天使の図書館ブログ

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手負いの獣-15-

2013-03-14 | 創作ノート
【パヴォニア】フレデリック・レイトン


 きのうの前文でルンバールセットと書いてて思いだしたんですけど、このルンバールセットが土曜日に急患があって三個使われ、その日の夜に夜勤だったことがあった気がします(^^;)

 つまり、基本的に中材の職員さんоr手術室付看護師さんというのは土日・祝はお休みなので、病棟にはルンバールセットが残り一個しかない……という状況だったんですよね。

 わたしもあんまり昔のことなので、はっきり覚えてないものの、その時土曜の日勤だった介護士さんが中材に連れてってくれて、「一応予備がここにあるんだけど」と教えてくれたというか。

 でもその予備っていうのも確か、一個だったか二個だったんじゃなかったかなと思います(^^;)

 滅多に一度で三個出るっていうことはないものの、介護士さんとか助手っていうのは、それがどういう状況下で使われるのかとか、そういうことがまったくわからないんですよね。で、中材にいる滅菌専任の看護助手さんっていうのもそれは同じで、病院の手術器具とか、どういう場面でどういうふうに使用してるのかはまるでわからないものの、とにかく機械的にすべて名称を覚え、滅菌作業に従事しているというか(時々、手術室専属の看護師さんから「これはこういう時に使うんだよ」と、小話的に聞いたりする程度と聞きました)。
 
 そんでもって、その時問題だったのが、また次にルンバールが必要になった時、一個で間に合えばいいけど、また二個とか三個必要になったら、中材の予備の部屋から持ってくるしかない……でも、四個必要になってないってなったらどうするのか、ということでした。

 まあ、おそらくそんな状況にはならないだろうけど、一応ありえないことではないっていう話として、申し送りの時にその介護士さんは教えてくれたというか。

 もちろんその時、そういう不幸(?)な状況にはならなかったわけですけど、そのことを教えてくれた介護士さんには本当に心から感謝しました。何故かというと、また急患があってルンバールセットのある場所を見たら、一個しかない。で、その状況でもう一個必要だって看護師さんに言われたら……わたし、中材に予備のある場所があるなんて知らなかったので、相当慌てただろうと思います(^^;)

 いえ、本当に何気ないようなことですけど、基本的に医療ミスっていうのは、こういう種類の何気ないことから発生するんじゃないかなって、その病院にいる時に思いました。

 たとえば、看護師さんにしても、やっぱり人間関係とかそれなりに色々あったりするんですよね。

 なので、あまり馬の合わない同僚に対しては、必要最低限のことしか教えないとか、実際にあると思います。もちろん、患者さんの命とか体のことがかかってるので、そこは義務として最低限の情報は伝えるんですけど、実際にはもっと「このへんがちょっと気になるから、注意してね」とか、本当に何気ない一言が大切とか、ありますよね(^^;)

 わたしにしてもその時、もし「予備のある場所は△△さんも知ってるだろう」とか、「ルンバールの洗ったものが三個あるんだから、残りが一個しかないことは見ればわかるだろう」なんて思われてたら、万が一の時には看護師さんに怒鳴られて間違いなく泣きを見てたというか。。。

 この間もある本で「病院で働いている人たち」的なことが書いてあって、そこに看護助手も含まれてたんですけど、仕事内容は患者さんの食介(食事介助)とベッド回りの環境整備、あとは物品の整理やベッドメークなど……みたいに書いてあって、「そう書くしかないよねえ」と思ったりしました(^^;)

 今は職安にいくと、看護助手募集の資格の欄に、ホームヘルパー2級以上って書いてあったりするんですけど、それでも資格不問、無資格可っていう病院もまだ結構あると思うんですよね。もちろん、本当に患者さんのベッド回りの環境整備や病棟の洗いもの、物品のチェックだけ行ってるような看護助手さんもいるとは思うんですけと……大抵は若干「え?それ、本当は看護師さんがする仕事なんじゃないの?」っていう、微妙にはみだした部分があるような気がします。

 手術室の滅菌の職員さんにしても、ひたすら洗い物をして滅菌する毎日なわけですけど、あれもよく考えてみると「まるで資格のない人が手術室のすぐ横でそんなことしてるんだ☆」みたいな職業だとも思います(^^;)

 なので、もし病院勤めをしてみたいけど、資格を何も持ってないという方の場合は、看護助手や中材で募集してる滅菌の職員さんの仕事を探してみるといいかもしれません。

 あと、医療関係の人材会社に問い合わせると、無資格でも募集してる病院を紹介してくれたりします。そこで滅菌の職員さんを募集してることもあれば、病院から業務委託を受けてるリネン関係の会社が滅菌の職員さんも募集してることがあったんじゃないかな~と思います。

 病院関係のお仕事は、それが放射線科の看護助手さんであれなんであれ、一度内側に入ってみると「ははあ。こうなってるんだあ」みたいなことがわかって、色々面白いんじゃないかと思います(^^;)

 それではまた~!!



