天使の図書館ブログ

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動物たちの王国【第二部】-12-

2014-03-10 | 創作ノート
【E.R.】ブライアン・ムーン(オールポスターズの商品ページよりm(_ _)m)


 お話中で何やら間違ったことを色々書いてる気がするんですけど(汗)、なんにしても今回も特に書くことないので、また病院内における細かいことが気になる……といったことについて(^^;)

 いえ、医療器材の洗浄・消毒・滅菌って、実際どうなってるのかなと思って、軽くネットでググってみたり。ええと、最初は水原さんに責任者として一応、何かそうした資格を持ってもらおうかと思って、医療器材の滅菌に関する資格的なものってないのかな~と思ったというか。

 んで、その時に出てきたのが「滅菌技士」という名称でした。他にも色々あるようなのですが、どうやら三年以上の実務経験があって研修などを受け、試験にパスすれば合格するといったもののようで、素敵な資格だな~なんて思ったり

 そんでもって、他に気になったのが、滅菌装置の他に洗浄装置っていうものがあるっていうことかもしれません。もちろんこうしたものがあったほうが、より医療器材の殺滅力(笑)が高まりそうな気がするんですけど、こういうものまで完備してるのは大学病院とか大きいところだけなんじゃないかな……と思うのは、わたしだけなんでしょうか(^^;)

 んで、ちょっくら調べてみたところ、ウォッシャー・ディスインフェクターなるものまであると知り、こちらの機器は医療器材の洗浄→すすぎ→消毒→乾燥を行ってくれるものらしく、素敵!!とか即座に思ったり(※わたしに中材勤務経験はありません・笑)

 滅菌装置は当然どこの病院にもあるにしても、このウォッシャー・ディスインフェクターとか超音波洗浄装置みたいなものって、どこの病院にも標準的にあるものなんでしょうか。まあ、こういうこととか書いてるとどうも細かいことが色々気になってしょうがないという(いや、そんなことより手術場面の間違いなんかをもっと気にしろって話^^;)

 そして細かいことといえば、病院のいわゆる医療資源というか、そうした物品的なものの値段が時々気になることがあり。。。

 この小説を書いてる時に、たまたま某有名大病院の前を通りかかるということがあって……んで、その時に病院の外にある「高圧酸素」みたいに書かれた場所で、生コン車にも似た車がぶっしゅー!!と、何やら酸素らしきものを補給していったのですよ※ちなみに生コン車というのはコンクリートミキサー車のことです(←どうでもいい☆)

 あの、アホみたいなことかもしれませんが、見た瞬間「え?マジ??」とか思ってしまいました。なんでって、入院したらベッドの斜め上あたりに、「酸素」・「笑気ガス」・「吸引」とかって、三つくらい穴があいてますよね?

「ええ~っ!!あれってこうやって補給するものだったの!?」とか思って、自分的に結構驚いたのです。

 まあもちろん、「酸素屋」などという面白い職業があるわけではなく、あれはたぶんエネルギー会社っぽいところが請け負ってるんだと思うんですけど(エアウォーターとか☆)……その時にふと思ったんですよね。

 ああいう医療用酸素って、一体1リットル単価いくらくらいするのかな~なんて。

 たぶん現場の看護師さんやお医者さんは、酸素=タダ☆くらいの感覚でガンガン(?)使ってる気がするんですけど、あんなに大量にぶっしゅー!!とやってたところをみると……大きな病院で一月にかかる酸素のお金っていうのは、結構かかるような気がします。

 あとわたし、病室の壁のところに「笑気ガス」ってあるのを見るたびに「おまえ、正気か?」みたいに思ってたような気が(笑)というか、「笑気ガスはあるのに、何故真面目ガスはないんだ?」とか、結構真面目に思ってたような気がします。なんで笑気ガスなのかは、それを使った時に患者さんが笑ってるように見えたかららしいんですけど、のちに本の中で面白いエピソードを読んだことがあったり。

 本当はこれ、昔読んだ本をもう一度読んで確かめたかったんですけど、たぶん大筋ではわたしの記憶に間違いないとは思うんですよね(^^;)

 確か、それを使って麻酔をかけ、抜歯しようとしたところ、麻酔が十分効く前にお医者さんが歯を抜いてしまい、「ぎゃああああッ!!」みたいな悲惨なことになったとか。んで、次にきちんと成功した時には、患者さんが「痛くない」って言っても、見ていた医学生さんは「あんなもんペテンだ☆」、「ただの手品だ☆」みたいに言って、誰も信じなかった……という歴史が笑気ガスにはあるとかいう話だったんですけど(笑)

 以来、病院で「笑気ガス」と書かれた穴を見るたびに、「おまえ正気か?」と思うのと同時に、何故か二ヤリと笑ってしまう習性がわたしにはあります。

 それではまた~!!



