天使の図書館ブログ

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カルテット。-13-

2012-12-24 | 創作ノート
【聖セシリア】ジョン・ウォーターハウス


 す、すみません

 今回もまた、文字制限に引っかかっちゃったので、本文のみのとなります

 いえ、前の場合は前文を削除しても入り切らなかったので、二回に分けたんですよね。でも今回は前文削除したらなんとか入りました(^^;)

 まあ、どのみちいつもどおり、そんなに大した話でもないってことで(笑)

 それではまた~!!



       カルテット。-13-

 要が1526号室のドアをノックし、美音が実際に部屋の外へ出てくるまでの間、彼は三分ほど待たされた。「い、今いきますので、少々お待ちを」などという、ぎこちない返事があったあと、室内からは物が床へ落ちる音が聞こえ、美音の慌てぶりが要には見えるようだった。

 そしてその、ほんの短い三分ほどの間に、要はスーツのポケットに隠した白い手袋をはめ、首藤朱鷺子のいた部屋――1527号室のドアノブをひねってみた。当然ながら、そこには鍵がかかっており(まあ、当たり前だよな)などと思いつつ、要がそこから離れた瞬間のことだった。

 1528号室から五十代と思しき夫婦が、夫は燕尾服を着用して出て来、いまひとりの夫人はナイトブルーの素敵なドレスを着て現れた。夫のほうは日本人、夫人のほうはイタリア人である。そこで要はこの時、ふたりに向かって軽く会釈しながら(もしや……)と感じた。

 つまり、1528号室にはルカ・ドナウティ・ミサワの両親が宿泊しているのだろうということだった。彼らの長男のルカはピアニストであり、妹の長女のほうはオペラ歌手で、名前をレジーナ・ドナウティ・ミサワというのである。おそらくは、自分たちの息子と娘が登場する音楽祭へ、なんらかの形で招かれたということなのだろう。

 ルカ・ドナウティ・ミサワの父親には、どこか日本人離れした優雅な物腰があり、美しい夫人の腰に手を回し、彼女のことを優しくエスコートする姿が印象的だった。

(彼らのうちいずれか一方がもし、首藤朱鷺子を殺した犯人の顔を見ていたとしたら、当然警察に言っているだろう。ということは、彼らはおそらくその時間帯、部屋を留守にするかどうかしていて、何も見なかったという可能性が高いんじゃないだろうか?) 

「すみません。お待たせしてしまって」

「いや、そんなことはないよ」

 どこか慌ただしく室内から出てきた美音は、髪をシニョンにして結い上げていた。服装のほうは黒に近いモスグリーンのドレスで、光の加減によってようやく、それが緑であることがわかるといった、微妙な光沢のあるドレスである。

「可愛いね。まあもちろん、美音さんは何を着ていても可愛いとは思うけど」

「そんなこと……」

 ありません、と言う前に要が右の肘を突き出したので、美音はその腕を顔を赤らめながら取っていた。可愛い、などという言葉を、西園寺圭の口から聞いたことは、美音はこれまでただの一度としてない。そのせいかどうか、そう言われたことが嬉しくてたまらない自分に、何故かとても戸惑ってしまう。

(もちろん要さんはいつも、色んな女性に同じ調子で同じことを言ってるんだとは思うけど……)

「そういえば、美音さんの同室者のゆう子さんは、もう北央市へ行ったのかい?」

「ええ。午後の空き時間にわたしが戻ってきたら、置き手紙が置いてあって……二、三日留守にするけど、最終日のオペラ・ナイトまでには戻ってくるって」

「そっか。実は僕、翼を通じて彼女から、美音さんのことをよろしく頼むって言われてるんだ。隣で転落事故があったりして、何かと物騒だし――もし何かあったら、どんな些細なことでもいいから、すぐに電話かメールをくれないかな」

「は、はい」

 昼間、最上階にある部屋を美音が訪ねていった時、帰り際に「そういえば」と、要は美音の携帯を借り、赤外線通信で互いの番号を交換していたのだった。

<南沢湖クリスタルパレス>の正面エントランスから外に出、そこから白樺林の道を通って七分ほどいくと、野外音楽堂へ出る。野外音楽堂では、オペラ<カルメン>の舞台装置などがセットされ、舞台上ではすでに衣装を身に着けた出演者たち数人が、英語やイタリア語などで何か談笑している様子だった。

 そしてその中心に、西園寺翔の姿を見つけると(とてもあれが、人を殺したあとの人間の顔とは思えないな)と要は感じる。彼は若いながらも舞台演出家として、出演者たちによく行き届いた指示を与え、オペラ歌手たちのほうでも彼の監督ぶりを好ましいと感じている空気が、それとなく伝わってくる。

「美音さんは今夜は、ここのオペラ・ピットに入るんだよね?」

「ええ。大ホールではアファナシエフ・ギレンスキーのコンサートがあって、小ホールのほうでは今日は、ルカ・ドナウティのバッハのプログラムがあるので……こちらのほうはどの程度人がいらっしゃるかわかりませんけど。出演者たちはみんな、若手で固めてあるんです。だからいぶし銀の如く素晴らしく堂に入った舞台というわけではないにしても、若い人にしか出せないエネルギーに満ちた、とてもいいオペラになると思います。先生はいわゆる重鎮のオペラ歌手の方たちとなさるより――若い人たちを育てるほうが好きなんですよ。演出家も息子の翔さんだから、自分の理想通りやれる点も多いでしょうしね」

「その、西園寺氏は息子さんとぶつかったりはしないのかな?たとえば、他の楽団員たちによくしてるみたいに、人前で頭ごなしに叱り飛ばしたりとか……」

「皆無です」と、美音は笑って言った。まるで、そんな立場の彼が羨ましいとでもいうように。「先生は血が繋がってるとかなんとか、そういうことで何か贔屓されたりはしない方だっていうのは、みんなよく承知してるんですよ。でもやっぱり、ご自分の息子さんっていうのは特別なんでしょうね。というか、あれで翔さんがもし舞台の演出家でなくて音楽家だったとしたら、それこそ親子で殺し合いになってるかもしれません。でも先生は、オペラの舞台に関しては昔から、それはもう本当に辛抱強い方なんです。オペラ歌手の方はみんなよくこう言ってます――先生が後ろでがっしりと支える見えない手をよく感じるって」

