天使の図書館ブログ

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動物たちの王国【第二部】-13-

2014-03-12 | 創作ノート
【ルアーブルの埠頭】クロード・モネ(オールポスターズの商品ページよりm(_ _)m)


 ええと、今回は言い訳事項がまったくない……わけではないんですけど、まあなんかもうどうでもいいっかwwという部分もあり(ヲイ!☆)、今回は外回り看護師さんのことについて、アトゥール・ガワンデさんの本から抜粋してみたいと思います。

 >>手術室の歴史を思い起こすと、センメルヴェイス後とリスター後の間で大きく変わったことに驚く。
 リスター後の手術室では、手洗い尊守率90%で満足する者は一人もいない。医師や看護師のたった一人でも、手を洗わずに手術台の側に立ったことを知ったならば、スタッフ全員が不安におののくだろうし、数日後に患者が感染症を起こしたとしても驚かないだろう。
 リスター後、医療は予想を超えた先に進んでいる。滅菌した手袋とガウンを使い、口をマスクで覆い、頭には手術用キャップを被る。患者の皮膚には消毒薬を塗り、滅菌シーツをかぶせる。手術器具はオートクレーブ(高圧蒸気滅菌器)に通す。熱に耐えられないものは化学薬品で滅菌する。手術室の構造から器具まであらゆるものが滅菌のために昔と変わってしまった。ものだけではたりずに、とうとう「外回り看護師」という役職もつくってしまった。外回り看護師のメインの仕事は術場のスタッフを無菌状態に保つことだけである。
 手術室である器具が必要になったとき、そのたびに手術中のスタッフの一人が手術着を脱いで、棚からも器具を取り出し、それを持って戻ってくるときには再度、手洗いと消毒をするというのでは大変である。それで外回り看護師という職種が発明された。
 不足しているガーゼや手術器具を倉庫から持ってきたり、電話に受け答えしたり、書類の記入をしたり、必要が生じれば応援を呼んできたりすることが仕事である。
 外回り看護師が手術室を出入りするのは、手術が円滑に進むようにするためだけではない。患者に感染症を起こさないためである。彼らのおかげで、どんな手術であっても、無菌状態保持を最優先にして進めることができる。

(『医師は最善を尽くしているか~医療現場の常識を変えた11のエピソード~』アトゥール・ガワンデ著/原井宏明さん訳、みすず書房)


 わたしが本で読んでみた限りにおいて、外回り看護師さんの仕事は>>術場のスタッフを無菌状態に保つことだけではない気がするんですけど、外回り看護師さんという仕事が生まれた経緯っていうのはそういうことなんら~☆と、フムフム思ってしまいました♪(^^)

 それとわたし、オペ室の看護師さんの仕事で実は内心「すごい大変そう」と思ったのが、器械やガーゼ類のカウントのことだったでしょうか

 ええと、器械出しの看護師さんは「メス」って言われて「メス」を出し、「コッヘル」と言われて「コッヘル」出せばそれでいいっていうような単純な仕事ではない……ということをわたしが初めて知ったのは、病院の勉強会でオペ看さんの発表を聞いてでした(相当昔の話☆)

 その時、脳下の手術の映像を流しながら、「ここが電気メスを使ってるところです」とか「ミリ単位の仕事なので、この電気メスがもし1ミリずれただけでも正常な組織を傷つけてしまう可能性があります」……みたいに聞いたのをぼんやり覚えていたり。。。

 まあ他の本などを読むと0.01ミリずれただけでもっていうことだったので、脳外科の先生のストレスっていうのは実際相当なものなんだろうな~と想像できないなりに想像したりします。

 う゛~ん。でもそうしたオペ看さんが月イチ夜勤で休憩室で話していたことを思い出すと……「△△先生はテンパってくるとちょっとねえ☆」とか「この間も最後のほう、しっちゃかめっちゃかだった。アハハ☆」とか言ってたり。

 まあ、思いますよね。「しっちゃかめっちゃかってどゆこと??」みたいに(笑)

 いやまあ、それ以上のことは聞くのが憚られるという感じで、他の病棟看護師さんも黙ってしまったのですが、手術を受ける前の患者さんたちが話してることも、あながち外れてないのかな~なんて思ったりww


 Aさん:「Cさん、明日一番最初に手術受けるんだって?」

 Bさん:「そりゃいいねえ。俺なんか一番最後さ。先生たちも疲れて、手術がいいかげんにならなきゃいいけど」

 Cさん:「どうなんだか。俺が小耳に挟んだ話じゃあ、手術は二番目とか三番目くらいがいいって話だよ。なんでって、一番最初の患者でまずはウォーミングアップして、二番目とか三番目くらいからエンジンかかるって」

 Bさん:「んで、最後に疲れきった頃に俺の手術の番ってわけか(溜息☆)」

 Aさん:「いやいや、最後は最後でいいかもしんねえど。先生方も「これで終わりだー!!」とか思って、最高の気分でメス揮ってるかもしんねえし」

 A&B&Cさん:「アッハハハハハ!!」


 ……いや~、この種の会話はどこの病棟の患者間でも囁かれるものらしいんですけど、実際はどうなんでしょうね(笑)

 なんにしても、わたし自身はオペ室内の実際のことなんてさっぱりわかってないっていうことで、よろしくお願いします(だから何ヲ?´・ω・`)

 それではまた~!!



