天使の図書館ブログ

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手負いの獣-21-

2013-03-22 | 創作ノート
【ボレアス】ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス


 さて、今回はわたしの失敗談とヒヤリハット体験(笑)についてです(^^;)

 もう随分昔のことなのに、よく色々覚えてるなと自分でも感心したんですけど、今回の小説は医療ネタ☆ということで、それに関連したこととして、芋蔓式に色々思いだしたのかもしれません。

 んで、わたしの中の一番のヒヤリハット体験は(ちなみにこのヒヤリハット体験って言葉を聞くと、昔藤井さんが出てたイ○ローハットのCMを思いだしますww)、夜勤明けの朝に人工呼吸器の電源を引っこ抜いたっていうことでしょうか

「いやあ、下手したらあのICUの患者、死んでましたよ☆」なんて、口が裂けても言えませんけど、一応なんでそんなことしたのかには、つっとばか理由があったりするのです。。。

 その時の夜勤がどんなんだったのかはよく覚えてないんですけど、夜勤って忙しい・忙しくないに関わらず、朝になっても妙に元気だったり、逆に「あ~あ、早く終わんねーかな」っていう時と、二種類あるんですよね。

 というかわたしの場合、忙しかった時のほうが妙に目が冴えて、夜勤の終わる九時になっても、このまま昼頃まで働けそう☆っていうことが時々あったもんでした(若さゆえ?笑)

 んで、その時もすごく元気だったので、ICU担当の看護師さんが、「その人、挿管入ったからインスピロン片付けて」って医療ゴミ片付けてるわたしに言ったんですよね。つまり、今日のICU付きの看護助手はわたしだと思われたというか。

 もちろんこの時、「あ、わたし夜勤なんで、そういうことは日勤の人に……」っていうのは簡単だったと思います。でもわたし、妙に元気だったので、そのくらいならまあやってもいっか☆と思ったわけです。

 挿管が入った=人工呼吸器になったっていうことで、その前までは酸素マスクを患者さんはつけてて、その先にはインスピロンなるものがあるんですよね。で、このいらなくなった酸素マスクとインスピロンを片付けようとしたところ……インスピロンのほうの電源じゃなく、人工呼吸器の電源を抜いてしまったという。。。

「うお、やべえ!!」と内心思い、すぐに電源をまた差したから良かったものの、もしそのままにしてたら大変なことに――っていう可能性は低いものの、なんていうか、「そういうことは実際ありえるんだな」と思いました。

 物凄く昔に、病院の職員さんが人工呼吸器の電源を誤って抜いてしまい、患者さんを死亡させた事件があったと思うんですけど、それももしかしたらこういう種類のことだったのかもしれません。

 で、その時にすぐそばにいた看護師さんが「あれ?もしかして△△さん夜勤?だったらそう言えば良かったのに」って言って、インスピロンは片付けなくて良くなったというか(笑)

「な~んだ。それならそうと言ってよ。いや、いいよ。日勤の人に頼むから。なんか妙に元気そうに見えたから、日勤なのかなって思ったんだ」……まあ、やりかけなのもなんなので、片付けるくらいついでにやりますよ的に言ったら、「いやいや、いいよ。お疲れさん」で、結局ゴミだけ片付けて帰ることに。。。

 なんていうか、自分では元気で気力が溢れてると思っても、体は正直なもんで実は疲れてたってことなのかなって思います(^^;)

 まあ、わたしはただの助手なのでいいんですけど、看護師さんはほんと、九時でピタリと終わるよりも十時とかそれ以上まで残ってたりっていうこともよくあったと思うんですよね。

 なんにしても、自分ではまだ出来る!!とか思う時でも、勤務時間過ぎたらさっさと帰りましょうっていうことなんだと思います(苦笑)

 んで、次はちょっとした失敗談……と思ったんですけど、これも書くと長い気がするので、次回の前文に回すことにしますね(^^;)

 それではまた~!!



