天使の図書館ブログ

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カルテット。-23-

2013-01-08 | 創作ノート
【キス】グスタフ・クリムト


 今回も本文長いので、前文は短めに、と思います(^^;)

 ここまでのお話の過程で、途中翼よりも要のほうが主人公っぽい??みたいなところがあったかな~と思ったりするんですけど、わたしの中では翼≧要ということもなければ、翼≦要ということもなく……ふたりとも主人公、みたいな感覚でこのお話は書いてたかな~という気がしたり。。。

 もちろん、前回で犯人も判明し、物語的にはもう終わりに近いんですけど、最後まで読んでいただくと、この話ってもしかして続きあるの??っていう感じで終わるかなあ、と思います。

 まあ、わたしの中では続き書くかどうかは「気が向いたら」&「時間があったら」っていうところなんですけど……そろそろ聖竜~の続きも書かないとと思ったりしてるので、結局のところどうなるかは自分でもよくわかんなかったり

 ただふたつともジャンル的に全然違うので、ファンタジーとリアル、リアルとファンタジーみたいな感じで、行ったり来たりするのも結構楽しくはあるんですよね♪(^^)

 トールキンの「指輪物語」も、元を辿れば「ニーベルングの指環」に行き着くようなところがあって、そういうところを見ていく、読んでいく、また音楽を通して感じとっていく……っていうのも面白いことだし、クラシックやオペラに関してはわたし、まだまだ全然勉強不足なので、このお話を書いたことでもう一度、その足がかりみたいのが出来て本当に良かったという気がしています

 そんでもって、アバドのCDをまた買ってみたりしてるんですけど(笑)、クラシックって結構「絶対この人のじゃなきゃダメ!!(>_<)」みたいな基準があると、何故か聞きやすくなりますよね(^^;)

 もちろん、マーラーを聞く時にはバーンスタインのを聞くのが一番の基準になるとか、色々あるとは思うんですけど、ピアニストではこの人が一番好き!!とか、ヴァイオリニストでは誰それが一番!!みたいな現象が自分の内にあるのとないのでは大違いというか(笑)

 なんにしても、一度嵌まるとアレも欲しいしコレも欲しい……みたいになっちゃうので、今どれから順に買っていこうかな~って、すごく迷ってます。そしてそういう時には、ネットでレビューを見たりするのがすごく参考になったり。

 以前は「クラシックはこれを聞け!!」的名盤の本を参考にしたりしてたんですけど、わたしにとってはそうした音楽評論家の方の意見も、ネットでレビュー書かれてる方のサイトも、どちらも同じくらい価値があってすごく面白いです♪(^^)

 ではでは、本文の物語のほうは、次回の長い章が一度で入れば、あと3回くらいで終わるかなって思います。

 それではまた~!!



       カルテット。-23-

「あ~あ。一体今の、二時間ほどの時間はなんだったんだろうな」

 翼が、要の作ったウィスキーフロートに口をつけながら言った。要はといえば、こちらは翼の作ったウィキスーミストを飲んでいる。

「さてね。僕たちはさ、最初こう思ってたよな。首藤朱鷺子の犯人を挙げることは人の道にかなった、人道的にとても良い正義に満ちた行為である、みたいにさ。でも今となっては、なんと薄っぺらな倫理観であったことよ、とほほ……とでもいったところっていうか」

「ほんとにな。第一、殺された西園寺圭だって、自分の息子に父親殺しで捕まってほしいとは思ってなかっただろうし……むしろさ、<天才指揮者の謎の死、事件から十五年が経過した今も、彼を殺害した犯人は逮捕されていない>みたいな、そういうほうが、西園寺圭を彩る伝説としては良かったんじゃないかって気もする」

「かもなあ。なんにしても、僕とおまえの大推理は大ハズレに外れまくったってことだよな。普通、推理小説じゃこういう時、素人探偵が警察ですら思いもつかぬ証拠を犯人につきつけ……みたいな展開になるもんだけど、現実っていうのはうまくいかないもんだね」

「だな。第一、西園寺翔が素直にすぐ自白してくれたから良かったようなものの、あいつがあのままだんまりを決めこんでたら、赤城警部はどうしてたかなって思うもんな。首藤朱鷺子殺しについては、ルカ・ドナウティが怪しい、西園寺圭殺しについてはラインハルトが――なんていう方向で話が進んでいたとしたら、首藤朱鷺子のことはいずれルカが本当のことを話したにしても、彼は西園寺翔が父親まで殺したとは思ってないわけだから……なんにしても、一番悲惨なのはラインハルト・ヘルトヴィッヒか。まったく、不倫なんてするものじゃないな。相手と恋愛が盛り上がってる間はそれでよくても、のちのち思いもしない方向から火かき棒でぶん殴られるようなことになるんだろうから」

「ははは」と、要がどこか渇いた声で、さもおかしそうに笑う。「翼、おまえ今、絶対自分の身に一瞬置き換えて考えたろ?でも、それが仮に不倫だったとしても、西園寺圭と美音さんとの間のような、<真実の愛>っていうのが時に生まれうるものなんじゃないかな」

「さて、それはどうだか。けどまあ、あのふたりのことに関しては、俺も少しはわかる気がするよ。なんでかっていうと、あの美音って子、妙に素直でいい子すぎるもんな。あんな子に『先生、先生』って呼ばれて純粋な目で見上げられたら――普通の男にはまず無理じゃないか?手を出さないでそのままにしておく、なんてことはさ」

