天使の図書館ブログ

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カルテット。-22-

2013-01-07 | 創作ノート
【ベートーヴェン・フリーズ】グスタフ・クリムト


 本当は前回の更新分として、ここまで入って欲しかったんですよね(^^;)

 でも文字数オーバーということで、こんな形で分けざるをえないことにorz

 え~っと、前回の21と今回の22、それと次回更新予定の23とは、元の文章は一繋がりの章になってるんですけど……まあ、翼が救急救命医を辞めた理由を語る部分も結構長いので、次の更新もまたその文章が全部入りきるかどうか、ちょっと不安です

 全然関係ないんですけど、そういえばつい先日、注文してた「アバドからラトルへの道」が届きました

 クラシックファンの方ならご存知のとおり、アバドがベルリン・フィルを辞任する際、次にラトルが選出されるまでのことが描かれたDVDです。

 まあ、と言ってもそんなにエグい本音が次から次へと出てくる……といった感じのドキュメントではないんですけど(というより、そのあたりの具体的なことに関してはそれほど突っ込んだ描写はないです)、ベルリン・フィルって世界で唯一楽団員の方たちが指揮者を民主的な投票によって決めるという楽団らしく。。。

 もちろん、そのあたりのことは有名な話として聞いてはいたものの、他にも楽団員たちの相談で首席指揮者を決めるといった楽団はあるんじゃないかな~と思ってたので、やっぱりそれならそれで結構大変なのね……といった経緯のわかるDVDといった感じでしょうか(^^;)

 約一時間ほどの短い内容なんですけど、自分的に一番がっかりしたのが、期待してたアバドのインタビューが一切ないということ!!!!!orz

 いえ、自分的に三分くらいでいいから、アバドが辞任の理由について軽く説明したり、これから次の指揮者を選ぶのは大変だろう的な、そうしたインタビューがあるんじゃないかなと期待して、このDVDは購入したのです(;ω;)

 見終わったあと、「ひどいよ、アバちゃん!!せめて一言くらい何かしゃべってよ!!(泣)」と思ったのですが、アバちゃんは人間が出来すぎてるので、そういうことについてはまあ、沈黙を守るタイプの人だとは思うんですよね。。。

 なんにしても、このDVDの感想についてはまた、書ける機会があったら何か書きたいと思ってます♪(^^)

 それではまた~!!



       カルテット。-22-

「赤城警部、僕は思うんですがね」と、要はすぐ隣に立っている赤ら顔の警部に向かって提案した。「もし、首藤朱鷺子と西園寺圭を殺した犯人が同一人物なら、ヘルトヴィッヒ氏の彼女を殺した動機は何かということになると思うんです。僕は最初、彼が西園寺夫人に頼まれて彼女を殺したのかもしれない……その可能性もあると思ってました」

 西園寺紗江子がギロリと、恐ろしげな目で要のほうを見やるのと同時に、<首藤朱鷺子>の名で場の空気が一転したのを感じ――要だけでなく、翼と赤城警部、それに白河刑事までもが驚いた。

 それほどまでに、<首藤朱鷺子>の名には魔術的効果が一同にはあったようなのである。

「いえ、失礼、奥さん。僕はただ<可能性>だけを取りだして話をしているのだと思ってください。でも首藤朱鷺子が死んだ時間帯、ラインハルトには立派なアリバイがあるのですよ。その時彼はワーグナーの<ニーベルングの指環>を振っていたんです。当然ながら全曲ではありませんがね。なんにしても、となると西園寺さんを殺したのと首藤朱鷺子を殺した犯人は別にいるということでしょうか?」

「まあ、この際ですからみなさんに名乗り出ていただきたいのですが……この中に首藤朱鷺子さんに脅されていたような方はいらっしゃいませんか?」

「あの女のことなら、一応は知ってますがね」と、ギレンスキーが最初に口火を切った。「なんでも先生のことを脅していたらしいんですよ。一度など、馴れ馴れしく楽屋までやって来ていたことさえありました。『よく俺の顔をまともに見ることが出来るな』と、先生は怒るというよりは呆れてさえいるようでした。そして奥さんのことや翔さんのことを彼女はまたしても同じネタで脅していたらしく……あの女が近づいてきても一切取りつぐなと、先生は私にそうおっしゃっておいででした」