       手負いの獣-21-

「膵癌、大腸癌、肺癌、食道癌など、大抵のガンでは初期症状がまるでないことがよくあるでしょう?いわゆる、症状が出てから病院へいったらかなり進行していたという場合が圧倒的に多いわけですが……まあ、町田さんの場合は症状がないからこその現実逃避だったと思います。でも、かなり症状が進んでいて痛みのある方でさえ、『先生。ガンってなんなんでしょう』って僕に質問してくる人はよくいるんですよ。ガン病巣があるからこそ、疼痛があったり化学療法による苦しみ・不快感を経験しなくてはいけないわけですけど、僕は大抵、ガンというのは正常細胞の突然変異だと説明することにしています。人が生まれてきて、仮に健康で八十歳・九十歳、あるいは百歳まで生きたとして――その間に体にある六十兆個もの細胞は、増殖を繰り返しては古いものが新しいものに置きかわっていく。この細胞増殖の過程でコピーミス、エラーというものがどうしても発生してしまい、そのエラーが積み重なったもの、突然変異を起こしたものがすなわちガン細胞ということです。つまり、人は長生きすればするほど、このコピーミスの蓄積が多くなり、それだけガン発生のリスクが高くなるということですよね。だから人間は長生きすればするほど、ガン発生のリスクが高まるのは当たり前というか、ある意味自然なことですらある。ところが、人間は本当なら死ぬのが自然であることに逆らう道を選んだんですよ。それがガン病巣の摘出手術であり、化学療法や放射線治療というわけです。本来自然なことに逆らっているわけだから、ある意味そこで人間全体が苦しみを共有するのは当たり前というか……まあ、僕はこのへんのことは人によって言い方を変えて説明するんですけど、人間の役割というものがもし、次に生命を伝えることだとしたら――そこまではどうにかして生きなくてはならない。だから、昔は人間の平均寿命というのはもっと短かった。精神性・魂といったことは別として、生物学上は次に生命を伝えるところまで生きられれば上々という部分が大きかったわけです。でも人間がどんどん自然に逆らい、寿命を伸ばしていった結果として、その分ガンというものも蔓延化していったんじゃないかと思います。つまり、人は長生きすればするほどガンになる、ガンになるのは当たり前だとさえ言えるというか……」

 おそらく、この山田優太の自論は、そのまま一般の人に語っても、受け入れ難くわかりにくものだったに違いない。だが翼には医師として、山田の言いたいことが大体のところ理解でき、また受け入れ易くもあった。

「まあ、極端な話……俺は二十七歳で大腸ガンになった青年の手術をしたことがあるんだけどさ、五十過ぎて同じように大腸ガンになったっていうより、物凄く悲壮感が強いわけ。俺自身も医者として『若いのに可哀想に』って思う気持ちがあるのと同時に――本人や本人の家族も、『なんで俺だけがこんな目に』とか『何故うちの子が』っていう感じで、到底<ガン>という存在を認められない・受け容れられないっていう傾向が強いんだよな。しかもガンっていうのは当然、若いほうが進行が早い。で、手術後もより強い化学療法、放射線治療ってことになって……若い分、そういうものに対する反発力ってのも強くて、見る間にボロボロになっていく。でも俺、そんな相手にとても、生物学上あなたは次に生命を伝えられるに十分な肉体を持っているわけだし、それがあなたという生命個体の限界なのだと思いますよ……なんて、絶対言えないと思う。山ちゃんだったら、こういう場合はどうするわけ?」

「そうですねえ」

 症例ケースとしては、まったく笑いごとではないのだが、翼の物言いがなんとなくおかしくて、山田は思わず笑ってしまった。

「『なんで自分がこんな目に』っていうのは、ガン患者の心理状態としてもっとも多くみられるものだと思います。まあ、結城先生もご存知のこととは思いますが、教科書的なことを言うとすれば、人はそれがガンであれなんであれ、ショックなことがあると、大体平均して二週間くらいそのことで落ち込むと言いますよね。で、その後落ち込んでばかりもいられないという精神状態になっていき、さらにショックの原因となったものと徐々に向き合えるようになっていく……個人差はあるにしても、人は大体そうした精神過程によって物事の対処に当たるのだと思います。そして、『なんで自分がこんな目に』という地点からなかなか抜けだせない人もいますが、大抵の方はそこから内省しはじめるんですよ。もちろん、ガンが天から与えられた罰だなんて、僕はまったく思わないんですが、そうした考え方から出発して、自分の過去を振り返る方というのも結構多いんです。『そもそも自分は大した存在じゃない。それなのに、何故自分だけがこんな目にと思うこと自体傲慢ではないだろうか。これまで生きるために色々と嘘もついたし、人を裏切ったこともある。でもみんな、そんなふうにして生きているんだ。そして人は色々な形で病気になり、ガンにもなる』……そうした思想的なものを宗教的な方向にまで高めていく方もいますし、そうした方の中には『ガンに色々なことを教わった。自分の人生はこれで良かった』とおっしゃる方さえおられますね。空が青いこと、木々が緑だということは誰でも知ってることだけど、『本当はこんなに青い、それも毎日青さが違う』、『緑の雑草一本一本の色が、実はみんなそれぞれ違う緑だと気づいた』……まあ、僕たちがしてる仕事っていうのは、そういう患者さんの状態を心身含めて見守ること、あるいは向上させることのお手伝いなんだと思います」

