天使の図書館ブログ

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手負いの獣-5-

2013-02-27 | 創作ノート


 上の画像は「エキスパートナース2012年11月臨時増刊号」で、今回のお話を書くにあたって、参考にさせていただいた雑誌ですm(_ _)m

 一応こうした本なども読んだりしてますけど、「ここらへんのことは実際どうなのか、よくわかんないな~☆」と思って書いてるので、そのくらいの感覚で読んでいただけると助かります(笑)

 そんでもって今回の章と次回の章とは、本当は一繋がりの章なんですけど、20000文字という文字制限に引っかかったので、変なところで途切らせて次回へ続く。となっていたり(^^;)

 前文を入れなければ入るっていう時にはそうするんですけど、入れなくても最初から全然無理だったので、今回もまた前回の続きの駄文をと思いました。。。

 一応誤解があるといけないので、補足しておくと、ターミナル=医療的に何もすることがない状況ではもちろんないと思います。ただ、ターミナル、ホスピスケアといった言葉を聞いてすぐ思い浮かべるのは、末期ガンのケースが多いのかなって思うんですよね(^^;)

 わたしがその後読んだ本の中でも、扱われているのはおもにほとんどそうしたケースでしたし、「その人らしく亡くなるまでの看取り」というのでしょうか。そうしたお話を色々読んだりしました。

 で、わたしが前回書いた患者さんのケースだと、「その人らしく」と言っても、すでに意識がないわけです。

 わたしが彼女(仮にMさんとしておきます☆)に会った時、Mさんは片麻痺があっても、とても明るい元気な方でした。

 なので、自分が夜勤の時になった「助けてえええっ!!」って叫ぶ彼女はまるで別人といって良かったと思います。

 その後も元は麻痺(+若干の痴呆)などがありつつも、意識清明な方が最終的に寝たきり状態になるといったケースは見たものの、Mさんの場合は初めて劇的に悪くなっていった患者さんだけあって、特に衝撃が大きかったというか。

 出会った時から意識不明の寝たきり状態という高齢患者さんの場合は、「わたし自身や自分の家族も、いつかこうならないとは言い切れない」という気持ちで見るのですが、やっぱり出会った時に元気で、その後悪くなっていった患者さんを見るのは、より胸が痛むものがあるわけです。

 Mさんのターミナルケアとしては、他の意識不明の寝たきり患者さんと同じく、一日の決まった時間に体位交換し、毎日の清拭、オムツ交換、あとは顔を拭いたりといった基本的なケアとか、とにかくお亡くなりになるまで(または意識の奇跡的回復を願って)、意識があった時と同様に接することが大切、ということになるのかなって思います。

 でも365日、意識のない方、こちらの語りかけに何も反応しない方のお世話をするとなると、正直、声かけ以外は動作が機械的だったり、あるいは他の職員と全然関係のないことをくっちゃべったりするっていう部分も現実として絶対にあるというか(^^;) 

 そして<介護>っていうのはそういう部分で「理想」ばかり追求することは出来ないっていうことなんですよね。現場レベルのものの見方として。

 Mさんの場合は幸いというべきなのか、その後、割とお亡くなりになるのが早かったのが救いだったかもしれません。

 何故といって、他の意識不明患者さんの中には、その状態でもう十年以上にもなるという方もいらっしゃったので。

 今読んでる「がん・生と死の謎に挑む」の中に、「祝福としての死」と書かれている項があったんですけど、本当にそういう種類の<祝福>は存在すると思います。長寿=幸福とは限らないというか。

 看護師さんたちも時々、「自分が同じ状態になったら死にたいと思うだろうし、死なせてくれとさえ思うだろう」といったことは話してたんですけど、自分の力ではもうピクリとも体を動かすことは出来ないし、そう意志の疎通をはかることもできないんですよね。

 そこでわたし個人としては、自分の介護の支えの部分として「物語」を作ることにしました。

 この寝たきりの人々は、意識のほうは半分天国にいっていて、ずっと夢を見ているっていう可能性もなくはない。そういう意味では決して不幸でもないし、残った体のほうについては、他の人がある種の「人生の学び」をするために生かされているのかもしれない、といったように。

