天使の図書館ブログ

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手負いの獣-6-

2013-03-01 | 創作ノート


 上の画像は、月間レジデント2012年11月号です。緩和ケアの特集号だったので、参考のために読んでみました(^^;)

 あと、↓の文章の中に緩和ケアの説明みたいのがあるんですけど、わたしの書き方だといまいち微妙かしらと思ったので、一応補足しておきたいと思います。


 >>緩和ケアは、生命を脅かす疾患による問題に直面する患者とその家族に対して、痛みやその他の身体的問題、心理社会的問題、スピリチュアルな問題を早期に発見し、的確なアセスメントと対処を行うことによって、苦しみを予防し、和らげることで、QOL(生活の質)を改善するアプローチである。
(世界保健機構2002)


 とあります。

 自分的に、最初にこうした定義を読んで驚いたのは、スピリチュアルな問題っていうことが明文化されてることだったでしょうか(^^;)

 外国の方にとってはたぶん、スピリチュアルと聞いても、日本人ほどに「アイツはイッてるな☆」という印象ではなく、もっと身近な、本当は個々人が真剣に考えるべき問題といった感じだと思うんですよね。

 このスピリチュアルっていう言葉の中には、宗教・哲学・心・霊・魂といったことが含まれてると思うんですけど、もうすぐ亡くなるという直前、あるいはその少し前くらいになって、初めてそうしたものを本気で信じる方は多いとお聞きします。

 たとえば、お元気だった頃には「あの人は絶対そういうものを信じないだろう」といったようにしか見えない方が、突然涙ながらに信じるようになるといったことが起きるというか。

 これはどうも代替医療についても同じことが言えるらしく、「ガンに効く」という触れ込みのものを、多少高額でも買ってしまうということがよくあるみたいなんですよね。元気だった頃には、そうした系統のものは絶対うさんくさいと思っていたのに、藁にもすがる思いであらゆる効くといわれる薬剤や療法に手を出してしまったり。

 そういう意味で、以前に紹介したアンドルー・ワイルの<人はなぜ治るのか>の本の紹介の仕方はまずかったかな~という気もするんですけど、本を読んでいただければ「そういう意味じゃない」っていうことはわかっていただけると思うので、特に訂正はしないでおきますね(^^;)

 それと、↑の雑誌の中で、>>「ターミナルケア」は、1950年代の欧米から始まった「終着駅」という意味を含む言葉である。1990年代からは徐々に「エンドオブライフケア」に置き換わりつつある。

 とあったんですけど、他の本にもそうしたことが書いてあった記憶があります。

 ウィキの>>緩和医療の項、歴史のところを見ると、


 >>現在、ターミナルケアを行う施設をホスピスと言うが、ホスピスとは元来中性ヨーロッパで旅の巡礼者を宿泊させる修道院や小さな教会を指していた。こうした修道院は、戦時中には、傷ついた人々にとっての安息の診療所として機能し、原則的に、そこではいかなる宗派・信条をも問われなかったという。たとえば、「がんの聖人」として知られる聖ペレグリンが属した修道会では、修道院に隣接するハーブ園の薬草から軟膏を製造し、戦傷者の傷口に塗布したという事実が伝わっている。


 とあるんですけど、わたしが昔読んだ本の中には、ホスピス=ホスピタリティ(心からのおもてなし)ということだよ、といったように書いてあった記憶があります。つまり、そうした気持ちを持って患者さんに接することが大切、ということですよね。

 まあ、このあたりのことについては色々書きたいことがあったものの、残念ながら小説中ではそうした要素についてはそれほど深く掘り下げられてないかなって思います

 というのも、殺人事件が起きたら、あとは犯人探しがある程度メインになってしまうからなんですけど(^^;)

 それではまた~!!



       手負いの獣-6-

 ぎゅるるる~と腹の音が鳴り、翼は走って食堂へ向かうと、そこで急いでごはんをかきこみ、サーモンのタルタルソースがメインのトレイを十分とかからず平らげた。

「エビちゃん、ごっそーさん!!」

「あいよ。先生もお昼から、がんばってね!」

 この時翼は、きのう廊下でぶつかりそうになった女医に、「先生の隣、いいですか?」と言われたが、食事をするのに忙しく無視を通していた。そのあともさらに何か話しかけられそうになったが、「悪いけど俺、急いでるんで」と言って徹底して取り合わない。

 瑞島藍子と江口悦子――自分の味方になってくれそうなこれらふたりの女性に対しては、翼は特にどうとも思わない。警戒信号を青・黄・赤の三段階で表示したとすれば、彼女たちは今の翼にとって極めて青に近い黄色といった存在だろう。ところが、胸に<眼科医・諏訪>と刺繍のされた白衣を着た女性に対しては、赤及び極めて赤に近い黄色というランプが、脳裏で繰り返し回転する。

(男なんか、俺じゃなくても他にいくらでもいんだろ)

 そんなことを思いつつ、眼科医・諏訪晶子の横を翼は黙って通りすぎていった。遅めの昼食をとっている医師は多く、その場に十名ほどもまだ残っていたが、何故彼らが一様に驚いた目で自分を見てくるのかが、翼にはさっぱりわからなかった。

(そうか。医局内のよくわからないことはこれから、さっきの内藤さんに聞くことにしよう。茅野さんはそこらへんの院内情報については極めて疎そうだからな……『眼科の諏訪ってどんな女?』なんて聞いても、他科の医師、それも女性のことなんかさっぱりわからんよ、としか言わないだろうし。さあてっと、なんにしても午後からの内視鏡手術ナンバーワンは大谷さんだっけ。『顔はオトコ前だが腕はショボイ』なんて、ネットに書かれないためにも頑張るとすっか)