 ギレンスキーが<南沢湖のおいしい水>を飲み、憤懣やるかたないといった顔をしていると、通訳を間に挟み、その隣にいたルカ・ドナウティの顔がサッと青ざめた。

「すみませんが、刑事さん。僕はそろそろ失礼したいと思います。これ以上話しあいを重ねたところで、有益な結論には達しないように思われますので……」

「おや。そうですかな?」

 赤城警部は、顔が青ざめただけでなく、わなわなと手すら震えはじめているルカのことを、明らかに不審に感じたようだった。

「そういえば、ドナウティさん。いえ、ミサワさんとお呼びしたほうがよろしいのかな?なんにしても、首藤朱鷺子はあなたの隣の隣の部屋でしたよね。あの日、というのは、彼女が転落した日、ということですが――ルカさんはどこでどうされておいででしたか?」

「その、はっきりとは思いだせません。部屋の中にいて、明日のリサイタルの楽譜などを見ていたとは思いますが……窓を開けっぱなしにしていたので、何か子供のような女性の悲鳴と、「人が落ちたぞ!」といったような声は確かに聞きつけました。そしてベランダから外を見てみると、たくさんの人が同じように窓から頭を突きだしているところだったんです。でも、亡くなったのが隣の隣の部屋の女性だっただなんて……それは、あとから両親に聞いて知ったことです。なんでも刑事の方が来られて、何か彼女についておかしなところはなかったかと、そんなふうに聞いていったということでしたが」

 彼はこのことを話す間、誰とも目を合わせようとしなかった。翼と要とは無言で顔を見合わせると、互いに(これは絶対に何かある)と、目と目で会話を終えたほどである。

「すみません、ヘルトヴィッヒさん。どうやら先ほどあなたがおっしゃっていたことは、真実だったようです。どんな些細なことに対しても、正確をきすべだと……申し訳ありませんがね、ルカさんが黙っておきたいお気持ちはわかりますが、やはり言わせていただく以外に道はないようです」

「わたしのことなら、お気遣いなく、警部さん」と、西園寺紗江子は何故か勝ち誇ったように顔を上げて言った。「その人が主人とクラウディア・ドナウティの息子だってことはあたし、とっくに知ってますもの。というのも、他でもない首藤朱鷺子自身が、あたしにそのことを知らせてきたからですわ。だからあたし、ルカのことを自分の部屋へ呼んで慰めてあげたくらいですの。そんなことをネタにして、今度は美沢一家のことをも苦しめようとするなんて、あの毒虫みたいな女は、死んで当然だってね。あなたはこんなつまらないことで心乱すことなく、ピアノに専念したほうがいいってそう言ったのよ。当然、覚えているわよね、ルカ?」

「はい、奥さまのおっしゃるとおりです。僕は、西園寺先生にはとても、自分から息子だと名乗るようなことは出来ませんでした。そしたらそんな時、奥さまが僕に声をかけてくださって、『首藤朱鷺子があなたのことも脅してるんじゃないか』と言ってくださったんです。あの女がそのことを仮にマスコミにバラしたところで、大したことではない。だからあの女に脅されても、一円たりとも金を渡す必要はないと……僕はその言葉にほっとして、ただ自分のピアノだけに専念することが出来たんです。そして正直、自殺にしろなんにしろ、彼女が死んでくれて良かったと、ほっとしていました。今、僕はひどく動揺しているように見えるでしょうが、それはつまりはそういうことなんです。自殺した気の毒な人に対し、心の片隅ででも「良かった」だなんて思うだなんて……僕はもう、彼女のことなんて思いだしたくなかった。それなのに首藤朱鷺子という名前が出て、今本当に嫌な気持ちになりました」

「ほほーう」

 ルカ・ドナウティの今の受け答えには、赤城警部から見ても明らかに不審な点があった。もちろん、音楽家の繊細な神経には、隣の隣の部屋の住人が亡くなったというだけでも、仮に無関係であったにせよ、もしかしたら強く響くものがあるのかもしれない。だが、赤城警部も白河刑事もやはり、そうは感じなかった……というより、刑事の性としてそう信じることは到底出来なかったのである。