「へえ……」

 美音は音楽堂に自分専用のストラディヴァリウスを置いてあるため、一度そちらへ赴く必要があった。そしてその途中で西園寺圭とすれ違った時――カツカツという革靴の音をさせながら、まるで彼が「何も見なかった」とでもいうように通り過ぎる姿を見、要は一瞬肩すかしを喰らったように感じる。

 美音のほうはといえば、要の腕にしがみついたまま、彼女が<先生>と慕う男が100%まったく無視したというだけで、ガクガクと膝が震えているほどだった。

「美音さん、大丈夫かい?」

「は、はい……」

(ジュピターというか、彼女にとっての音楽の<神>に背くというのはこういうことなのか)と要は思い、突然に美音のことが気の毒で堪らない気持ちになった。あの完全なまでの支配欲の強さが羨ましくもあり、またそこにこれからも囚われざるをえない美音のことを不憫にも感じ……一体どうしたものだろうと一瞬思案する。

 そして、美音の体を支えるようにして、音楽堂の中央ロビーにあるソファへ腰かけた時、そこに自分の絵――音楽の守護聖人、チェチーリア(聖セシリア)のことを描いた絵がないのを見て、要は突然笑いだしたくなった。

「はっははっ。美音さん、安心していいよ。彼が無視したのはあくまでもこの僕ひとりだけだろうからね。西園寺氏の目には僕の姿は一切映らない。ゆえに、僕の絵も存在しない……これはおそらく、そういうことなんだと思うよ」

 中央ロビーの広い壁には今、外された要の大きな絵のかわりに、一枚の<書>が額に入れられて飾られている。要は自分が西園寺圭にとって「その程度」には意識してもらえる存在らしいと知り、むしろ嬉しくなった。

「えっと、あの……」

「たぶん彼はこれから、君との会話の中で僕のことを話に出すことさえしないだろう。でも美音さんは、今みたいな西園寺氏からかかるプレッシャーには耐えられない。となれば当然、君は音楽を続ける限り、ヴァイオリンを続ける限り、自分の元に戻ってくると西園寺氏は確信してるんだろうね。ようするに、ヴァイオリンをやめるつもりがあるのなら、つまらない画家と一緒にでもなんとでもなれって彼は言いたいんだと思うよ」

「でも、わたし――わたしは……」

「僕のことは気にしなくていいんだ、美音さん。彼にもきっと、奥さんと別れられない事情とか、色々あるんだと思うしね。けど、僕は一度最終日にでも、西園寺氏と話をすることにするよ。若くて才能ある美しい女性を、このまま蛇の生殺しのようにしておくことは感心しないといったようなことをね」

「だ、駄目です、そんなの。それに第一わたし、蛇の生殺しだとか、そんなふうに感じてるわけじゃありませんし……」

「ああ。もちろん今のは言葉のあやだよ。実際に彼と話す時には、そんな言葉遣いはしないから、美音さんは安心してていい」

 なめらかな、肌触りのいいビロードの椅子に腰掛ける美音のことを、要はぎゅっと抱き寄せた。音楽ホールに出入りしている者は、関係者もそうでない一般の観客にしても、華やかな装いをしている場合が多い。そしてこれが最終日のオペラ・ナイトともなると、まるで18世紀か19世紀初頭の舞踏会に迷いこんだような状態となるわけだが――要は時折、ポロシャツにカーゴパンツやジーンズといった観光客の姿を見て、今は現実に引き戻される思いがした。

「大丈夫?これで、体の震えのほうは収まったかい?」

「は、はい。わたし、そろそろ楽屋のほうへいって、ヴァイオリンを取ってこないと……」

 そう言って、今にも泣きだしそうな顔をしたまま、美音は要から離れようとする。

「美音さん。僕と君とは友達だから、もうこれっきりっていうことはないよね?」

「もちろんです。あの、わたし本当に……この歳でこんなこというの恥かしいんですけど、自分から男の人と話してみたいって思ったことがなくて。でも、要さんは本当に違うんです。でもわたし、どうして要さんが先生みたいに他の男の人とは「違う」のかっていうことが、やっぱりよくわからなくて……」

「いいんだよ。なんにしても今日は、僕のことなんか微塵も思い悩まずにオペラ・ピットへ入ることだ。そして君の先生が満足するような演奏に専念すればいい。あとのことはまた、ふたりきりになれた時にでも考えよう」

 美音は真っ赤な顔をしたまま、こくりと頷いた。そして軽く会釈するような仕種で、臙脂のソファから離れ、楽屋へ通じる廊下のほうへ走っていく。

「お~やおや。あんな可愛い子を泣かしちまって、一体どったの、時司画伯。ついでにおまえの絵のかわりに、どうにも読めねえ字が飾ってあるってのは、まったくもってどういう料簡なんだ?」

「随分早かったな」

 音楽堂の正面口から入ってきた時、翼はちょうど手の甲で目尻の涙を拭う川原美音と、すれ違っていたのだった。そして先ほどまで美音が座っていたソファの片側へ翼は腰かけ、あらためて大きな額に飾られた<書>のほうを振り返る。

「やっぱり、どうにも読めねえな。これ、一体なんて書いてあるんだ?」

「さてね。僕にも判読不能だよ。随分な崩し字で書いてあるし……でもたぶん、『瀬をはやみ岩にせかるる瀧川の、われても末にあはむとぞ思ふ』って書いてあるんじゃないかな」