 ちなみに、この最後の部分については、あくまで「わたし個人の意見☆」みたいなものなので、すべての人にそう当てはまるとか、そうしたことではまったくないです(^^;)

 それでも現実というか、同時に科学的(?)なものの見方としては、あの時Mさんの脳内では何が起きていたのかっていうこともあると思うんですよね。

 Mさんがもともと片麻痺だったことを思えば、以前に脳梗塞などで血管が詰まったりしてるのだと思うので……また別のというか、他の血管が詰まる気配を感じて、もしそうなったら「自分はおかしくなる」とMさんには本能的にわかっていたのではないか、というか。

 もちろん、「あと5分36秒後に俺の脳内の血管は詰まるだろう☆」とか予測できる人はいないと思うのですが、でももしそうなったら絶対ヤバイから助けてよ、Mさんの必死の訴えというのはそういうものじゃなかったのかなっていう気がしてなりません。

 まあ、もしわたしがその日の夜勤時のカルテなんぞ調べた日には、「あいつは調子にのって何を勉強してるんだ」ってなる職場だったので(看護師さんは介護士や助手はもっと色々勉強すべきだと思ってるのですが、他の介護士さんたちはそういう雰囲気だったので^^;)、あんまり色々調べたりは出来なかったんですけどね。

 なんにしても、あの時Mさんの脳内ではどういうことが起きた可能性があるのかについては、ずっと気になってたので、いつか脳外関係の本でも読み、調べられるといいなと思っています。

 それではまた~!!



       手負いの獣-5-

 翌日、朝の九時から術前カンファレンスが開かれたのち、十時より第三手術室で高畑京子執刀による、結腸切除術が行われることになっていた。

 ちなみに第一手術室ではハーバード帰りのカリスマ脳外科医、雁夜潤一郎が執刀医として颯爽と登場する予定らしい。実をいうと翼は、そちらが専門ではまったくないが、脳外の手術に相当の興味がある。というのも、茅野と並び翼がどんなに体当たりしても適わなかった及川の専門が脳外で、脳梗塞の患者が運ばれてくるたびに、彼の鮮やかな緊急手術の手技を何度となく見ていたせいかもしれない。

 なんにせよ、翼はこの時、消化器外科が専門なら知っていて当然のことを、まるで医学生に対するようにカンファレンスで質問されたのち――「本当にあなた、大丈夫なんでしょうね?」といった疑惑の眼差しを、高畑医師より引き続き向けられていた。

 そのせいもあって第三手術室に入る前、翼の機嫌はこの上もなく不機嫌だった。とはいえ、術前カンファに参加した他の面々である、第二助手の朝比奈旭、麻酔科医の河野麻世、また器械出しの看護師江口悦子が高畑医師に加勢し、一緒にせせら笑って来なかったというだけでも、もしかしたら翼は喜ぶべきだったのかもしれない。

 この日、翼は生まれて初めての体験――自分以外の術場にいる人間が全員女性という、居心地がいいのか悪いのかわからない状況下で、結腸切除術の第一助手を務めることになった。術前カンファの場面でも感じたことだが、みな一様に口数が少なく、氷のように無表情なのが印象的だった。

 無論、患者の命がかかった神聖な手術の最中なのであるから、私語は慎み、自分の仕事と手元のことにだけ集中せよ、と言われてしまえばそれまでではある。(だが、それにしてももう少しくらい他に何かしゃべったらどうなんだ)との思いが、翼としては募るポジションだった。何しろ、手術中の映像については、画像のみで音声まで拾われたものが家族待合室に流れているわけではないのである。

 翼自身は特段、手術中に音楽を流すのを好むほうではないが、それでも今回の場合に関してのみは、ブルックナーの交響曲の五番と八番がむしろ恋しいくらいであった。

 結局、二時間以上に渡る手術の間、高畑医師の発した言葉は、必要最低限の指示と、器械出しの看護師に対する命令の言葉だけだったと言ってよい。いや、一度だけ切除範囲の確認を求められはしたが、翼は「術前カンファの通りでいいんじゃないですか」と棒読み口調で答え、第二助手の朝比奈医師も、「わたしも結城医師と同意見です」と抑揚のない声で答えるのみだった。

(あーあ、肉体的にっていうことじゃなく、まったくもって別の意味で疲れる手術だったな)