       動物たちの王国【第二部】-13-

 ――ここで話はもう一度、唯がK病院の十三階にいた頃のことに戻る。

 総師長室にオペ室への異動のことで呼ばれた時、唯は「一日考えさせてください」と答えて退室していたものの、それでいて彼女の心はすでにほとんど決まっていた。

(手術室……なんだか責任の重い部署だけど、でも経験するならなるべく若いうちがいいって鈴村主任も言ってたものね)

 唯は十三階の特別病棟の業務に、特段不満を抱いていたわけではなかった。ただR医大の救急部に比べると、あまりにすべてが平和すぎたのも事実ではある。

 救急部にいた時、唯はいつもこう思っていた。もっと時間さえあれば、ひとりひとりの患者さんと真摯に向き合って今以上に手厚い看護が出来るのに、と。そして今唯は、その時間がたっぷりある環境を与えられ、一看護師として出来る限りのことをしているつもりだった。

 1号室から15号室までの患者の中で、唯が特に気にかけているのが、十二号室の昆飛鳥と十三号室の大林智子、それに十五号室の大野翔平のことだったかもしれない。他の病室の患者たちは、片半身に麻痺などがあるにしても、それなりに家族や知人・友人なども訪れ、見当識のほうもはっきりしている場合が多い。

 だが、十二号室の昆はALSの閉じこめ症候群と呼ばれる末期の状態であり、十五号室の大野翔平は植物状態、十三号室の大林智子は首から下が動かない頚椎損傷患者である。こう言ってはなんなのだが、唯は何故かより重症な患者にこそ惹かれる傾向があり、他の意識がはっきりしていて親しい人間とコミュニケーションのある患者のことは、その次に大切である……といったような位置付けだった。

 そのようなわけで、当然1号室から11号室の患者のことも気にかけていたにせよ、唯は手の空いた時間が出来ると主に十二号室から十五号室のあたりを重点的にうろつくことになった。もちろん、六号室のパーキンソン病患者の牧睦美に一階の売店につきそって欲しいと言われればそうしたし、二号室や三号室、七号室の半身不随患者のトイレ介助やお風呂介助もすれば、一号室の鈴木にハンバーグとコーラを買ってこいと言われたついでに、彼と長く話しこむということもあった。

 いかにも看護学校の教科書にありがちな言辞かもしれないが、ここの十三階の特別病棟で「看護の仕事に終わりはない」ということを、唯はつくづく思い知らされていた。何故といって救急部では「忙しいからそこまでのことは出来なくても仕方ない」となおざりにせざるをえなかった部分を、今度は十分に出来る環境が与えられてみると――今度はそれならそれで、新しい問題点が出てくるものなのだということに気づかされたからである。また、個々の患者に教わることも多々あった。唯がこの特別病棟にいたのは結局のところたったの三か月であったにも関わらず、その三か月の間に随分たくさんのことがあったと、唯はそのように思っていた。

 1号室の鈴木については、何か気に入らないことがあると、看護師長の佐藤か主任の今里を呼びつけ、「俺が毎月入院費として一体いくら払ってると思う!?」と、請求書の金額をつきつけることがあったし、また2号室の加藤については――つい先日こんなことがあった。

 加藤和実は総白髪の、どこか凛とした雰囲気と威厳を兼ね備えた、七十歳の老女であった。彼女もまた5号室の澤と同じく、自分の教室の教え子たちがやってきた時がもっとも生き生きして見えるという、そんな女性だったかもしれない。

 仮に看護する側に落ち度があったとしても、「あなた、人間としてその程度なのね」と、眼差しや顔の表情で伝えるだけで、口では何も言わない――そうすることが品位というものだからである……といった感じの女性であるため、むしろ鈴木氏とは別の意味で気を遣うといった、加藤はそのような人物だった。

 とはいえ、唯は彼女と話していて楽しいし、このような優雅な女性が右半身麻痺となり、利き手が使えなくなったこと、トイレに行くためには常に介助が必要な身となったことは、当人にとってどれほどショックなことであったろうかと想像し、そのような心持ちで加藤とはつきあっているつもりだった。

 元は生花の先生だったこともあり、加藤の部屋には大きな壷に花が活けられ、その花の芳香が室内にはいつも漂っていた。唯はその花を見るたびに、その名前を加藤に聞いたりしたものだったが、ある日の午後のこと――その白磁の壺が床の上に落ちて粉々に砕けていたのである。しかもその壺の傍らには加藤が倒れており、手のひらからは血を流していた。