「ルカ・ドナウティ・ミサワさん。そもそもあなたは何故、西園寺さんに自分はあなたの息子ですと、よりにもよってあの日の朝、打ち明けたりしたんですか?もしかしたら、それはこういうことだったのではありませんか?実の父親に捨てられたということで、あなたは西園寺さんのことを密かに長い間恨んでいた。そしてその人物像を探る過程で、あんなにも美しい奥さんのことを苦しめているということもわかり、その気持ちが殺意にまで高じていったのではありませんか?また、首藤朱鷺子に対しては、今ではあなたには立派な動機がある。彼女の部屋からは、ジャーナリストならばおそらく持っているはずのパソコンや携帯といったものが出てきませんでした。そして特にこちらのパソコンについては、部屋の中に食事を運んだ客室係が、彼女がノートパソコンに向かって原稿を打っている姿を確かに見たという証言がある。首藤朱鷺子は、あなたが西園寺さんの息子であることをマスコミにバラすとあなたを脅し、家族のことを守らねばならないと考えたあなたは、偶然にも隣の隣の部屋にいた彼女と直談判を試みた。ところが、首藤朱鷺子は『黙ってほしくば金を寄こせ』といった旨のことをあなたに言い、このままでは一度だけでなく何度となく金をせびられるだろうと思ったあなたは、彼女を殺害するに至った――違いますかな?」

 ここで一度、場が水を打ったようにシーンとなった。ルカ・ドナウティ・ミサワは苦しそうな顔の表情のまま、じっと俯いたままでいる。沈黙は肯定なり、とでもいうように、さらに赤城警部が彼のことを問い詰めようとした瞬間のことだった。

「ははははははっ!!」と、世の中にこんなにおかしいことがあるか、とばかり、西園寺翔が高らかに笑いだしたのである。それも、まるで背後に何かが取り憑いたとでもいったような、その声にはどこか邪悪な気配すら感じられ、一同は一瞬、その哄笑に凍りついたほどであった。

「警部さん、あんたら刑事は一体どこまでボンクラなんだ?ルカは犯人じゃない――ルカは決して犯人なんかじゃないんだよ」

「駄目だ、翔。せっかく……」

「いや、もういいよ。いいんだ、ルカ。首藤朱鷺子のことは、他でもないこの俺がやったのさ。もっとも、最初は殺すつもりなんかまるでなかったがね。あの女が俺たち家族だけでなく、美沢一家の幸福をも壊そうとしたことが、俺は許せなかったんだ。彼らの家ってのは、本当にアットホームないい家庭でね、うちとはまったく百八十度違うんだよ。俺の家族に起こったことっていうのは、最初から壊れてるものに、最後に止めの一撃が下ったみたいな感じのことだった。だからあれはあれで良かったんだよ。だから俺はあの女に、『苦しめるなら、うちだけにしてくれ。美沢一家には手を出すな』と言ってやった。そしたら、その代わりにいくらくれるかって話になって、色々揉めたんだよ。でも、長く話してるうちにあの女、俺にとって触れて欲しくないことについて、次から次へと責め立てて来やがった。『俺にも、ルカのような音楽の才能があったら、西園寺圭はもっとあなたのことを構っていたことだろう』だの、『結局のところ俺が母親に愛されなかったのは、音楽的才能に恵まれなかったからだ』といったようなことをね。まったく見当違いも甚だしかったが、最後には俺が同性愛者だと知ったら、両親はどう思うかだの、まったく痛いところを突いてきやがった。もちろん、今冷静になってみれば、それだからといって殺すほどのことはなかったと思う。でも、たぶんあの女の言った言葉の内容よりも、俺はあの女の嘲笑うような物言いが癪に触ったんだろうな。何故といって、まったくあの女の話し方にはどこか、俺のおふくろを思わせるものがあったんでね。違いといえば、一応表面上は丁寧語かそうじゃないかの違いくらいだったな、まったく。とにかく、なんにしても女は死んだ。俺がハッと我に返った時、左隣のベランダには誰の姿もなかったが、その向こうにルカがいて、こっちのほうをはっきり見ていたんだ。俺はその瞬間に、こう思った――ああ、せっかくここまでやり直してきた俺の人生も、もう終わりだとね。けど、すぐにルカが部屋へやって来て、あの女のパソコンと携帯を持ちだした上、俺に逃げるよう言ったんだ。そしてそのあと、俺とルカは彼の部屋で色々話しあったんだよ。『あんな女は死んで当然だ』と。もしかしたら、自分以外にも今の現場を見た人間がいたかもしれないが、その時には自分が警察にうまく罪にならない証言をするともルカは約束してくれた。まあ、そんなわけで俺とルカはその日から、奇妙な共犯関係を結んだっていったところかな」