       手負いの獣-15-

 今年度のイケメンドクターコンテストが終わって以来、翼はちょいちょい七階の緩和ケア病棟へ遊びに行くようになっていた。一応用向きは、清川さんのその後の容態を知るためといったところだったのだが、そちらのほうはどちらかというとただの建前で、翼は単に山田医師と話がしたかったのである。

 彼は大抵、八時頃まで病院にいることが多く、休日の時にも死期が近いと感じる患者の容態が気になる時には出勤してくるとのことだった。ゆえに、おそらく病院の独身寮のようなマンションにいる時間より、K病院にいるほうが長いのではないかというのは、緩和ケア病棟の看護師たちの言い種である。

「ほんと、あんなに患者さんの身にばかりなっていたら、先生自身が燃え尽き症候群になっちゃうんじゃないかって心配だわ」

 翼はナースステーションにいた夜勤の看護師に、「山ちゃんどこ?」と聞くと、彼女が「たぶん、707号室ですよ」と答えるのに従い、そちらの病室へ向かった。ドアをノックしようと思うが、ふたり分の話声が聞こえ、何か深刻そうな雰囲気を孕んでいるように感じたために、そこで暫く待つということになる。

 緩和ケア病棟はすべて個室であり、そこには<桜庭泰蔵>と書かれた札がかかっている。翼の記憶する限り、左半身麻痺と聞き手に拘縮のある、相当気難しい九十歳過ぎのお年寄りだった。

「……それで、先生。わしはな、その時戦友を見捨てて逃げたのですわ。自分の命が惜しゅうてならなくて、敵兵のことも何人殺したかわかりません。そういう時、人間というのはまったく手負いの獣も同然ですよ。追い詰められればどんな恐ろしいことでも平気でやってのける……わしは戦争から帰って来た時、誰にもなんもしゃべりませんでした。その後結婚した妻にも、子供にも誰にも……けど先生、最近よく夢を見るのですよ。わしが見捨てた親友が、地雷を踏んで片足なくした親友が、両足でしっかり立って、わしに向かって微笑みかけるんです。『おまえも、随分苦労したなあ。そろそろこっちへ来いよ』って。その夢の余韻というのが、なんとも素晴らしくて、わしは長いこと自分の心を罪悪感でがんじがらめにしておったもんで、自分の無意識の中にそういうもんはないということだけはよくわかっている。おかしな話、親友が言っておったとおり、わしは戦後ものすごい苦労をしました。そして、あいつにはそのことがよくわかってるんですよ。わしはあいつの眼差しを一目見ただけで、そのことがすぐわかった。正直、わしはずっとつらかったのです。あの時あのまま死んでおったほうが、生き伸びるよりずっと良かったと思うことさえ何度もあった。そして病気になってからは、あの時の罰が今ごろになって当たったのではないかと心密かに思っていました。でも、関係なかったのです。あいつはとっくにわしのことを許していた。先生、わしは本当に恥かしい人間です。もし自分が逆の立場だったら……わしはあいつと同じように、とっくにあいつのことを許していたと思います。なのに、そのことがずっとわからなくて、こんなにも長いこと、苦しみ続けたんですよ……」

 感情があまりにも激したためであろうか、ここで桜庭泰蔵は何度か咳き込んでいた。「大丈夫ですか、桜庭さん」と、山田医師が患者の体をさすっているような気配が感じられる。

「先生、もう随分おそうなってしまいました。でも、お話できて良かったです。どうしても誰かに聞いてほしくて……その時、山田先生以外の人の顔は、誰も浮かんできませんでした。もし近いうち、夜中にわしのことで呼びだされても、来んといてくださいね、先生。わしはもう、大丈夫ですから……これでいつ死んでも、本当に悔いはない……」

 話の内容があまりに重いものであったため、翼はその場から身を翻し、出直して来ようかと考えた。と、ちょうどその時707号室のドアが開き、若干涙目となっている山田医師と、翼は顔を合わせることになる。

「ああ、結城先生。もしかして清川さんのことですか?つい先ほどオピオイドを追加したばかりですので、今はまだ眠っておられると思いますが……とりあえず病態のほうは落ち着いておられますよ。長男の方が結婚したばかりで、近くお孫さんがお生まれになる予定とお聞きしています。それまではなんとしてでも生き伸びたいとおっしゃっていて。職人気質な方ですから、まわりに弱音を吐かない様子を見ていると、むしろ少し心配なんですけれどね」

「いや、実は俺、そうしたことも含めて、山田先生にちょっと話があってさ」

(精神腫瘍科の溝口先生って、どんな人?)――などというある意味好奇心に満ちた質問をするのが恥かしくなり、翼はどこか罰が悪そうに頭をかいた。

「そうですか。僕ももう仕事終わりですし、少し飲みにでもいくっていうのはどうですか?」

「ああ、そうだな。正直病院で話すのは言いずらいような部分もあるし……山ちゃんは海岸通りにある<港しぐれ>って店知ってる?あそこさ、完全個室だから色々話すのにいいんだよ。院内のプライヴァシーのことなんかも守れると思うし……」

