( 8½ )(30)VR奥儀皆伝 TP-VR Attract. 謎解き・テーマパークVR Web版

2021-05-27 | バーチャルリアリティ解説
 Number30 / パーク VRアトラクションの実作 〈後編 ③-1〉
                          【( 8½ )総目次
 「桃山 / 江戸 / 日本人」そして「博士の勘違い」① VR之極意:③

 さて、私たちは、VR作品の実製作を学んでいる 学生・社会人学生として『BODY WARS』の機構と建屋を使った『VR 飛雲閣』の実作(23)-(26)を行ないました。
   (25) 〈後編 ① 〉桃山再現VR(『日日是好日』) (26) 〈後編 ② 〉『VR 飛雲閣』
   (23) 〈前編〉『BODY WARS・BTFR』 (24) 〈中編〉『飛雲閣』(エコシティの住民)
 ここからは『VR起雲閣』で 安土桃山文化を扱う意味を考察します。

 (37) <( 8½ ) 俯瞰図 >

 ところで、(7)に 坂本賢三氏の図を載せています。「占星術」=「化生論」+「機械論」でした。


 画像借用元:http://www.mhs.ox.ac.uk/wp-content/uploads/53558.jpg

 この写真は、16世紀に 科学機器製作者の アルセニウスが作った円盤型 アストロラーベで、H.カーニイ著 『科学革命の時代でも紹介された天体観測儀です。レプリカで良いので、一個 欲しいです。(レプリカは 3万円、本物は 5千万円くらい。)イスラーム圏では 10世紀頃から、そして 13世紀頃からは 西欧でも盛んに使われました。天体の角度に合わせると 現在いる場所の位置と時間が分かり、占星術測量、海図の作成などに重宝されました。

 ※ 精密な観測儀と、正確な星の位置の判明が、大陸をまたぐ船の航行 を可能にしました。


 画像借用元:Armillary sphere-orrery 

 こちらは、渾天儀 こんてんぎ、Armillary sphere です。(18世紀にロバート・ボイルの甥のオレリー伯が作らせた、コペルニクスの惑星系が有名です。) 天動説の渾天儀は、古代のギリシャ、古代中国の時代からありました。 ギリシャ製 → アラビア科学 → 西欧へと伝播しました。

 占星術はメソポタミアで 1万年前から研究されてきましたが、渾天儀や 10世以降のアストロラーベは (ちょうど計算尺のように)占星術による未来予測で重宝されました。ジョン・ディー博士は エリザベス1世のホロスコープを彼女に依頼されて読み、トマソ・カンパネッラは ルイ14世ホロスコープを13世の依頼で読んで運勢と注意点を教えています。中東の占星術は「本当によく当たる」ので、英国では国王のホロスコープを勝手に読むことは(運勢の弱い日を敵が知るので)反逆罪になりました。

 こうした実績を有するアストロラーベが、陸運の貿易商や 海運の航海士に重宝されたのです。

 西欧では(ほぼ、日本の鎌倉時代以降に)急に景気が良くなって 12世紀の「大」ルネッサンスが起こりました。ギリシャ・ローマ時代の科学の古典が中東で保存・研究されていたのが見つかって、それが)大量に西欧に流入しました。ところで、占星術や錬金術に西欧が関心を持ったのは、明日の競馬の騎手の運勢を知るためではなく、それがギリシャ・ローマの古典科学で説明された(アラビア)科学だったからです。

 アレクサンドロス大王が東方遠征で 中東を広く含む 広大な版図「ローマ帝国」にしました。その時、中東で1万年研究されてきた未来予知のシミュレーション技術は ギリシャの幾何学や算術と接しました。

 ※ 1万年分の膨大なデータベース が、ギリシャの科学で検索しやすくタグ付けされたのです。



 10世紀になって 十字軍としてイスラーム圏に攻め込んだ西欧人は、その地(経済的先進地域)で ギリシャ科学がイスラーム科学によってバージョンアップされていたのを見つけました。ヘルメス科学が輸入されたのは、そのためです。西欧が 科学技術の先進イスラーム圏に触れて発見したのは、西欧人の「失われていたアイデンティティ」でした。彼らは、ギリシャ科学によって整理された化生論の科学を「自分たちに権利のある知識」として研究し、西欧科学の基礎の一つに据えました。

 ということは、光は東方から?