「なんだ、百人一首か」

「それより翼はやっぱり、そういう格好をすると絵になるな。今度一枚描かせてくれ」

「ははっ。孫にも衣装ってやつだよ。昔、とある洋装店の前を通りかかった時に――これと同じタキシードっぽい服がかかっててな。何故か一目で気にいって、オーダーメイドで仕立ててもらうことにしたんだ。確かに着心地は最高だけど、その後特にこれといって出番のない服でな。まさかこんなところで役立つとは、自分でも思ってもみなかったぜ」

 翼が燕尾服のネクタイのあたりをいじっていると、スワロフスキーのシャンデリアが飾られた階段から、慌てふためいたように下りてくる村雨館長の姿があった。

「す、すみません、時司先生。実はこれには、ひっじょーに深いわけがございまして……」

 村雨館長が、ロマンスグレイの髪を振り乱す姿を見て、要は組んでいた足を外し、一瞬くすりと笑いたくなった。そのつもりはまったくなかったにも関わらず、自分の絵とは別のものが飾られている前に鎮座しているなど、ある意味嫌味以外の何ものでもないと感じたからである。

「いえ、僕は館長の謝罪の言葉が欲しくて、あなたが僕の存在に気づくまで嫌味たらしくここに座っていようと思ってたわけじゃないんです。絵のことならどうか、御心配なく。ある程度、事情のようなものなら僕も察してるつもりですから……指揮者であり、この音楽祭の芸術監督でもある西園寺さんが、僕の目障りな絵をどうにかしろと村雨さんにおっしゃったんでしょう?それであなたは僕の絵のかわりといっても、どんなものを飾ったらよいかわからず、館内のギャラリーで今催されている<書>の展示作品の中から、一番有名な方のものを飾ることにした。違いますか?」

「は、はい。時司先生の絵は、西園寺先生も気に入ってらしたはずなのに――今朝一番に私の元へ電話が入りまして、中央ロビーの絵をどうにかしろとおっしゃって。理由をお聞きしましても、とにかくあの絵が音楽ホールにある内は、自分は指揮棒を振るつもりはないの一点張りなんです。それでまあ、仕方なく……今、こちらでは西園寺先生の後継問題で揉めていることもあって、あまり強硬な態度にも出られないものですから」

 要の傍らで、腰を低く屈めている村雨館長のことが気の毒になり、翼はソファを彼に譲ることにした。そして、<激流が一度別れても、再びあなたとひとつになりたいと思う>といった意味の書を、頭の後ろで腕を組んだまま、見上げることにする。

「西園寺さんの後継問題といいますと?」

「その、まだこのことは内々の問題なので、口外することはご勘弁願いたいのですが……西園寺先生は今年限りでこちらの音楽祭をお辞めになられると言うんです。自分の後継者も随分育ったから、来年からは誰か別の指揮者を選任するようにと。まあ、選任するなんて言っても、西園寺先生は自分の愛弟子であるギレンスキーさんを推しておられますから、結局はそういうことになるでしょう。でも、ここの音楽祭の顔はなんといっても西園寺先生なんです。彼の顔見たさ、演奏聴きたさによって人が毎年これだけ集まるようになったのに、それを今更……」

「ああ、そういえば思いだしましたよ。西園寺さんは確か、仲の悪かったベルリン・フィルと関係を修復して、次の音楽監督には彼が選ばれるのではないかという噂があったと思います。こういってはなんですが、世界最高峰とうたわれる楽団と、日本の一地方の音楽祭とでは、比べようがないんじゃないでしょうか。実際、<南沢湖音楽フェスティバル>は氏のお陰で知名度が上がり、たくさんの観光客を呼びこめるまでに成長している……西園寺さんがここらで次の世代にバトンタッチすることを考えたとしても、無理からぬことのような気がしますが」

「確かに、それはそうなんですがね」

 自分はその問題で心身ともに疲れきっている、とでもいうように、村雨館長は深い溜息を着いた。

「西園寺先生が<南沢湖音楽フェスティバル>のトップに就任されてから、観光客がうなぎのぼりに増えたのですよ。その先生が来年からはここへ来られなくなる……時司先生にはこれがどれだけ大変なことか、おわかりにならないかもしれません。何かをきっかけにして、一度客が引いた場所に再び人を呼びこむというのは本当に大変なことです。今ではこの時期に毎年ここへ来るのが一年のうちの一番の楽しみだと言ってくださる方もたくさんいるというのに――西園寺先生がベルリン・フィルの音楽監督に就任されるのは、そりゃ結構なことですよ。でも、我々下々のことも出来れば考えていただきたいのです。一年のうち、たったの一週間ほど、お時間をあけていただくというのが、そんなに無理なことでしょうか」

 もちろん、音楽祭が開催されるのは一週間でも、その前段階の準備など、様々なことを含めると実質的にはかなり時間をとられることになるに違いない。そして西園寺圭は、ほんのちょっとの音の狂いも許さない完璧主義者として知られているのだ。そう考えた場合、やるなら徹底的に完璧に事をなす指揮者の西園寺圭は、手を抜くことなど絶対出来ないに違いなかった。だが、村雨館長や音楽祭の関係者たちが言っているのは、ほんの一曲か二曲でいいから、先生に音楽祭に顔を出していただきたいという、そういうことなのだろう。なんにしても要はこの時、村雨館長が<揉めている>と言ったのは、そうした意味合いのことに違いないといったように解していた。

「まあ、もし来年もまた西園寺さんが芸術監督を続けるのであれば、僕の絵は楽屋の隅にでもしまっておいて、間違っても彼の目に触れないようにしたほうがいいかもしれませんね。どうやら僕は西園寺さんの逆鱗に触れてしまったようなので、館長もとばっちりを喰いたくなければ、そのことについて<何故>といったようには、氏にお聞きしないほうが懸命かと思われます。何より、あの絵はこちらへお売りしたのですし、そのあとどうなさろうと、それは村雨さんの自由でもありますから」