 そのあと、翼のほうに今回の殺人事件のことではなく、まったく別のことを考えている気配があったために、要は革のソファに並んで腰かけている親友に向かい、思いきってこう訊ねてみた。目線のほうはただ、自分が描いたゴッホの『ひまわり』を見上げるような形で。

「翼、おまえそろそろ僕に話してくれてもいいんじゃないか?もちろん僕はおまえが話したくないってんなら、無理に聞き出そうとは思ってないけど……」

「ああ、緊急病棟を辞めた理由か?ははは。そんなつまんない話、もういつでもしてやるよ。もっとも、西園寺翔が今さっき告白したことに比べたら、俺がこれから話すことなんてどうにも聞いて面白いとは思えないけどな。ありていに言うとすれば、女だよ、女。俺にしては珍しく軽く本気になりかかってて、でも相手は絶望的に俺のことを嫌ってたから……まあ、それもまた元をただせば俺が悪いって話なんだけど」

「ふうん。けどおまえ、僕にそんな話、これまで微塵もしたことがなかっただろ?まあお互い、本気になってる時にはそういう相手のことは不思議と話さないって感じで、これまで来たっていうのもあると思うけど……で、おまえ一体何やらかしたんだ?まさか、院長夫人とか外科部長夫人に手を出して、病院をクビになったってわけじゃないんだろ?」

「まさか。それはない」

 翼はキッチンへ行き、そこの戸棚からバーボンを取りだしてもってきた。他に、カティサークやジャック・ダニエル、ジョニー・ウォーカーも。

「べつに、飲まなきゃ出来ない話ってわけでもないんだけどさ、さっきの西園寺翔の話を聞いてたら、なんか意味もなく飲まずにいられないような気持ちになってな。なんにしてもとりあえず、今は俺の話」

 そう言って翼は、自分のグラスと要のそれに、なみなみとバーボンを注ぎはじめる。

「俺、その女のことがとにかく最初に会った時から大っ嫌いだった。あいつがうちの緊急病棟へやって来た時のことは今もよく覚えてるよ。自分が看護師になったのは、昔おばあちゃんが緊急病棟で一命を取り留めたことがあって……なんたらとかいう話。その時、忙しい合間を縫ってお医者さんや看護婦さんが至れり尽くせりの対応をしてくれたことに感動したのが看護師になったきっかけです、とか言ってくれちゃってな。まあ、看護学校出たばっかじゃ、そんな話すんのも無理ないね、お嬢ちゃん……俺だけじゃなく、看護師のほうは特にそう思ったんじゃないかと思う。ようするに、一応社会人としてまともに新人スタッフの自己紹介を聞いてはいるものの、内心じゃあ「おほほ。それはそれは」くらいにしか思ってなかったんじゃないかと思うね」

「そりゃまたなんでだ?もちろん、医療者の全員が全員、過去に家族が医師や看護師に親切にしてもらったことが、医療従事者になろうと思ったきっかけです……ってことはないにしても、動機としては悪くもないだろう?」

「ははは。緊急病棟をなめてもらっちゃ困るぜ、要先生」

 そう言って翼は、バーボンのグラスを要のそれにカチン、とぶつけた。まるで乾杯でもするみたいに。

「いや、それともこれもまた俺の考え方が間違ってたことになるのかな……なんにしても、新人の医師とか看護師の中で、最初に何かご立派なことを言ったり演説をぶったりする奴に限って仕事が出来ないっていうのは、ある意味定番のパターンなんだよ。俺にしても他のスタッフにしても、「御託はいいから、即戦力になるようせいぜい頑張るんだな」くらいにしか思ってなかったんじゃないかと思う。まあ、俺も緊急病棟なんてそこしか知らないから、他のところはもっとアットホームにあったかく新人を見守ってたりすんのかね。その点、うちはとにかく実力重視だったから……仕事さえ出来れば二十代の医師より三十代の医師のほうを立てるっていうような気遣いは一切なかった。俺が緊急病棟なんていう場所を気に入ってたのは、何よりもその点が一番大きい。雰囲気もかなりのところクールでドライというか、それなりに仲間意識はあるにしても、何分人の入れ替わりのスパンが短い職場だからな、他の一般病棟に比べると。俺はあの距離感がすごく好きだったし、仕事さえ出来ればまわりの人間が自分の存在を認めてくれるっていうところも、居心地よく感じてた。ところがさ、あの女が入ってきてから、職場のカラーが若干変わっちまったんだ。俺はそのことが腹立たしくて、あいつが入ってきた時から、相当故意に意地悪したよ。いじめ抜いてやったといってもいい」

「たとえば?」

「『血だらけの患者を見たくらいで、そんなにおどおどびくびくすんな!』とか怒鳴ったくらいなら可愛いもんで、『いても目障りなだけだから消えろ!』って言ったこともあるし、そのうち俺のことをあんまり怖がりはじめたから、『おまえ処女なんじゃねーの?』って言ってやったこともある」