 ここで山田優太は、翼が何を言わんとしているのかわからない、といったように首を傾げていたが、「じゃあ、あとはよろしく」と看護師たちに声をかけ、そのまま翼と肩を並べ、医局へ向かった。

<港しぐれ>へは、それぞれの車で向かうことになり、駐車場で再び落ち合うと、翼と山田優太とは案内の従業員に通された個室で、まずはメニューをじっと睨むことになる。

「この間来た時はさ、友達と海鮮鍋コースとかいうのを頼んだんだけど……山ちゃんはなんか食いたいもんある?俺のほうから誘ったわけだから、もちろん奢るし」

「そうですねえ。僕は牛フィレステーキとセイロそば、牡蠣のスープなんかがいいです」

「そっか。コースもんじゃなくて、単品で頼んだほうがいっか。そーいや俺も要ときた時、結構食いきれなかったもんな」

 そこで翼もまた、寿司にそば、それから迷いに迷った揚げ句にビーフシチューを割烹着姿の気風のいい従業員に頼むことにした。

「ここって和食系の店なのかと思ったら、意外にちょこちょこ洋食系のものも混ざってるよな。ステーキとかペスカトーレとかオムライスとか……あと、スープカリーもある。ま、うまけりゃなんでもいいんだけど」

 翼がメニューを閉じ、おしぼりで手をしつこいくらい拭っていると、山田がどこか優しげな視線を翼に向けた。

「結城先生、何か僕にお聞きになりたいことがあるんですよね?桜庭さんの部屋を出た瞬間から、顔にそう書いてあるって僕にはわかってました。まあ、ビールを飲みながらおいおい聞いてもいいかなとも思ったんですけど……結城先生のご性格からいって、単刀直入に用件から済ませたほうがいいのかなと思って」

「いやあ、流石は山ちゃん。俺、山ちゃんにはこれからも隠しごとは出来ないかもしんないなあ。山ちゃんの性格からいって、患者が話したこと同様、俺がこれから話すことも黙っててくれそうだと思うから言うんだけど……精神科医の溝口先生って、山ちゃんの目から見てどんな先生?」

 ここで従業員が、サントリーのプレミアムモルツを中瓶で持ってきた。そこでそれぞれのグラスに注ぎ、一杯飲んでから、山田優太は語りはじめる。

「まあ、いい先生ですよ。結城先生がお知りになりたいのはたぶん、表面的なおためごかしといったことじゃないと思うので、僕もそうした装飾は一切排除して言うんですが……いい先生であると同時に、目立たない先生ですね。結城先生もご存じのとおり、精神腫瘍科っていうのはガンの人間学的側面を扱っている科で、僕同様溝口先生も患者の苦悩の軽減に務めているといっていい。堅苦しくて真面目で、あまり笑わない先生ですが、患者の受けはいいほうだと思います。真面目に誠実に、死ぬまで寄り添って話を聞いてくれるという意味で……こう、パッとした明るさや華やかさには欠けるかもしれませんが、先生は若い頃から相当<死>といったことを意識していて、哲学的なことに興味がおありになったそうです。結城先生はもしかしたら、諏訪先生殺しの犯人をお探しなのかもしれませんが、そういう意味では溝口先生は間違いなく外れですよ。あの先生は相手を殺すでもなく心中するでもなく、失恋して絶望したら、病院の裏の林ででも首を吊るといったタイプだと思いますから」

「いや、なんかそれもちょっと怖いっつーか……でもさ、山ちゃん。なんで俺が諏訪晶子の名前だす前からそういうことに勘づいちゃうわけ?」

「僕に言わせれば、結城先生がわかりやすすぎるというだけですよ」

 そう言って、山田優太は再び微笑む。翼は彼の存在感と要のそれとに、どこか共通したものを感じていたのだが――彼は笑うとどこか女性っぽいのに、要はあくまで中性的だというところに違いがあるのだなと、この時漠然と気づく。

「でもさ、山ちゃんはべつに、溝口先生から諏訪先生とつきあってるとか聞いたわけじゃないんだろ?にも関わらず、俺が言おうとしたことを前もって察したみたいに、溝口先生のこともわかっちゃったってこと?」

「う~ん。どうかな……溝口先生は僕に、諏訪先生のことなんて話したことはないんですよ。でも食堂で、君塚先生と諏訪先生のことをみんなが話していた時に――彼がサッと顔色を変えたことに気づいたという、ただそれだけなんです。僕はその時、彼と向き合って食事をしてたんですが、いつもは冷静な溝口先生があれだけ動揺しているのを見て、思ったんですよ。単に遠くから見て医局のマドンナだと思ってるとか、それだけじゃなさそうだなって」

「なるほどね。諏訪晶子みたいな女に、うっかり遊ばれちゃったってことか。でも、それでいったら山ちゃんだって危なさそうだよな~。あの女、君塚先生と溝口先生だけじゃなく、他にも医局の男に手を出してんだぜ。山ちゃんもさ、諏訪先生の色じかけにあったりしたことあるんじゃないか?」

