一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

ミサの時に跪く

2016-12-02 07:34:09 | カトリック
初金(月の初めの金曜日)です。主の受難を特に考えなくてはいけません。
以前程御聖体を口で受けるのは難しく無くなりました。学生の頃御聖体を手でしか受けさせない神父に対して、直接司教様に直訴をしたことがありましたが、最近はその必要は無いようです。
しかしミサの間、そして聖体拝領の時に跪く事は余計に難しくなりました。日本のカトリック協議会そして事務局の責任者は、跪いて口で受けることは禁止されたことではないと認めつつも、それをわざわざ各教会の典礼委員会に伝えることはしないようです。懇願してもしてくれません。
相変わらず私の所属教会も拝領前に必ず「立って受けてください」とアナウンスの姿勢は変わりません。それでも司祭は跪いて口で受けさせては下さいますが…それさえも出来なければ霊的聖体拝領です。
何度も言いますが、跪くとか口で受けるという形式の話をしているのではありません。これは信仰の問題です。聖変化の時に何が起こっているのか、聖体とは一体なんなのかと黙想したときに答えが出る問題なのです。信仰の模範者ならばどのようにしたでしょうか。このブログでも幾たびか御聖体に関して取り上げています。
跪きたいけど跪けないひとは、聖ドミニコ・サビオに守って頂きましょう。
野外ミサの時でした。聖変化の前に鈴がなり、いっせいに跪く時でした。立派な軍服を着た軍人は土の上に跪くことを一瞬躊躇しました。隣にいたのは少年の聖ドミニコ・サビオでした。聖人はポケットからハンカチを取り出して軍人の下に敷きました。彼は恥ずかしくなりました。改心しました。御聖体の前に跪けない自分を深く恥ずかしくなりました。主より自分のズボンが大切だったからです。イエズスは、十字架の道行きのなかで、唾をかけられ、酷い言葉をかけられ、殴られてゴルゴダの丘に向かったのです。この方は罪が一切ありません。むしろ罪人を赦し、病人を癒やした方です。それでも私たちのために何も仰らずに、あの重い重い十字架を、屈強のローマ兵に鞭打ちされたあの体で、担ったのです。しかもただの人間では無い方です。見えるものと見えざるものの王であり、この宇宙の創造者、全知全能の聖三位一体の第二位のペルソナなのです。この方がミサの中で司祭を通して犠牲として捧げられる方が、まさに目の前に居られるのに、跪くことが出来なかった軍人は恥いったのです。涙を流したことでしょう。
この主に対して跪くことを禁止出来るのは、一体誰でしょうか。私は悪魔の力しか無いと思います。
ですからよく祈りましょう。主にとってカトリック信者の忘恩ほど悲しみに満ちたことは無いでしょう。祈りと犠牲を捧げるように致しましょう。
明日は聖フランシスコ・ザベリオ(ザビエル)の祝日です。彼が日本に伝えたカトリックの信仰がそのままに現代でも我々を導いて下さいますように。

『聖フランシスコ・ザベリオにならいて善徳を求むる祈 (十二月三日)』

ああ天主、主は聖フランシスコ・ザベリオの奇蹟と聖役とによりて、わが同胞に主の御教えを伝え給えり。
 ▲願わくは、その栄えある功徳を讃うるわれらをして、その善徳を学ばしめ給え。われらの主キリストによりて願い奉る。アーメン。

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