 森進一の『冬のリヴィエラ』が流れる中、山田と翼はたらば蟹や帆立や牡蠣などをじうじう焼き、ビールを飲みながら語らいを続ける。

「山ちゃんってほんと、ソバが好きなのな。ま、今日はつみれ鍋も頼んでみたから、こっちも堪能してちょ」

 翼はそう言って、野菜のたっぷり入ったつみれ鍋を、小鉢に取り分けて山田に手渡した。

「う~ん。まあねえ、俺の場合ひとりひとりの患者とそこまで向きあえって言われてもさ、結構限界があんだよな。外科病棟の主任も茅野先生も、山ちゃんから患者とのコミュケーション術を学べっていうんだけど、具体的にどうすればいいのって思ったりするわけ」

「結城先生は結城先生で、そのままでいいんですよ。それに僕には、結城先生のような手術室における手技の見事さはありませんから……そもそも完璧な医者なんて、患者の幻想にしか存在しませんからね。たとえば、結城先生が手術の前後で患者さんとの対応で困ったことがあったら、時々僕がしゃしゃり出る……それで十分なんじゃないでしょうか。ただいつでも問題になるのは、そう連携がスムーズにいかない場合のほうが多いっていうことなんですよ。結城先生も医局という場所に長くいたらおわかりのことと思うんですけど……医者にはやっぱり、医師固有のプライドの高さとか縄張り意識とか、そういうものがあるでしょう?『自分のやり方はこれでいいんだ』とか、『ずっとこういうふうにやって来たんだから』と、明らかな間違いを指摘されても、それであればこそ逆に意固地になったり……そういう人たちの間に入って、どうにかうまく連携してもらおうとすることって、本当に難しいんですよ。でもその点、結城先生は全然いいです。特に手術の上手さを鼻にかけるでもなく、よくわからないことがあったら『よくわかんない』ってすぐ口に出して言われること自体が、僕には面白いですしね」

「いや~、山ちゃんに正面きってそう言われると、なんか小っ恥ずかしいもんがあるなあ。つーかさ、俺は結構第一印象で人を決めるようなところがあるわけ。で、馬が合うってーか、『こいついい奴だな』って思ったら、べつに普通に話もするし、たぶん割合素直なのかもしんない。でも茅野さんが言うにはさ、その他大勢って俺が判定した奴には、冷たい奴だってことになるみたい。まあ一応そういう自覚は俺にもあるんだけど、患者に対しては仕事だからそれなりに思いやりあるように振るまってると思うんだけど、その演技があまりにペラいってことなのか、それとも本性がそれだから、自然とそういうのが滲みでるってことなのか……まあ、俺自身にはよくわかんないわけ」

「結城先生は、優しい人だと僕は思いますよ」

 ビールを飲み、刺身の盛り合わせを摘みながら、山田は笑った。

「僕が注文したわけでもないつみれ汁を小鉢に分けてくれたり、そろそろ焼き加減がいいから帆立を食えとか牡蠣を食えってしきりに言うあたり……本当の意味で思いやりがないとか、そういうことはないと思います。まあ、僕も普段はこういう話は誰にもしないんですけど、最悪の標本のような医師の話でも聞いたら、結城先生が慰められるかもしれないと思って」

「最悪の標本って?」

 翼はらしくもなく、つみれ汁や炙りものの熱気によってではなく、微かに顔が赤らむものを感じた。そして何故彼が<癒しの貴公子>と呼ばれるのかが、あらためてわかるような気がする。

「呼吸器外科の飯島先生のこと、結城先生はご存知ですか?」

「ああ。院長の愛人の息子だっていう噂の、去年山ちゃんに次いでイケメンコンテストで二位だった奴?」

「ええ。でも彼、今年は十位以内にも入ってないでしょう?飯島先生がうちの病院に来られたのは去年のことでした。最初のうちはそうでもなかったんですが、院長の愛人の息子だっていう噂が広まるにつれて、だんだん小山のボス猿みたいになっていったんですよ。正直、患者の対応についてのクレームは、うちの病院では第一位といっていいかもしれません。でも手術の腕はいいと評判だし、何しろなかなかの男前でもある。でも僕は飯島先生のことを、そうしたすべてを鼻にかけた、嫌な奴だなと内心では思っています。高畑先生も気の毒ですよ。院長っていうのは、愛人との家庭を大切にして、本妻と娘のことはあまり顧みなかったと聞いてますから……そこへ持ってきて、愛人の息子が父親の命を救っただのなんだのという話を聞かされるわけですからね。高畑院長ももう少し、色々なことを配慮できないのかなと、僕はつくづくそう思います」