「流石にそれはセクハラだろ」

 要はぶっと酒を吹きだし、むせてごほごほと咳きこんだ。

「まあ、確かにな。でも俺は俺で、あいつが早くこの職場向いてない、結城先生なんか大っ嫌い、もうやめてやるんだあぁぁ!!みたいになるのを、ずっと待ってたわけ。最初のうちはさ、他の看護師たちも結構俺の味方だったんだよな。あいつ、最初の自己紹介で『おばあちゃんが至れり尽くせりの看病を緊急病棟で受けてどうたら』って話をしただろ?本人は気づいてなかったろうけど、どうもあの演説で総スカンを食ったらしい。何故といえば、うちの病棟は忙しくてそんな至れり尽くせりの看病までは出来てないというか、せいぜいのところをいって必要最低限+αってなところだったわけ。それでそんなご大層なこと聞いちまったもんだから、『せいぜいあなただけでもお頑張りになったら?』的になったというかな。もちろん、仕事のことはきちんと教えるにしてもさ、それ以外のことに関しては結構冷ややかな態度だったわけ。適性のない奴は三か月と経たずに辞める――それがうちの病棟の鉄則みたいなところがあって、みんなあいつが三か月持つかどうか見てたっていうのもあったかもしんない。ところがさ、あいつは三か月持ったわけ。普通、一応の上司である医者にそこまで言われたら、明日は出勤してこないだろう……っていう時も、それじゃなくても人手不足で他の人間に迷惑かけるってわかってるから、必ずやって来た。まあ、あとから婦長に聞いた話によると、俺に怒鳴られて汚物庫で泣いてたっていうことは最初の三か月で十回以上あったらしいんだけどな」

「おまえ、仕事のことに関しては結構鬼だもんな。ずっと前に僕が冗談で――よくあるドラマとかポルノ小説みたいに、外科医っていうのはすぐ看護師とそういう関係になったりするんだろうって言ったら、「ありえねえ」ってかなり真顔で僕に答えた記憶があるよ」

「そりゃそうだろ。医者と看護師っていうのはある部分敵同士みたいなところもあるし、俺は職場ではそんなこと考えないわけ。宿直の時に医局で寝てたら、そこに豊満な胸の看護師がやって来てとか……そんなのはエロビデオの中にしか存在しないんじゃないかと俺は思うね。とにかく俺の場合、職場にいる間はそういう気にならない。たぶん、頭のどっかに脳の切り替えスイッチみたいのがついてて、病院を一歩出た途端にそういうのが切りかわるんだろうな」

 翼はストレートでバーボンを飲んでいたが、要はそれを氷と<南沢湖の美味しい水>で薄めながら、親友に話の続きを促した。

「で、一体いつからその子に惚れてるって気づいたわけ?」

「あ~あ。まったく、いつからだっけな」

 ぼりぼりと薄茶色の髪をかき、翼は思いきり顔をしかめて、なんとか記憶の糸をつまぐっている様子だった。

「まあ、そこらへんの境目ってのがいつだったのかは、俺にもわかんない。とにかく、ふと気づいたら、俺のほうに味方がひとりもいなかったってことだけは確かだ。そのうち、婦長も他の看護師連中も『仕事のほうはまだ十分じゃなくても、彼女あんなに頑張ってるじゃないですか』とか、『結城先生の人間性のほうを疑っちゃう』……みたいになってきてな。そのうち、『羽生さん、また汚物庫で泣いてたみたいですよ』とか『彼氏いるかどうかって聞くのもセクハラだって、先生わかってます?』とか、べつに聞きたくもないようなことを俺の耳に入れるようになってきたわけだ。けどまあ、俺のほうでは『たったの三か月耐え忍んだからって、それが一体なんなんだ。あいつは絶対半年以内に辞めるだろう、絶対そうに決まってる、賭けてもいい』みたいに思っててさ」

「その根拠は?」

「まあ、たぶん俺もちょっと意地になってたんだろうな。ああいう場所に本当の意味で適性ない奴っていうのは、入って一週間もしないうちに、ひどかったら二、三日で辞めることもあるからさ。俺の知ってる極端な例としては、新米の医師が何をどうしたらいいかわかんなくなって三時間トイレに閉じこもった揚げ句に辞めたっていうのと、看護師の場合だと、突然いなくなったからどうしたのかと思ったら、他の病棟の廊下を彷徨い歩いてたっていう話がある。もちろん、その看護師もすぐに辞めた。だから、三か月もったから、あとはこっちのサポート次第で彼女は続くんじゃないかって、同僚の看護師たちは思ったってことだよな。でも俺はそのことも面白くなかった。なんで他の人間は俺みたいに、あいつに対して意味もなく腹が立ったりしないのか、不思議でもあったし……なんにしても結局、俺はあの女に負けたんだ。善が悪に負けたっていうんじゃなく、善がそれよりもさらに崇高な善って奴に負けたんだよ」

 強い酒のせいだろうか、翼は顔を赤くしながら、「そうとも。そうに決まっている」だのと、ブツブツ呟いている。

「でもまさか――おまえはそんなこと程度で仕事を辞めたりはしないだろう?その、羽生さんだっけ?彼女のどこがそんなに気に入らなかったんだ?」

「何もかも、全部だな。あいつのやることなすことすべてが俺は気に入らなかった。たとえばさ、あいつ、家族が待つことになる待合室を少し改装したらどうかとか、そんなことを突然婦長に言い出して、実際に実行したりするわけ。いや、あいつが入ったばかりの時にいた婦長なら良かったんだ……婦長なんて言っても、うちの場合は二十代後半だったり、三十代前半くらいの若い婦長なんだけど。最初の婦長のほうは、俺と物凄く波長の合う奴だったんだ。過不足なくきっちり仕事が出来て、それ以外のことでは一切余計なことをしないっていうタイプだな。それじゃなくても超勤(超過勤務)の山がエベレスト級に高く聳え、有給休暇なんかろくに取ったこともないって環境なのに……それ以外で職場の環境整備をしようなんていうふうには、気が狂っても考えないような女だった。ところがさ、俺が気に入ってて呼吸もあってたその看護師が別の病棟に移ることが決まって、いなくなっちまったわけ。何分ああいう職場だから、「こいつにずっといて欲しい」とか思う奴に限って異動になったりするのは仕方ないとはいえ……その次に婦長になった女ってのが、俺とは水と油でとにかく気が合わなくてな。ところがこの気違い女、唯の奴にあれこれ命じて、時間外にまわりをやたらといじるようになったわけ」