       動物たちの王国【第二部】-12-

 手術室専従の看護師、園田美園が自分の部屋から出ていくと、翼は煙草を吸いながら何故今こんな追い詰められた状態に自分は置かれているのかと、少しばかり思いを巡らせた。

 それはつい先月の九月――病院の窓から鮮やかな紅葉の景色が見えようとする頃合のことだった。翼は暫くの間十三階の5号室の患者、澤龍一郎を訪ねていなかったと思い、手にCTやMRIのフィルムの入った茶封筒を持ち、仕事の合間に彼の元を訪れたのである。

 翼は特別病棟のナースステーションから読影台を借りると、今は認知症を患ってはいても、元は高名な脳外科医だった澤に、ちょっとした脳外科講義を受けることにしようと思った。翼にしてもそうしょっちゅうこうしたことは出来ないにせよ、これから雁夜医師が病院を辞めるとなると、時々は自分がその代わりを務めたほうがいいだろうと思ったのである。

「ふうむ。なんとも悪い顔つきをした腫瘍だが、悪性グリオーマか」

「はい、残念ながら……患者はまだ働き盛りの四十代で、奥さんもいれば子供もふたりいます。手術でどうにかなりませんかと泣きつかれたのですが、この場合なかなか……」

「そうだな。悪性腫瘍は予後が悪い。それに取っても取ってもまた出てくる。つらい戦いになることを覚悟の上で、君もそのことを含め、患者や家族によく説明したまえ。決して最後まで医師として見捨てはせぬということを、言葉より態度で示せれば何よりだ」

「いえ、自分はまだまだ若輩者で……とても先生のようにはうまくいきません。澤先生のようになるためには、医師としても人間としても、まだまだ修行が必要です」

 ――といったように、架空の話をしながら、翼は澤龍一郎の門下生としての役を時々務めていた。ベッドサイドに腰掛ける彼の後ろでは、澤の妻の直子が、どこか微笑ましい顔をしてふたりのことを見守っている。彼女曰く、「主人は昔自分が教えた学生が見舞いに来た時が一番生き生きした顔をしている」とのことであった。

 そして翼がいつも通り、頃合を見て「そろそろ仕事に戻ります」と言うと、「これからもしっかり頑張りたまえ」と、これまたいつも通り、澤は矍鑠たる態度で愛弟子のことを送りだすのだった。

「結城先生。お忙しいでしょうに、主人の相手をしていただいて、本当にありがとうございます」

 直子がエレベーター待ちしている翼のことを追いかけて来ると、深々と頭を下げた。

「いえ、いいんです。でも不思議ですね。雁夜先生や俺のことはしっかり覚えてるし、雁夜先生が結婚することや、その結婚式に出席しなければいけないことだけはきちんとわかってらっしゃるんですから」

「そうなんですよ」

 どこか上品に直子は笑って言った。澤氏は現在七十歳であるが、彼女は彼より十歳年下の六十であり、容貌のほうもまだとても若々しかった。今より十年前、さらに二十年前はもっと美しかったであろうと思わせる、着る物にも気を遣っているタイプの、優雅な雰囲気の女性である。

「残念なことに、それでいてわたしのことは覚えてないんですけどね。この間も「おまえは誰だ!?」なんて怒りだして。それでついわたし、病室の外に出て泣いてしまったんです。そしたら新しく来た看護師さんが話を聞いてくださって……そのあと、白衣を持ってきてくださったんですよ。ご主人は看護師たちにはとても優しく接しますから、奥さんのことも医療関係者だと思わせれば、もしかしたらうまくいくかもしれないって。そしたら、本当にその通りでした。でもおかしな話、なんだかそれならそれで寂しいような気もして……以来、主人の態度が急変しそうだなっていうような気配を感じた時だけ、白衣を着ることにしてるんです」

「そうなんですか」

 新しい看護師、などと聞いても、翼にはまるでピンと来なかった。自分がナースステーションに顔を出した時には見知った顔ぶればかりだったし、もともと特別病棟にはそれほど繁く足を運ぶわけでもない。ゆえに、その看護師のこともさして気に留めなかったのである――澤直子が彼女の苗字を口にするまでは。

「先生、ご存知?羽生さんって言って、とても感じのいい方なの。以前先生のいらっしゃった病院で看護師さんをなさってたんですって。でもまあ、医大病院っていっても広いですものね。その中の看護師さんのひとりっていうと、ご存知なくても不思議は……」

 翼は、直子の残りの言葉をほとんど聞いていなかった。一度彼女に会釈してエレベーターに乗り込み、次に十一階で見舞い風の数人の男女と入れ違いになるように、そこで下りた。十一階は脳外科病棟だが、翼は今この場所に特段の用があるわけではない。

(羽生だって!?)