「翔、あんた、馬鹿……っ!!そんな、黙ってればわかんないようなこと、今になってどうして……!!」

 西園寺紗江子は、再びハンカチを取りだすと、それで目頭の涙をしきりと拭っていた。

「ははははは」と、西園寺翔は今度は、まったく感情のこもらない声で笑った。「もしかしたら、あんたのその顔が見たかったせいかもしれない。親父のことを殺したのも俺だよ。あの日、俺は前もって親父に呼びだされていてね。一時から二時の間にでも来るようにと言われていたんだ。というのも、俺は舞台演出家として色々人づきあいってものがある。だからどうしてもそのくらいの時間になると、親父にはわかっていたからなんだ。てっきり俺は、次の日のオペラの演出のことででも、親父は打ち合わせたいことがあるのかと思っていたんだが――あの日、二時ごろだったかな、親父のバンガローまで行ってみると、突然真面目な顔つきで、『おまえの母親とは、これから離婚することになると思う』って言うんだ。俺はさ、その時本当にこう思ったよ。『ああ、なんだ。そんなことか』ってね。だから親父にも言ってやった。『そんなこと、前からわかりすぎるくらいわかってたことだよ』みたいに。なんかどうも近ごろ、ふたりが喧嘩してるネタっていうのが、俺のことが原因だとわかった時には笑ったね。親父がおふくろに、俺がなかなかいい仕事をしてるので、舞台を見てやるといいとか言うたびに、おふくろのほうではヒステリーの発作を起こすんだそうだ。ようするに、『何よ、今さらいい父親ぶって!!』って話だよな。まあ、俺にはそういうおふくろの気持ちもわかる。だから親父にも言ったんだ。『そんなくだらないことで、母さんの血圧を無駄に上げる必要はないよ』ってね。そしたら今度は、『川原美音を知ってるか?』って出しぬけに聞いてきたから――『ああ、知ってるよ。父さんの愛人のひとりだろ』って言ったら、親父は少し驚いてたね。そして楽団員の中にも知ってる奴がいるかって、そう聞いてきたから、『俺は父さんの息子だから、他の連中にはわからないことがわかるんだよ』って言ったんだ。そしたら父さんは、『俺は母さんと離婚して、美音と結婚しようと思ってる。今度は本気だし、美音と海外で暮らして暫く日本へ戻ることはないだろう。だがおまえは、何か困ったことがあったらいつでも電話してこい。俺に出来ることならなんでもするから』っていったようなことを言った……まあ、普通だよな。ある意味、ありふれた親子の会話ですらある。けど、なんでだろう。俺が立ち上がって帰りかけたその時――『レジーナ・ドナウティのことをどう思うか』って聞いてきたんだ。『まあ、べつに普通のいい子だと思うよ。オペラ歌手としても有望じゃないかと思うし』と俺は答えた。そしたらさ、本当に何気ない調子で父さん、『あれの兄のルカは、おまえとは腹違いの兄弟になる』って言うんだ。『うん、知ってたよ』とは、俺は言わなかった。そして父さんは『どうも俺の見たところ、レジーナはおまえに恋をしているらしい。べつに妹のほうと血が繋がっているわけじゃないから問題ないとは思うが、多少配慮が必要かと思って、一応言っておいたまでだ』って、そう言うんだ。俺のほうにはもう、言葉もなかった。こんな理由で父親を殺したなんて言っても――誰にも何も理解できないだろう。結果としては、首藤朱鷺子の時と同じだ。ハッと気づいた時には、左手(西園寺翔は父親と同じ左利きである)に火かき棒が握ってあって、暖炉の前には父さんが血だらけになって倒れていた。そして暫くぼうっとしたあとで、凶器を隠したりとか、何かそんな実際的なことをしなければならないと思ったんだ。川原美音に電話をかけたのも俺だよ。今にしてみれば、なんでそんなことをしたのか、よくわからない。なんにしても俺は、その日の朝も自分は出入りしてるわけだし、凶器が見つからなければ犯人が俺だとわかることはないかもしれないと、そう自分に暗示をかけて思いこむことにした。親父を殺したのは俺じゃない、親父を殺したのは俺じゃない、親父を殺したのは俺じゃない……繰り返し、そんなふうにね」