 ――第三手術室では最悪の時間を過ごした翼ではあったが、午後からの内視鏡手術ではすべてがうまくいった。内視鏡的粘膜下層剥離術(ESD)により、定期検診で早期の胃がんが見つかったという患者三名を施術し、病変部をエンドナイフで切除すると、病理検査へと回す。

 そして三人目の患者の内視鏡手術が終了すると同時に、少しばかり自分に休憩時間を許すこととして、医局にではなくあえて七階の瑞島看護師お気に入りの休憩場所にまで足を伸ばすことにしたのである。

 確率的に瑞島藍子がそこにいる可能性は低いと思ったが(何分病棟勤務の看護師は忙しいので)、もしいたとしたら「イケメンドクターコンテストとはなんぞや?」ということを彼女に聞こうと思っていたのである。

 果たして、半透明の自動ドアをプッシュしたのち、サーモンピンクのレザーソファの上には、イチゴみるくジュースを飲んでいる瑞島主任補佐の姿があった。

「おまえ、本当に働いてんのか?もしかして主任補佐ってのは、他の看護師たちに面倒な仕事一切を押しつけ、ただ看護師長や主任のご機嫌をとるだけの役だとか、言わないよな?」

「そんなことありませんよう、失敬な!!」

 翼は疲労回復のために、オロナミンCを選んで自販機のボタンを押した。そしてそれを一気飲みしながら、瑞島看護師の隣に腰かける。

「今日は午後から入浴介助の仕事を真面目にこなしてたんですから。というのもねー、みんな眉を曇らせて『めんどいから行きたくね』って顔してるもんだから、結局ジャンケンすることになって。『そこまでするんだったら、このオイラが行ってやるよ!』みたいな流れになったんスよ。で、風呂場出入りしてると喉が渇くでしょ。だから今、イチゴみるく成分でお肌をピチピチに回復してたとこ」

 ずずーっとイチゴみるくオ・レを飲み干す瑞島の姿を眺め、翼は微かに笑った。確かに彼女が今言ったとおりなのだろう、瑞島看護師のポニーテールは少しばかり濡れており、肌のほうも風呂上がりのそれのように若干上気して見えたからだ。

「ところでさ。おまえ、イケメンドクターコンテストって知ってる?」

「おおう!!随分情報が早いっスね、旦那。面白いから、先生がそんなものが院内であると勘づくまでは、意地悪く黙っておこうと思ったのに。ちなみにわたしこそがその、イケメンドクターコンテストの発案者にして実行委員長となっております。パンパカパーン!!」

 瑞島が男なら、翼は間違いなく『何がパンパカパーンだ』と言って、彼女の広いオデコを平手で殴っていたことだろう。だが今はむしろ、瑞島が主催者ということが少しばかり有難いような気さえする。もし他の看護師に今と同じことを聞いたら、「結城先生、もしかして自分が一番になれるとでも思ってんのかしら?」だの、「結城先生はやっぱりナルシストキャラで決定!」とでも思われていたに違いない。

「で、それってどうやって決めるんだ?というより、そんなことをして院内に軋轢が生まれたりしないのか?もっというなら、これはあくまでも仮にっていうことだが……一位になった医師が二位の医師から無意味に妬みを買うとか、そんなことになったりしないんだろうな?」

「あっはあ。もしかして先生、自分が一位になったらどうしようとでも思ってます?いえいえ、どうか何卒ご安心を。イケメンドクターコンテストの主旨は、極めて公平なもんです。年齢・容姿、未婚・既婚関係なく、医師の総合力として考えた場合、誰が魅力的だと思いますかっていう看護師たちの投票で決まるものなんですよ。実をいうとこれ、わたしが毎年裏でこっそりやってたのが二年前に総師長にバレまして……で、そういうことなら表立ってやったほうがいいんじゃないのっていう有難いお言葉を頂戴したわけなんです。まあ、先生たちにとっちゃ、実に迷惑な話ですよねえ。でも、少しは人間関係の潤滑油として役立ってる部分もあるんですよ。この時期だけ、妙にどの科の先生方も看護師に対して優しくなるとか」

 瑞島は背もたれに両手をかけたまま、さもおかしげにくすくすと笑っている。

「院内の看護師だけが投票できるのか?入院してる患者とかはまるで関係なく?」

「ええ。最初は院内のあちこちに投票箱を設置して、患者さんにも投票してもらおうかと思ったんですけどね。選んだ人と選んだ理由の両方を記載してもらう形にしようかと。そしたら、こんな時に優しくしてもらっただの、□□先生には本当に良くしてもらったとかいう、美しい話がたくさん聞けそうじゃないですか。そしたらK病院のイメージアップにも繋がっていいかな~と思ったりもしたんですけど、何分あたしたち忙しいんで。そんなことにまでとても手が回らないっていう結論に達すると、あくまでも看護師だけで投票してその結果をK病院通信に載せようっていうことになったんです」