 それから階段を使って再び十三階まで上がり、特別病棟ナースステーションの様子を窺った。すでに夜勤の時間帯となっており、先ほどまでいた日勤帯のナースたちの姿はほとんど消えている。そして奥の休憩室のほうから、「おつかれさまでしたー」などと言って、数名の看護師が出てきた。

(おい、嘘だろ……)

 翼は自分の目が見たものが信じられないあまり、慌ててそばの物品庫に姿を隠した。足元にあったプラスチックの尿瓶を思わず蹴っ飛ばす。

「ねえ今、なんか音がしなかった?」

「ううん、気のせいじゃない?それより、帰りにK横ホテルでランチしてこうよ。ランチっていうか、もうディナーの時間だけどさ、わたし、優待割引券持ってるの」

「わあ、いいね、いいね。いこう、いこう!!」

 唯を含めた四名の看護師がそんなふうに盛り上がりながら、エレベーターへと消えていく……翼は彼女たちが完全にいなくなるのを待ってから、ようやく物品庫の外へ出た。

「俺、一体何やってんだ……」

 思わずそうつぶやきつつ、再び非常扉を開け、そこから階段を下りて六階の医局へ向かう。

(まさか俺を追って、このK病院にやって来たとか?いや、それはありえ……なくもないのか?パンダは俺がクマ公の紹介でここに勤めてることを知ってるわけだから、パンダの口からリンリンさんに伝わり、それから唯の耳に入ったとしてもおかしくないっちゃおかしくないが……)

 この時翼には、唯がつきあっていた彼氏のことなど、まるでとうの昔に存在の抹殺された人物でもあるかのように、思い浮かびもしなかった。

 それから二年も昔にあった、清らかな抱擁のことをまるできのうあったことのように甘やかな記憶として思い出す。

「あれはもうほとんど、俺に好きって言ったも同然だよな。本人が単に気づいてないってだけで……あいつの意識の中で俺は「怖いけど尊敬できる立派な先生」ってなイメージで、恋愛対象からは除外されてたわけだ。けど、その部分にちょっと男って要素を入れてやりさえすれば……」

(絶対にイケる!むしろ逆に、俺がここにいるってあいつが知らないわけがないんだ。だったら偶然を装って声をかけるなりなんなりして、じゃあ昔の話でもしようぜ的に食事に連れだせばいいわけだから……)

「よし、いけるぞ!!俺は絶対近いうちに唯の奴とやってやる!!」

 自分の部長室に戻ってくるなり、意気軒昂とそう叫んだまでは良かったが、やはりその後、翼はその機会をなかなか掴めぬままでいた。

 いつも通り、CTやMRIのフィルムを片手に特別病棟のあたりをうろつくが、これは大体のところフェイクである。階段を使ってこっそり十三階の病棟をうろつき、看護師に声を掛けられてしまった時のいわば予防策だった。

 翼は時々よほど、もうこうなったら単刀直入かつ大胆に、ナースステーションで唯に声をかけようと思うこともあったが、何故か不思議とそう出来なかった。そんなことをすれば、他の看護師たちの嫉妬を買うことになると考えたからではない。むしろそんなことは思いつきもしなかった。単に翼は羽生唯の姿を見ると喉の奥に石が詰まったように声が出ないという、それだけだった。

(あ~あ。俺、こんなくだらんことのために、時間使ってる余裕なんてねえぞ。さっさと片をつけてしまわないと、むしろ仕事のほうにも支障が出るっつーか……)

 そんなふうに翼が悶々と無駄に過ぎゆく時を惜しんでいると、ある朗報が彼の耳に飛び込んできた。その日四件詰まっていた手術をすべて終え、翼が術後の一服を喫煙室で決めこんでいると、そこに江口悦子が煙草を吸いにやってきたのである。