「さあ。僕はそういうことに鈍いほうなので、女性に色目を使われても、割合あまり気づかないんです。相手が自分に向かって微笑んでいても、単なる善意のようなものによって微笑んでいるとしか思いませんしね。それに、そんなことを言ったら結城先生だって――食堂で諏訪先生のことをあからさまに無視したり、気のない素振りで話してたって噂ですよ。これで彼女はやっきになって結城先生を振り向かせようとするだろう、そして結城先生のほうでも諏訪先生の魅力としつこさの前には陥落するだろうっていうのが、医局員たちの下馬評だったようです。ですが、僕が思うには……」

 ここでドアがノックされ、ビーフシチューと牡蠣のスープがまず運ばれてきた。そして次に別の従業員が寿司とそばを置いていく。

「あれれ?牛フィレ肉だけ来ないでやんの。まあ、そのうちくるとして、山ちゃんがさっき言おうとしたことって何?」

「ええ。諏訪先生を殺したのは――何も彼女と関係を持った男である必要はないんじゃないかっていうことなんです。諏訪先生の態度というのはようするに、極めて思わせぶりなんですよ。それで周囲の男もまた、彼女がちょっとした気まぐれでも見せて、自分にもチャンスを与えてくれないだろうかと、漠然と期待して見てるとでもいったらいいか。にも関わらず、焦らされた揚げ句に他の男とよりにもよって仮眠室で関係を持ってることがわかったら……逆上するんじゃないかと思いますね。あんな女のために医者としての名誉をかなぐり捨てるなんて、僕には愚かであるようにしか思えませんが、そういう激情といったものが僕には欠けすぎていて、もしかしたらわからないだけなのかもしれない。でも僕が思うには、今回のことは院長にも責任がありますよ。総師長の宮原さんが諏訪先生の医局内における振る舞いを報告した時――口では「他の病院に転勤させる」と約束しながら、結局何もしなかったという話ですから。諏訪先生とあまり関係のない医局員たちにとって、彼女の存在というのは、ただのゴシップの種だったといっていいと思います。ほら、医局はどうしても男性の比率のほうが高いから、自分がつきあえるかどうかは別として、諏訪先生がまた誰それを餌食にしただのいう話は、仕事のストレス解消を兼ねた、格好の噂話だったんですよ」

「ふう~ん。そっか。なるほどねえ」

 刺身醤油にトロをつけると、翼はあぐらをかいた姿勢のまま、それを口の中へ放りこむ。それからセイロそばをつゆにつけてすすった。

「あー、うめえ!ところでさ、山ちゃんは高畑先生のどんなところが好きなわけ?悪い意味でいうんじゃないけど、あの人、全然女っぽくないじゃん。髪は男みたいなショートカットだし、いつもパンツスタイルでスカートはいてるとこなんかいっぺんも見たことないもんな。なんつーか、医者の世界って今でも基本的に男社会だから、そこに順応するためには女を捨てて男になりきって生きるしかなかったみたいな、そういうツッパリ感を感じるっていうかさ。だから一緒にいると俺なんかは息が詰まるんだけど、山ちゃんはそうじゃないんだろ?」

「結城先生にはもしかしたら、高畑先生のよさはわからないかもしれません」

 ビールを飲んだせいかどうか、山田優太はこの時点で白い頬が微かに朱色に染まっていた。彼は赤面症というほどではないのだが、動揺するとすぐに似た症状が顔に表れやすいらしい。

「僕は、あの人ほど女らしい人はこの世にいないとすら思っています。というより、母性的な医者なんて、実際あまり求める人はいないんじゃないでしょうか。腕のいい女医に自分の胃を切ってもらうより、本当はヤブでも、落ち着いて見える男の医者のほうが安心して任せられる……そういう偏見みたいなものは、どうしても患者の側にありますよ。だから高畑先生は普段、相当無理をしておられると思います。本当はとても母性的な優しい人なのに、そういう部分を抑えつけて仕事をしなくてはいけないわけですから……そういえば思いだしましたが、高畑先生は諏訪先生に『医局で娼婦のような真似をするのはよしたほうがいいわ』って面と向かってはっきり言ったことがあったとか。まあ、僕はその場面を直接見たわけではありませんが、噂話として聞いていて思うに、おそらく本当のことだろうと思います」

 牡蠣のスープに口をつけ、次にセイロそばをすするという、奇妙な取り合わせの食事をしながら、山田優太は自分の恋する女性に対する思いを語った。最初に出会った時から好きだったこと、彼女が院内のゴルフコンペの主催者と知ってからは、ドライバーなど一度も握ったことがないのに、スポーツクラブでレッスンを受け、必死に腕を磨いたことなどなど……その話はステーキが運ばれてきたことで一度中断され、山田優太がそれ以上語る気がないらしいと悟ると、翼はその先を促した。