「なるほどなあ」

 気の重い溜息を着くと、翼は飲み干したオロナミンCを狙いを定めて小さな穴に投げた。残念ながらガコッという音がしたのち、瓶が床にくるくると転がってしまう。

「惜っしい!!なんスか、先生。ナンバーワンの地位はオレが頂きだぜ!とか思ってるのかと思いきや、全然気がのってないみたいですね」

「そりゃそうだろ」

 翼は面倒くせえと思いつつ、瓶を拾いあげるとゴミ箱にガチャリと捨てた。壁にかかった時計を見ると、もうすぐ五時であった。

「おまえ、そろそろ申し送りの時間だろ?ここは五時半交代だから、早ければもうはじまってるんじゃないのか?」

「いえ、今日は永井主任が見てくれてるんで、面倒な仕事を買ってでたあたしに対しては、代わりの休憩が与えられてるんですよ。うち、そこらへんのコネクトは、すごく動きが滑らかなんです。先生はさっき、あたしが仕事サボってるって言ったけど、結構大変なんスよね、看護師の中間管理職って。その点、うちはまだ楽なほうかなあ。他の科の主任や主任補佐の話を聞く限り……ひどかったら看護師長って、事務仕事だけやってあとは全然現場に出てこないっていう人もいますからね。その点、うちの志津香さんは人が出来てていまだに点滴交換とか採血を手伝ってくれるし……」

「シヅカさん?」

 自分の上司を名前で呼んでいるのが解せなくて、翼はそう聞き返す。

「そう。高橋志津香。もちろん普段はあたしも看護師長ってちゃんと呼んでますよ。うちの総師長ってすべての科の看護師長の推薦で決まるんですけど、たぶん宮原総師長が退職したら、次の総師長は志津香さんになるんじゃないかってみんな言ってます。ま、身びいきっていうのもあるんですけど、先生、『実るほど頭を垂れる稲穂かな』っていう言葉、知ってます?」

「ああ。人格が出来てて徳のある人ほど、他人に対して謙虚だっていう意味だろ?」

「そうそう。志津香さんはそれを地でいってる感じの人だから。先生、ツイてると思いますよ。わたしもきのうの業務報告――っていうか、申し送りが終わったら、主任とふたりで看護師長に毎日報告に行くんですけど、なんでしたっけ?クマちゃん先生が志津香さんと主任に『問題のある奴だけど、よろしくご指導のほどを』って言って、頭を下げたんですってね。あたしそれ、知らなかったんですけど、志津香さんは『出しゃばらない程度に、結城先生を助けておあげなさい。多少の我が儘は大目に見て、くだらない噂の種を無闇に飛ばさないように』っておっしゃってましたよ。志津香さんてほんと、『この人になら同情されたり哀れまれたりしてもいっかあ』って感じの人なんで、先生もまだ会ってないんだったら、一度きちんと挨拶しといたほうがいいです」

「ああ、わかった」

 瑞島看護師の話を総合して思うに――外科病棟というのはなかなか、結束力があってよくまとまっているのではないか、という気が翼はした。救急病棟にいた頃というのは、相手が気に入ろうがどうだろうが、否応なく力を結集せざるをえない、でないとミスを招く……といった部分もあったのだが、ようするにK病院の外科病棟では、瑞島看護師や永井主任がそのあたりのバランス調整をうまく行っているということなのだろう。

「さてっと、あたしもマジでそろそろ行かなくちゃ。先生、あたしはK病院のイケメンドクターコンテスト――略してKIDCの実行委員長ですけど、一応委員長にも清き一票が与えられてるんで、あたしの一票が欲しかったら、そのうち賄賂でもくださいね。それじゃあ」

 翼もまた、瑞島看護師のあとに続くようにして、休憩室から出ていこうとすると、不意にくるりと瑞島が振り返る。

「そういえば忘れてましたけど、結城先生、医療図書室の田中陽子ちゃん知ってます?」

「ああ、もちろん。だって、医局の案内は彼女の係で、それでいったら医師は全員、当然彼女を知ってるってことになる」

 何故かここで、瑞島は意味ありげにくふふ、などと笑っている。

「彼女ねえ、ああ見えて結構先生たちにモテもてなんですよ。あたしと陽子ちゃん、実はブロ友(ブログ友達)で、イチゴみるく男子同盟っていう共同サイトも持ってるんですけど、勤務後に携帯で色々しゃべったりとか、休みの日に遊んだりしてるんで、すごく仲いいんです。そんでもって、名前は言えないけど、陽子ちゃんに言い寄ってるドクターがいて、彼女少し困ってるみたいなんですよ。で、良かったら先生に白馬のナイト役でもやってもらって、さり気なく彼らを追っ払って欲しいんスけど、先生はそういうウザい役、嫌ですか?」

「ああ。ようするに『このふたりつきあってんじゃねえの?』っていうオーラをその先生たちの前で出せってことだよな?でもそういうの、あんまり作為的にやると弊害もあるぜ。あの子はA医師にもB医師にもどっちつかずの態度だったのに、新たに現れたC医師とはべったりしてる――そんなことなら最初から気をもたせるような態度をとるな!とかさ。俺にはよくわからんけど」

「ふふっ。先生は白黒はっきりしてそうですもんね。でも恋愛っていうのは大抵、最初はグレーゾーンじゃないですか。相手がこっちのちょっとしたことに反応するのを見て、『もしかしたら……』と思って妄想を膨らませてたら、実は彼氏いたなんてよくある話ですし。わたしが陽子ちゃんの話を聞いてて思うに、先生たちっていうのは結構純粋っていうか純情なんですよね。でもわたしに言わせればそんなもの、ただのオトリですよ。陽子ちゃんは先生たちのプライドを傷つけないように、遠回りにその気はないって伝えるのに苦慮してるみたいなんで、色々修羅場を知ってそうな結城先生なら、そのへんうまく処理してもらえるかな~なんて……」