 犯行の自供をする途中から、西園寺翔は子供のように身を震わせて泣きだし、最後には両手で頭を包みこみ、そして体のほうも丸めていた。

 一同はただシンとしたまま、西園寺翔の告白する様子を見守っていたのだが、最初に行動を起こしたのは、彼の母親の西園寺紗江子だった。てっきり彼女は自分の息子のことを殴りつけるか言葉で罵倒するのかと思いきや――蒼白な顔のまま、カツカツとヒールの音を響かせ、黙って部屋を出ていったのである。

 赤城警部が白河刑事にある種の視線を送ると、白河刑事はすぐに西園寺紗江子を追って隣の部屋へ行った。もしかしたら彼女が自殺するかもしれないと、危惧してのことであった。

「翔、西園寺先生のこと、どうして……」

 首藤朱鷺子殺しに関しては一枚噛んでいたルカも、まさか彼が父親をも殺害していたとは思いも寄らなかったのだろう。部屋の隅で体を丸めてしゃがみこむ西園寺翔に対し、ふらふらした足取りで近づくと、そっと肩に手を置いていた。まるで、腫れ物か何かに触れるみたいに。

「親父は俺のことなんか、何も見ていなかった。なんで、昔の愛人の娘のことはわかって、俺のことはわかんないんだよ。ルカ、俺とおまえは友達同士だ。それに、おまえにそういう趣味がないってこともわかってる。だけど、もし俺が何も知らなかったら、そういうことだってあったかもしれないだろ。なんでそういう心配が出来ないんだよ。それに、あの親父が浮気してたのは何も、ルカとレジーナの母親だけってわけじゃないんだぜ――どっかに同じように、親父には黙ってこっそり産んだっていう隠し子がいるかもしれないじゃないか。それに、親父は俺にあやまったことなんか、心の底から悪いと思ったことなんか、いっぺんだってないんだ。浮気のことに関しては、『おまえも男だからわかるだろう』みたいにしか思ってないし、あんな母親と同じ家で暮らすっていうのがどんなことかもまるでわかっちゃいない。自分はそれが嫌で年中逃げだしてるってのに。ルカ、結局おまえには俺の気持ちはわかんないよ。おまえみたいに幸福な家庭で育った人間には、俺の気持ちなんか……」

「翔……」

 赤城警部は、西園寺翔に対し、心からの同情を覚えはしたが、かといって当然、今の自供に適さない態度を取ることは出来なかった。警部は若干くたびれた感のある背広のポケットから手錠を取りだすと――それを西園寺翔の両手にかけたのである。

「お母さんの部屋に凶器の火かき棒を置いたのは君だね?果たしてどうやったのかね?君はさっきから、気づいたら首藤朱鷺子を十五階から突き落とし、気づいたら父親のことを撲殺していたと言ったが……自分の母親の室内にある火かき棒と、凶器のそれを取りかえたのは明らかに故意であるとしか思えない。それとも何かね、それもまた気づいたら勝手に自分の別の人格がやっていたとでも言うつもりかね?」

「もしかしたら、そうかもしれませんよ、警部さん……まあ、僕はもう何もかもどうだっていいんです。ある意味、母にも一番良い方法で復讐してやりました。そういえば、母の部屋に父の部屋にあるのと似たような火かき棒があったと思って、僕はそれを取り替えることを思いついたんです。母の部屋にもともとあったのは赤銅色、父の部屋にあったのは銀色でしたが、母がもしそのことに気づいたとすれば、僕が父殺しの犯人だとわかるんじゃないかと思いました。刑事さん、僕は母に父殺しの罪をなすりつけようとまでは思ってなかったんです。ただ、僕が犯人だと気づいた時、母がどうするのかを見たかった。気づかない振りをするのか、自首を勧めるのか、それとも『このことは黙ってるから、おまえも黙っていなさい』と僕を説得するのか……警部さん、母はたぶん火かき棒がすり替えられていることにすら気づいていなかった、そうでしょう?」