 この時翼は不意に、高畑京子が――『男前ですって?よくも恥かしげもなくそんなことが言えるわね』と自分に言った時のことを思いだしていた。つまり、今にして思えば、腹違いの弟と同じ手合いの人種が入局してきたと、そんなふうに彼女の目には映っていたのかもしれない。

「まあ、高畑先生のご家庭も、色々あったみたいなんですけどね。高畑先生にはお兄さんがいて、とても優秀な方だったそうです。で、院長はその息子のことを溺愛していたそうなんですが、医大を卒業しないうちに交通事故で亡くなったと聞きました。そして院長は愛人の子が医師になるよう仕向け、援助を惜しまなかったといいます。高畑先生はそのふたりの間に挟まれて、父親にとっては<いない>も同然の存在だったとか……やがて高畑先生自身も優秀な医師となったわけですが、何故院長が愛人の息子ばかり恥かしげもなく人前で褒めそやすのか、僕には理解できませんよ。もっとも、高畑先生は血が繋がっていないことが原因だと、ご自身でそうおっしゃっていましたが……」

 つい話しすぎたと思ったのだろう、山田はハッとしたように、ビールのコップを手放していた。

「ああ、心配しなくていいよ。俺、これまでに色んなところで色んな人から色んな話を聞いてて――院内の噂話っていうのは、思った以上に感染が広がりやすいこともわかってる。だから、山ちゃんが今言ったことは、絶対誰にも言わない。けど、こうなってくると……」

 翼はたらば蟹の身を食べる手を止めて、暫し俯いた。翼が察するに、血が繋がっていないというのは、高畑先生自身がどこかからもらわれてきた養女ということではなく、おそらく妻が外に男を作ったのではないかと思えてならない。もしそうだとすれば、すべての因子が高畑京子に不利に働くだろうという気がした。複雑な家庭環境で育ったことにより、父親が院長を勤める病院を滅茶苦茶にしてやりたかった、諏訪晶子のような女に弱味を握られたことが許せなかった、元夫とともに息子を奪った金井美香子を殺したのも自分だ……白衣姿の高畑京子がそう自白する姿がちらつき、翼は慌てて頭を振る。

「その、さ。高畑先生はそういうことをついポロッと山ちゃんに話しちゃうってくらい、山ちゃんに心を許してるわけだろ?俺、つい最近聞いたんだけど、高畑先生の最初の結婚ってのは、結構不幸なものだったらしいわけ。だから、あの人には山ちゃんみたいな人が必要なんじゃないかって思うんだけど……山ちゃんはさ、そのへん、強気に出てみる気はないの?」

「どうでしょうねえ」

 つるっと牡蠣を飲みこみながら、山田はどこか曖昧に微笑む。

「高畑先生にはどこか、ストイックなところがあるし、人に言わせると、僕もどうやらそうらしいんですが……変な意味で言うんじゃなくて、高畑先生くらいの年齢の女性は、少し難しいんじゃないかなって思うんですよ。自分の生き方のスタイルみたいなものがすでに定まっていて、そのサイクルを誰にも乱されたくないと思ってると思います。で、それは僕もまったく一緒なんですよ。自宅にいるより、病院にいる時間のほうが長いくらいですけど、特に家庭での安らぎを求めるでもなく、自分の人生はこれで十分充実してると思っている。お互いにそう思ってる同士がつきあって、果たしてうまくいくものかなあ、なんて……」

「ああ、それはあれだよ。ジョン・レノンとオノ・ヨーコもそうだったって言うじゃん。つーか、そう言ってたのはジョンのほうだけど、互いに自立してて、ひとりで生きていける強さがあることもわかってる。でもそれでひとりずつ生きていくよりも、ふたりで生きていったほうが面白い、みたいなこと。なんだったら山ちゃん、高畑先生にそう言ってみれば?」