「瑞島の中で、俺のイメージってのはどうなってんだろうな、まったく。なんにしても俺、医局ではなるべく無駄に敵を作りたくねえの。なんでかっていうとな、茅野先生に余計な迷惑かけたくないからな。事が俺ひとりだけの問題なら、あの司書さんの恋人役でもなんでも、内心『面白え』と思ってやるんだけどさ、男の嫉妬ってのは、意外に侮れねえから。プライドと見栄の塊みたいな男のそれに、ほんの0.1ミリだけ傷を作ってみ。向こうは烈火の如く怒って、そのうち手に負えなくなるから」

「そっかあ。残念だなあ。せっかくいい案だと思ったのに」

 チェッ、などとわざとらしく舌打ちしている瑞島と、階段の踊り場で別れたのち――彼女にはそう言ったものの、翼はこっそり医療図書室を覗きにいくことにした。時刻は五時二十分のことで、事務員たちの勤務終了時刻が五時であることを思えば、田中陽子はすでに退勤していておかしくはない。

 翼が白衣の両ポケットに手を入れたまま、ひょいっと図書室のカウンターを覗きこもうとした時――コートとバッグを手にした陽子と、翼は偶然にも鉢合わせていた。

「これから帰り?」

「ええ、まあ……」

「じゃあ、ちょっとつきあってくんないかな。例の原稿も手渡したいし」

「えっと……」

 陽子は戸惑うあまり、顔を下に向けて俯いた。これじゃあ男のほうでも、もう一押しすれば必ず誘いにのってくると、誤解してもおかしくないだろうと翼は思う。

「俺も着替えなきゃなんないから、こっち来てくれる?嫌だったら原稿だけ持って帰って構わないから」

「はあ……」

 翼はスキップしながら誰もいない医局の廊下を歩き、向こうから医師の姿を認めると、その浮かれたスキップをやめ、急に真顔になって歩きだす。そのギャップが妙におかしくて、陽子は思わず笑ってしまった。

「俺さ、瑞島からすげえ面白いこと聞いたわけ。で、さらなる詳しい内容について、陽子ちゃんから直に事情聴取しようと思ってさ。もちろん秘密は絶対に守る……ってわけで、ちょっとここで待ってておくんなまし」

 茅野医師はまだ在室でなかったので、翼は部屋の鍵を開けると、すぐに着替えて身仕度し、アディダスのカバンを肩からかけ、部屋を出た。

「俺っちも、臨床研究の勉強会なんつーのがあって、資料作りとか色々あんだけどさ、そんなのは適当に家でこなすとして……あんた、なんか食いたいものないか?こっちの勝手につきあわせてるわけだから、なんでも奢ってやるよ」

「べつに、いいです。結城先生のお好きなもので」

 手術室を左手に見ながら、廊下の最奥にあるエレベーターへ辿り着くまでの間、勤務を終えたらしい数人の医師と翼はすれ違う。特に「お疲れさん」といった労いの言葉はなく、会釈と目礼のみによって挨拶をすませる。そして翼はエレベーターホールのところで、「カモカモカモン!!」などと何度も言いながら、スイッチを連打していた。

「チッ。十三階まで昇っていきやがった」

 翼が本気で悔しそうにしている姿を見て、陽子がまたくすりと笑う。

「先生って、随分せっかちさんなんですね」

「ああ。ついこの間も友達に言われたよ。この間なんて言っても、もう三週間くらい前になるかなあ。ホテルのエレベーターの奴がなかなか来やがらなくて、イライラするのなんの」

「大丈夫ですよ、エレベーターは逃げたりしませんから」

 陽子の答えを聞き、翼は思わず彼女のほうを振り返る。陽子はといえば、ただきょとんとして首を傾げているのみだった。

(この子は一体、何キャラなんだろうな。ゆるふわキャラってわりには、堅実で真面目そーだし、かといって電波系とか不思議ちゃんってわけでもないよな。しかも、『医者に口説かれたりしねーの?』みたいに言った俺に対し、『口説かれませんよ』と即座にガードするだけの賢さもあり……)

 翼がそんなことを思っていると、エレベーターがようやく下りてきた。なんの根拠もなく無人だろうと予想していた翼は、そこから雁夜医師のまったく乱れていないオールバックの姿が現れるのを見て、若干驚く。エレベーターランプの流れはスムーズで、十三階へ上がったあとは真っ直ぐ六階まで下りてきたはずだからだ。

 ちなみに、脳外科病棟は十一階にある。

「あの先生、十三階なんかに、一体なんの用があったのかな」

「十三階は特別病棟です。十二室すべて特別室になっていて、時々芸能人の方がお忍びで入院されることもあるとか……あとは、半分以上がまあ老人ホームみたいになってるんですよね。なんとか会社の社長とか有名会社の重役の方が、職を引退するかしないかって頃に脳梗塞で倒れて――そうした方が最高の医療をお金で買ってお世話を受けてるって話です。あんまり大きな声じゃ言えないんですけど、別名<気難し屋病棟>と呼ばれているとか」

「ははあ。まあそりゃあ、トップ企業の上役とか、そうした一筋縄じゃいかない人間が半身付随になった場合……色々大変だろうな。健康ってのはどんなに金を積んでも買えるってものじゃないだろうし、体が思ったとおりにならなくてヒスったり、周囲の人間に八つ当たりしたりすんのかな。ようするに、雁夜先生はそうした方々のお守りもしてるってわけだ」