「唯って、その子の名前、羽生唯っていうことか。もしかして」

 この段になって初めて、要はだんだん話が見えはじめてきた。内心ではおかしくて仕方なかったが、無論顔の表情でそうと悟らせるほど、要も命知らずではない。

「そうだよ!ハニュウって言いにくいじゃん。だから名前で普通に呼んでたっていうそれだけ。で、患者やその家族から見て居心地のいい待合室とやらを作ってみたりとか、クリスマスの時にはそこにツリー飾ったりとか、まったくもって俺の目には無駄にしか見えないことを色々やってたんだよな。もっとも俺はといえば、そのツリーを見るたびに飾りなんかを全部引きむしって、倒したモミの木を足の裏で踏み潰したくて仕方なかったんだけど」

「べつに、そこまでのことでもないだろ?『わざわざご苦労さんなこって』くらいな気持ちで、見て見ぬ振りしてればいいだけの話だったんじゃないか?」

 もちろん、翼の気性上、そうは出来なかったろうと、要はよくわかっている。だが、その羽生唯という子と結局最後にどうなったかを知るためには、ここは根気良く順に聞いておかねばならない。

「まあな。看護師たちの中にはそういう感じの、冷ややかな目で見てる連中も半分くらいいたんじゃないかって思うよ。『もし自分が時間外にそんなことにまで気を配れって言われたら、超勤の書類を婦長の顔に貼りつけてやるだろう。でも、自分に水を向けられたんじゃないから、やりたければ御勝手にどうぞ』というかな。なんていうんだろうな、俺はあいつからなんとなく漂ってくる偽善臭みたいのが反吐が出そうなほど嫌だったわけ。もちろん、俺とあいつの間で『おまえは偽善者だ!どんなに隠しても俺にはわかる』、『わたし、偽善者なんかじゃありません!これからそのことを必ず証明してみせます』とか、そんな変な会話があったわけじゃないんだ。けどまあ、なんにしても結局最後にはあいつが勝ったんだよ。で、俺は『わかりましたよ。確かにおまえは偽善者なんかじゃない』って、内心では歯を喰いしばりながら認めるしかなかったってわけだ」

 バーボンのグラスを飲み干すと、翼は次にジャック・ダニエルの瓶をラッパ飲みしはじめている。

「でも、いまいち話がよく見えないな。おまえって緊急病棟くらいの忙しさがないと仕事した気にならないってくらい、あの緊張感が好きだとか気違いみたいなことを言ってたことがあったろ?だから、体が続く限りは今の職場にいようと思ってるって、昔聞いた覚えがあるよ。それなのに、なんでまた……」

「ああ。俺もさ、自分ほどあの職場に向いてる人間はいないって、ずっと思って仕事してきたんだ。有給休暇なんか消化できずに消えてく一方、毎月いくら銀行に給料が振り込まれようと、使ってる暇なんか大してないって環境なのに、まあ三十五くらいまではどうかにか体力が持ちそうだったらいたいなみたいに、ぼんやり思ってた。でもさあ、特に何があった、仕事でミスしたってわけでもないんだけど、ある日突然気づいたわけ。『もしかして、俺が自分でこの仕事に向いてるって思ってたのは、ただの思いこみであって、俺実は向いてないんじゃないか』みたいに。というのもな、今からもう二年以上昔の話になるんだけど……精神科医になった同期の奴に、こう言われたのをふと思いだしたからなんだ。『おまえ、月にブラックアウトすることが二~三度あるくらい飲むってことは、自分で気づいてないにしても、それだけ仕事がストレスになってるんだよ。それと、朝気づいたら横に知らない女がいるってのも異常だ』って。俺はその時にはさ、頭医者に外科医の何がわかるくらいにしか思ってなかった。でもあいつの言ってたことは実は当たってたんじゃないかって、思いはじめるようになったわけ」

「それで、その羽生唯って子は、そのことでどんな役割をおまえに果たしたんだ?」

「ああ。まあ、ちょっと待て、要。物事にはなんでも順序ってものがあるからな……あいつが緊急病棟に来て、一年になるかならないかって頃、ある十歳の女の子が急患として運ばれてきたんだ。結局のところ、ただの脳震盪だったんだが、トラックがバックして来た時に頭を打っててな。事故があった前後の記憶がないんだ。そこで脳外科で色々調べてもらうことになったんだけど、そのトラックを運転してたのが、唯の彼氏だったわけ」

「なるほど。おそらく轢いたというか、この場合はゆっくりバックした時にでもその子にぶつかった程度の事故だったんだろうけど……まあ、当然運転手であるその彼が救急車を呼んだりなんだりしたんだろうな」

「そういうこと。なんていうかさ、とにかく風采の上がらない感じの男でな。事故自体はそう大したことじゃなくて、その子に記憶がない以上、運転してた側が悪かったのかどうかとか、そのあたりのことは結局最後まではっきりしなかった。なんにしても、その女の子が手当てを受けたりする間、そいつは唯に突然抱きついて、『俺、大変なことしちゃった、助けてくれ、唯っ!!』とか、泣いちゃってな。『やれやれ。なんとも格好悪い、だせえ男だな』と俺はその時思った。対する唯はといえば『大丈夫よ、慎ちゃん。傷も大したことないし、御両親にも一生懸命あやまれば、きっと大丈夫』とか言っててさ。まったく、罪人を救う聖女の図ってな具合で、今思い返してみても反吐がでそうになる」