「加藤さん!?」

 唯はこの直前に、加藤と同じくどこか品位のある、和服姿の女性が2号室から出ていく姿を目撃していた。年齢はおそらく六十代くらいと思われたが、薄い紫色の眼鏡をかけ、それに合わせたような藤色の着物を着た女性だった。

「あの女にだけはこんな姿、見られたくなかったのにっ!!一体どこで誰に聞きつけてやってきたのか……」

 見ると、オーバーテーブルの上には高級菓子店の包みが置いてあったが、それもまた箱ごとぐしゃぐしゃに潰れたような状態だった。唯は加藤のことを助け起こして車椅子に座らせ、それからベッドサイドに落ち着けさせると、廊下を飛ぶように走っていった。急いで手当てのための救急箱を手にして2号室まで戻ってくる。

「恥かしいわ、こんな取り乱したところを見せてしまって」

 唯がまずは傷の手当てが先と、何も言わずに包帯を巻いていると、やがて加藤のほうからぽつぽつ話しはじめた。先ほどの女性は流派は違うのだが、昔からライバル関係にある気に入らない女性であること、また自分が病気で倒れたことを彼女に知られたくないがゆえに、家族にも黙ってここに隠れるように入院していることなど……。


「はあ!?だったら何?べつに家族の間で何か問題があって、「息子・嫁・孫」っていう単語がNGワードになってるわけじゃないってこと?」

 ――その日の午後にあったカンファレンスで、唯の話を聞くなり、今里はそう素っ頓狂な声を上げた。それから頭が痛いといったような、しかめっ面になる。

「ようするに、加藤さんの話によると、その財前さんっていう女性は相当腹黒い方なんですって。だから家族に涙ながらに、「まあ、じゃあ今どこに入院していらっしゃるの?気の毒に」なんて演技するのなんか朝飯前だから、そしたらもう自分のこの無様な姿が白日の下にさらされるだろう、そのくらいだったら死んだほうがましだって」

 また、加藤の愛弟子たちはそうした彼女の事情をすべて知った上で見舞いに馳せ参じていたというのである。

「息子さんやそのお嫁さんとは、特に不仲ということも実際はないそうです。ただ、物理的にも心理的にも距離があることだけは確かだとか……それに、どのみち九州に住んでるんだから、見舞いだのなんだの、変に気を使わせたくなかったともおっしゃってました」

「はーあ、参ったね、師長」

 そう言って今里が隣の佐藤師長の顔を見ると、彼女もまた溜息を着きながら目をぐるりと回している。

「まあ、これが看護っていうか、介護の世界では大切なこととも言えるのかもしれないわね。個人個人によってそれだけ物の感じ方やニーズが異なるってことだもの。加藤さんに関しては、これからもし機会があったらご家族の方に一度来てもらったほうがいいわね。無理強いすることは出来ないけれど、加藤さんは不整脈を持っててワーファリンを服用してるでしょ。今のところは何事もなく毎日を過ごしてるけど、それでも万一ってことがあるものね。じゃあ、加藤さんについてはその方向でいくとして……次は3号室の米谷忠士さん」

 3号室の米谷に関しては、ほぼ毎日同じことがカンファレンスルームで繰り返されている。奥さんのいなくなる夜勤時に、若干セクハラ的傾向を見せること、またある看護師からは「あんたがおっぱいを見せてくれたら十万円払ってもいい」と言われた旨、報告があった。

「流石米谷さん、見てるところが違うわね。よっこちゃん、胸Eカップだっけ?」

 四十を過ぎており既婚者の横田は、さもおかしいといったようにあっけらかんと笑っていた。

「だからわたし、毎回同じこと言ってやるんですよ。もう子供三人も産んでて、乳なんかすっかり垂れてるって。それと、これが一番効果あるんですけどね、「奥さんに言いつけますよ」って一言いさえすれば、それきりピタッと黙りこむんですから、米谷さんは」

「困ったわねえ。まったく米谷さんのセクハラにも」と、佐藤は苦笑する。「でも、夏目ちゃんや羽生さんみたいに、若手の看護師さんにはそういうこと言わないのよね。いつも言うのはよこちゃんとか南さんとか遠藤さんあたりだもんね。米谷さん、熟女好きなのかしら」

 それから話は、少しばかり深刻なこと――米谷氏の妻がそれとなく夫に過去の復讐として嫌がらせをしているらしいという報告がなされた。つまり、食事を運んでもすぐ食べさせず、相手が何度もねだってからようやく食べさせたり、水が飲みたいと言ってもなかなか与えないらしいといったようなことである。

「わたしもね、この間見ちゃったんですよ」と、南。「朝に、今日のお昼の献立は酢豚ですよって話したら、米谷さん、自分は酢豚とか肉系のものが大好きだっておっしゃってて。でも、奥さんがお膳を下げる時、見事に酢豚のお肉だけが残ってて……女の恨みってのは恐ろしいもんですね、師長。わたし、奥さんが帰ってからそのこと聞いてみたんですけど、本人は「ううんっ、そろそろ眠くなってきた」とか言って、話したがらないんですよ。あれは若い頃、相当女遊びが激しかったんでしょうねえ」