「先生だって、人ごとじゃありませんよ」

 陽子が何故か真顔になって言う。エレベーターが一階に到着した瞬間のことだった。

「そうした一筋縄じゃいかないタヌキじいさんたちが、体のどっかに癌をこさえたりしたらどうなりますか?外科の結城先生に執刀をお願いしよう、あの先生なら安心だ、失敗したら全部結城先生に責任をおんぶしてもらって解雇しよう……なんて、ありえなくもないですよ。もっと言うなら、手術が成功しても、そのあとあのおじいさんたちが「う~ん、う~ん。死ぬ~。俺の体はどうなってんだ、結城先生を呼べ~!」なんて言ったら、このクソ忙しいのにっていう時でも、院長命令で十三階に行かされたりするんですから」

「ははは。俺だったら、『うっせえこのクソジジイども。この程度でガタガタ騒いでんじゃねえ』って、一喝してやるよ。なんにしても、そういうところからうまく採算をとって、この病院は運営されてるってわけだ」

 職員用の玄関のところで靴を履き替えると、翼はレディファーストとばかり、ドアを開けて陽子のことを先に通してやる。

「あんた、いつも通勤はどうしてんの?」

「わたしはバス通です。<K病院前>ってバス亭がすぐ近くにあるものですから、いつもは五時三十分くらいにここを通るバスで帰るんです」

「まあなあ。医者が定時でピタッと上がれるなんてことは滅多にないから……あんたさ、具体的にどういうふうに誘われてんの?電話の内線とか、それとも本当は読まない本を借りるついでに、くどくどとカウンターで長話されるとか?」

「あ、あのっ……」

 陽子は突然忙しなさそうに周囲をきょろきょろ見渡し、誰も人がいないことを確認していた。

「そういう話は、病院から五百メートルくらい離れたところでしていただけませんか?じゃないとわたしも、落ち着かないので……」

「オッケー、陽子ちゃん。なんにしても俺、駐車場から車回してくるから、ここで待っててちょ」

(『待っててちょ?』昨今あまり聞かない言葉だわ)などと思いつつも、ちゃんづけて呼ばれたことが嬉しくもあり、陽子は「結城先生って意外に親父くさい……」と思うでもなく、微かに頬を赤らめながら、翼が戻ってくるのを待っていた。

 翼はこの近辺のフード情報についてはまったくもって疎かったので、たまたま通りかかったロイヤルホストの前で車を止めると、一番奥まった席の喫煙席に直行していた。

「あんた、煙草の匂いとか駄目な人?」

「いえ、結構平気です」

 ロースステーキセットとシーフードドリアを注文したのち、翼は煙草に火を点けて吸いはじめた。どうやら田中陽子は「医者のくせにロイホだなんて信じらんないっ!」といったタイプの女性ではないらしく――どこか申し訳なさそうに静々と水を飲むばかりである。

「あんたさ、俺の臨床研究の協力してくんないかな」

「臨床研究と申しますと?」

「まあ、俺なりの恋愛臨床研究ってことなんだけど……つい最近まで好きだった女がさ、割合あんたみたいに堅め系の子だったわけ。で、俺ってばその真逆のほうの女としかつきあったことがないわけだ。今にして思い返してみると、「だからまずかったのかな~」と思う部分もあり、あんたみたいな女はどういうことに興味あんのかなとか、少し教えてほしいと思って。そのかわり、あんたが迷惑してるとかいうドクターのことは俺が秘策をもって穏便に解決するってのはどう?」

「ええと、それは理論に多少無理があるような……」

 陽子は頭がくらくらしてきた。結城医師のような男に仲立ちの助っ人を頼んだとすれば、事がさらに大ごとになるとしか思えない。

「まあ、そう言わずに協力してちょ。俺の友達が今週の木曜――つまり二日後に、K病院に絵の仕事をしにくるんだよ。そいつ、すっげえ格好いいから、その陽子ちゃんが迷惑してるっていう医者が図書室にいる時にでも、間違いなくうまいことやってくれると思う。なんつーのかなあ、あいつは俺みたいに軽薄っぽい感じじゃないから……いや、そういう部分も若干ありつつーの、匂わせつつーの、でもその爽やかさは犯罪なんじゃないスか?って感じの奴。ま、あいつがもし医者だったら、来月あるとかいうイケメンドクターコントストなんて目じゃないな。あいつにだけ票がダントツに集まって、あとは敗残者の群れって感じだ。まず間違いない」

(また古いギャグが出たわ)と思いつつ、陽子は少しばかり翼の提案に心が揺らいでしまった。実をいうと、実際にロイホ店内に入るまでの間――陽子は結城医師の有難い申し出をどうやって断ろうかと、考えてばかりいたのである。

「あの、迷惑してるって言っても、そんなに大したことじゃないんです。日に何通もメールが来るとか、そんな程度のことで……お昼休みに隣のカフェでランチしようって誘われたり、結城先生はその、さっき、医者は定時に仕事が終わるなんて滅多にないっておっしゃいましたけど、時々、玄関のところで待っておられるんです。『送っていってあげる』って言われると、断るのも失礼な気がして……そういうことが何度も続いたあとで、『今度映画に行こう』って誘われたら、物凄く断りにくくて。最初はこう、うまくかわしてたんですけど、もうそろそろ回数的に限界というか……」