「いえ、まったくもって私の不徳の致すところでして、申し訳ありません」

 そう言って深々と頭を下げると、村雨館長は再び、あたふたしたような体で、深緑色の絨毯の敷かれた階段を上っていった。おそらく、一年の間で今ほどこの辺鄙な町が忙しく、また盛り上がるシーズンはないのだろう。音楽祭の責任者のひとりとして、彼にはなさねばならない仕事がたくさんあるに違いなかった。

「ふうん。西園寺の奴、今年でここの音楽祭の監督を降りるのか」

「まあ、もしベルリン・フィルの音楽監督の噂が本当なら、無理ないんじゃないか?来年からはドイツを本拠にして活動するってことになると、あまり日本と向こうを行ったり来たり出来ない気もするし……」

「じゃあさ、あの美音って子はどうなるんだ?息子のほうはもう二十歳越えて自立してるから別としても、西園寺圭はあの奥方とドイツへ行くってことになるんだろ。俺はクラシックのことはよくわからんけど、それでも週刊誌であの夫妻が美男美女としてフラッシュたかれてるみたいな写真は何枚も見たよ。唯一、妻という名のアクセサリーとして役立ってるみたいな感じの写真だったけど」

 翼が再び要の隣に戻ってくると、大理石の柱の影あたりから、ドレスアップした三人組の女性が、こちらに携帯のカメラを向けてきた。おそらく、要が前に言っていたとおり、オペラ歌手のひとりか何かと間違われているのかもしれない。

「要、そろそろ外に行こうぜ。俺、ああいうの大っ嫌いなんだ。かといって、「勝手に写真撮ってんじゃねえよ」とか言うのも面倒くさいし。続きは歩きながら話そうぜ」

「ああ」

 そう要が返事をした時、ちょうど美音が彼女と同じ楽団のヴァイオリニストたちとエントランスを歩いていくのが見えた。ただの偶然ではあるが、要は翼と一緒に若干の距離を置いて、彼らの後ろについていくような形となる。

 音楽ホールと野外音楽堂との間は、歩いて三分ほどの距離だった。糸杉や樅の樹に囲まれた野外音楽堂の前には、よく手入れの行き届いた芝生が広がっており、昼間はそのまま芝生の上に寝転がって演奏を聴いている客も多い。だが、今夜の演目では教会にあるのとよく似た木の長椅子や、あるいはその周囲に放射状に並べられたパイプ椅子に座っている観客の率のほうが高かった。

 翼と要とは、内々に色々話したいことがあったので、近くの売店で防水シートを買うと、芝生の片隅に陣取り、そこに座ってオペラを鑑賞するということになる。

「なんだかだんだん、話がややこしくなってきたように感じるのは俺だけか?しかもさ、よく考えりゃ当たり前のことなんだけど……東京オーケストラの楽団員ってのは、あんだけたくさんいる」

 オペラ・ピットに整然と並ぶ奏者たちの群れを垣間見ながら、翼は言った。

「あの中に首藤朱鷺子が楽団員だった頃からいた人間ってのは、何人くらいいるものなんだろうな。警察ってわけでもないのに、『ちょっとお聞きしたいんですが……』なんて聞いてみたところで、どの程度のことを聞き出せるかとも思うし」

「まあ、その場合はコンマスの近藤弓親さんか、副コンマスの弥生遊馬さんにでも聞くのが一番手っとりばやいだろう。近藤さんは在籍二十年の大ベテランだし、弥生さんのほうは在籍十数年って人だったと思うから。そして、彼らに首藤朱鷺子が辞めた経緯と、また当時彼女と仲の良かった楽団員で、最近まで連絡を取りあってたと思しき人間はいるものかどうかってことも、ついでに聞いたほうがいいかもしれない。けど、あの中に首藤朱鷺子殺しの犯人がいるかもしれないと想定した場合――多少注意が必要かもしれないな」

「そうだよな。その話を聞こうと思ったコンマスか副コンマスの奴が実はビンゴだったって可能性もあるってーか」

 翼は防水シートの上にごろりと横になると、夕焼けと宵闇の狭間にあるような空と、樹木の投げかける深く濃い闇の間を眺めつつ、野外音楽堂の幕が開くのをじっと待っていた。

「僕さ、昼間翼に西園寺圭が犯人である可能性も10%未満ではあるが、なくもない……みたいに言ったけど、実をいうと本当は彼のことをあまり疑ってないんだよな」

「それゃまたなんでだ?」

「理由は簡単なんだけど、西園寺圭であれ誰であれ、音楽家が人を殺すっていうのは、僕の中じゃ確率として極めて低いことなんだ。ドラマなんかじゃ、指揮者やピアニストが実は犯人でしたとか、画家が犯人だった、医者が犯人だった……みたいなことがよくあるけどね、人を殺したいほど憎んだりするっていうのは、芸術家にとってはある部分芸術のいい肥やしなんだよ。誰かを殺したいと思ってるヴァイオリニストが殺気立った演奏をするとか、そういうことじゃなく――うまくいえないけど、とにかくそうした感情体験があると、間違いなく演奏にいい幅が出てくるものだと思う。そしてそうしたことを通して昇華してしまう部分が大きいから、実際に人を殺すなんて、よっぽど追い詰められてでもいないことには無理だって気がする。翼、おまえだって医者として思わないか?手術中におまえがちょっと指を滑らせただけで、患者の命はない……いつでも誰かを殺せる立場にいるような人間は、わざわざ殺人になんて手を染めないものなんじゃないかって、僕はそんな気がして仕方ないんだけど」

「要の言いたいことはまあ、芸術なんぞにおよそ縁のない俺にも、わかる気はするよ」

 翼は、夕暮れの紅さと濃紺の闇の混じりあった空を、じっと見上げていたが、この時野外音楽堂の幕が開いたのを見て、ぱっと体を起こした。

 オペラ<カルメン>については、他でもない首藤朱鷺子の著作『わたしをオペラに連れてって』を読んで、大体のところ翼もその内容を把握していた――というよりも、この日の午後に知ったばかりだった。