 ジャック・ダニエルをあおるように飲む翼を見て、内心要はおかしくて仕方なかったが、やはり態度には表さなかった。ブラックアウトするまで酒を飲み、横に見知らぬ女がいるといったことを何度繰り返したところで――結局のところ、そんなものは<恋愛>ですらない。つまり、そんなことを仮に百回繰り返していても、本当に好きになった相手の前では中学生並の態度しか取れなかったと、翼は告白しているも同然なのだ。

「俺、その時初めて思ったんだよな。俺のほうがあんなくたびれた男よりルックスもいいし、トラック運転手なんかよりずっと年収も高い。でもあいつは何かと意地悪なことばかり言うセクハラ医者なんかより、格好悪くてダサくても、優しい彼氏のほうが百倍いいわけだ。流石にさ――ここまで来れば、俺も気づいたよ。もちろん、彼氏がいるらしいってことは随分前から知ってた。それというのも、俺が『処女なんじゃねーの?』って言った時、あいつは真っ赤になりながらも『つ、つきあってる人くらい、わたしにもいますっ!!』とか、必死に弁解してたからな。で、俺は『そいつの顔が見てみたいもんだな』って、親の顔が見てみたいっていうのと同義語で言ったりしてたわけだ……でもやっぱり、あんな場面を見ちゃうとな。俺は実は人間として色々欠陥があるらしいって、気づかないわけにはいかなくなったわけ。あいつの彼氏っていうのがさ、それから毎日メロンだのケーキだのを持って病院に来るようになったわけだけど、まあまずそいつが最初にやったのが両親に対して土下座することだった。後ろをよく見てバックしたつもりだったのに、何かにぶつかったような違和感があって、車から下りてみたらお嬢さんが倒れていた――なんかそんな話だったな。でも、その両親はあやまられたり、色々物を持ってこられてもあまり有難くない様子だった。娘のほうは加害者であるそいつに対して心を開いてるのに、『事故の記憶がないだなんて、今後どんな障害が起こってくるか』とか、何かにつけて深刻なほうへ話を持っていこうとしててさ。で、まあ最終的な医師の見立てってのが脳震盪で、その際に記憶が飛ぶということがあるという説明だったんだけど……どうもさ、俺の見たところ、あの子は入院してる途中のどっかで、記憶を取り戻したみたいなんだよな。でもたぶん、言えなかったんだと思う。もしかしたらそれは事故が起きたのは自分のせいだったからかもしれないし、まわりの人間があんまりちやほやしてくれて、居心地が良かったせいなのかもしれない。なんにしても俺は、そいつがその子の見舞いにやって来ては、唯のことを最後に迎えにきて、一緒に帰っていく姿を何回となく見ることになった。で、その時に初めて思ったわけ。この焼けつくような胸の痛みはなんだろう、これまでに感じてた胸くその悪い精神的胸やけとは違うようだ……みたいにさ」

「けど、べつに結婚してるってわけじゃないんだから、おまえが本気になれば、それなりにチャンスはあったんじゃないのか?」

「あるわけねえだろ、そんなもの」

 翼は心底呆れたというように、トン!とテーブルにグラスを置き、溜息を着いている。

「恋愛にかけてはマスタークラスの要先生にしては、どうやら今回は的を得ていないみたいだな。あいつはさ、とにかく俺のことが嫌いなわけ。はっきり言って俺に対しては、人の命を救う鬼か悪魔みたいにしか思ってなかったろうと思うよ、特に最初のうちはな。でも、そんな鬼に負けてなるものか、自分は悪魔に打ち勝つ天使になるんだって具合で、最終的には俺に勝ったわけ。そんな状況下で、この俺に一体何が出来る?『参りました、ごめんなさい。あのダサい彼氏と別れて俺とつきあってください』ってか?言えるわけねーだろ、そんなこと!!」

 ああ、小っ恥ずかしいというように、翼は髪の毛をかきむしっている。

「まあ、あんだけ緊急病棟大好きとか言ってた異常者が、その職場を辞めた顛末がこれなわけ。それでも、もしあいつがあのダサい彼氏のなっさけねえ姿を見たことがきっかけで、慎ちゃんとはもう別れることにした……とか言ってたら、俺まだあそこにいたかもしんねえんだよな。そう思うと、ますます情けなくなってくる」

「そうでもないだろ。きっかけは失恋でもさ、翼は自分の内側にある色々な問題点にそれで気づいたってことなんじゃないのか?だったら、おまえの人生全体を眺めた場合としては、これで一歩前進したことにもなるわけだ。僕としては<おめでとう>って拍手したいくらいだよ」