「まあ、おそらくそうだったろうと思いますが……しかしながら、何故です?何故火かき棒がすり替えてあることに気づいたら、息子のあなたが犯人であるとお母さんが気づくことになるんですか?」

 西園寺翔は今ではすっかり落ち着きを取り戻し、まるで運命の殉教者といったような、諦観の境地に達した清々しい僧のような顔をしていた。

「それはですね、火かき棒のようなものを取り替えられるのは、まずもって息子の僕くらいしかいないと彼女はわかってるからなんです。ラインハルトや他の誰かでは、まずもって無理ですよ。母は本当にどこか神経質というか、神経過敏なところのある人で、相手の一挙手一投足を見逃さないんです。というか、見逃している振りをしながら見逃さないといったらいいか……とにかく、相手が少しでも不審なことをしたら気づいていたでしょうね。その点、母にとって息子の僕は透明人間も同然なんです。またこれは、父にとってもそうでした。ただ父の場合は、僕が麻薬でああいう事件を起こしてから、ようやく姿が見えたようなところがありましたがね。なんにしても僕は、母が父のことを盗聴してたみたいに、向こうはこっちのことなどまるで気にかけてないのに、母の行動がよくわかるんですよ。母はね、父が起きるのと同時刻の七時くらいに起きだし、まず朝食を食べるんです。それから、父がそろそろ自分の弟子や僕なんかと音楽祭の打ち合わせをしてるだろうと想像しながら身仕度をし――父が音楽ホールへ向かった頃に、一度部屋を出るんです。これは自分の寝泊りしてる部屋を掃除婦たちに掃除させるためです。そして昼くらいまでたっぷりかけて、ホテル内にあるスパだのエステだのにいって、無駄に美容に金をかけるんですよ。まあ、母の場合は無駄ともいえないかな。何しろ、あの人は父の他の若い愛人たちにひけを取りたくないあまりに、あらゆる努力を払ってあの美貌を保っているわけですから……なんにしても僕は、空のヴァイオリンケースに火かき棒を入れて、次の日こっそり母の部屋へ行きました。もちろん、掃除婦たちが掃除している時間帯を見計らってね。彼女たちは僕が西園寺圭の息子だとわかってるから、「母さんと約束がある」と言えば、簡単に部屋に入れてくれましたよ。そして彼女たちが神経質なまでに掃除をしたそのあとで(何しろスイートルームですから)、僕は例の火かき棒をすり替えてから、部屋を出ていったというわけです」

「それにしても何故……首藤朱鷺子のことはある程度理解できますよ。彼女がしたことのせいで、あなた方の家は最初から壊れていたのが、さらに輪をかけて目茶苦茶にされたわけですから。でも、お父さんを殺すことまではなかったのではありませんか?」

 ラインハルトとギレンスキーもまた、その点では同意見だったらしく、この時初めて互いの意見が一致したというように、頷きあっていた。それまではふたりとも、まるで二卵性双生児のように、ただ呆然と同じ態度で呆けていただけだったのだが。

「でもおかしな話、正直なところ僕には予感めいたものはあったんです。十代の頃、麻薬をやってる時にね、どうにもおふくろや親父に対する憎しみが募って仕方のないことがあって。その自分ではどうにも出来ないどす黒い醜い感情を忘れるために麻薬をやり、麻薬が切れるとまた同じ症状が襲ってくるので麻薬をやる……何かそんなことの繰り返しでした。たぶん世間の人というのは、あんな立派な家庭に生まれてお金もあって麻薬をやるだなんて、とんでもない息子だと思ったことでしょうね。でも、普通の人は知らないんですよ。麻薬の快楽ってものは、絶対に俺を裏切ることはありませんでした。やれば必ず効いている間だけは間違いのない幸福が得られるんです。僕が親父やおふくろにわかって欲しかったのは、何よりもそのことだった。自分たちが原因で息子が麻薬に手を出すところまで落ちたのだと知って欲しかった。でも、おふくろと親父の考え方は違うんです。『それとこれとは別のことだが、確かに親の俺にも責任はある』と親父は考え、母に至ってはもっと無関心でした。たぶん、今でも僕の面倒を見ていた家政婦が悪かったのだろうとか、他人に責任を転嫁することしか考えていないでしょう。確かに僕は、父が刑務所のような場所にまで来てくれて、嬉しいことには嬉しかったですよ」