 真剣に舞台に見入っている要のことを横目に見つつ、意味のわからないフランス語の歌を聴きながら、翼はなおも頭のどこかで考え続ける。今、野外音楽堂の観客席には、翼や要と同じようにシートを芝生に敷いて眺めている客も含めると、およそ三百人ほどの人間が集まっていただろうか。

 要は音楽家は殺人に不向きな人種だ……といったようなことを言っていたが、翼はそうは思わなかった。今、オペラ・ピットの中にいる誰かが、首藤朱鷺子を十五階の高さから突き飛ばしたにも関わらず、少しも旋律を乱すことなく何かの楽器を弾くなり吹くなり叩くなりしていたとしても、なんら不思議はないといったようにしか翼は感じない。

 自分にしても、初めて盲腸の患者の腹部にメスを沈めるという時――どれほどの緊張感があったことだろうか。だが、人というのはすべてのことに大抵慣れてしまう。頭が潰れ、片目もない状態だが、かろうじて息はある……そんな患者が緊急救命室に運ばれてきても、翼はもはや動じることはない。最善を尽くしたにも関わらず、患者が息を引きとるというのもよくあることだったが、悲しみに暮れる遺族にそのことを説明するのにも、すっかり慣れてしまった。そしてその過程で何か「不適切」と思われる<ミス>があった場合――自分もまた殺人者となんら違いはないのかもしれないと、翼はそんなふうに感じもする。

 オペラ<カルメン>の幕が上がり、カーテンコールが終わるまでの約二時間半ほどの間――時々、防水シートの上に横になって、満点の星空を見上げる以外は、そんなことをぼんやり考えながら翼は過ごしていた。

 そして最後、悪女<カルメン>がドン・ホセに刺されて死ぬシーンを見て、(そうされて当然だな、この女は)などと思いつつ、首藤朱鷺子が『オペラ、あ・ら・かると』に書いていたカルメンについての文章を思いだしていた。

 >>普通に見た場合、<カルメン>はどこか中途半端、消化不良な物語であるように感じられる。だが、<カルメン>というのは愛の絶頂で滅びる女の物語なのだ。ドン・ホセを虜にし、そしてエスカミーリョに心変わりするカルメン……嫉妬に燃えるホセに刺される瞬間――カルメンの心がわかるオペラ歌手なら、誰もがこう思うに違いない。「これで良かった。何故ならカルメンは、仮に相手がエスカミーリオであったとしても、満足などしない女。そして嫉妬に狂う第二のホセ、第三のホセを作り続けながら生き、その中の彼女がもっとも愛したホセに殺されるというのが、カルメンという女の望みなのだから」と……。

(ふう~ん。そんなものかね)と、タブレット端末をスクロールしながら翼は思っていたが、今こうして舞台を見ていると確かに少しばかり鳥肌が立った。フランス語などさっぱりわからない翼ですらそうなのだから、こういう種類の芸術が<わかる>友人としては、その感動も一潮に違いないと、翼は隣の友の様子を見ていて感じとる。

「すごく、いい舞台だったよ。主要キャストはほとんど無名に近い新人ばかりだったけど……むしろ、だからこそ逆に良かったのかな。演出や効果もとても冴えていたしね。今なら、あの西園寺の奴にキスしてやってもいいな、僕は」

「要が言うとBLっぽく聞こえるからやめろって。なんにしてもおまえ、あの美音ちゃんって子と一緒にホテルまで帰るんだろ。じゃあまあ、俺はひとりでこの銀の防水シート抱えて、間抜けっぽく戻ることにするわ。それじゃあな」

 興奮冷めやらぬといった親友に対し、欠伸をひとつして見せ、翼はその場から立ち上がると、さらに思いきり伸びをした。

「その、さ。美音さんのことは翼が送っていってくれないかな。僕は西園寺氏と、ちょっと話をしてから帰ろうと思うから」

「まさか、あいつのほっぺに本当にチューしてくるつもりなのか」

「違うよ」と、要は笑って言った。「すごくいい舞台だったから……これから打ち上げみたいなことがあるのかもしれない。もしそうなら、僕も西園寺氏と話すのはまた後日ってことにしようと思うんだけど」

「そういうことなら、あの美音ちゃんもそうなんじゃないのか。だったら俺、やっぱりひとりでホテルに戻ろうと思うけど?」

「いや、それは駄目だよ。首藤朱鷺子の部屋の隣に美音さんはいるんだから、翼からもノックの音が聞こえてもすぐ出ないようにとか、それが同じ楽団の仲間であっても部屋へは入れず、人目のある場所で会うよう注意しておいてくれないか?本当はどこか別の部屋に移ってもらったほうが安全なんだけど……最上階に一室あいてるスイートっていうんじゃ、あの奥方といつ顔を合わせるかもわからないしな」

「おまえ、最初は半分遊びなのかと思いきや、結構あの子に入れこんでるのな」

 翼は防水シートをコンパクトに折りたたむと、何故か急に心の傷が痛みはじめるのを感じた。もちろん、親友に対して嫉妬心を覚えたからではない。ただ、オペラの<カルメン>を聴いている間、満月に近い月や光り瞬く星を見上げながら、自分の隣にいるはずもない人間の存在を感じ、少しばかり悲しくなったという、それだけのことだった。

「人は、自分の手に入らないものほど欲しくなる……そういうものなんじゃないか?僕は単にね、少しばかり感動してるんだよ。あんなふうに周囲の汚れに染まらずに、人は生きていけるものなのかと思ってね。もちろん、西園寺氏が強力なバリアを張ってその部分を守ったって部分も大きいんだろうけど……奥さんとは別れない、愛人とはよろしくやりたいだなんて、いつか必ずどこかで何かが壊れる臨界点ってものがあるものだよ。僕はその点について西園寺氏に確認をとっておきたいっていう、それだけなんだ」