 とはいえ、一日に米谷氏が摂取している食事・水分の量については何も問題がなかったため、その点は注意するということにして、次は5号室の澤龍一郎氏の話に移っていった。

「羽生さんが白衣を着ることにしたらどうかって提案してから、澤さんは怒る頻度が少なくなったそうです。ただ、それだと赤の他人のようで寂しいから、奥さんは澤さんの急変時だけそういうふうにしてるっていうことでしたね」

 今里がそう報告したのち、どの看護師からもほぼ同じ言葉が述べられた。毎日澤氏はカレンダーをめくっては、愛弟子・雁夜の結婚式のことを話し、また彼が自分が教えた学生の内でもいかに抜きん出ていたか、人間としても医師としてもあれほど素晴らしい男はそうはいない……といったようなことを、誰にでもとうとうと語って聞かせるということを。

「ほんと、毎日同じ話ばっかりしていて飽きないのかなって思いますけど、わたしたちより何度も同じことばかり聞かされる奥さんのほうが、相手をしていて大変ですよね」

 それから6号室、パーキンソン病の牧睦美のことに話は移っていった。彼女はパーキンソン病ではあるにしても、明るく社交的な性格をしており、毎日のようにK病院一階の売店やラウンジのあたりをうろつくのが大好きなのだった。そこではすでに顔なじみとして知られており、喫茶店のマスターなどは彼女のことをMJと呼んでいるほどだった。

「体が固まって動けなくなってるのを見て、マイケル・ジャクソンみたいだと思ったんですって。今じゃあ、あのあたりの人はみんな、牧さんが動けなくなったりしたら、どう対処したらいいかわかってるくらいだものね。動けるようになるまでちょっと待ってあげたり、少し体の向きを変えてあげればいいっていうか……そういえばこの間、牧さんの部屋にいったらマイケル・J・フォックスの『ラッキーマン』を読んでたわ。パーキンソン病になったことがラッキーだっていうんなら、わたしなんかはさしずめ『ラッキーウーマン』ってとこだわね、ですって」

 会議室のテーブルを囲む看護師たちの間で笑い声が広がった。特別病棟では毎日午後の三時頃、業務の手が空いたあたりに、密室のカンファレンスルームでこうした患者のニーズに答えるための検討会が開かれているのであった。

 唯が楽天家の牧睦美に教わった一番のことは、もしかしたら彼女が「体はパーキンソン病という病いに侵されていても、心までは病気に支配されていない」という、そのことだったかもしれない。だがそんな楽天家の彼女も、時々は心細くなるのか、夜勤の看護師をナースコールで呼んでは「暫くの間、寝付くまで手を握っていてくれるかい」と不安げに言ったりするのだった。

 唯もまたそのように言われた時――胸がずきりと痛んだ。そして牧の小枝のような細い手を握っていると、人生で大切なのは何よりこうした瞬間だという気がした。特に何か言葉を交わすでもなく、心が通じあえるということ、自分が相手に必要とされるだけでなく、むしろその必要とされるということが、自分にとっても必要であるということ……もっとも牧はもともとおしゃべりな質なので、暫くすると何やかや日常のことを話しはじめるのではあったが。

 そして7号室の安藤美喜男、この患者が突然退院することになったということが、翼が唯に最初の計算とはまるで違うことをすることになった、遠因であったかもしれない。

 彼は祖父の代からK市では不動産業界でつとに有名であり、相当の土地と金を持った資産家だったのだが、そんな彼がK病院から自宅へ移ることになったのには、次のような経緯があった。

 唯は安藤のことをざっくばらんな話しやすい人間であると感じていたし、またそれは他の看護師たちにしても同様であった。毎日朝の清拭をしにいけば、「すまんね、すまんね」と言い、トイレ介助をすれば「あんたみたいなべっぴんにこんなことさせて悪いな」と、実にすまなそうな様子を見せるのであった。そして唯だけでなく看護師は全員こう思っていた。これだけ高い医療費を毎月支払ってるんだから、1号室の鈴木さんみたいに、もう少し意地悪くなっても罰は当たらないんじゃないかしら、といったように(また、鈴木に安藤さんの爪の垢を煎じて飲ませたいと言った看護師もいたほどである)。

 だがそんな性格が穏やかで優しい、また患者としては模範的な彼が、血管が切れて卒倒するのではないかというくらい怒る姿を、唯はその日初めて見ることになっていた。

 安藤が祖父の代より経営していた不動産会社が、倒産しそうだという話を、彼が息子の口から聞いた瞬間のことである。

「な、なんだとッ!?」

 息子とは元からあまり仲がしっくりいっていないのかどうか、息子やその嫁が見舞いにきても、安藤が終始むっつりと不機嫌であるということは、唯も当然知っていた。だがこの瞬間の安藤は、そのまま二度目の梗塞を起こすのではないかというくらい、こめかみの血管の膨れ上がった怒りの形相をしていたのである。

