!!」

 移動用の人工呼吸器に繋がれた松平恭平とともに、医師の一団が廊下をバタバタと走りCT室へとなだれこんでいった。その結果、松平は脳に急性硬膜下血腫のあることがわかり、そのまま手術室へ直行することが決まる。

「チリ半島!!おまえ、整形外科の近藤先生を呼んでこい。腰から下を近ちゃんに任せてる間、俺が開頭手術をするから」

<チリ半島>と呼ばれた研修医Bこと、名倉健二が自分の顔を指さす。チリ半島というのが果たして自分のことなのかどうかと、首を傾げている。

「おまえ以外、一体他に誰がいるんだ?チリ半島みたいな面白いモミアゲしやがって」

 毒舌が炸裂する時ほど、結城医師の調子がいいというのは、救急部ではよく知られていることだった。実際、あのままCPAの状態が継続されて御臨終……という状態でもまったく不思議はなかっただけに、助かる見込みが出てきた以上、全力でぶつかるのが医師としての当然の務めだった。

 もしこの日、当直の担当が整形外科医でなく脳外科医であったとしたら、翼は頭のほうをもうひとりの医師に任せ、腰から下のほうの手術を自分が担当していただろう。だが整形の近藤巧と翼は同期であり、何かとものを頼みやすい関係性でもあったため――迷うことなく彼を呼びにいかせることが出来た。R医大病院に付属の救命センターでは、他の科の医師にも協力を仰いでいるのだが、医師によっては救急部に下りてくるのを断ることが、ままあったのである。

 松平恭平の手術は無事成功したものの、やはり右足のほうは近藤も翼と同じ見立てであり、切断することを余儀なくされた。あとはどうにか当人の意識の回復を待つのみといったところだったが、翼自身は松平の<若さ>に賭けようという、そのような心持ちであったかもしれない。

 なんにしても、長くかかった松平恭平の手術が終わり、彼がICUの一室に落ち着くと、翼はスーパーパンダこと及川道隆部長の部屋で休憩を取ることにした。この部長室は、パンダの不在時には翼が住処としている場所でもある。

 翼がコンビニ弁当などというしけた食事をしていると、コンコンとドアが二度ノックされた。「ふあ~い」と間抜けな返事で応答すると、ドアの向こうに近藤巧が白衣姿を見せる。

「これはこれは、近藤先生。どうもどうも先ほどはお疲れちゃん」

「ははっ。本当に俺を労うつもりがあるんなら、コーヒーくらい奢ってくれませんかね、結城先生」

 翼はカエル印の自分のカップに並々と注がれたコーヒーを見、同期の近藤巧のためにも、コーヒーメーカーに残っている黒い液体を御馳走してやることにした。

「んで、今年の新人はどんなもんだい?少しは骨のある奴がいるもんかね?」

「いや~、今年も例年通り不作だね。どいつもこいつも、こっちから何か聞かないことには、押し黙っちまう奴ばっかでな。もっとこうこっちにがっつり食らいついて離れないくらいの奴を俺は期待してるんだが」

「ま、結城の場合はちょっと特殊だったもんな。クマちゃん先生とパンダ先生にわかんないことはなんでもズバズバ聞いて、むしろ向こうが呆れ返ってたくらいだし」

 近藤は笑いながら翼の手から紙コップを受け取っている。

 翼と近藤は同期ではあるが、医学生時代から特段親しかったというわけではない。むしろ互いに研修医となり、救急部で顔を合わせるようになってから初めて――心の距離が比較的近くなかったようなところがあった。

「でもまさか、結城が出世街道を外れて救急部へやって来るだなんて、俺たちの間じゃ全員、誰も思ってなかっただろうな」

「そうかあ?俺はこんなにエキサイティングで、自分向きの仕事は他にないと思ってんだけども」

 図々しくも部長室の部長の椅子に座り、翼はその黒い革製の椅子を何度も回転させながら言った。

「まあ、症状の似た患者ってのはいくらでもいても、まったく同じ患者ってのはまずいねえからな。俺たぶん、あるひとつの病気を専門に診てばっかいたら、退屈すぎて頭おかしくなるんじゃねえかと思うわ」

 翼はくるりとまた正面まで戻ってくると、弁当の中のスパゲッティをすするようにして食べた。そんな翼の様子を見て、近藤は思わず苦笑する。医大内における待遇、給与、体力的なことひとつ取ってみても、救急部は特に分が悪い……そこに好き好んで居座り続けようという同期生に対し、近藤はどこか不器用な純粋さのようなものを以前より感じていた。