「そっか。そいじゃまあお気張りやす」

 翼はそんなふうにどこか気のない返事をして、譜面台の前から立ち上がり、オペラ・ピットの外へ出てきた川原美音の元へ向かった。彼女はヴァイオリンケースを手にしており、どこかまだ夢見心地といったように、少し顔を上気させている。

「あ、あの……要さんは?」

「あいつはちょっち野暮用があってね。でも、要からどこまで聞いてるかわからないけど、美音ちゃんをひとりにするのは危険だってことでね。そこでオイラがかわりの用心棒ってわけ」

「そうですか。じゃあ、このまま帰りましょうか」

 美音があまり深くものを聞かずに、自分と一緒に歩きはじめるのを見て――やはりこの時も翼は、胸に強い痛みが一瞬走るのを感じた。

(なんでだ?俺はこの子のことなんて、なんとも思ってないはずだがな)

 そう思ってから、美音の横顔を見ていて、一瞬あとにふと気づく。

(あ、そっか。この子は似てるんだな、あいつに。具体的に顔がっていうんじゃなく、口数が少ないところとか、あんまり俺のほうを見て話さないところとか……)

「美音ちゃんはさ、ズバリ、俺みたいな男のこと、キライでしょ?」

「えっと、そんなこと……」

 ないです、とははっきり美音が言わないのを見て、翼はからからと笑った。

「正直で実によろしい。本当は、わかってたよ。野外音楽堂のところで声かけた時も、俺なんかと一緒に帰るんなら、ひとりでホテル戻りたいって顔に書いてあったし」

「ごめんなさい。わたし、人見知りするもんですから……この歳になってまだ人見知りだなんてほんと、子供みたいで恥かしいんですけど」

「それより、楽団員の人たちと打ち上げとか、そういうのはいいの?」

「ええ。打ち上げってわけじゃないんですけど――そういうことに参加したい人は、十六階にあるラウンジに集まることになってるんです。もちろん強制じゃないので、音楽祭のある一週間の間、一度も出席しない人もいます。うちの楽団ってそういうところ、うるさくなくてすごくいいんですよ」

「へえ……まあ確かに、百人以上も人間がいたら、あんまり締めつけが厳しいとつらいかもしれないよな。でも、突然核心に触れることを聞くようだけど――君が西園寺氏の愛人だってこと、知ってる人が楽団内にはいたりするのかな?」

 翼は一応、周囲に目を走らせたあとで、少しばかり声のトーンを落としてからそう聞いた。ちょうど白樺林を抜ける時のことで、翼と美音の前には、数メートル離れたところに楽器ケースを手にした楽団員数名が歩いていくところだった。そして後ろを振り返ると、ドレスにタキシードといった格好の若いカップルが、何か笑いさざめいている様子である。

「あの、先生とのことは誰も……先生はそのあたりのことについてはけじめをしっかりされる方なので、わたしと先生の関係を疑ってる人は誰もいないと思います」

「っていうことは、あの元ミスユニバースの奥方も、美音ちゃんのことは知らないってこと?ついでに、舞台演出家の息子も、君が父親の愛人だとは知らないのかな。俺はね――要の話を聞いてて少し不思議だったんだ。あいつは君のこと、汚れを知らないとかなんとか言ってたけど、不倫しててすぐ近くに相手の奥さんがいて、しかも息子とは同じ職場……にも関わらず、平気な顔してる女が純粋とか、俺の中では絶対ありえないわけ。キツイこと言うようでごめん。でも俺、自分が疑問に思ったことは全部口に出して言っちゃうってだけで――深い意味はないんだ。君が不倫してることは道徳的に良くないとかなんとか、説教垂れるつもりも一切ない。ただ、単純な好奇心から知りたいんだよ。そういう状況下で、君は本当は何をどういうふうに感じてヴァイオリンを弾いてるのかなって」

「あの、わたし……わたしにも、よくわかりません。でも、奥様にお会いすることがあっても、あんまり後ろめたいとか、そんなふうには思わないんです。翔さんとも何度かお話したことがあるんですけど、とても気さくないい方で、先生とは血の繋がった親子なのに、まるで性格が正反対なんです。だから、奥様のことは遠くから見ていて「お綺麗な方だな。流石は先生が結婚相手にお選びになった方だな」って思うし、翔さんのことは舞台演出家として尊敬してるっていう、ただそれだけっていうか……」

「ふうん。あと、もう一個聞いてもいい?美音ちゃんはさ、要とつきあいたいとか思ってんのかな。君の敬愛する西園寺氏は結婚してるし、奥さんとはもうすっかり愛の冷めた関係って奴なのかもしれない。でも離婚は出来ないっていうか、しないらしい。だったら、前途有望な画家と結ばれたほうが得策だとか、そんなふうには考えない?」

「あ、あの、わたし……」

 翼の物言いがあんまり直截的で――本人が言ったとおり、悪意があるわけではなく、単純な子供の好奇心で聞いているとわかるだけに、美音はおかしくてたまらなくなった。

「すみません。おかしなところで笑ってしまって……結城先生は心配なんですね、要さんのことが。でも大丈夫です。わたし、これでも一応わかってるつもりですから……要さんのような人は放っておいても女の人が寄ってくるような方です。そしてそれは先生も同じなんです。わたしは先生の奥様のように、そのことで誰かを責めたりとか、とても出来ないっていうか、そういうふうに強く対等になることが出来ないんです。先生の奥様はとてもお強い方ですし、きっと要さんも最終的には彼女のように綺麗で美しく、聡明な方と一緒になられるんじゃないでしょうか」