「山ちゃんって、見た目によらず、意外に恋愛に積極的なのな。で、その結果どうなったわけ?この間、高畑先生がイケメンドクターコンテストで山ちゃんに票入れたってことは、意外と脈アリなんじゃないかって気がしたけど」

「いえ、あんなのは一種の社交辞令みたいなもんですよ。僕はゴルフなんて、もともとあまり興味はなかったんですが……先生方についてコースを回っているうちに、この人たちと僕では、そもそも人間の<格>が違うんだなって思いました。最近メルセデスの新車を買っただとか、娘の誕生祝いにアップルグリーンのケリーバッグを買ってやったとか……高畑先生も言ってみれば、小さい頃からそうした環境で育ったということでしょう?貧乏をしてようやく医者になったような僕とでは、話なんてきっと合わないだろうなと思って、それで諦めることにしたんです」

「え~っ!?そっかなあ。俺、山ちゃんが本気になれば、要塞並の気高さを持つ高畑先生でも陥落するんじゃないかって思うけど。大体あの人、一度離婚してるってことは、その手のタイプの男と結婚して駄目だったってことなんじゃないか?そう考えたら、山ちゃんは絶対チャンスあるって」

「結城先生、無責任にけしかけないでくださいよ」

 軽く脂を敷いた鉄板の上に、牛フィレ肉をのせると、ジューッと油がはぜたので、山田はコンロの火を少し弱めに設定した。

「いやいや、真面目な話、山ちゃんに交際を申し込まれて断る女なんか、K病院内にいるかって話。第一、あの先生は秘密を守るタイプの人だから、おしゃべりな看護師みたいに『あたし、この間山田先生に告白されちゃってえ』みたいなことは絶対言わないと思うぜ。それに、万が一どっかからそんなことが洩れたとしても、『あの年増女、山田先生を断るだなんて何様のつもり?』くらいにしか思われないって。だから思いきってアタックしちゃえばいいのに」

「事はそう簡単じゃないんですよ。高畑先生の頭にあるのは、仕事と患者のことだけだと思います。僕につきあって映画を見にいったり、美術館に行ったりするなんてことは、高畑先生にとっては迷惑の種にしかならないことなんですよ。それに、問題はまわりの人たちがどう思うかってことではなくて……『ごめんなさい、山田君。わたし、そういう気はないのよ』って言われたあと、僕もなんとなく仕事がしずらいですからね。緩和ケア病棟では毎日カンファレンスをやってて、参加はどこの科の誰でも自由ということになってます。僕は彼女がそこに来てくれるのが楽しみなのに、もうカンファレンスにも参加してくれなくなったら、やっぱりショックですし」

 肉の焼けるいい匂いが漂ってくると、翼は黒い鉄板の上のステーキをじっと見つめた。これで相手が要なら、すぐ割箸でつまみ食いしているところだが、この場合はどうしようかと一瞬ためらうものがある。

「ああ、もし良かったら結城先生も食べてください。なんといってもこの場は結城先生の奢りなんですから、<俺の食べ物は俺のもの、山田の食べ物も俺のもの>ってことで結構ですよ」

「ははっ。悪いなあ、山ちゃん。でもさあ、ちょっと意外な気もしたな。山ちゃんって絶対草食動物みたいに、野菜中心の魚大好きみたいな食生活なのかなって勝手に想像してたもんだから……」

「ええ、よく言われますよ。『山田先生って意外に肉食なんですね』みたいに。緩和ケア病棟には、ガン患者の率が圧倒的に高いわけですが、だからといって僕自身、<ガンは恐ろしい。将来ガンにならないためには健康な食生活を心がけよう>みたいにならないのは、少し不思議な気もします。病棟の看護師たちに言わせると、僕はどうも毎日玄米のごはんを食べたり、免疫力を上げるためのサプリメントを欠かさず飲んでるようなイメージがあるんだそうですよ。でも実際には、毎日忙しくて医者の不養生といったような食生活だと思います。唯一、煙草を吸わない点と酒もあまりたしなまないという点では、健康と言えなくもないのかもしれませんが……」

「そーいやさ、山ちゃん。俺、山ちゃんが前に言ってたアンドルー・ワイルの本、読んだぜ。『ははあ、なるほど』ってな感じの、なかなか面白い本だった。そこでひとつ聞きたいんだけどさ、山ちゃん、あの本が自分の人生を変えたって言ってたけど、実際のところ、俺はまだそこまでじゃないわけ。あの本を紹介してくれたのは高畑先生だって山ちゃんは言ってたけど、たぶん高畑先生も『そういう部分もあるかもね』程度の理解って気がするんだよな。なんてったってあの人も俺も、言ってみれば現代医学の申し子みたいなもんだからさ」