 膀胱や小腸への浸潤が発見されるでもなく、ガン病巣が予定通り摘出されたことを思えば、手術自体はとりあえず無事成功をもって終わったといえるかもしれない。だが、患者の神田早苗さん(四十八歳)はこれから抗がん剤治療も受けなくてはならないし、予後を見守り無事退院できるまでは、彼女にとって不安と苦痛の日々が続くということにもなるだろう。

 神田さんがベッドに体を移され、五階の病棟へ運ばれていくのと同時、高畑医師は患者の家族に待合室で十分な説明を行うため、そちらへ向かった。翼はといえば、着替えをすませて青の手術着に白衣を引っ掛けると、煙草を吸うために喫煙室へイライラと大股に歩いていったというわけである。

 時刻のほうは二時近くであり、翼は一服したあと食堂へ行き、賄い婦の蛯原に「エビちゃん、何もかもすべて大盛り!!」と注文しようと、心に強く決めていた。

(まあなあ、確かに高畑先生は腕のほうはいいのかもしんない。でも、あの氷のような沈黙の世界で助手務めるのはちょっとしんどいかもな。誰かがちょっとでもミスしたら、「そら言わんこっちゃない」とばかり、攻撃されそうな空気をビシビシ感じるってえか。俺が執刀医の時は、まだしももうちっとは雰囲気的にマシだぜ。つーか、空気が緩みすぎってのも確かに問題ありだろうけど、むしろもうちょっとリラックスしねえと、緊張のあまりミスが誘発されそうだって思うのは俺だけなのか?)

 翼が一度部屋へ戻り、煙草をとって喫煙室へいくと、そこにはすでに先客がいた。翼はそこにいた中年の医師――おそらく年の頃は五十代――に対し、特に注意を向けるでもなく、セブンスターに火を点け吸いはじめる。

「ここの喫煙室、そのうち取り外されてなくなるらしいですよ」

「そうなんですか?」

 喫煙室の中は狭く、煙の匂いがすでに、そこに置かれた椅子にも壁にも何もかもに染みついているような状態であった。一応、灰皿の上空に分煙装置が取り付けられているのだが、もはやその装置自体煙を吸いすぎて機能していないようにしか、翼の目には見えなかった。

「ええ。高畑院長が半年ほど前に肺癌の手術をしましてね……かなり悪かったらしいのですが、どうにか持ちこたえるなり、院内は全面的に禁煙にしようという方針を打ちだし、喫煙室ですら撤去しようということになったのですよ。医者が患者に対し、喫煙は体に毒だ、百害あって一利なしだと言いながら、自分はスパスパ吸っているというのでは、本末転倒だというわけですな。僕と同じように仕事のストレスを煙草で解消するタイプの医局員はみんな言ってますよ。『そんな横暴な。院長はきっと、自分が煙草を吸えない苦しみを、他の医局員にも押しつけようとしているに違いない』ってね。まあ、そうなったらそうなったで、結局隠れて吸うことになるんですから、それだったら喫煙室はなくさないほうがいいんじゃないかと、僕はそんなふうに思えて仕方ないんですがねえ」

 男があまりにのんびりした口調で、なんの攻撃性もなく無防備な様子をしている気がして――翼は思わず、相手のことをまじまじと見返してしまった。顔のほうは垂れ目で、そこはかとなく微笑が漂っているといった容貌。白衣のほうはどこかよれており、中に着ている衣服もだらしないといったように見受けられる。額のほうは随分後退しているが、そちらについては風の吹くまま気の向くまま、今更増毛剤を使ったところでさしたる効果も得られまい……といったように諦めている気配が濃厚であった。

「ああ、これは失礼。僕、内科の内藤聖司といいます。結城先生のほうの自己紹介は必要ないですよ。月曜日に講堂のほうで、お経のような雁夜先生の自己紹介のあと、妙にわかりやすくて印象的なお言葉を拝聴しましたから」

 内藤のどこかにこにことした表情から察するに、この言葉の内に嫌味は含まれていないものと見ていいようである。それどころか、男の内に初対面であるにも関わらず、気を許せるような何かを感じて――翼は内藤のはす向かいにどっかと腰を下ろすことにしていた。