「あ~あ。今みたいな科白、要以外の奴に言われてたら、俺そいつのこと速攻ぶん殴ってるんだがな。なんにしても、確かに今おまえの言ったとおりだよ。俺はさ、さっきも言ったとおり、自分は体力が持つまでは緊急病棟って場所にいるんだと思ってた。そんで、たぶん四十くらいかな。スキーやってたら年甲斐もなく若造と張りあうことになって、足の骨を折って入院するわけ。で、自分ももう若くないな……とか、少し心細くなった時に、優しくしてくれた女となんかの気の迷いで結婚したりするんだろうなって思ってた。でもさ――人生って奴にはどうも、それなりに段階ってもんがあるらしい。本人がここまではこうするんだ、とか思ってても、運命のほうでは首を振って、おまえはそっちじゃなくてこっちへ行けみたいに指示する段階があるんだと思う。もちろん俺にはわかんないよ、今の段階でどっちに行ったらいいのかなんて。でもなんにしてもとにかく、今までと同じことは繰り返せないっていうことだけはわかったんだ。つまり、正体なくなるまで酒を飲んで、朝起きたら知らない女が隣にいるなんていう生活は、まともじゃないし健全じゃない。でも俺はつい最近までそれを<まとも>だと思ってたっていう、これはそういう話。俺はたぶん、自分のどんなにみっともないところ見せても、あいつが『大丈夫よ、慎ちゃん』って見捨てなかったみたいに――誰かに同じことをして欲しいんだと思う。まあ、そのことに気づいた時には愕然としたけどな。俺の人格形成の過程っていうのは中学くらいで止まってて、以後まったく成長してないんじゃないかって思ったくらい」

「でも、やっぱりおまえは凄いよ、翼。おまえはもしかしたら、たったのそれだけのことに気づくのに、なんでこんなにかかったんだ、みたいに思ってるかもしれないけど……おまえの言う<そんなこと>に一生気づかないで終わる人間だって、たくさんいるんだぜ」

「うん、まあな」翼は一旦酒の瓶を自分から遠ざけ、背もたれに頭をのせると、深く嘆息した。「俺、その時ちょっとびっくりしたんだよ、確かに。脳震盪の子が退院して、あいつの彼氏が病院の目につくところにいなくなってから――急に、それまで考えてみたこともないことを色々考えるようになった。ちょっとした瞬間に、誰もいない隙をついてキスでもしてやったらこいつ、どういう反応するんだろうとか、そういうことをさ。まあ、緊急病棟には空いてるベッドなんか大してないにしても、そういうことが出来るきっかけがないかな、とか……もちろん本当にそんなことをしようっていうんじゃなくて――急に押し倒してやったら、あいつはどういう顔をするんだろうなとか、つい妄想しちゃうわけ。で、俺さっきも言ったとおり、職場ではそういうスイッチがこれまで入ったことがないんだよ。けど、その神聖な場所にちらちら誘惑物が目の前を歩いてるっていうような状態になってきて……流石にちょっとツラくなったわけ。それまで職場でだけは一度もそういうことがなかっただけに。なんかさあ、あいつ緊急病棟で一年すぎた頃には、すっかり<先輩>とすら呼ばれるようになってたからな。もちろん、あいつのあとに入ってきた後輩にっていうことだけど。入ってきた時には、あいつなんかより看護助手のおばさんのほうがよっぽど使い手があるって感じだったのにな。しかも、俺が病院辞める時、あいつなんて言ったと思う?『自分がここまで成長できたのは、結城先生のお陰だと思います。本当に、ありがとうございました』って、涙まで浮かべてくれちゃってさ……しかも、嫌味とか皮肉じゃないんだぜ?その前にも、風の噂で俺が緊急病棟からいなくなるって聞いたらしくて、『どうして辞めるんですか?』ってしつこく聞いてくるんだ。まさか、『おまえのことを好きになったから』と言うわけにもいかず――ああいうの、一体どう表現したらいいんだろうな。なんにしても俺、その時に初めて思ったよ。日頃の行ないが悪いと、最後はこういうことになるんだなって。自分がどうでもいいと思う女のことは簡単に口説いて抱けるのに、本当に好きになった女のことはそう出来ないなんて……詐欺じゃないのか?とにかく俺は、そのことをきっかけにして色々考えるようになったわけ。そもそも俺、なんでこいつのことが好きなんだとか、そんなことを」

「それで、答えは出たのか?」

 要がタンブラーを揺らすと、カラカラと氷が鳴った。翼はといえば、だんだん眠気が差してきたのだろう、クローゼットをあけて、そこから浴衣を取りだしている。

「要さ、前俺に言ってたことがあったろ?水上ゆう子のような女には近づかないほうが無難だ、何故ならあの手の女というのは、父親を含めた男全般に無意識の内にも復讐してくるからだ……みたいなこと。あれ、実は俺にも当てはまるかもしれないんだよな」

 翼は浴衣に着替えると、ハンガーにTシャツやジーンズを吊るしてから、ソファまで戻ってきた。そして再び大股を開いて足を組みかえる。

「俺、その理論でいくとたぶん、母親を含めた女全般に復讐したいのかもしんない。最初のうちはさ、そんなこと全然思いもしなかったし、気づきもしなかった。でもさっき、西園寺翔の母親に対する侮蔑の表情を見てて……ふと思ったんだ。『ああ、確かに俺も自分の母親と話す時、こんな顔してるな』って」