「だってさ、結城は親父さんの関係もあって、教授たちにも覚えがめでたかったろ。俺、おまえのことをいつも見てて思ったもんだったよ。こいつはきっとこれから、朝比奈教授あたりの懐刀になって、ゆくゆくは准教授、それから教授にのし上がっていったりするんだろうなって」

「バカ言うなって。近ちゃんだって知ってるだろうが。今の准教授の沖先生、毎日胃薬が手放せないらしいぜ。それというのも朝比奈教授のイビリがきついからだっていうもっぱらの噂。つーか、沖先生のことを見てると思うよな。ブルックナーにそこまで胡麻すってまで、教授って職にのぼりつめたいもんかなって」

「まあ、確かにね。向こうが相当理不尽なこと言ってても『ハイル、ヒットラー』とばかり忠誠心を示せないことには、教授になんてなれないもんな。その点でいえば、俺も結城も出世街道からは程遠いか」

 ここでふたりはグアテマラコーヒーを一口すすると、互いに忍び笑いを洩らしていた。

「ところでさ、勤務日初日からおまえが怒鳴ったっていうの、さっき手術室で器械出しを手伝ってたあの子だろ?」

「あの子って?」と、翼はあえてすっとぼけた振りをする。

「その、さ。つまり……」

 育ちのいいお坊ちゃまである近藤は、その単語を口にしたものかどうかと、躊躇してしまう。

「ああ、あのことか。あいつがペニスにカテーテルさしたもんかどうか迷ってるから、思わずイラッとして言っちまったんだよな。『おまえ、処女ってわけじゃないんだろ?だったらとっととやれ』って」

(噂は本当だったのか)と思い、近藤は絶句した。

「そしたらさー、パンダ部長先生が俺のことこの取り散らかった麗しい部屋に呼びだして、説教しやがんの。緊急時に言葉使いが荒くなることは許す。でもさっきのおまえのは明らかにセクハラだって言うんだよな。だったら何か?俺が下手に出てあのお嬢ちゃんに、『おちんぽこに導尿カテーテルをお早く挿入くださいませ』とでも言えば良かったのかって話だよなあ」

「結城、おまえなあ……」

 笑ったほうがいいのか、それとも呆れたほうがいいやら近藤が迷っていると、ドアを一枚隔てたナースステーションからけたたましい笑い声が上がる。

「おちんぽこだって!なんでも「お」をつければそれでいいってもんじゃないわよねえ、結城先生も」

 けらけらと看護師たちが笑う声を受けて、近藤はなんとなくいたたまれなくなり、ソファから腰を上げる。ちょうどコーヒーも飲み終わったことだしと、上の医局の仮眠室へ向かうことにした。

(しまった。俺としたことが……)

 近藤はナースステーションに出ると、すぐさま気まずい思いを味わうことになった。何故といってそこでは、先ほど話にでた当の新米看護師が、顔を赤らめながらも電子カルテに記録を取っているところだったからである。

 もっとも、他のテーブルを囲っている六名ほどの看護師は、結城医師のエロ口などいつものことと、すっかり免疫のついている面々ばかりなのだろう。近藤の戸惑った様子すら、まったく気にかけていないようだった。

 近藤はエレベーターホールに出ると、片手で顔の下半分を覆いながら、思わず反省していた。手術室ではマスクで顔が隠れていたため、よくわからなかったものの――いかにも清楚で大人しそうな看護師だっただけに……自分があんな話を振りさえしなければと、心から後悔した。

(ごめん、なんてあやまってすむようなことじゃないよな)

 というより、この場合はむしろあやまったりするほうが変だろう……近藤はそう思い、エレベーターの中でもまだ赤面していた。

(悪いことをしたな。あの子、俺の気のせいじゃなかったら、肩が震えてなかったか?)

 結城医師が「あのお嬢ちゃん」と呼んだ新米看護師について、近藤は<羽生>という名字ということくらいしか知らない。というのも、翼が非番だった日に今日と同じように呼びだされ、「あれは流石にないよなあ」と研修医たちがコソコソ話しているのを小耳に挟んだという、それだけだったからである。

(まあ、これもいい人生経験だと思ってガンバレとしか、俺には言ってやれないけど)

 近藤は医局にある仮眠室に辿り着くと、それきりこの件については忘れ、翌朝まで誰に呼びだされるでもなく、ぐっすりとした深い眠りへと誘われていくことになった。



 >>続く。





最新の画像もっと見る

コメントを投稿