「術着を着ていらっしゃるところから察するに、もしかして結城先生は手術終わりですか?」

「ええ、まあ……」

 煙草を深く吸いこみ、そして煙を吐きだしながら、翼はどこか曖昧に頷く。

「執刀医は誰ですか?それとも結城先生御自身が……」

「高畑先生ですよ。院長の娘さんの」

 内藤の言葉を途中で遮り、翼は早口にそう言った。それにしても、自分で吸った煙によってというのでなしに、副流煙によって五年後には肺癌になりそうな部屋だなと、翼は危機感を強く感じる。

「ああ、<氷の女王>の冷たい手術室の洗礼を結城先生も受けられたんですな。ははは。僕は内科が専門ですが、この病院には開院以来居座ってるもんで、院内事情には色々詳しいんですよ。今こうして結城先生とお話ししてるみたいに、喫煙仲間が何人もいるので、すると自然、そういう噂話に花が咲くといいますか」

「そうなんですか。俺、あんな嫌がらせ受けたの、医者になってから初めてですね。術場にいるのは俺以外全員、女性だったんですよ。もしかしたら単なる偶然だったのかもしれませんが、誰ひとりとして仕事に関すること以外で一言も口なんか聞きゃしない。高畑先生ってのはいつもああなんですかね?それとも俺が気に入らないから、どこかに粗でも見つけてやろうと思っての布陣だったのかな。どうなんだろう……」

 自分が今言った言葉がそのまま、内藤の他の<喫煙仲間>にももたらされるだろうなどとは、翼はまったく考えない。というのも、仮に自分が今言った言葉に尾鰭がついた形で高畑医師の耳に入ったとしても――翼にとってそれはなんの痛痒も覚えないことだったからである。

「まあ、そう気にされることはありませんよ。高畑先生は誰に対してもそうだというくらいに思っておいたほうがいいです。手術室に縁遠い内科医の僕がいうのもなんですが、僕が耳にした噂によると……いや、正確にはこの情報源は江口さんからなんですがね。時に、器械出しの看護師はどなたでしたか?」

「その江口って奴。なんかこう、能面みたいに無表情な顔の、可愛げのない女だったな。見るからに高畑医師の息がかかった手先みたいな感じの女」

 他に、翼にとっては外科の同僚でもある朝比奈旭――彼女はまだ若いせいか(翼よりも年下に見える)、まだ救いようがありそうだと翼は漠然と感じていた。麻酔科医の河野麻世は、三十代後半くらいの年齢だろうか。高畑医師に対し<女医の鏡>とでも言いたげな、尊敬と賞賛と心酔の思いが、その眼差しには秘められているようであった。

「まあ、それは誤解ですよ」内藤は灰皿の上でトントンと、マイルドセブンの灰を落としながら言う。「手術の片付けのほうが終わったら彼女、ここに一服しにくると思いますから……無用な誤解をとくためにも、一度お話されてみるといいかもしれません。彼女なら僕がこう言ったと言っても怒らないでしょうから言いますが――彼女は通称、エロ口の江口と呼ばれている人なんですよ。というのも、手術室付きになる前までは、内科病棟にいて、江口さんが夜勤の時にはその手の話で盛り上がるというので、看護師たちの間では有名だったんです。あと、手術室にこもっているはずなのに、一体どこから仕入れてくるのか、院内情報にも相当精通していますね。まあ、一度話してみるとざっくばらんなとても面白い人ですよ。ただ、手術室には氷の女王がふたりもいるから……江口さんとしてはエロ口を封印し、その女王ふたりに従うしかないといった立場なんじゃないかと思います。とりあえず、今暫くの間はね」

「へえ。で、手術室のもうひとりの<氷の女王>っていうのは?」

 あんなのがもうひとりいたんじゃ男は堪らないなと思いつつ、翼は好奇心からそう聞いた。

「器械出しのスペシャリスト、花原梓さんですよ。館林先生なんて、彼女以外の看護師じゃ物足りないって言ってるくらいですね。術式についてもよく勉強していて、次に何が必要か予測して器械出ししてるっていうだけじゃなく、器具を差し出すタイミングや呼吸にも優れているという話です。残念ながら今、休暇中で結城先生がお会いになるのは先のことになりそうですが……ひとつだけ、老婆心から忠告しておきましょうか。じゃないと、同じミスに誰かが落ち込むのを、したり顔で周囲が見守る――なんていう、意地の悪いことになりかねませんから」