「ああ。翼のお母さんになら、俺も何回となく会ってるけど……」

 そこまで言ってから、要は口を噤んだ。西園寺翔の家庭に比べたら、翼の家庭は不幸でもなんでもなく、全然恵まれている、などとは言えない気がしたからだ。

「うん。要が今言いたいこと、俺にも大体わかる。確かに俺の母親って人はさ、俺がひとりっ子だったせいもあって、過剰な期待をかけてたとは思う。父親の経営する個人病院を継がせたいっていう、その一念だけで生きてるみたいなところもあったし……まあ、そういう種類の多少いきすぎた愛情はあったにしても、他ではそれなりに<フツーでマトモ>な親なわけ。でもさあ、その結果として「女に命令される」ってのが、死ぬほど抵抗あるんだよな、俺。これは、女の医者が自分の上司として立つのが反吐が出そうなほど嫌だっていうのとは違う。単に、ただ軽くつきあってるだけの女にでも、「ああしろとかこうしろ」って言われただけで、カッとくるっていうかな。もちろん、暴力振るおうとまでは思わないし、なんでかわかんないけど、大抵の女は大人しく俺の言うこと聞いてくれたから……でも、それが果たしてまともな人間関係かって言ったら、流石に自分でも最近、ちょっとあやしいと思うようになってきた。で、ちょっと要の真似して色々分析してみることにしたわけ。そしたらさ――俺はやっぱり唯に手を出さなくて正解だったんだなってことに落ち着いた。俺があいつを好きなのは、自分の手でズタズタにしたにも関わらず、それでも俺に好意を示してくれたからだ。そんで今俺が落ち込んでるのは……そんなふうにズタズタにしても、それでもいいから俺が好きだなんていう女、金輪際現れないだろうと思うからなんだよな」

 要にとっては意外なことに、この時翼は泣いていただけでなく、言葉の最後のほうは涙声ですらあった。これは酒の力とかそういうことではないと気づくのと同時に――「そのくらいなら、何故自分のものにしなかったのだろう」という気がしてならない。というのも、要の基準としてはこの親友がその気になれば、落とせない女がそういるとは思えなかったからである。

「あ~あ。とうとう泣いちゃったよ、翼くん。水上ゆう子が言ってたとおりだな。キャプテンつばか。なんでだろうな……俺、あいつが仮に彼氏と別れて俺とつきあってもいいなんて言ったとしても、絶対あいつを不幸にしてたと思う。それとも、なかなか振り向かないから、あいつが俺のほうを見て、何度か寝ることさえ出来たら自己満足して自己完結するとか……なんにしても、最低な男だよ。前まではさ、自分に対する俺の男としての評価は今よりずっと高かった。口では『俺って最低な男だよな』とか言っても、あんまり本気でそうは思ってなかった。少なくともその最低よりはちょっと上くらいに思ってたんだ。でも今は思う――俺はその最低の底を割った下あたりにランクしてる男なんだって。しかもまた、唯みたいに本気で好きになる女が仮に出来たとして……やっぱり駄目なんだよな。相手が俺にズタズタにされても、自分についてくるかどうか、無意識のうちにも試すようなことをしちゃうだろうから。要、わかるか?俺はこれ、自分で好きでやってるわけじゃないんだよ。なんでかわかんないけど、気がついたらそういうことになってて、しかも、「なるほど。そういうことかもしれん」って分析できたところで、治るってものでもないんだ。俺も結局、あの西園寺翔と一緒だよ。麻薬をやったり殺人を犯したりとか、法に触れることはしてなかったとしても、魂のレベルとしては、たぶんどっか似たようなことをしてるんだ」

「……………」

 要にしては珍しく、翼の前で言葉を失った。彼としてもこういう姿の親友を見るのは初めてだったし、どう慰めの言葉をかけたらいいのかもわからない。要に出来るのはただ、<少なくともこれだけは言える>ということを、何気ない言葉で語るという、それだけだった。

「馬鹿だな、翼。おまえほどの男ならそのうち、<おまえになら何度ズタズタにされてもいい>ってくらいの女が現れるさ。スキー場で調子こきすぎて、足をへし折ったその隣にいるのがその女かもしれないし、次の職場で誰かそういう人と出会うかもしれない」

「い~や、それはありえんな」と、翼は断固たる口調で言った。浴衣の袖で涙をぬぐい、今度はカティサークのボトルに手を伸ばしている。「一回か二回ズタズタにされたって程度なら、どうにかついてきてくれるかもしんない。でも五回とか六回にもなると、流石にもう無理だろ。あと、俺はもう二度と職場にいる女なんか女医でも検査技師でも絶対好きにはならない、なってたまるかと思っている。ゆえに俺は今後も孤独なシングルライフとかいうのを送り続けることだろう……終わりって感じ」

「流石にそれは、悲観的にすぎるよ」と、要は笑った。「おまえの今の状況が、俺の知り合いの可愛い子を紹介した程度じゃ癒されないってのはわかる。その羽生唯って子のお陰で、翼の中じゃ女のハードルが上がっちまったんだなってこともわかるけど……まあまた、チャンスは必ずあるよ。おまえが今、自分が今みたいな気持ちになることは絶対ないと思ってたって思ってるみたいに――「まさかこんな女と出会うとは思わなかった」っていうような出会いが、きっとまたあるはずだから」

「そんなもんかねえ」極めて疑わしいというように、翼は鼻を鳴らしている。「なんにしても、おまえに聞いてもらってスッキリした。確かに、それがどんな女であれ、女如きのために仕事を辞めるとか職場を変わるってことになるとは、俺自身思ってもみなかったからな。きっとまた、『こんなことになろうとは……』なんていうことが、人生には節目ごとに起こってくるもんなんだろう。たださ、とにかく痛感したよ。自分がいつまでもずっとこの居心地のいい環境にいたいと思っても、当然のことながら<永遠>にはそれは続かないし、続けられない。俺、医大卒業してすぐ病院で働きはじめたせいかどうか、そこらへんの<青春の区切り>みたいのがどうも曖昧ではっきりしてなかったわけ。でも今は二十七にして、自分の人生の第一区が終わったとか、なんかそんな気がしてる」