「ふうん」

 氷水を飲みながら、机に肘をつき、翼は闇夜のガラスに移る、田中陽子の姿を今一度観察した。彼女は決して美人というわけでも、横に連れて歩いて見栄えがするといったタイプでもないのだが――「優しくて大人しい」タイプが好きだという男は、この世界に数限りなく存在するものなのだろう。ただしそれは翼に言わせれば、自分の自信のなさや気の弱い部分を認めて欲しいだけではないのかと、そんなふうに思えてならないのだが。

「そいつって、ひとりだけ?名前のほうはさ、言いたくなかったら言わなくていいけど……でも瑞島の話じゃあ、あんた医者にモっテもてだって聞いたから、複数人そういう奴がいるのかなと思ったんだけど」

「もててなんかいません」

 田中陽子は妙にきっぱりとした口調で言った。

「第一そういうの、本当に迷惑なんです。廊下の向かいの事務室と医療図書室はともに、常時開けっ放しになってますから、カウンターで話してる会話はすべて、金井さんに聞かれてるんです。金井さんは事務室の入口すぐのところに机を置いてますから……あたしが先生たちの誰かを狙って特に親しくしてるんじゃないかとか、そんなことが気になるらしいんです。わたしは図書室の司書の仕事の他に、来客者にお茶だししたりとか、事務員の方に朝と昼と午後にお茶をだすとか、そんな仕事をしてるんですけど……時々、コピーを取ったり、資料整理をするなどの、雑用を事務の人に頼まれることもあります。あの人、わたしのすることなすことが気に入らないらしくて、小さなことでいつも文句を言ってくるんですよ。特に、結城先生みたいに若くて格好いい感じの先生と話してると、先生がいなくなったあとにすぐすっとんできて、あれこれ文書の注意をしたりするんです。わたし、そういうのがすごく嫌なので、先生方とはきちんと距離と節度をもって接しているつもりですし、金井さんが言いたいのはたぶん、あたしが先生たちに媚を売ってる、玉の輿に乗って前任者の川瀬さんと同じく、早く仕事を辞めたくて仕方ないんだろうっていうことなんだと思います。だからわたし、そんなふうに思われるんだったら、いっそのこと本当にそうしちゃおうかしらと思うことさえあるんですよ。もちろん、冗談ですけど」

「なるほどねえ」

 ここで、シーフードドリアとロースステーキセットが同時に運ばれてきて、暫くの間翼は、陽子がはふはふと熱を冷ましながらドリアを食べる様子を、ただ黙って眺めていた。

 ここに至って翼は、陽子に対する印象をがらりと変えていたかもしれない。もちろん、出会った時の第一印象として、(いい子そうだ)とは最初から感じていた。だが、翼としては陽子の今の話を聞いていて、やはり違和感を拭えないのだ。むしろ別の意味では事務員・金井の意見や態度のほうが翼にはしっくりくるし、理解できるような気さえする。

「で、その金井さんって人は結婚してるわけ?それともオールドミスだから、陽子ちゃんのことを気晴らしにいびってるってこと?」

「金井さんはご結婚されてます。確か今、年齢のほうは三十八歳くらいじゃなかったかしら。これはわたしの前の医療秘書だった川瀬さんがおっしゃってたことなんですけど、小さい息子さんのいるバツイチの方と、八年くらい前に再婚されたとか。というのも、金井さんのほうも離婚歴がおありになるみたいなので……でも、子供がなかなか自分に懐かなくて大変だっておっしゃってたことがあるみたいです。その、わたしと金井さんの仲があまり良くないみたいに、川瀬さんと金井さんの仲も良くはなかったんですよ。その川瀬さんにぽろっとそう洩らしたことがあるってことは……色々ご家庭で大変なのかなと思います」

「ふうん。ってことは陽子ちゃんは、事務員・金井のちょっとした憂さ晴らしの対象ってことなのかな。若くて未婚で、いってみれば人生これからって感じの娘が、なんだか色んな医者にちやほやされてるように見える……そのことが自分の実人生と比較して、面白くなく見えるとか」

「そんな……人のことなんて、そう簡単に表面だけ見て裁くなんて出来ませんよ。それより先生、早くステーキをお召し上がりになってください」

 ――この日、翼は食事中及び食後に、陽子に言い寄っているという医者の名前を明かすよう、それほど圧力をかけなかったのだが、結局のところ彼女が名前を明かさなかったことに対し、とても感心していた。

 普通だったら、「やっだあ、困りますう」などと言いながら、多少得意げになってもいい場面において、彼女が徹底してクールな態度であったことに対し、翼としては敬意を表するあまり、何かあった時には陽子のことを無償で助けてやってもよいと、そのように感じるほどであった。

 ただし、携帯メールの着信音が鳴った時に、ひとつだけ彼女に問いつめたことがある。それは相手がメアドを知っているということは、それを教えても良いといったプロセスがあったのかどうかということだった。

「違いますよ。そんなんじゃありません」と、その時も陽子は大慌てで否定していた。「結城先生、うちの病院のホームページご覧になりました?ホームページ自体は基本的に事務員の方が更新作業を行うんですけど……あの中の<K病院通信・電子版>のところだけ、担当がわたしなんです。で、そちらにご意見・ご要望のある方は、こちらまでご連絡くださいみたいな感じで、病院支給の携帯メールのアドレスを載せてあって。それで、そちらのほうに連絡が来るっていうか……」