 ここで内藤は、くっくと、さもおかしくて堪らないと言ったように、喉を鳴らして笑った。翼も思わず、つられるように笑ってしまう。

「花原さんは凄い美人なんですよ。美人で仕事も超できるとなったら、当然男が放っておくわけがない……普通はそう考えるが自然でしょう?」

「そりゃそうでしょうね」

 この話の切り出し方からして、彼女には何か裏があるのだろうと思いつつ、翼は合いの手を打つように灰を落とした。

「ところが、ですね。花原さんは超のつく変人なんですよ。江口さんも、『自宅でモモンガを三匹飼ってることからして、まともじゃない』と以前おっしゃっていたことがありますが……確か年齢は今、三十二歳くらいだったかな。看護学校を卒業してすぐにここの病院にやってきて、最初は内科の病棟にいたんですよ。で、最初はわりと大人しいというか、新人なのに仕事のよくできるナースだってことで、周囲の人間も褒めちぎってたんですが、だんだんこう、後輩に対する注意や叱責が行きすぎるようになってきまして。何しろ彼女、その頃にはミス・パーフェクトと呼ばれるくらい、仕事のほうが完璧だったんですね。『それはちょっと言い過ぎなんじゃないか』とか、『そんなことでそんなに怒らなくても』っていうことでも、ビシビシ叱り飛ばすことで有名だったんです。たぶん、花原さんに泣かされた看護師は両手と両足の指すべてを使っても数えきれないだろうって噂ですが、何分彼女、物凄い美人なもんですから、そうなると陰口すら叩けない。あ、これは僕がそう思ってるってことじゃなくて、他の看護師に聞いたことなんですがね――もし花原さんの容姿にどこか欠点があったとすれば、『何よ、ブスのくせに!』とか『デブのくせに威張っちゃって!』とでも言えたかもしれない。でも彼女……本当に綺麗なんですよ。髪の毛なんていつもきっちり三つ編みにして、ふたつに分けていてね。たぶん、化粧なんてほとんどしてないでしょうが、肌が透けるように白くて。それでいて実際の本性がそれなんです。で、内科の看護師長がとうとう花原さんに手を焼いて、総師長に泣きついたんです。『何卒、花原の人事異動を』とね。そこで彼女、今度は外科に回されました。新しい科なら、覚えることも色々あって、少しは大人しくなるかもしれない、総師長はそう期待してたらしいです。ところが花原さんはすぐにまた仕事を覚え、同じことが繰り返された。外科の看護師長は『もう自分の手には負えない』と言って、総師長に泣きついたそうです。内科の時もそうだったらしいですが、彼女が看護師長なのか私が看護師長なのかわからないくらいだ、と……で、次に花原さんが回されたのが脳外科でした。脳外は意識不明の患者とか植物人間の方などが多いでしょう?介護的にも現場として相当キツイ場所です。僕の親しい看護師などは、すべての科の中でおそらく体力的に一番キツイのが脳外だとすら言っていたことがあります。ところが……まあ、これ以上のことは言う必要、ないかもしれませんね」

 内藤は煙草を一本吸いきると、腕時計を眺めた。まるでお約束のような高級時計、ロレックスの秒針を。

 翼はまだ内藤の話の続きを聞いていたかったので、話を短縮するため、まとめの言葉を合いの手として入れてみる。

「つまり、花原さんという人は物凄い美人で、今は休暇をとっていて手術室にはいないにしても、彼女が休暇明けに術場に戻ってきたら――その美貌に男は惑わされてはいけないということですか?でも、内藤さんの最初のほうの話でいくと……周囲はそのことを知らない新人医師が花原さんに惚れるのを待ち、これまでにも笑い者にしたことがあるといったように思えるのは、俺の気のせいですかね?」