「さて、どうでしょうね」山田優太はどこか優雅な手つきでフォークにステーキを刺し、それを口許まで持っていった。「高畑先生はホリスティック医学ということに関しては、案外興味をお持ちのようですよ。現代医学の粋を極めた、外科の世界に身を置きながらも――高畑先生が願っているのは、それが手術の結果であれなんであれ、とにかく<患者が治る>ということなんだと思います。日本ではまあ、東洋医学とかホメオパシーといったことは、西洋医学に準ずるもの、それより地位の低いもの、あるいはもっとひどければ科学的根拠に乏しいどこかうさんくさいものといった地位しか与えられていません。でも西洋医学や東洋医学、鍼や灸といったカイロプラクティック、ホメオパシーなどを全体的(ホリスティック)に捉えて、患者の状態にもっとも合った治療をするのが正しいというのは、緩和ケア病棟にいる身としては、結構身につまされる意見というか。何故といって……」

 ここで山田優太は、どうやら常時持ち歩いているらしいふたつのカプセルを、ズボンのポケットから取りだした。

「ここに、赤い錠剤と白い錠剤があります。結城先生が今、のっぴきならない痛みにのたうちまわっているとして、どちらを選んで薬を飲みますか?」

「え~と、まあ、どっちかって言われたら、赤いほうかな」

 翼がこう答えたのには、実はある理由があった。<のっぴきならない痛み>と聞いて翼が連想するのは、これまでの人生で数回見舞われたことのある激しい腹痛である。小学生の時、夜中に突然腹が痛くなり、母親にすがりついて痛みを訴えたところ、赤い錠剤の腹痛薬を飲まされ、それでピタリと治った記憶があった。

「何故、赤いほうを選ばれたんですか?」

「なんでって言われると、白いほうよりもなんとなくイメージ的に効きそうだからかな」

「そうですか。じゃあこれ、飲んでみてください」

 翼がその赤い錠剤を噛んでみると、微かにアセロラの味が口内に広がった。

「その錠剤は実はただのビタミン剤なんですよ。白いほうも同じです。でも僕、よくこの無害な薬で患者にある実験をしてるんです……『体にいい薬だから、なんの害にもらないし、良かったら飲んでみてください』って。あと、『これで症状の良くなった人が不思議と何人もいる』っていうこともそれとなくお伝えするんです。そしたら何日か後に、『あの薬のせいかどうか、なんだか体の調子がいいんですよ』と言う方が、必ずひとりは現れます。あと、最初の薬が効かなかった人に対しては、『じゃあもっと強力なのをお渡ししますね』と言って、今度は白いほうの錠剤を渡すんです。そしたらこちらもまた、『最初の赤いのは効かなかったけど、白いほうは効き目があるね、先生』と言われる方が必ず出てくるんですよ。実際には中身はまったく同じものなのに」

「ようするに、偽薬(プラシーボ)効果っていうことか」

「簡単に言えばそういうことです。ガンの疼痛を緩和するために、我々はオピオイドを弱い順から処方していくわけですが、<薬が切れた瞬間にあの痛みがくる>という不安が強い患者さんは、予期不安のためか、次の薬の処方時間のかなり前から痛みに悩まされはじめたりします。そういう時に、まだ経口で薬が摂取できる方には、そうした薬を騙し薬として使ったりすることがあるんですよ。すると、逆にオピオイドの量を増量するのではなく減らせる方向にいけることがある。結城先生もご存知のとおり、ガンの末期の状態では、強い薬を増量するあまり、だんだんバランスのとれた効果が得られなくなってきます。そうした時に、東洋医学だろうがホメオパシーだろうが、とにかく患者にとってなんらかの心理と結びついた治癒力を引きだせる方策を取れることが重要なんですよ。まあ、僕みたいにいつも<死>の側に傾いている医者にとっては、<より症状が緩和されればなんでもよい>、<そのためだったらなんでもする>という方向に、思考が傾きすぎなのかもしれませんが」

「いや、でも実際山ちゃんは大したもんだと思うよ。病室での桜庭さんとの会話、俺ちょっと聞いちゃったんだけどさ……あんな深い話、俺だったらされてもどうしたらいいか、さっぱりわかんないもんな。けど、あの本にも書いてあったとおり――アロパシー医学(現代医学)には確かに弊害もある。よく言う診察室の五分間診療と、検査のための検査、というか患者のための検査というより、医者のための検査を行う結果として、患者はどこか欲求不満顔で診察室から出ていき、検査室では物のように扱われるというわけだ。手術の時には冷たい台の上に寝かせられ、治療のためとはいえ、どこか非人間的な扱いを受ける……その度ごとに患者の精神はストレスで傷つき、むしろ病気そのものより、そちらのほうがより深刻になるあまり、新しい病気を発症することさえあるというか。これはある意味悪循環なのかもしれないけど、現代医学はその鎖を自ら断ち切る方策を持たない。検査はより精度の高いものとなり、そうなると医者はますます検査数値を信奉するようになり、患者の訴えよりも「いや、そうおっしゃいますが数値的にはですね」とか、うすらとんちんかんなことをしょっちゅう口にするようになるんだろう。何より、俺があの本を読んでいて驚いたのは、『あなたはガンです。余命半年と覚悟しておいてください』と言われたとしても――絶望することはないということだったかもしれないな。特に今の日本や先進諸国では、西洋医学を基礎としている医者にそう言われたら、もうそれが<絶対>であると神のように信じられている。けど、それはもしかしたらただの<思い込み>である可能性もあるわけだ。医者にそう言われたから、自分はあと数か月で死ぬんだろうということで、精神的に受けたショックが引き金となって自己治癒力がそこで死ぬか、あるいは極めて弱まってしまう。ところが、ガンと宣告されても長く生きたり、ガン細胞が検査で小さくなる、あるいは奇跡的に消失した体験を持つ患者っていうのは、とにかくガン細胞に勝てる自己治癒力を最大限に引きだす<引き金>がどこかにないかと、探り当てた人ということなのかもしれない。さっき山ちゃんが言ってた赤い錠剤と白い錠剤の話も、そういうことなんだと思う。患者が自己治癒力を引き出す、あるいは高めるためには――心理的作用といったものが媒体として極めて重要な役割を果たすから。最初に山ちゃんから、告知の時に患者の自己治癒力云々って聞いた時は、あんまりピンと来なかったけど、最初から全人格的に患者の話を傾聴していれば、お互いに新しい方策を模索しあいましょうっていう方向に話を繋げやすいかもしれない。まあ、たった五分程度の間に、<全人格傾聴>なんていうことを何十人もの患者に行うのは物理的に絶対無理があるんだけどな」