 翼が四件目に行った胆嚢摘出術は、彼女が器械出しの担当だった。

「先生、今十三階にわたしの従姉妹がいるんですけどね。今度、オペ室に配属されることが決まったんですよ」

「従姉妹?江口さんに従姉妹なんていたのか」

「あら、わたしにだって従姉妹くらいいますよ」

 そう笑って応じ、煙草のケースからセーラムライトを一本、江口は取り出していた。十三階、と聞いて翼の心は一瞬ドキリと躍ったが、当然そんな気ぶりなど、少しも見せることはない。むしろ逆に憂鬱な気分さえ漂わせながら、翼は気だるく煙草を吸っていた。

「それがね、面白いんですよお。以前つきあってた彼氏から、ストーカー行為を受けてたらしくて、実家のラーメン屋のシャッターに、卑猥なことを色々書かれたらしいんです。まあ、他にもなんやかや色々あって、東京から離れた場所に来ることになったっていうか」

「へ、へえ。なんかよく話が見えねえな。もしかしてその江口さんの従姉妹っていうのは……」

「ああ、すみません。仕事で疲れてると、わたし会話の内容が時々ちょっと飛んじゃうんですよね。息子にもよく「お母さん、何言ってるかわかんない」って言われるんです。ええっと、なんでしたっけ……そうそう、従姉妹の唯がここの病院に来て最初は十三階の特別病棟にいたんですけど、来月からオペ室に異動になるって話」

 ――あとのことは、翼がちょっと相の手を入れてやっただけで、江口は実によくしゃべりまくった。従姉妹とは小さい頃から仲が良かったこと、自分はちょっと頭が悪くて、K市の少しレベルが低い看護学校を卒業したこと、女子寮暮らしの欲求不満が爆発し、卒業後はちょっと弾けて遊びすぎたこと、でも従姉妹の唯のほうは品行方正で真面目で、自分とは看護師としてタイプがまったく真逆であることなどなど……。

「ま、姉妹でだって、顔や性格がまったく似ないことがあるわけだし、従姉妹なんてなおさら似るわけがないわな。で、ゆ……その羽生さんって人は、ストーカーの被害にあって、今は心が傷ついてるってわけか?」

「そうなんですよ、先生!軽く男性不信っていうか、男性恐怖症っぽくなってるっていうか。本人もべつに結婚願望とかないらしいんですけどね。ナイチンゲールみたいに看護の仕事に邁進して、それだけでいいとか思ってるみたい。でも先生、傑作なんですよお。実家のラーメン屋のシャッターにはちんぽとかSEXとか、口に出して言うのも恥かしいようなことが書かれてたらしいんですけど、唯はそのつきあってた相手とは肉体関係がなかったんですって。いや~、わたし唯がいかにも傷ついてるって様子でそのこと話すもんで、言えなかったんですけど、喉まで言葉がちょっと出かかっちゃったんですよね。『そりゃ相手の男も気の毒に……ゴホゴホッ』みたいに」

 ここで江口がけらけらと笑うのに合わせて、翼も一緒に笑った。江口は普段は仕事のことを含め、とても勘の鋭い女性だったが、流石にこの時の翼の心理までは見抜けなかったに違いない。唯の恋人がストーカーと化した原因について、彼がいかに聞きたかったかということなど……。

「そりゃあれだな。ようするに、その元彼ってのはその子がなかなかやらせてくれなくて、性欲をこじらせちまったんだろうな。気の毒に……そりゃ俺でも同情するぜ」

「まあ、監視カメラに決定的な映像が残ってたっていうわけでもないんで、唯の元彼の仕業とは言い切れないところがあるんですけど、十中八九そうですよね。だから先生、あの子がオペ室に下りてきたら、変な虫がつかないように、それとなく見張ってくれません?まあ、変な虫がついてもいいんだけど、戸田くんとか、一生親戚づきあいするなんて、わたし絶対嫌ですもん」

「…………………」

 翼はここでらしくもなく、不意に黙りこんだ。「その変な虫とやらに、俺がなるのはどうだろう?」などとは、とても言えない雰囲気だったからである。

 なんにせよ、江口はひとしきり自分の言いたいことだけ話して、この日も喫煙室を去っていた。もちろん彼女は今話したようなことを、翼が黴菌よろしくそこらにばらまくとは思っていない。むしろ逆にそうした信頼関係があればこそ、自分の従姉妹のことを話したに違いなかった。

(そっか、あいつ……あのダサい男とはなんでもなかったんだ。その情報がもっと早く、俺がR医大にいた時に入っていれば……)