「流石、ご明察」

 内藤はまだ少し時間があるのだろうか。もう一本、煙草に火を点けて続けた。

「脳外でも相も変わらずのミス・パーフェクトぶりを発揮した花原さんは、最後には手術室という名の監獄送りとなりました。というのも、基本的に手術室というのは、あまり長く看護師がいつかない場所なんですよ。これは総師長の宮原さんに聞いた話なんですが……ちょうど脳外の看護師長が悲鳴を上げた頃、手術室でベテランと言われていた看護師がひとり、辞めることになったそうです。そしてこの時、総師長の脳裏にある名案が思い浮かんだのですよ。流石のミス・パーフェクトも、右も左もわからぬ手術室では自分のこれまでの厳しい行いを悔いるであろうと。ですが、花原さんはまたもすぐにおそろしい早さで仕事をのみこみ、今では高畑先生が『彼女は看護師でなく医師になるべきだった』と言うくらいの見事さを誇っています。いやまあ、ここまでならね……『花原さんって変わってるけど、面白い人でもあるのかな』って遠目に見て思うって程度の話です。でも彼女、手術が終わったあとなんかに、どこかうっとりした顔つきでぼんやりしてることがあるんだとか。で、手術室にタダでジュースの飲める自販機があるんですが、そこは医師の休憩室であると同時に、看護師たちも使ったりする場所なんですよ。ある時、何も知らない転勤したての外科医が――花原さんがうっとりして紅茶を飲んでる姿を見かけたそうです。彼、その時に思ったんだそうですよ。自分が手術してる時に物凄い目力で自分のほうを見てきたし、彼女はもしかして自分に気があるんじゃないかって……まあ、これは僕がこの場所で直に彼から聞いた話なんですがね」

 くっくと喉を鳴らして笑いながら、まるでリズムにのるように、トントンと内藤は灰皿に灰を揺り落とす。

「ははあ。それで、見事玉砕したってことですか?」

 気の毒に、と翼はその医師に対し、心から同情したくなった。自分だって、ついうっかり何かの拍子に羽生唯に手を出していたら――その後その噂は飛び火して、ただキスしただけのことが、空きベッドに押し倒したというくらいに膨らんでいたことだろう。

「ええ。それもね……ただ振られたってだけじゃないんです。その休憩室で、花原さんが座ってる横に腰かけてたら、彼、マスクをとった彼女があんまり綺麗だったんで、思わずぼーっとなっちゃったんですね。それで思わずキスしようとしたら、『何するの、この破廉恥男っ!!ちょっと誰か来て、助けて!!』って、花原さん、ヒステリーを起こして大騒ぎしたんだそうです。しかも、その外科医の先生のほっぺたに爪でがっつり三本線がつくくらい引っ掻いてやったもんだから……いやあ、その傷が治るまでの間、医局では彼、いい晒し者でしたよ。総師長の宮原さんなんて、あの人も底意地が悪いもんだから、「あら、△△先生。その傷、どうなさいましたの?」なんて、知ってるくせにわざわざ聞いてるくらいでしたね。「猫に引っ掻かれまして」、「まああ、それは随分大きな猫だったんでしょうねえ」……結城先生も、同じ轍を踏みたくなければ、花原さんには気をつけたほうがいいですよ、というのが僕の忠告です」

「破廉恥って、そんな言葉を実際に口に出して使う人がいるんですね。というか、その外科医の先生は今どうされてるんですか?」

 なんとためになる教訓話だろうと思い、翼は内藤と同じように喉をくっくと鳴らして笑わずにはいられなかった。

「お辞めになられましたよ。まあ、理由はつまらないというかくだらないことのように思えるかもしれませんが、僕には彼の気持ちもわかるような気がします。まわりの人間が終始訳知り顔にニヤニヤしてるとあっては、いたたまれなかったでしょうし……僕も、一応止めたんですがね。人の噂も七十五日と言って。でも彼、つきあっている女性との結婚を早めることにして、何かそうした理由によって退職したんです。花原さんは終始一貫して『自分は被害者だ』って態度でしたから……その外科医の先生がお辞めになったとか、それ以前につきあっている女性がいるにも関わらずそうした行為に及んだと知っても、微動だにしなかったようです。もっとも、周囲では気を使って、彼が辞めるまでの間、術場でふたりが顔を合わせないよう気を配ったという話ですが」

「花原さんて、もしかして男に免疫がないんですかね?いくらなんでもそこまでパニック起こすっていうのは、行きすぎっていう気がしますし……あまりに完璧に仕事が出来るから周囲に当たり散らすっていうのも、男が出来れば静まるんじゃねえの?なんて思うのは、少し下世話な考え方なんですかね」