「ああ、なんだ。じゃあ電子版ページのアドレスを削除しちゃえば問題の九割方は解決するな。で、ご意見・ご要望のある方は、病院ホームページのほうのアドレスに言いたいことがあったら書けっていうふうにするんだよ。どうせ、そんな大して<K病院通信>に対する反響なんてないんだろうし」

 ここまでいうと、陽子は何故か初めて明らかにムッとした顔をしていた。

「そんなことありません。結城先生はもしかしたら、あんなA4サイズのペラペラな印刷物、大して誰も読んでなんかいないって思うのかもしれないけど……わたしは毎月、あの文章を編集したり、色んな方に原稿を依頼したりするのが楽しいんです。わたしは本が大好きで、司書の仕事も楽しいですし、その上編集者の気分も味わえるなんて……あの場所はわたしにとっては、一度失ったら二度と得られないかもしれない、理想の職場なんですよ。それを『ちょっとつきあってみたい』程度の先生たちに、潰されたくないんです」

 翼がそう、陽子から本当の本音のような言葉を引き出したのは、港通りと呼ばれる一画にある、陽子の自宅前でのことだった。陽子の住む家は中産階級よりも少しリッチといった雰囲気の家屋で、彼女が両親に大切に育てられたことを窺わせるような、端正な佇まいをしている。

「すみません、あの……送っていただいたのに、わたし、こんな……もし先生が今のわたしの発言で不愉快になられたのだとしたら、素直にあやまります。ごめんなさい」

「いや、別に気にしなくていいよ。というより、あんたの今の話は面白かった。でもほんと、ホームページのメアド削除については少し考えたほうがいいな。で、病院支給の携帯アドレスは別のに変更すればいい。メールって結局、あまり痛みを伴わないだろ。だから向こうは毎日十通も送れば、自分の好意は伝わるはずだとか思ってんだよ。で、カウンターのところでちょっと小声で、『次の日曜非番だから、映画でもどうか』って言ってくるんだろ?あんたもあんまり律儀にメール返信しないで、向こうが我慢できなくなるまで放っておけばいいんだ。そしたら事務室に筒抜けくらいの大声で、『どういうことですか!?』って言ってくるから、その時にごめんなさいって言えばいいんだよ。そしたらあんたが思わせぶりな態度をとって最後は振ったってことが、医局の男全員に知れ渡るだろう。そしたら変な下心のない男だけが残ると思うんだけどな」

「ありがとうございます、結城先生。今の結城先生のご意見は、是非参考にさせていただきたいと思います。それでは、今日はご馳走さまでした。それと、原稿のほうもありがたく頂戴いたします」

「ああ。それじゃ今日も一日、お仕事ご苦労さん」

 翼は自分の住む高台の下あたりに陽子の家が位置していると知り、多少驚いたが――彼女とはもうこれきり、ふたりで食事することもないだろうなと、漠然と感じていた。もちろん翼は陽子に対し、おかしな意味ではなく好意を持ってはいた。だが、それと同時に自分に車で送られたり、食事をしたりするというのは、彼女にとってかなりの精神的負担になるらしいとも、見てとっていたのである。

(そっか。俺ってようするに、ああいうタイプに嫌われるんだな。いや、あの医療司書さんは、特段俺を嫌ってるってわけじゃないにしても……仕事意外では大して俺とつきあいたくないわけだ。カウンターでたったの五分話しこんだだけで、すぐ隣から小姑みたいな女がすっ飛んで来るとあっちゃ無理もないが……なんにしてもまあ、なんかあった時のために、彼女のメアドをチェックしておくか)

 そんなわけで、翼はコンビニに寄ってマンションへ戻ると、自宅のパソコンでK病院のホームページを検索した。そしてそこから<K病院通信・電子版>のページをクリックし、陽子のメアドを自分の携帯宛てに送ることにする。ついでに、<K病院通信・電子版>の過去ページを順に見ていき、去年のイケメンドクターコンテストの優勝者と、おととしの優勝者をチェックしてやろうと思った。

 すると、翼にとって意外なことがわかったのである。


<パンパカパーン!!みなさん、今年もK病院イケメンドクターコンテストの季節がやって参りました!!なな、なんと、今年K病院のイケメンドクターコンテスト、第一位となったのは……ダララララララララ(ドラムロールの音だと思ってくださいね・笑)……昨年に続きこの方、緩和病棟の癒しの貴公子、山田優太先生です!!おめでとうございます!!>


(この文章書いたの、絶対瑞島の奴だな)と確信しつつ、翼は一位から十位まで発表になっている、K病院・イケメンドクターズの面々を、一年前のものと二年前のものとで比較してみることにした。

<去年>
1位、山田優太(緩和ケア科)
2位、飯島将馬(呼吸器外科)
3位、袴田亮一(内科)
4位、辻崇(整形外科)
5位、茅野正(外科)
6位、池垣雅史(内科)
7位、木村秀一郎(総合診療科)
8位、渡邉健司(消化器内科)
9位、澤光一(脳神経外科)
10位、君塚豊(小児科)

<一昨年>
1位、山田優太(緩和ケア科)
2位、辻崇(整形外科)
3位、袴田亮一(内科)
4位、藤谷真治(心臓血管外科)
5位、大原実(形成外科)
6位、池垣雅史(内科)
7位、茅野正(外科)
8位、近藤守(皮膚科)
9位、鈴木怜二(神経内科)
10位、君塚豊(小児科)