「あの、もし込み入ったお話がおありのようでしたら、またあとで来ましょうか?」

 左半身に麻痺のある彼のパジャマを途中まで脱がせたところで、唯はそう聞いた。

「い、いやいや、いいんだ、羽生さん。むしろ、こういうことは肉親だけで話すとこじれるもんだ。だから逆にあんたがいてくれたほうが、わしは冷静さを保てるかもしれん」

 そう言って彼が縋るように自分の手を握ってきたため、唯はその場に留まり続け――ふたりの言い合いを聞くということになってしまったのである。

 話をかいつまんで言うとすれば、こういうことであった。会社のほうは倒産が決まったわけではないにしろ、すこぶる景気が悪く、危機的な財政状態にあること、またそのことを受けて、ここの入院費を払い続けるのが相当の負担になっている、だから親父には別のもっと安くて済む老人ホームに移動してもらいたいこと、また自宅で介助する以外ないようだったら、そうしても良いと思っていることなどなど……。

「ふん。そんな話、よくあの鬼嫁が承知したな」

 息子がどこか気弱そうに歯切れ悪く話す言葉を、忍耐を持って一通り聞いたのち、安藤は鼻を鳴らした。

「典子も、今じゃ色々変わったんだよ。生活が苦しいから、スーパーにパートで働きにも出てるし……でも、この話はギリギリまで父さんに絶対するなって言ったのも典子なんだ。自分が介護をしたくないとかじゃなくてさ、それだけ父さんがショックを受けるだろうからって。でももう限界なんだ。そこのところ、わかってくれよ」

「そうか。おまえの言いたいことは、わかった。少し、考えさせてくれ」

 こう返事して息子を帰らせたのち、安藤は唯が体を清拭し終わるのを待ってから、「すまんが、佐藤師長を呼んでくれ」と言った。それと、「聞き苦しい話を聞かせてすまなかった」とも……。

 こうして安藤は一度自宅へ戻り、適当な老人福祉施設を探して入所することになったのだが――彼は退院するというその日、車椅子に乗って看護師たちに挨拶しながら、始終泣きどおしであった。「ありがとう、本当にありがとう」、そうひとりひとりの手を握りしめて、安藤は実に寂しそうな顔をしながら退院していったのである。

「なんだか可哀想だったわね、安藤さん。正直いって、他の施設じゃうちほど手厚い看護を受けられない気がするし……その部分を比較したら、これからずっと「あの頃は良かった」みたいに昔を振り返って暮らすことになるんじゃないかしら」

「あら、そんなことわかんないわよ。うちよりも質のいい職員たちに囲まれて、楽しい老後を過ごせるかもしれないじゃない。なんにしても、金が老後を決めるっていうのは、こういうことを言うのかしらねえ」

 お昼休みに、安藤が置いていった老舗和菓子店の菓子を摘みながら、看護師たちはそんなことを話していた。唯にしても何やら胸の痛む出来事だったが、安藤が退院したことにより、もう翌日には別の患者が入院する予定であったため、夕方までにベッドメイクを新たに完了させなくてはならない。

 そして唯は、その日担当ではなかった12号室、13号室、15号室の自分が特に気になっている患者に、時間が空いた時に話をしにいき――それから退勤時刻の少し前にでも7号室のベッドメイクをしようと、そんなふうに思っていたのである。

 話をする、などと言っても、13号室の大林智子はともかくとして、12号室と15号室の昆と大野翔平にはいくら話しかけても相手から返事など返ってはこない。だが唯は毎日、時間を見つけては彼らの耳元で何か日常的なことを話したり、手足をマッサージしたりと、何か刺激になることを行うのを日課にしていた。

 12号室の昆飛鳥は、体格のがっちりしたプロレスラーのような大男で、元は大手医療メーカーの社長(今風に言うならCEO)であったという。会社の福祉事業の一環として、慈善事業のほうにも相当熱心に取り組んでいたらしいのだが、そんな彼が何故こんな目に……と、家族も社員も入院当時はみな涙を流したと唯は聞いていた。何分、今のような状態になる前の彼を知らないので、昆が一体どんなことに興味を持ち、趣味はなんであったか、唯は患者の生活歴を元に知る以外なかったが、それでもスポーツが好きで、応援していた球団がヤクルト、そして趣味はゴルフということがわかると、話題は主にそれらのことに集中した。

「今年は、セ・リーグでは巨人が優勝したわ。奥さんから聞いたお話だと、昆さんはアンチ巨人なんだっけ?でも残念ながら昆さんが応援してるヤクルトは五位で終わってしまったみたいなの。パ・リーグは日本ハムファイターズが優勝ですって。ねえ、昆さんは知ってる?アメリカやイギリスの人に日本ハムファイターズっていう球団があるって言うと、必ず笑うんですって。なんでかっていうとね、ハムで戦う戦士たちとか、何かそういうニュアンスで捉えるからだって聞いたわ。面白いでしょう?」