 そう思いながらも翼は、むしろそうではなく、<今>だからこそいいのではないかと思いもした。あの頃の自分は今以上にチャランポランで、唯とつきあっても結局のところ長続きせずに終わるのではないかと感じていたが、今の自分は社会的責任といったものもしっかり意識して行動できる人間になっている。それに、浮気なぞしている暇などあるかというくらい、忙しくもあるのである。

(そうだ……よし、そうか。唯の奴は基本的にマジメちゃんだから、最初にこう言えばいいんじゃねえか?結婚を前提にきちんとつきあいたいと思ってるとかなんとか。で、体の関係を持ったあとにでも「前からずっと好きだった」と言えれば完璧だ)

 翼は常に有言実行、あるいは不言実行型の人間だった。まず目標を定めて山の山頂に旗印をつけると、山麓のあたりで準備体操を開始する。それから必要な情報や材料を揃え、自分の体力や精神力と相談しながら空にもっとも近い天辺を目指すのである。

(そういや栢山の奴が、医療の道を志すことは山登りに似ているとかなんとか言ってたことがあったっけ。あいつ、元気かな……まあ、そういうことも含めて、唯の奴とは話したいことがたくさんある。で、その盛り上がりついでに俺の部屋にでも引きずりこめれば、あとのことは簡単だ)

 それから翼はもう一度、江口悦子が「元彼と肉体関係はなかったらしい」と言っていたことを思いだし――「ひゃっほう!!」と、喫煙室で突然叫びだした。ガラリとドアを開けると、驚いた顔の内藤とばったり出会うが、鼻歌を歌いながらそのまま自分の部長室へ走っていく。

(そっか。あいつ、俺が最初に言ったとおり処女だったってことだ。どうりでおかしいと思ってたんだ。俺の横で恥かしそうに目を伏せたり、特に意識せずこっちを抱きしめ返したり……ようするにああいうのは全部、男の性欲がわからない生娘の行動だったってことだよな。そんなこともわからねえとは、俺もまったくまだまだだな)

 翼はいてもたってもいられなくなり、少しばかり剃り残しのあった髭を髭剃りで剃ると、新しい白衣を出して着、先ほどまでのオペ疲れなどなんのその、意気揚々とエレベーターで十三階まで上がっていった。

 もちろん手には例の茶封筒を抱えていたが、この時の翼はもうほとんど、人参を目の前に吊り下げられた馬も同然だった。もはやなりふり構わず、羽生唯と話が出来れば、周囲の評判のことなどどうでも良かったとさえいえる。

「ゆ……じゃない、羽生さんいる?」

 特別病棟のナースたちは、机を囲んで記録を取るために下を向いていたが、この時ほとんど全員が一斉に顔を上げた。

「羽生さんなら、たぶん十五号室じゃないかしら。ちょっと時間があると、彼女すぐ大野くんと話をしにいくから」

「ああ、どうも」

 今里主任が他の看護師を制するようにそう言うと、翼はそのあとのナースステーションがどうなろうと知ったことじゃないとばかり、突き当たりの15号室へ向かった。ところがである――そこから彼女が何故か泣きながら出てきたことに気づくと、リネン室のある脇へ引っ込むことになった。

(お、おい、俺、何やってんだ。早く声をかけねえと、あいつもまた記録かなんかのためにナーススーステーションに戻っちまうじゃねえか)

 リネン室の脇には、男性用トイレと女性用トイレが並んでいる。翼はその男性用トイレに姿を隠しつつ、そっとそこからあたりの様子を窺った。

 見ると、羽生唯は目じりのあたりを指ですくいあげて涙を払い、手にシーツや枕カバーなどを持って今度は7号室へ消えていった。

(七号室の患者って誰だっけな。忘れちまったが、まあいい。もう患者がいて話を聞かれてもいいから、「おまえがいてびっくりした」とかいう話をしちまおう)

 翼がそう思い、意を決して室内に足を踏み入れた時――意外にもそこは無人であった。翼の記憶にある限り、十三階の特別病棟は高い入院費用がかかる割に人気があり、今も何十人もの患者が予約待ちしているという話だった。つまり、誰かひとりが退院した途端に、すぐまた埋まるという計算である。

「ゆうき、先生……」

 その時唯は、上にかかっている羽根布団を一旦、空になっているクローゼットに畳んで置き、そしてその下のラバーシーツを剥がしているところだった。ラバーシーツというのは、患者が尿失禁をした際に尿がマットを濡らさないために敷くもので、K病院のは緑のゴム製である。