「いや、たぶん結構当たってますよ」

 内藤はまた、手首の時計を確認しながら言った。表情に、まだこのまま話をしていたいのだが、といったような微妙な気配が滲む。

「総師長も、他の看護師に対してはそんなこと思いもしないけど、花原さんのことだけはどうにかそういう形で片付けたいってよく言ってますから。そういう形っていうのはようするに、<結婚>っていうことですけどね。以前、病院の忘年会で周囲にいた医師たちに言って回ったこともあったそうですよ……誰か花原と結婚しろ、自分が無理だと思うなら、花原がいいと思うような知り合いの医者を紹介しろって。いやあ、考えただけでも恐ろしいですよ。あんな美人が和服姿で見合いの現場に現れたら……僕だったら、妻と離婚してでも彼女と結婚しようと思うかもしれません。それがすべての不幸のはじまりであるとも知らずに。なんにしても、手術場の人たちはなかなか面白い人が多いようですよ。もっとも僕は、人から伝え聞いて知ってるといった程度ではあるんですがね」

 内藤は立ち上がると、「そろそろ行かないと」と言って、灰皿に煙草をギュッと押しつけ、喫煙室から出ていった。

(なるほどねえ)

 翼はしみじみした思いで、足を組んだ姿勢のまま、前のめりになって短くなった煙草を捨てた。(そろそろ腹も減ったし)と思い、椅子から立ち上がり、食堂へ行こうと思ったその矢先――廊下の向こうから、先ほど内藤の口から上ったばかりの、エロ口の江口こと、江口悦子がやって来る姿が見える。

 内藤の勧めどおり、今ここで彼女とも腹を割って話すべきか、それともそれはまた別の機会に伸ばしたほうがいいのか……そう翼が迷っているうちに、バレー選手のようにすらりと背の高い江口は、大股に歩いて喫煙室にすぐ到着していた。

 江口悦子は翼の姿になど目もくれず、まるで薬切れの麻薬患者でもあるかのように、ポケットから煙草を出し、場末のホステスのような手つきで火を点けていた。椅子の背もたれに腕をかけた姿勢で、ふうっと煙草の煙を吹きだす様は、まるで看護師の制服を着た蓮っ葉な娼婦であるようにさえ見える。

「さっきそこで内藤先生とすれ違ったってことは、きっと先生も色々、すでにお聞き及びのことでしょうね」

「エロ話が好きな江口さん、でしたっけ?」

 白衣のポケットから時計をだして眺め、こうなったら時間ギリギリ、最後の十五分で昼飯をかっ食らって午後からの内視鏡手術をこなそうと、翼はこの時点で心に決める。

「ま、今は手術室付きで、夜勤はありませんけどね。でも今でも時々、看護師の何人かには言われますよ。江口さんのエロ話が聞けなくて残念だから、是非とも病棟に復帰してください、みたいにね。でもわたし、手術室でたら夜勤のない外来に回してくれって総師長に言ってあるんですよ。というのも、うちのチビが今五歳なんで、あと二年手術室にいるかわり、息子が小学校に上がったら外来勤務にしてくれって言ってあるんですよね。その条件でいいなら、あの変人で有名な花原さんの下について、いくらでもうまく立ち回りますからって。花原さんの話はすでにお聞き及びでしょう?っていうか、内藤先生、あの人の有名エピソードが本当に大好きなんですよ。だから結城先生にしないはずがないと思って」

「ああ、確かに聞いたよ。でも俺が今あんたに聞きたいのは、少し別のことなんだけど。というのも、俺ももうあんまり時間がないんで、手短に聞きたいんだが……高畑先生っていうのは、いつもああなのか?」