 唯はこうした話の他に、今日の天気や季節の移ろいのこと、また最近テレビでニュースとなっている主なことなどを、新聞を見ながら順に説明した。また、最近唯はアロマテラピーに凝っており、そうした香り療法によって昆の嗅覚を通して脳を刺激できればと思い、手浴や足浴をする時には必ずエッセンシャルオイルを用いるということにしている。それから、昆が大の演歌好きであることもCDプレーヤーのまわりにあるCDからわかったため、よくかけるようにしていた。

 そして大野翔平に対しても、唯は概ね似たようなことを繰り返している。ただ、彼の場合は好きな音楽の傾向等がわからないため、ラジオを聴くことが一番多かったかもしれない。昆飛鳥の場合もそうだが、彼らはもう自分の力でその意志を伝えられぬ世界の住人なのだから、そのままそっと何もせず眠らせておいてあげることが、当人にとっても介護する人間にとっても幸せなことなのだ……と考える人間も、もしかしたらいるのかもしれない。だが、もし彼らがこちらの話すことが聞こえ、体も痛みを感じたりすることがあるのに、それを伝える手段を持たないだけなのだとしたら?――唯はそう想像するだけでぞっとした。特に、昆の場合は間違いなくそうなのである。それならば、出来る限りの心地の良い外部からの刺激を与えることが出来たらと、唯が考えるのはいつもそのことだけだった。

 唯はあと何日かで自分が特別病棟を去って手術室へ赴かねばならないことを思うと、この時とても胸の痛むものを感じていた。大林智子などは、涙を流してそのことを悲しんだ。そして唯は彼女に、「自分も是が非でも手術室へ行きたいというわけではない」ということを順を追ってゆっくり説明していった。むしろこの十三階の特別病棟にいるほうが、居心地も良いし、智子とも一緒にいたいと思っていること、でも厳しい道と比較的安楽な道のふたつがあったら厳しいほうを選べと、過去に自分に教えた人がいることなどを……。

「この三か月の間、智子ちゃんにはわたし、とても支えてもらったの。智子ちゃんはたぶん、こう思うわよね。自分のほうこそが助けられてばかりいるんだって。でもそうじゃないのよ。十二号室に昆さんと、十五号室に大野くんっていう植物状態の患者さんがいるでしょう?わたし、いつもひとりで話しかけてばかりいて、時々馬鹿みたいだなって思うことがあるの。でもそんなふうにちょっとだけ虚しい気持ちになった時に智子ちゃんとお話したり、ああして欲しいとかこうして欲しいって聞くと、本当に心が救われるのよ。昆さんや大野くんも同じように言ってくれたらいいのになって思うと、またがんばろうって、そんなふうに思えるの」

 それだけではなく、唯は智子が心がとても澄んでいて綺麗だとも思っていた。毎日来る彼女の母親の話によると、小学五年生の時からこの状態で、精神年齢が大体そのくらいで止まっているようなところがあるということだった。

「その時からずっと、特殊学級に通ってましたでしょう?そのせいもあるのかどうか、外の汚いものとは関わらないで生きてきたようなところがあるのかもしれません。わたし、時々思うんですよ。いじめにあって自殺したっていうような子の話を聞くたびに、もしかしたら智子はそういう人間の醜いものと出会ったりするよりは、これで幸せなのかなって……でも、ずっと子供だ子供だと思っていたら、二十歳になった時に、突然自分から施設に入ることにするって言い出して。それまではわたしが自宅で二十四時間、ヘルパーさんに手伝ってもらって介護してたんですけど「お母さん、もういいんだよ。だってわたしもう、大人になったんだから」って、そう言って……」

 正直なところを言って、K病院の十三階にずっと入院させておくのは、大林一家にとっても家計的に決して楽ではないという。だが、あちこちの施設を見てまわって思ったのは、娘を託せるほど信頼の出来る施設が他に見つからなかったためだということだった。

 智子の母のその話を聞いていて、唯も確かに心当たりがあった。看護実習で行った先の施設なのだが、自分の肉親をそこへ入れたいかと聞かれたら、絶対に首を振るだろうと思う施設があるというのも介護の現実なのだと、その時に思っていたからである。

 唯は時々、大野翔平や大林智子の体調の良い時、天気のいい日などを見計らって、ふたりのうちどからかと外へ散歩しに行くこともあったが、自分は今理想に近い看護を行っているなどと思ったことは一度もない。ただその時に出来ることを精一杯行っているというだけで、そのひとつひとつを積み重ねているというだけで、今も山の山頂どころか、その山裾のあたりで何やらうろうろするのを繰り返していることが多いと、そんなふうに思う日々だった。