「まあ、とりあえず考えておこうと思います。で、その線でいくと結城先生のほうはどうなんですか?よく先生がうちの緩和ケア病棟に来られるので――看護師たちの間では、誰か目当ての看護師がいるんじゃないかって噂してるのもいますからね。もちろん僕はそうじゃないってわかってるんですけど……女の人っていうのは、そういう話をしてきゃあきゃあ騒ぐのが好きでしょう?だから、あえて水は差さないことにしてるんです」

「いや、そこは水差しといてくれよ、山ちゃん」と、ホタテのバター醤油を食べながら翼は笑った。「俺は山ちゃんの、患者との距離の取り方とか、コミュニケーション術ってやつにすごく興味があるわけ。ま、それで山ちゃんについて時々病棟を歩いたりするわけだけど……なんでかなあ。俺、病院にいる時には基本、ほんとに仕事か患者のことしか考えてない。あと、医局で殺人事件なんてのが起きちまったから、暇があったらそっち関連のこととか……そうなんだよ。今は恋愛なんかより断然そっちのほうが気になる。犯人には捕まって欲しいけど、高畑先生が誤認逮捕されたらどうしようかなあとか、色々」

「どうして高畑先生が誤認逮捕されるんですか?」

 山田がどこか不安げに眉をひそめたので、翼は一から説明することにした。

「そう考えていくと、高畑先生が今現在における容疑者リストのトップに立ってるってこと。複雑な家庭環境に、自分を顧みてくれなかった父親に対する復讐、若い女への嫉妬、元夫を奪った金井美香子に対する怨恨……とかなんとか色々、動機はいくらでもあがるだろ?そして高畑先生にはアリバイもないらしいから、これで彼女が医師でなかったら、すぐにでも署のほうへ引いていかれるんじゃないかな。で、締め上げに締め上げて自白させようとするっていうのが、警察の常套手段なんじゃないかって気がする」

「そんな……」

 この時点までくると、山田はもともと肌の白い顔を、青ざめさせているほどだった。

「んー、でも俺、刑事さんたちにはさ、高畑先生が殺人犯なんてありえないって、何度か言ってあるんだ。だからそういうことも考え合わせた場合、早く犯人が捕まってくれないかなって思う。だって、仮に高畑先生が無駄に捕まって、警察に締め上げられるも釈放され、そののちに真犯人が逮捕だなんて……それじゃなくてもあの人、これまでに十分不幸なものを背負ってるわけだから、そういう人間が余計に苦しむ展開っていうのは、見てられない気がするわけ」

「その、結城先生はもしかして刑事さんたちと親しかったりするんですか?」

「いや、べつにそれほど親しいってわけじゃないよ」

 翼はその点については、曖昧に誤魔化しておくことにした。

「ただ、あの人たちもあれが仕事だろ?何が言いたいかっていうと、状況証拠を積み上げていった結果として、一番あやしいとなった人物から順に、『署に任意同行願います』って言わないわけにいかないっつーか……このまま他に特に有力な犯人候補があがらないままだと、高畑先生が逮捕される可能性が高いんじゃないかと思って。それで俺、つい刑事さんたちに言っちゃったんだ。飯島先生は院長が愛人に生ませた子だってことと、むしろ逆に誰か、高畑先生を貶めようとしてる奴がいるんじゃないか、みたいに。正直いって、それはあんまり俺らしくない判断ではあるんだけど……結局俺、結構好きなんだよな、高畑先生のこと。もしかしたら、山ちゃんが高畑先生のこと好きだって言ったから、俺にはわかんない魅力があの人には備わってるんだろうって思う、そのせいかもしれないけど」

「高畑先生が人殺しなんて、いかなる理由があるにせよ、絶対ありえません」

(その根拠は何処にあらんや?)と聞くことはなく、翼は山田がにっこりと嬉しそうに笑う顔を見守った。だが、山田優太とは違い、翼は高畑京子が犯人である可能性は、現時点で十パーセントくらいはあるかもしれないと考えていた。

 そもそも、憎んでいてもまったくおかしくない父親が院長を務める病院で、何故働き続けているのだろう?愛人の子と同僚になったことについては、どう感じているのか?最初の結婚が不幸に終わり、キャリアに生きることを決めたのは理解できるが、女として今からでも幸せになりたいと思うことはないのかどうか……翼にとって高畑京子という女性は、依然として謎に包まれたままだった。