「ああっていうのは?」

 自分が話したい話題と、翼からの要求が微妙に噛み合わなかったのだろう。江口悦子は少しばかり眉根を曇らせると、どこか不機嫌そうにセーラムライトの灰を落としている。

「つまり、なんていうかさ……」

「ああ、いいですよ、説明しなくて。高畑先生は確かにいつもああです。わたしがここで煙草を吸って、たまたま偶然そこの廊下で高畑先生とすれ違ったとするでしょう。そしたら、「喫煙もほどほどにね」って通りすがりに言うっていうような、あの人はそんな感じの人です。で、術場ではいつもああですよ。今日は結城先生がいたからどうこうとかっていうことは、まるで関係なし。結城先生以外全員が女性だったのも、嫌がらせではなくただの偶然です。ほら、何しろ隣の隣の手術室では、鳴り物入りのスターさんがメスを握るってことで、人員の調整がうまくつかなくて。一応わたし、オペ室では器械出しのナンバーツーなんですけど、雁夜先生のところへはナンバースリーの園田を送っておきました。わたしの趣味として、結城先生のほうが顔立ちや雰囲気含め、好みだなと思ったので。ま、雁夜先生も格好いいですけどね、でもバレー選手並みに背の高いわたしとじゃ、まるでかぼちゃワインだし」

 江口は溜息を着くように煙を吐きだし、それから初めて翼が好感を持てるような笑顔で、にっこりと笑った。

「もしこんな話、花原さんが聞いたとしたら、実際大目玉なんですけどね。そんな不謹慎な理由で仕事をしようとするだなんて……とか、真顔で説いてきますから、あの人。高畑先生が執刀医で、器械出しがミス・パーフェクトのオペは最悪だって、外科の先生たちはみんな言ってます。なんていうんでしょう、自分は何も悪いことしてないし、忠実に職務をこなしているだけなのに――何かこう、ギリギリと鳩尾が圧迫されるような感覚に陥るんだとか。高畑先生の言によると、どんな簡単な手術でも私語は慎むべきってことらしいです。というのも、自分はこれまで手術に関係のない無駄話――たとえば先週ゴルフのコンペでスコアがどうだったとか、家で飼っているペットがどうたらいう自慢話――を黙って聞いてきたが、果たして自分が患者だったら、そんな無駄話とともに手術されたいだろうか。答えは断然ノーである……全身麻酔の意識のない患者を手術する際には、相手が目を覚ましているものと仮定して、必要なことだけ話すのが望ましい……というご立派なお考えのようです。わたし、手術室に配属されたのは一年前ですけど、お陰で一か月で速攻三キロ痩せましたね。その後、ドカ食いしてリバウンドしちゃいましたけど」

 とはいえ、翼の目に江口悦子の体は、極めて均整がとれているように映っていた。少しばかり太めのように思われなくもないが、制服の下から伸びる足はしなやかで、何よりも胸が大きかった。顔のほうも端正で整っており、どこか男っぽい嫌いはあるものの――それはまるで宝塚の男優のような、そうした妙にきっぱりとした、男らしい整い方なのだった。

「そうか。てっきり俺は、これは自分が何かしたことに対する罰ゲームなんだろうなと思ってたんだが、まあ誰にでもそうだと聞いて、今すごく安心したよ」

「ええ。それより先生、早くお食事に行ったほうがいいんじゃないですか?わたし得意のエロ話なら、そのうち機会があった時にでも喜んでお聞かせしますから」

「残念だな。午後から内視鏡の手術さえなければ――もう三十分くらいずっとここに座ってるのに」

「まあ、わたしとしては先生のような力強い同志がいらっしゃってくれるというだけで、大変ありがたいですけどね。外科医には色んなタイプの先生がいるけれど、チームを総体的に導ける底力のあるのは、わたしの中ではダントツで茅野先生なんで。で、その先生の薫陶を受けたイケメンの先生が来るって聞いた時から、すごく楽しみにしてたんですよ。まあ、今の短い会話だけで、自分の期待が裏切られなかったと確信できて、本当に良かったです」

 翼にしても、良き喫煙仲間が出来たことを、心から喜んでいた。これから手術室のことで何か知りたいと思うことがあれば、江口悦子を捕まえればいいのだろうと感じる。それから外科病棟の主任補佐、瑞島藍子――外科の看護師たちの医師に対する評価・噂話を知りたいと思ったら、そちらを当たればいいのだろう。

 翼は「俺が執刀医の時は、何卒お手柔らかに」と言い残すと、妙に貫禄のある威容で煙草を吸う江口に対し、軽く会釈して喫煙室をあとにした。



 >>続く……。





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