 驚きのあまり、どこか呆然とした顔の唯を見て、翼はえも言われぬ気持ちになった。というより、彼女が先ほど流した涙のためにまだ瞳を潤ませていたのがいけなかったのだろう、翼は頭で何かを考えるより早く、唯のことを抱きしめていた。

 それから、相手が抵抗もせず大人しくしているのをいいことに、キスした。さらに、自分がずっと頭の中で妄想してきたことを実現できるチャンスが目の前にあると気づき、その誘惑に負けた。

 こんな時に目の前にベッドがあるなど、もはやこれは天の配剤であるとしか思えなかったのである。

「唯、俺、おまえのことが……」

 翼がそこまで言いかけた時、不意に部屋のドアがノックされた。「羽生さん、いる?」と、今里主任がすぐにガラリとドアを開けて入ってくる。

「今、こっちに結城先生がこなかった?」

 彼女がそう言う間もなく、その当の結城先生が今里の横を逃げるように通りすぎていく。こうして七号室には、衣服の乱れと結い上げた髪を急いで直そうとする、顔の赤い看護師だけが残されることになった。

 ――もちろん翼はこのあと、唯がどうなったのかを知らない。十三階の特別病棟の今里は、翼の知るかぎり、さっぱりとした性格の、どこか男勝りなナースであったように記憶している。「あなた、勤務中に何をしてるの!?」などと、ヒステリックに叫びだすタイプではないだろうと思うものの……。

(あいつが泣いてたのがもし、職場の雰囲気に馴染めねえとか、もしそういうことだったとしたら……いや、どのみちあいつは数日後にはオペ室に異動になるんだ。それに、俺が遠目に見た感じだと、他の看護師たちともそこそこうまくやってる感じに見えたしな。どうせあれだろう。15号室のバイクで事故った青年がまだ若いのに可哀想とかいうんで泣いてたんじゃねえか?まったくあいつときたら、少しは成長したのか思いきや、全然変わってねえな)

 この時、自分がどれほどの軽やかなステップを刻んで医局の部長室まで戻ってきたか、翼はほとんど記憶にない。ただ彼にはわかったのだ。ろくに会話を交わしてもいないのに、二年前に唯を抱きしめた時と同じように――彼女が本質的に人間として純粋であり、その部分が少しも損なわれていないということが。

「そうだ。あのままもうちょっと先まで進めればなおのこと良くはあったにせよ、あれはあれで良かったよな。そうだ、そうだ。前から好きでもなけりゃ、あんなこと突然するはずがねえんだし、これであいつにも俺の苦しい胸の内とやらがわかったに違いない」

 翼は部屋に戻ってきて下ろしたての新しい白衣を脱ぐと、雁夜医師から譲り受けたバリスタマシンでエスプレッソを淹れ、そのほろ苦いような甘い香りと味に酔った。もちろん翼はコーヒーを飲む時には常にブラックである。にも関わらず甘いと感じるのは――人の心の思いというのは、味覚にまで影響を与えるということなのだろうか。

(よし、いいぞ。これで第一ミッション終了だ。これであいつが「結城先生、どうしてあんなことしたのかしら」とでも思って、四六時中俺のことばかり考えるようになればいいんだ。これまでは俺ばっかりがあいつのことを考えていたにしても、これからはこの状況を絶対に変えてやる。それで、実際に体の関係を持てた暁には――あいつのことを男なしじゃなくて、俺なしじゃ生きられないくらいにしてやる)

 翼はこの日、実に上機嫌でコーヒーを飲み干し、唯とキスをした唇の周囲を何度も指でなぞった。シャネルやディオールの口紅の味がしない女とキスをするのは、彼にしても実に久方ぶりのことだったからである。

 そして幸せついでにオペ室の麻酔科医の控え室まで出かけ、そこでゾンビのように疲れ果てている麻酔医たちに、彼らの喜ぶような生肉を振るまってやった。翼はよせばいいのに調子に乗って、自分が数日後にオペ室に異動になる看護師を絶対ものにしようと思っていることを、戸田や土屋、倉本らに実に流暢にぺらぺらと喋って聞かせた。もうこうなった以上は誰にも彼女を取られたくなかったし、そんなことのためにややこしい人間関係に巻き込まれるのが嫌だったせいでもある。

 だがしかし――策士策に溺れるというのは、果たしてこうしたことを言うのであろうか。翼はこの一週間後、手術室の廊下で実につーんと取り澄ました顔の、自分の意中の相手の無視攻撃にあい、あえなく撃沈されることになるのだった。



 >>続く。





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