「素晴らしいお説ですね、結城先生」

 そばつゆに、ネギと薬味を入れる手を止め、山田優太は拍手さえしていた。もちろん、皮肉ではなく。

「ははは。俺、これまで告知とか患者とか患者の家族にとって不都合な話をする時には――嫌なことは早く済ませるのが、自分のためでもあるし、相手のためでもあると思ってた気がする。スピリチュアル療法とか、ホメオパシーとか、今もうさんくさいと思ってることに変わりはないけど、現代医学で治らないと言われて、そっちに行ったら何故か治った、でも理由は説明できないっていうのは、わかる気はする。なんつーか、俺がこれまでに診たことのある患者の中に、そういう人ってのは数として少ないにしても、数人程度いなくもなかったんだよな。なんとかいう、神道系のちょっと微妙な宗教を信じてる人が、偉い人にお灸を患部に据えてもらったら病気が治ったとかいう話。でもまあ、俺の理解としてはそれはたまたまとか偶然とか、一時的に治ったように見えても、すぐ再発して再入院するだろうとか、そういう理解だった。けど、病気になるってことがもし、体のどっかに鍵穴がポコッと出来ることなんだとすれば、それが治る<鍵>とかそれを回す力をどんな形にしろ見つけだせばいいってことなのかもしれない。なんていうか、あの本は高畑先生言うところの、<患者の話を聞いてない>病が治る参考にはなったと思う」

「高畑先生が、そんなことをおっしゃったんですか?」

 山田はそばをすする手を止めて言った。翼は柔らかい角煮のような肉が入った、ビーフシチューに手をつけはじめる。

「ああ、俺が最初に患者の引き継ぎを受けた時にね。んで、山ちゃんが患者と話してんのをこれまで時々見てて、自分に何が足りないのかもよくわかった気がする。高畑先生は俺の顔だけはそれなりに評価し、容姿含め全人格的には山ちゃんを支持してるから、それでイケメンコンテストとやらで山ちゃんに票を入れたんだろうな。その点でいくとまあ、来年も再来年も再々来年も、高畑先生は俺じゃなく、山ちゃんに永遠に票を入れ続けるだろう。これは俺がもし仮に高畑先生が認める程度に患者の話をまあまあ<聴く>ようになったとしても――絶対変わらないことなんじゃないかって気がする」

「そんなことはないですよ。第一、K病院では数年置きに職員は大体、系列の病院に転勤していきますからね。そうしない医師というのはすでに出世を諦めてるか、内藤先生みたいに、何かご事情がある場合が多いとお聞きしますし……」

「内藤先生って、なんかK市を離れられない事情でもあんの?」

 寿司を十二貫食べ、そばも完食した翼は、とろとろの柔らかい肉を堪能しつつ、何気なくそう聞いた。

「奥様が、もう十年以上、海辺の近くにある療養所に入院していると聞いています。息子さんは今うちの病院に研修医としてやって来てるんですが、家政婦さんに来てもらいつつ、男手ひとつで育てたようなものだとおっしゃってましたね。自分は仕事が忙しかったので、『あれをしろ』とか『これをしろ』、あるいは『ああしろ』とか『こうしろ』と言うばかりだったのに、よくそこそこまともに育ったものだと、以前観楓会の時にお聞きした記憶があります。そういえば、今月末にあった観楓会は中止することになったそうですね。医局で殺人事件が起きたのに、呑気に観楓会なぞ行った日には、マスコミになんと言われるかわかったものではない……というのが、中止の理由だそうですが」