「ふむ。今の君の意見は興味深いが、いくつか間違っておるぞよ。間違いその一、俺は要のことなんか、これっぽっちも心配してないし、あいつは間違っても西園寺圭の奥方みたいなタイプとは結婚しないだろうね。俺はさ、見てのとおり羽毛布団の羽より軽い男なわけ。おにゃのこが寄ってきて鼻の下伸ばしてるってことはしょっちゅうあるけど、そういうのは本当の意味でモテてるってのとは違うからな。単に一瞬ワッと女の子がたくさん寄ってきて、気がついたらパッと散ってくみたいな、そんな程度のことだし。けど要は、そういう意味で俺よりタチが悪いわけよ。俺は見るからに軽そうな女としか遊ばないし、そこらへんは一応選んでる……まあ、酔ってる時の判断には責任持てないけど。でも要の奴はさ、俺なんか遥かに可愛いと思えるくらい、本当はすごく残酷な奴なわけ。向こうが自分にメロメロになるよう仕向けたくせに、「君のお陰でいい絵が描けて良かった。それじゃさよなら」で終わりだからな。つまり、何が言いたいかっていうと――俺が心配だったのは、美音ちゃんのことなわけだ」

「すみません、わたし……なんだか誤解してました、結城さんのこと。でもやっぱり、大丈夫です。要さんが本気でわたしのことを相手にするだなんて思ってませんし、結局わたし、駄目なんです。先生に呼ばれたり、おまえはああしろとかこうしろって命令されると、パブロフの犬みたいに言うなりになっちゃうっていうか……」

 美音は一瞬涙ぐむと、「駄目ですね、ほんとに」と言って、目尻の涙を拭っていた。翼はといえば、(なるほど。これは要じゃなくてもちょっときゅんとくるな)と分析しつつ、(普通の状態ならすでに肩を抱いてるところなんだがなあ)などと、ぼんやり考えていた。

 そして、白樺林を抜けてホテルへ戻るまでの間――翼は燕尾服には不似合いな畳んだ防水シートを振り回しながら歩き、時折月明かりと星の輝きが振り注ぐ天空を見上げていた。本当に、まるで夢のワンシーンか一幅の絵画でもあるかのように、美しい夜だった。目に映るものすべてが美しく、そば近くを歩いている人々は、善良な温かい心しか持っていないようにすら感じられる。そして、白樺林の幹の白さは月の光に白銀色に映えて見え、また、半分闇に溶けこんだ緑からは、清らかな夜気のみが吐きだされているように感じられるような、そんな夜……。

(ああ、そうか。これが要の奴がよく言ってた<魂の美>っていう奴か。カルメンが開幕になる前、要の奴が言いたかったのはつまり、こういうことなんだろうな。クラシックとかオペラって奴は、天国ってのが言いすぎなら、魂の国に流れてる波動みたいなものに近いんだろう、きっと。そこに常時触れようとする、その国の高みを目指すといったタイプの人間は、確かに殺人に不向きだとは言えるだろうな)

 それから翼は、この辺鄙な町で行われる音楽祭に、何故毎年こんなにも人々がやって来るのか、突然にして理解が出来た気がした。白樺林の頭上から、今にも滴り落ちてきそうな星月夜に、夢の中でのように美しく着飾った観客たち……ここはまるで、たったの一夜限り、あるいはたったの一週間限り、人が頭の中で思い描く<夢の世界>が一時的に体験できる場所なのだろう。

 ほんの一時的、限定的ではあるにせよ、「それ」を感じられる心、魂を持つ人間にとっては、この地上は天国(魂の王国)と何ひとつ変わらないのだということを知ることの出来る、素晴らしい場所であるのに違いない。

(もっとも俺も、前までの自分だったら……そんなことにはまるで気づくことなく、ただ通り過ぎていただろうな。そしてこの気配は幸福に満ちていながらも、どこかに一抹の悲しみを感じるのはたぶん――いずれ自分が夢から目覚めて、現実と向き合わなければならないと予感する、そのせいなのかもしれない)

 奇妙な話だが、翼はこの時、これだけのシチュエーションが揃っている上で、すぐ隣に年頃の美しい娘がいるにも関わらず、彼女に対してなんらの欲望も抱いていない自分に、とても満足していた。

 そして、まるで魂の国では肉体の言語は必要ないとばかり、特に気詰まりになるでもなく、美音とそぞろ歩いてホテルまで戻り――そこのエントランスに到着したあたりで、翼はようやく口の中に言葉を取り戻していた。

「お帰りなさいませ」と、音楽祭から帰ってきた客のひとりひとりに、深々と頭を下げる田沼支配人の偽の頭髪を見て、翼は突然この世の現実というものに引き戻されたのである。

「俺、ちょっちあんたに聞きたいことがあるんだけどさ」

 田沼支配人は、翼が一瞬誰だかわからなかったらしく、軽く小首を傾げたあとで――「ああ、これは結城先生じゃありませんか」などと、どこか寝ぼけたことを言っていた。

「あのさ、首藤朱鷺子が1527号室へ移ってくる前って、彼女は何号室に部屋をとってたのかな?ついでに、俺の推測によれば、そこはこのホテルの中で一番安い部屋だったんじゃないかって気がするんだけど……違うかな」

「まあ、確かにそうでしたよ」と、田沼支配人は人の好い顔に苦笑を浮かべつつ言った。「彼女が最初にお取りになったのは、四階の4048号室――つまり、階数もあまり高くなく、湖が正面からは見えないタイプのお部屋でした。当ホテルでは、一応全室から湖が見えるよう配慮して設計がなされてますが、それでも窓の一部からどうにか湖が見えるといったタイプの部屋が存在していまして……そちらのタイプの部屋で、浴室に露天風呂もジャグジーも何もついてないといった場所は、一番安いんですよ。それと首藤朱鷺子さんは、かなり早い段階で当ホテルに御予約されていたので、その種の割引もありました。おひとりでの御宿泊ということも考え合わせますと、一番の格安料金でお泊りになったといってよろしいかと存じます」