 この時、西園寺翔は翼のほうをじっと見つめてからそう言った。まるで、翼が彼の父親当人でもあるかのように。

「でも、違うんです。父の気持ちは確かに痛いくらいわかった。それでももう……ああ、この人に自分の気持ちは絶対に届かないと、絶望的なまでにその時思いました。それと同時に、もうこれでいいとも思った。これがあの人の理解力の限界なんだろうし、人が楽曲の解釈について褒めそやすほどには、息子のことをまるで理解していなくても……それでもこの人なりに自分のことをどうにかしようとしてくれてるんだからって。刑務所を出たあとの僕は、まるで親父の操り人形か何かのように、ただとにかくひたすらに言うなりでした。刑務所の中にはね、僕と同じように両親から完全にスポイルされてる子ってのがいるんですよ。だから僕は、何も自分だけがこんな気持ちを味わってるわけじゃない、自分だけが特別不幸な境遇に生まれついたわけじゃないとも思ってました。それどころかむしろ自分はこれでもずっと恵まれているほうだと思ってもいましたし……でも僕は、自分が殺すとしたら絶対母親のほうだと確信してたんですよ。たとえば、ある日母が死んでる姿が発見されて、僕の手には血だらけのバットが握られてるっていうようなことです。その場合には仮に記憶がなかったとしても、僕は自分が母を殺したのだと潔く認めたことでしょう。でも、僕が実際に殺したのは父のほうだった。ねえ、なんでなんでしょう、刑事さん。なんで僕は母ではなく、多少なりとも色々気にかけてくれた親父のほうを殺したんでしょう。そうすれば母に、一番の復讐が出来るから?もちろん僕はそんなことまであの瞬間に計算したりしませんでしたよ。それなのになんで……後付け的に僕が考えたことは、こんなようなことでした。<そもそも、母があんな母でなく、父があんなに才能のある人でなくてもっと普通の人だったら――自分は首藤朱鷺子を殺すこともなかった。その前段階として麻薬に手も出していなかっただろう。そうしたことも含めて、あんたは本当にわかっているのか!?愛人と海外へ逃避行?そりゃ結構なことだ。何しろ川原美音は僕と四つしか年が違わなくて若い娘だし、そうなれば当然また子供が生まれるだろう。そして父は――彼女とより理想的で完璧な家庭を築こうとするに違いない。そんなことは絶対に許せない。いや、その前におまえにはこの僕に対し土下座し、頭を下げて詫びを入れる必要があるんじゃないのか!?ええ、どうなんだ!?>……たぶん、これが僕の父を殺した理由だったのかもしれません。もちろんこんなこと、あの父の前でこの僕に言えるはずがない。そしてそんなふうに自分を抑えつけていることがしょっちゅうあったから……ほんのふとしたような、ちょっとしたことがきっかけで、父のことを殺してしまったのかもしれません。ただ、今も本当に夢のようなんですよ。あの父が死んでこの世に本当にいないだなんて。いつも、なんかの拍子にひょっと、ドアの影あたりからでも出てきそうな気がして仕方ないのに……もちろんこんなことを、父を殺害した本人である僕が言うだなんて、随分おかしなことなんでしょうね」

 確かに赤城警部は、また麻薬に手を出しているのではないかと、深く疑っているような目つきをしていた。それから警部の呼んだ応援が駆けつけるまで、重苦しいような沈黙が長く続き――赤城警部は応援にきた部下の刑事数名に西園寺翔のことを任せると、「ご協力、本当にありがとうございました」と、要や翼に対してだけでなく、その場にいた全員に対し、深く頭を下げたのだった。

 ルカは連行された西園寺翔のあとを追っていき、ラインハルトとギレンスキーは、「こんな真実なら知りたくなかった」というような、複雑な顔をして部屋を出ていった。ギレンスキーの通訳は、赤城警部から「今度のことはどうぞ、ご内密に」と頼まれ、「もちろんです」と沈痛な面持ちをしながらギレンスキーに続いて出ていったのだった。

「やれやれ。とんだことになりまして、まったくおふたりには御迷惑をおかけしました」

 室内に翼と要だけが残ると、部屋が何故か前以上に妙にがらんとして感じられた。まるで、目には見えない虚しさの濃度が上がったかのようだったが、赤城警部はその種のものに耐性が強いのだろうか。あまり免疫のない翼と要ほどには落ち込んでいない様子であった。