「ああ。そういえば来週にあったゴルフコンペも中止らしいね。腕が揮えなくて残念っていうか、高畑先生をこてんぱんにできなくて残念っつーか」

「ははは。高畑先生のゴルフの腕前は、セミプロ級ですよ。相当ハンディをつけてもらわないと、勝つのは難しいというか……まあ、高畑先生も最初から自分が勝つ大会を主催するのは心苦しいのかどうか、コンペ自体は本当にゴルフを楽しむということが主体になってるので、結構面白いんですけどね。たとえばバンカー賞とか、誰も取ったことはないにしても、ホールインワン賞として五十万円とか、毎回ちょっとしたプレゼントがあるんですよ。もちろんOB賞もあるので、基本的にゴルフの下手な人のほうが得をする仕組みになっているというか……」

「五十万?」

 山田優太の言葉の中に、引っかかる数字が出てきたのを聞きつけ、翼は思わずビーフシチューをすする手を止めた。テーブルの上にあったナプキンで、口のまわりを拭く。

「ええ。どうせ誰も取りっこないんだから、キリよく百万円でもいいような気もしますけどね。忘年会では毎年、飽きもせずビンゴ大会をやってたり……ブランド物の時計とか、色々当たるんですけど、あれは院長のポケットマネーから出ている景品なのかどうか、僕は金の出どころが怪しいなと、常々思っているんです」

「その、さ。ちょっと聞きずらいんだけど……山ちゃんは高畑先生の金銭感覚ってどう思う?何しろゴルフってのは金のかかるスポーツだし、腕前がセミプロ級ってことは、高畑先生は小さい頃から先生についてもらってレッスンしてたってことだろうな。ということは、会員制のゴルフクラブに通うくらいの金は、はした金だって思うタイプの人なんだろうか?」

 翼の様子が突然深刻になったのを見て、山田優太はステーキを齧りながら首を傾げている。まるで、(それがそんなに重要なことだろうか?)とでも言うように。

「はした金、とは思ってないと思いますよ。僕は今はもう通ってませんが、それでもゴルフクラブの会員になるのが、あんなにお金のかかるものだとは思ってませんでしたし……高畑先生は、患者がガンの治療をするのにいくらくらいかかるかとか、そうしたことにも気を配ることの出来る人ですから。単にソーシャルワーカー任せにしておけばいいというのではなしに。とりあえず、君塚先生のようにスポーツカーを何台も所有しているといったような、ある種の金銭的おかしさはない人だと思います」

「ふう~ん。そっか……」

 ゴルフのホールインワン賞が、現金で五十万――もちろん、ホールインワン賞なんて、よっぽどのことでもなければ出ないことではあるだろう。それでも一応賞金のほうの準備だけはしておく必要があるのではないだろうか?……翼はそこまで考えて、前回ゴルフコンペがあったのはいつだったのか、山田優太に聞こうとしてやめた。

 互いに大体のところ食事を終えた現在、多少酒も入っていい気分になっており、今日はこのままフェイドアウトするように帰宅したほうがいいような気がしたのである。それに、『金の出どころがあやしい』と山田が言ったことに便乗するように、高畑先生もまた院長と同じく取引のある製薬会社からリベートを受けとっている可能性があると思うかなどとは――聞くだけ無駄のようにも思えたからである。

 この日、ビールを一瓶飲んだ程度では全然飲み足りなかったため、翼は七階にある山田優太の部屋まで押しかけ、そこでシャトー・ラフィット・ロートシルトを御馳走になった。部屋はその人の人柄を表すとよく言うが、山田の部屋は男のそれとは思えないくらい整理整頓されているのと同時に――まるで計算されたように適度に散らかっているといったような印象だった。

 そしてこの時に翼は、「散らかっていない」というより、「散らかせないのだ」という言葉を山田優太の口から聞いた。何故なら、病院の医局の階を担当している掃除婦ふたりが、そちらの仕事を終えた午後から週に二度やって来て、家政婦がわりに部屋の掃除をしていくからだ、と。

「いくら掃除をするのが彼女たちの『仕事』とはいえ……ほんの時折、医局の廊下などで掃除のおばさんたちとはすれ違いますからね。いくら独身の独り暮らしとはいえ、山田先生の部屋は毎回来るたびに汚すぎるだなんて、そんなふうに思われるのは恥かしい気がするもんですから」

 実をいうとそのサービスは翼も受けているものだったが――まさか医局の階を担当しているのと同じ清掃員が、マンションのほうも掃除しに来るのだとは思ってもみなかった。ここで翼は、一度も顔を合わせたことのないこのおばさんたちと会うため、休日に当たっていた土曜日に来てもらうことは出来ないかどうかと事務長に相談した。一応、表向きは掃除のことで直に話したいことがある、ということにしておいたのだが。

 清掃業務を委託している会社に連絡してみたところ、本来は土曜日は出勤しない約束だが、交渉してみようということだった。すると、一件くらいならべつに構わないという、快い承諾の返事が返ってきたのである。

 翼はこの時、そのことをそれほど大きな重大事と見なしていなかったものの――十月の第三土曜に掃除のおばさんから聞いた話というのは、翼にとって意外な新情報とも言うべきものだったのである。



 >>続く……。





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