 ――瑞島藍子は、年齢・容姿、既婚・未婚といったことは関係ないと言っていたが、やはり十位以内にランクインしている医師は、比較的若く顔立ちのほうも整っているタイプのドクターが多いようだった。

 その中で茅野医師がおととし七位、去年五位と健闘しているのは、翼にとって妙に嬉しく思われることである。一度、茅野医師が酔っ払い、道端で「男は顔じゃない!性格だ、心だ、魂だ!!」と叫んでいるのを翼は聞いたことがあるが、医局の医師の総数が百名近くに上ることを思えば――この結果というのは、茅野医師の言葉を裏付けたものでもあるといえただろう。

 そしてこの時翼は、「『一位はオレが頂きだぜ!』と思わないんですか?」と瑞島藍子が言った時、彼女がどこか意味ありげな微笑を浮かべていたことをなんとなく思いだした。彼女は「そう簡単に一位なんてとれるもんじゃありませんぜ、先生」とでも、漫才口調で内心思っていたに違いない。

「ふうん。なるほどねえ……もし順当にいったとすれば、この山田先生っていう、要にも通じるような爽やかさを持った先生が、今年も一位ってことか。じゃあまあ、俺もそんな大した心配する必要ないんだな。『今度新しく来た結城先生って、顔だけじゃなく性格もいいみたい』なんて思われる気、俺はさらさらねえから、十位以内にでも入れば運がいいほうってことか」

 その上、もしその十位以内にも入らなかったとすれば、もしかしたら自分はバレンタインデイにチョコをもらえなかった男子のような心情になるかもしれないと、翼は初めて思った。『菓子会社の商品戦略に踊らされる馬鹿な女ども』と日頃は思っていたにしても、実際に誰からも何ももらえないとなると、少しばかり寂しい気がするものだ。

「緩和ケア病棟の癒しの貴公子、山田優太先生かあ。医局で顔見かけたことはないけど、単に顔がいいってだけじゃなく、周囲にもよく気配りがができて、患者も看護師も癒されるってことか。ふうん、なるほどねえ」

 瑞島が実行委員長としてインタビュアーになりつつ、山田ドクターに『今年も一位だったご感想を』などと聞いている文面を読み終わると、翼は次に病院ホームページの<緩和ケア病棟>の欄をクリックした。

 翼が以前までいた医大付属病院に、緩和ケア病棟は存在しない。全国規模としても、緩和ケア病棟を備えている病院や、ペインクリニックというのは総数としてまだ十分だとは言えないだろう。ちなみに緩和ケア病棟というのは、末期癌の患者などが実際に死を迎えるまでの間、QOL(生活の質)の向上やADL(日常生活動作)の維持を目的とした、心と体の痛みを総体的に扱う専門病棟である。他にもK病院では悪性関節リウマチやパーキンソン病などの難病、あるいは体にどこも悪いところはなくても痛みを訴える心理的なケースなども扱っているらしい。

 実をいうと翼は、専攻を決める時に<ガン治療の専門医>になろうと最初は考えていた。だが、先輩から来る日も来る日もマウスにガン細胞を注入して経過を見守る日々が続くと聞き、専攻を変えることにしたのである。けれど今も、ガンを撲滅するにはどうしたらいいのかと、根本部分では常に考えているような気がする。もっとも翼は、胃ガンや大腸ガン、十二指腸ガン、肝臓ガン、胆管ガン、膵臓ガンといった様々なガンの症例ケースに関わる中で――人間というのは、ある程度年齢を重ねた時に体のどこかの細胞は癌化するのが<普通>なのではないかという結論に、随分昔に到達してはいたのだが。

 人間の体内にある、六十兆個もの細胞が、度重なるサイクルの中でエラーを起こし、癌化するのはある意味自然なことである。ゆえに、ガンを完全に撲滅・制圧するというよりも、ある程度の年齢に達したら、「ガンとどううまくつきあっていくか」といったように考え方を変えるべきなのだろう。もちろん翼は、「何故よりによって自分が」とショックを受けている患者に対し、そうした自分の考えを披瀝しようと思ったことは、一度もなかったにしても。

「ふうん、そっか。じゃあ今日高畑先生が手術した神田さんは、たぶんこの山田先生か、あるいは他のペインコントロールに精通した先生にでも、術後の経過を見てもらえるってことか。そこらへんのことは俺、この山田先生にでも一度、色々話を聞いてみたい気がするな」

 >>緩和ケア病棟とは、といった説明文や>>ペインコントロールとはといった簡潔にしてよくまとめられた文章を読みながら、翼はそんなふうに思っていた。そしてブラウザを閉じると、パソコンにUBSメモリーを差しこみ、来週の金曜にあるという臨床研究会の資料作りをはじめることにする。

 翼は実をいうと、勤務二日目にして、何故か明日の水曜は休みであった。外科の医師の勤務表を作るのは、茅野医師か高畑医師の仕事らしいのだが、どういった考えでそうしたシフトになったのかは、当然翼にはわからない。月曜と木曜の午前は外来担当で、手術日は火曜と金曜その他、あと今月は土曜日に夜勤が入っていて、水曜は来週もまた休みとなっているようである。

 そこで翼は、本棚の医学書とパソコンの間を何度か行ったり来たりして仕事を終わらせたのち――画家の時司要に電話をすることにした。木曜日にこっちへ来る予定なら、明日の夕方からでもうちへ泊まりに来いと、そう話すつもりであった。



 >>続く……。





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