「ですが本当に、あなた方おふたりには感謝しておるのですよ。特にあの時、時司さんが首藤朱鷺子の名前を出してくださったのが絶妙でした。あれで話の流れが急カーブに沿ってぐるっと変わったようなところがありましたからな」

「僕は何もしてないですよ。というより、今では何か無駄に余計なことをしたといったような、徒労感しか感じていません。ただ、ラインハルトのことは良かったとは思います。あれだけ物証や動機といったものが揃っていて、もしあの時西園寺翔が自分から名乗り出ていなかったとしたら――首藤朱鷺子殺しのことは認めても、父親殺しについては否定していたら、やはりラインハルトは冤罪を負わされていたでしょうからね。僕は自分がそんな罪に加担しなくて良かったと、今ではほっと安堵しています。そして何よりもそれは、西園寺さんの息子さんのお陰というか……」

「あいつ、立ち直れるかなあ、これから。たまに聞くだろ?刑務所で看守がちょっと目を離した隙に縊死していたとか、そういうの。西園寺紗江子にはあの息子は重すぎて、あの華奢な肩にはとても背負えないだろうし……人によってはさ、西園寺圭の死はある意味自業自得だったってことにもなるかもしれない。でも、それだけじゃないよな、やっぱり。なんにしても俺、今日は疲れすぎてて考えが何もまとまらんわ。ただ黙って人の話を聞いてるってのが、今夜ほど身に堪えたことはないってくらい」

「同感だね。なんにしても警部、僕と翼の奴に気を遣うことはありません。警部もお疲れでしょうし、これからまたさらに北央市の本部のほうへ一時間半ほどもかけて戻られるんでしょう?しかもそのあとにまた仕事が待ってるんですよね?どうか、僕たちのことは本当に気にせず、署のほうへお戻りになってください」

「そうですか。では、お言葉に甘えて……という言い方も何か変ですな。なんにしても、あなた方おふたりの御協力には心から感謝しています。あらたまったお礼のほうは、またいずれということで……」

 赤城警部がそんな話をしていると、隣室の2001号室から白河刑事が戻ってきた。北央市のほうから来た同僚の女性刑事と、西園寺紗江子のことを見張る役目を交代したとのことだった。男の自分より、女性の彼女のほうがより話をしやすいだろう、と。

「奥方の様子はどうだったね?」

「まあ、思ったよりは落ち着いています。僕が何も言わないうちから、『刑事さん。心配しなくても自殺なんてしませんわ。そんな気力、今は微塵もわいてきません』と、そんなことをおっしゃってました。ですが、逆に言うとすれば、少し時間が経って、ふと人が目を離した時が危ないかもしれませんね。僕の知り合いの精神科医が言うには――冗談ごとでなく、一度死ぬ覚悟を決めた人間というのは、三十階のビルの上からだって平気で飛び降りるだろうという話でしたから」

「うむ。本当は誰か、この際ラインハルト・ヘルトヴィッヒでもいいから……あの奥さんには暫く誰かそばにいる人間が必要だね。ただ、彼女はああいう気性だから、人に弱味など見せたくないといった気持ちのほうが強いかもしれないが。誰か楽団員の中で比較的彼女と仲がいいなりなんなりする人物は見つからないものだろうか。そういう人に西園寺夫人のそばに暫くついていてもらえれば、大変助かるんだがね」

「じゃあちょっと、コンマスの近藤さんに連絡を取ってみます」

 白河刑事が携帯で電話をかけると、副コンマスの弥生遊馬の奥方についていてもらうのが一番いいだろうということで話が落ち着いた。ふたりは比較的仲が良く、特に彼女は口の堅い人物なので、西園寺夫人も少しは気を許すだろうということだった。

「それでは、これで本当に失礼します」

「本当に、ありがとうございました」

 赤城警部と白河刑事は、最後にもう一度、礼儀正しく深々と礼をしてから翼と要が居室としている、2002号室を出ていった。ようやくのことでふたりきりに戻ると、翼と要は顔を見合わせ、自然「酒でも飲むか」といった話運びになる。



 >>続く……。





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