(しかもたったの三か月……それだけだものね。結局のところわたしはこの子に、何もしてあげられなかったも同然なんだわ)

 リクライニング式の車椅子に乗せた大野翔平のことを散歩へ連れていき、戻ってきた15号室で唯は、そんなふうに思っていた。

「ごめんね、翔平くん。わたし、結局あなたに何もしてあげられなかったね」

 窓から遠く海を眺め、そこへ沈んでゆく夕陽の光を眺めて、唯は彼に話しかけた。当然、翔平からはなんの返事もなく、彼は少しばかりうっすら開いているようには見えるが、何も認識していないだろう眼差しを下方へ向けているというだけだった。

「でもね、いつもと同じように馬鹿なことを言うみたいだけど、心は空を飛ぶことが出来るの。ほら、今カモメが窓のすぐ横をよぎっていったわ。わたしは鳥にはなれないから、本当には空を飛ぶことが出来ないけれど、きっと飛べたらこんな感じだろうなっていうのはわかる。翔平くんもね、体は飛べなくても、心の中では飛んだり跳ねたり出来ると思うの。この間、散歩にいった時に空に虹が出てたことがあったでしょう?わたし、ひとりではしゃいで「翔平くん、虹よ、虹!!」って言ったの、覚えてる?翔平くんは目で虹を見てなかったかもしれないけど――昔見た虹を思いだして、「ああ、虹か」なんて、思わなかった?わたし、どうしてなのかわからないけど、昔から虹を見るといいことがあるような気がして、嬉しくなるの。だからね、お願いしておいたのよ。翔平くんが何か虹のようなものに乗って、またこっちに戻って来てくれたらいいなあって、そんなふうに……」

 ――何故なのだろう。唯のこうしたおしゃべりはこの日にはじまったことではないのだが、唯は自分で言っていて涙が出てきた。ただの一時的な感傷的なものだということは、唯自身にもわかっている。それでも気持ちを静めるために、一度翔平の元を離れ、別の仕事をしてから看護師の誰かに手伝ってもらい、ふたりで彼のことをベッドへ戻そうと思った。

 そうなのである。翼がこの日見た涙は、唯が翔平のことを思って、彼のために流したものだった。そして彼女はリネン室でシーツ類を手にすると、7号室のベッドメイクをはじめた。まずは上にかかっている他の病棟のものとはまるで違う、高級感あふれる羽毛布団を剥がし、空になったクローゼットにしまうと、次にシーツ類を剥がしにかかった時のことだった。

 なんの前触れもノックもなしに病室のドアが開き、唯がこの二年ほどの間一度も会っていなかった医師――結城翼が突然そこに姿を現した。

「ゆうき、先生……」

 唯はこの時ちょうど、ベッドメイクをしながら彼のことを考えていたところだった。R医大の救急部にいた時、やはり大野翔平のような患者を相手に、唯はよく独り言にも近いことを一方的にしゃべっていたものである。そういう時、翼がクリーム色のカーテンの間からひょいと顔を出しては、「なんだ、おまえ。またひとり芝居をやってるのか」と言っていたのを思いだし――くすりと笑った瞬間に、他でもない当人が姿を現したのである。

 だが、唯が驚いたのも束の間、その後のことは彼女にもすっかりわけのわからないことだらけだった。唯がかつて尊敬していた医師は、突然彼女のことを抱き寄せると、あろうことか唇まで重ね――次の瞬間にはベッドの上に押し倒して来たからである。

「唯、俺、おまえのことが……」

 耳元でそう囁かれた瞬間、唯は自分も理性が飛ぶのを感じた。彼が自分に何をしようとしているのかはわからない。けれど、その言うなりにはなってもいいという気がした。

「ねえ、羽生さん、今こっちに結城先生が来なかった?」

 この時もし、主任の今里がやって来なかったとしたら――いや、それ以上のことは何もなくていいのだ。ただ結城医師が一言、自分を好きだという、その「好き」という単語さえ発音してくれていたら、自分は愚かにもその言葉をただ盲目的に信じたに違いないと、唯はその後何度も思った。

「……羽生さん、あなた、大丈夫?」

 翼が逃げるように走って消えたそのあとで、今里は半分驚き、半分呆れたといった顔のまま、そう部下に問いかけた。

「は、はい。なんでもありません。もう少しで申し送りがはじまる時間ですよね。すぐ、仕事を済ませてしまわないと……」

 唯がドキドキする心臓を抑えつつ、新しいシーツを広げてセットしようとするのを、今里が手伝いながら続ける。

「さっき先生、ナースステーションに来て、羽生さんがいるかどうかって聞いていったのよ。もしかしてあなた、彼と知り合いだったりする?」

「えっと、前の職場で一緒だったっていうか……」

「そうなの。でもあなた、わたしと佐藤師長がイケメンドクターコンテストの話をした時、全然ピンと来てないような感じだったじゃない」

「それは……結城っていう名前は、佐藤さんとか鈴木さんほどではないにしても、同じ苗字の人は他にもいると思ってて……それで……」

 シーツの角を整え、唯が手で羽枕を弄んでいると、見かねた今里がイライラしたようにそれを彼女の手から奪う。

「違うのよ。わたしが聞きたいのはね、あなた今ここで結城先生に何されてたのってこと!」

「…………………」

 唯は一度黙りこむと、再び翼から唇を重ねられた瞬間のことを思いだし、かーっと頭に血がのぼった。

「そりゃそうよねえ。普通、何もなかったら普段真面目なあなたがベッドに寝転んでるなんてよっぽどとしか思えないもの。それで、どういうことなの?もしかして告白されて押し倒されたとか!?」