(あ、そっか。俺がこういう形であんまり人に興味を持つことってないからな。でも、俺が向こうに関心を持っているほどには、高畑先生は俺に興味がないわけで……そうか。関心のない人間には冷たいってのは、高畑先生も一緒だってことか。つーか、あの人にとって俺は、仕事で必要な時以外は視界に入ってないも同然の存在だろう。ふうん、なるほど。まるで関心のない人間として扱われるってのは、こういう感じのことなわけだ)

 その後も山田優太と仕事のことや、患者とのコミュニケーション術のことを、翼は色々と話したあとで――火にかけた炙りものや刺身の盛り合わせ、つみれ汁などを大方片付けたのちに、店を出るということになった。

「そういえば、結城先生は館林先生と軽くいざこざがあったと聞いたんですが、本当ですか?」

「ああ。俺、下手したらあの人のことを殺してたかもしれないんだよ」

 山田は事の経緯を聞くと、<港しぐれ>の駐車場で大笑いしていた。

「じゃあ今度、土曜か日曜に三人で釣りにでも行きませんか?袴田先生が結城先生の部屋におられた頃は、僕と館林先生と袴田先生の三人で、時々釣りにいってたんですよ。まあ、出会い方は悪かったかもしれませんが、館林先生は実際は話のわかる、とても良い方ですから……一度仲良くできるきっかけがあれば、バカラのグラスのことは許してくださると思いますよ」

「なんか悪いなあ、山ちゃん。患者との橋渡し役だけじゃなく、色んな人との間を取り持ってもらうみたいでさ。つーか、なんで俺ってこう他の人間とうまくやってけないんだろうな。山ちゃんみたいに誰とでもフレンドリーにつきあいたいと思ってんのに、気づいたらまわりに誰もいないみたいな?」

「それはたぶん、反射的防御機構ってもののせいかもしれませんね。大抵の人は結城先生といると、自分が先生の攻撃圏内に入ってる気がして、逃げたくなるんじゃないかと思います。結城先生にはどこか、相手の一番聞かれたくないこと、触れてほしくないことをズバッと言うようなところがあるでしょう?それに、先生の頭の回転の速さや会話の面白さについていけないように感じたら、やっぱり咄嗟に逃げだしたくなるんじゃないですか?茅野先生みたいに、それを面白いと感じられるくらいの器の大きさがないと、結城先生と対等につきあっていくのは難しいでしょうし……」

「山ちゃん、ありがとう!!愛してる!!」

 突然翼が抱きついてきたので、流石の山田優太も少し驚いたようだった。

「あ、たぶん意味わかんないだろうけど、俺そっち系じゃないから安心して。とにかく、今の言葉で俺は救われた。それじゃあ山ちゃん、酒飲んだから、警察の取り締まりには気をつけて」

「結城先生のほうこそ」

 山田はどこか苦笑しながらホンダ・アコードに乗りこんでいた。先に<港しぐれ>の駐車場を出たのは翼のほうだったが、山田は途中、どこか寄るところでもあったのだろうか、後ろに彼の車がついてくる気配はまるでなく――翼はその頃には、あらためて彼が言った言葉を心の中で反芻していた。

(そうか、そうだったんだ。反射的防御……唯の奴が俺に見せてた態度がまさしくそれだったってことだもんな。まあ確かに、よく考えてみりゃヒョウと仲良くしたがるうさぎなんているわけがない。そっか、なるほど。そういうことだったんだ)

 翼は羽生唯がよく、おどおどと自分に話しかけてきた様子を思いだし、にやにやしながらマンションのエントランスを抜け、エレベーターで十階まで上がっていった。てっきり自分は彼女から嫌われているし、まったく好みのタイプでもないと思われていると翼は確信していたが――実は望みがないこともなかったのだ。

(そうだよな。あいつ、頭の回転も体の反応もトロいし、いつまた俺が嫌なことを言ってくるかと、怯えまくってたもんな。でも、そんなことは全然関係ないんだ。俺はあいつがあいつであってくれさえすれば、それで良かったんだから)

 翼はこの夜、アルコールの力も手伝ってか、久しぶりに心からの安らぎに満ちた眠りに落ちていった。失恋の痛手から立ち直ろうとする心の防御反応なのかどうか、翼にとってはすでにこの頃、ある妄想の物語が随分先にまで展開するようになっていたのである。

 それは羽生唯がトラックの運転手と別れ、何かの偶然によってK病院へやってくるという物語だったのだが、まさかそんな妄想がいつか現実になる日がやって来ようとは――この時翼は、そうと切望する思いが強いあまり、実際は夢に見ることさえなかったのである。



 >>続く……。





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