「なんにしても、おまえは凄いよ、翼。大抵の連中っていうのは、おまえほど人生に対して誠実には生きてないっていうかさ。俺がおまえに言う<凄い>っていう意味がもしおまえにわかったら――「そうか。確かに俺は凄いな」って、翼にもわかると思うんだけど」

「なんにしても、俺の次の目標は、要がへべれけに酔っ払って振られた女の話でもするってことかな。で、今度は俺のほうが逆におまえのことを慰めて、いかにもわかったような<人生訓>を垂れてやったりするわけ。楽しみだな、その日が。もしいつかそんな日が本当にやって来たとしたらの話だけど」

 それから翼と要は互いに顔を見合せて笑いあうと、交代で洗面台を使い、寝室へ向かうことになった。そして、それぞれ別のベッドに身を横たえたまま、今度は今回あった殺人事件のことについて、色々と深い話をすることになり――ふたりが眠ったのは結局、夜明けも近い四時ごろのことだったろうか。

 どちらからともなく、言葉が途絶え、そのまま翼と要は眠りこむということになったのだが、翼はこの日、奇妙な夢を見た。

 翼が夢の中で目を覚ますと、自分のまわりを一輪車に乗った女の子がぐるぐると回っているのだ。その子は大体十歳くらいで、まるで中国雑技団の少女のように、右と左に大きな三つ編みを巻いたような髪型をしていた。そして翼のまわりをなおもぐるぐるとまわり続けながら、時々ピタリと立ち止まっては、こちらへ話しかけてくるのだった。

「あんたみたいなボンクラの坊やにはわからないだろうけど、あたしはこれでも人間以外の動物すべてを治めている。それでそろそろ人間も治めようかと思うんだけど、あんたにその気があるのなら、あたしの一番の家臣にしてやってもいいわ」

「へえ。そいつはまた……」

 翼はその場にあぐらをかくと、一生懸命にバランスをとって自転車を漕ぐ、その少女のことを見上げて言った。

「あら、あんた。あたしのことを信じちゃいないのね、お馬鹿さん。なんにでも一番ってことにはそれなりの名誉があるもんだし、あんたがうんと言わなけりゃ、あたしは別の人間を自分の一番の臣下にするまでなのよ。そしてそれは一度そうと決めたら、あたし自身にも変えられることじゃないの。もし仮にあんたがどんなに役立たずで、あとからあたしがもっとましな人間を選べば良かったと思ったとしてもね」

「ふうん」

 翼は今度は腕組みをして、少女の言ったことを頭の中で考え直してみることにした。そして結局翼のだした答えというのが、何分子供の言うことだし、ここは適当に相手に合わせておいてやるか、ということだったのである。

「わかりましたよ、女王さま。なんでも仰せの通りに致します」

 翼がそう言って立ち上がると、どことなく韓国的な顔立ちをした少女は、一度静止して翼に対し、自分の右の手の甲を与えて寄こした。

「あんた、あたしがこの世界の女王だって、よくわかったわね。どうしてどうして、なかなか見どころがあってよ」

 翼としてはこましゃっくれたガキの相手をするつもりで、可愛い女の子の手にそっと口接けたという、これはただそれだけの話であった。

「じゃあ、あたしについてきて。これからあたしの治めている動物のすべてをあんたに見せてあげる。そしたら、あたしが確かに人間以外の動物すべてを治めてるんだってことが、あんたにもわかるはずだから」

(へいへい、そーですか)とは声に出しては言わず、とにかく翼は一輪車で進んでいく少女のあとに黙ってついていった。彼女はまるでその一輪車を漕ぐのをやめたり、あるいは何かの拍子にそこから落ちた途端、世界を治める女王の位から退けられるとでもいうように――とにかく必死にバランスをとって、一輪車に乗り続けていた。

 そして少女が案内した先というのが、ただの<動物園>だったのである。

 翼は遠くにサーカス小屋を眺めながら、(どうせそんなこったろうと思ったよ)などと冷笑的に思いつつ、彼女のあとをただ黙ってついていくのみだった。

 キリン、ゾウ、アヒル、ペンギン、チーター、ライオン、アザラシにイルカにクジラ……といった動物を順に見てまわり、翼は最後のほうではあくびをしながら、少女の後ろを歩いていたといっていい。

(結局のところこの子は単に、この動物園を経営してる男の愛娘か何かってだけの話なんじゃないのか)

 そんなふうに思いはじめた翼に対し、少女は最後に、くるりと彼のほうを振り返ってこう言った。彼女が指差す先には、空になっている檻があり、開いた扉の横には<ニンゲン/オス>と書かれた札がぶら下がっている。

「さあ、これからあんたはあそこに入るのよ。そして他にも自分の仲間がやって来るのを、指でもしゃぶりながらただ黙って眺めているのね」

 そしてこの段になって初めて翼は気づいた――自分がどうやら壮大なペテンにかけられたらしい、ということに。また彼女の手の甲にキスしてしまった以上、その<契約>は確かに生きており、従わないわけにいかない効力を持っていることもわかっていた。さらに言うなら、今とまったく同じ手法を使って(あるいは、相手がなかなか自分を<女王>と認めなかったとしたら、彼女はもっと巧みな方法を使って男を操ろうとするのかもしれない)、自分の他にも監獄行きになる男が次から次へとしょっぴかれて来るのだろうということも、翼には説明される前からよく理解できていたのである。



 >>続く……。





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