 今里の目はもはや職場の上司の目ではなく、ただの好奇心によって輝いていた。確かに今里も結城医師に憧れてはいる。だがそれはあくまでも、ジャニーズ系のアイドル、あるいは韓流スターに仄かな恋心を抱くのにも似た、現実の恋愛とはかけ離れた種類のものだった。

「あの、よ、よくわからないんです。結城先生が何か言おうとしたら、ちょうどその時に主任が入ってこられて……それで……」

「あーっ、そっか。ごめん、悪かった、羽生さん!!あんたたちがふたりきりだってわかってさえいたら、あたしもそんな野暮なことしなかったのに。でも安心して。ここであったことは佐藤師長以外には絶対言わないから。ああ、そんな顔しないでったら。わたしだって誰かひとりくらい「羽生さんと結城先生って実は……だったんですって!!」みたいに言える相手がいないと、王様の耳はロバの耳!!みたいなことになっちゃいそうっていう、ただそれだけだから」

 ――唯はこの日、珍しくどこかぼんやりしながら夜勤の看護師に引継ぎをする他のナースの声を聞いていた。こうして就業時刻となり、休憩室から鞄を取ると、唯はどこかそそくさするように特別病棟をあとにしていた。退勤予定時刻の五時半ちょうどにほぼぴたりと仕事が終わることなど、救急部にいた頃には考えられないことだったが、唯は急げば六時前に到着するバスに乗れるにも関わらず、同僚と休憩室でだべったり、お茶を一杯飲んでから帰るため――その時刻のバスに間に合ったということがほとんどない。

 けれどこの日、<K病院前>と書かれたバス停の前に唯は五時五十分には到着していた。そしてバスの一番後ろの座席で揺られながら、乗客が乗ったり降りたりする姿をただぼんやりと眺めやる。

 海の波が押し寄せる手前の国道をバスが走っていく時、唯は毎日のようにえも言われぬ幸福感に酔いしれることが出来た。晴れた日も曇った日も雨の日も、今のように暗い夜道の中をバスがゆく時、窓が閉め切られた状態にあってさえ、潮騒の音が耳に直接響いてくるようだとすら感じられる……そして思うのだ。自分は看護師という仕事が大好きだ、と。

 だが今日に限っては、唯はまったく別のことを考えていた。結城医師が触れた唇を指で微かになぞり、海と空の境目となっている水平線のどこかに、新しい何かが開けているといったように感じる。そこから誰かが、まったく違う名前で自分のことを呼んでいるようだとすら唯は思った。けれど、その新しい船出と航海には危険が伴うのも事実であり、わくわくするような気持ちというよりも、不安のほうが今の唯にはずっと強い。

 だから唯はこの時あえて、闇の彼方から聴こえてくるように感じられる官能の呼び声を無視していた。あれはただの錯覚であり、結城医師の気の迷いだったに違いないと……。

 けれどそれでいてアパートの自室に戻ってからも唯は、やはり翼のことを考え続けていた。どうして、何故突然あんなことをしたのか、またその思いに引きずられるように、R医大の救急部であった良い思い出が次から次へと甦ってきた。そして唯は最後、自分が綾瀬真治に「彼とだったらお金を積まれなくても寝たっていいわ」と言った記憶にぶち当たり――突然夢見心地から覚めたように、体が熱くなった。

(違うわよね、結城先生。昔、そんな話を綾瀬先生から聞いたことがあるから、それであんなことをしたわけじゃないわよね)

 よく考えてみると、唯は彼に「好きです」と告白めいたことをしたこともあれば、結城医師の白衣の胸に抱かれたということもあった。けれどそうしたことはすべて、結城医師が器の大きい大人の男であればこそ出来たことなのであり、彼はそうしたことを勘違いするような人間ではないと、唯にもよくわかっている。

(そうだわ。もしあの言葉の続きを結城先生に言う気があるなら、またきっとお話する機会はあると思うもの。そしたら、わたし……そしたら……)

 唯はその日、軽く食事をすませてお風呂に入ると、つけてはいるが実際にはまるで頭に入っていないテレビの画像を消し、えもいわれぬほど幸福で甘く切ない気持ちのまま、深い眠りに落ちていった。



 >>続く。





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