「なるほどね。あと、彼女がその後移った1527号室の隣、1528号室には誰が泊まってるかなんて――やっぱり、個人情報として教えてはもらえないんだろうね?」

「すみません、結城先生。残念ながら……」

 ここで田沼支配人は、フロントで何かトラブルがあったのを見咎めて、翼に対し一礼すると、そちらのほうへ去っていった。

「あの、結城さん」

 何か深く考えごとをしていると思しき翼に対し、彼の顔を横から覗きこむようにして、不意に美音が言った。

「こんなこと、わたしが言っていいかどうかわからないんですけど……1528号室には、ルカ・ドナウティとレジーナ・ドナウティのご両親が宿泊してると思います。今日のオペラで<カルメン>を演じてたのが、ピアニストのルカの妹なんですよ。たぶん、ふたりで相談してご両親をこの音楽祭に招待しようって思ったんじゃないかしら?」

「へえ。あの子がレジーナ・ドナウティ・ミサワだったのか」

 翼は<クリスタル・シャングリラ>が一階へ下りてくるまでの間、なおもぼんやりと考えごとを続けていた。言ってみればこの間、翼は美音のことをいないも同然というようにないがしろにしていたが、彼女のほうではそうした沈黙がまったく苦ではなかったらしく、美音は美音で、翼とは別の考えごとに耽っていたのだった。

「じゃあ結城さん、わたしはこれで……」

「ああ、そうだった。忘れてた」

 翼もまた十五階で一度下り、要から言い渡されていたこと――「部屋がノックされても簡単に出ないこと、チェーンロックはかけたまま、必ず相手の顔を確認すること、またそれが同じ楽団員であったとしても、男女問わずなるべく人目のあるところで話をすること」――といったようなことを、翼にしては珍しく、子供にかんで含めるように、美音に言って聞かせたのだった。

「あの、要さんも結城さんも、どうしてそこまでわたしのことを気にしてくださるんですか?」

「まあ、要の奴にはまた別の理由があるだろうけど……俺に関して言えば、なんか気になるってやつだな。それでも君がゆう子と一緒なら、ここまで気にはしないんだけど、もし美音ちゃんに何かあった場合、それは俺らの責任になるっつーか、とにかくそういう感じがするわけ」

「はあ」

 美音は翼の説明ですべて納得できたわけではないようだったが、それでもヴァイオリンケースを手にしたまま、最後にはにっこりと微笑んでいた。

「なんにしても、結城さんは要さんの友人なだけあって、とてもいい方であることがわかって良かったです。それじゃあ、おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

 翼は美音が部屋の鍵をかけ、チェーンロックを下ろす音を聞いてから、三基並んでいるエレベーターのほうへ向かった。その途中で、1528号室、1529号室の前を通りかかり――ふと、何か奇妙な物思いに捕われる。

(果たして、ルカ・ドナウティの両親や妹ってのは、彼が西園寺紗江子と不倫してるのを知ってるんだろうか?)

 ゴシップネタとしては、一流のピアニストが超一流の指揮者の妻と不倫しているということになるのだろう……そう考えて、翼はさらに首をひねらざるをえない。

(そういや昔、何かの推理小説かドラマで聞いたことがある気がするんだよな。殺人事件はジグソーパズルのピースみたいなもんだって話。つまり、それでいくと今俺と要は、千ピースあるパズルの内の、縁の部分だけ順番に繋げてるっていうような段階なのかもしれん)

 翼が誰もいないエレベーターに乗り、二十階へ到着すると、彼はそこで一瞬ドキリとした。正確にいうとするならば、翼をして一瞬ドキリとさせるほどの美女とすれ違ったのである。

(西園寺紗江子――!!やっべえ。週刊誌の写真なんかで見るより、実物のほうが百倍綺麗じゃん!)

 突然不意打ちを喰らったとでもいうように翼は振り返ったが、すでにエレベーターは無情にも閉じかけており、翼は彼女が素性を隠すようにサングラスをかける姿しか、垣間見ることは出来なかったのだった。

 そして(美魔女ってのは、ああいう女のことを言うんだろうな)などと考えつつ、2002号室へ辿り着いたあとは、何か無性に腹が立って仕方なかった。何故といえば、西園寺圭はあれほどの美貌を持つ女を妻に持ち、さらには年若い純粋無垢な娘のことも愛人にし、またヨーロッパ各地にもそうした女性たちが散らばっているらしい……などと思うと、世の中は何ゆえにこうも不平等なのかと、まるでモテない男のようにクッションを歯噛みしたい気持ちに見舞われたのである。

「にしても要の奴、おっせえなあ」

 親友が西園寺圭と一体どんな話をしたのか、帰って来次第すぐ聞きたかった翼は、十一時半まではどうにかこうにか睡魔と戦うことが出来たのだが――その後、居間のソファの上でこっくりこっくりやりはじめ、最後にはタブレット型端末を片手に、寝室へ行くということになった。

(マジで眠すぎ……ま、要のことは明日の朝、いの一番で叩き起こして話を聞くことにするか)

 翼はよく糊のきいた浴衣の前身ごろをかきあわせると、帯を軽く緩めてから、ベッドの枕に頭をつけた。そしてこの日の夜――妙にうなされながら翼は深夜の三時に目覚め、自分が気味の悪い汗をかいていることに気づいた。すぐ隣のベッドを見ると、ぐっすりと安らかに眠る友の姿があり、翼は彼が帰って来たことにまったく気づかなかった自分に対し、何故か奇妙な既視感にも近い感覚を味わった。

 つまりそれは、きのうの夜とおとついの夜の深夜三時の眠りを取り替えても、誰もまったく気づかないだろうといったような、翼自身にもうまく説明のつかない感覚だったといえる。

(ま、なんでもいっか。今すぐ要の奴を叩き起こして、西園寺圭と何を話したのか聞きたい気もするけど――それは明日にしよう)

 こうして翼は、汗を吸いとった衣類を交換し、浴衣を着替えると、再びベッドの中にもぐりこんだ。そしてこの翌日、西園寺圭が何者かによって殺害されたというニュースに接してからは、翼はこの夜に自分がどんな夢を見ていたのかが、気になって仕方がなかった。無論、その夢の内容を思いだせたところで、西園寺圭が誰に殺されたのかは、まるでわからないままだったにしても……。



 >>続く……。





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