 天正遣欧少年使節が海のシルクロードを通って、1585年に グレゴリウス13世 に拝謁したとき、彼らは「東方の三博士(三賢人)がローマ法王庁の威光を讃えるために 黄金の屏風を携えて訪れた」と(教会によって)宣伝されました。(この下に詳しく記します。)

 ということで、(29)で始めた話を もう少々、続けます。

 EPCOT 2032(仮称)の
 『VR 飛雲閣』
   ↑
 横浜ジョイポリス 1994 の ライド・アトラクション(
「VR-1」など)
   ↑
 ディズニーランドの ライド・アトラクション 
(19)
   ↑
 ルードウィッヒ2世の『ビーナスの洞窟』 
(18)

 この矢印を通して 「化生論的」には、何が 伝わったのでしょう。

 先の(26)には(世界に向けた)VR作品としてVR 飛雲閣』を提案しました。ここで付け加えたいことは、2032年の EPCOT 50年祭、あるいは、TWI 2050に向けて 「日本人の」学生の皆さんは何を開発しても構わない。そのときの問題意識で、自分が作りたい、作るべきだと思ったものを作れば良いということです。しかし「飛雲閣」のCG復元には、次のような意味がありました。

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 こちらの屏風を見て下さい。安土桃山ではなくて その後の、元禄時代の作品『燕子花図(かきつばたず)屏風』 です。描かれた時代が、織田信長から 120年ばかり下っていることにも注目して下さい。


 画像借用元: 開館80周年記念特別展「国宝 燕子花図屏風(尾形光琳作) ─色彩の誘惑─」
 会期(予定):2021年4月17日〜5月16日〈残念なことに 4月24日に コロナで閉幕しました。〉
 会場:根津美術館 https://www.fashion-press.net/news/58871

 ※ VR奥儀皆伝では『燕子花図屏風』の下書き くらいになる VR作品を目標に、開発して貰うつもりです。

 『燕子花図屏風』は 1701年頃の製作元禄文化の代表作です。『伊勢物語』の第9段、八橋 やつはし の和歌を典拠にしています。6曲1双。国宝。 昔、男がいた。その男(業平さん)、自分を世の中には無用の人間であると思い込んで(天皇に入内する前の美人の 二条后 を盗み出したが 取り返されたことで)「京には住まないつもりだ」と言って(すねて)友人と迷いながら東国に向かった。三河の八橋で、川が蜘蛛の手のように八方に分かれ、橋が八つ渡してある沢のほとりで、乾飯を食べた。その沢に、かきつばたがとてもきれいに咲いていたのを見て ある人が、
   「かきつばたという五文字を各句の頭に置いて、旅の心情を詠みなさい」と言ったので、男は詠んだ。
   「唐衣 きつゝ馴にし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ」 訳語借用元

 単純に国宝と比較しては 信長さんに 気の毒ですが、120年前は こうでした。


 画像借用元:「安土城天主信長の館」(1579年)https://www.azuchi-shiga.com/n-yakata.htm 安土城 Wiki

 それで、これは、私の新説なのですが、「安土城」天主 信長の館(上の写真)は、ゲストに「宣教師」を想定した「テーマパーク・アトラクション」だったと思います。(本Blog 2021.5.27が 初出の見解です。)
 自衛のための鉄砲や爆薬を携えて、フランシスコ・ザビエルが 1549年に薩摩にきました。梅棹忠夫氏は、1963年の「情報産業論」で、新幹線は 乗客と同時に情報を運んでいる、と指摘しています。それを真似させて頂くと、 宣教師の船は、鉄砲戦や 西欧の築城の技術情報を日本に もたらしました。織田信長が、実戦で上手に鉄砲を使ったり、爆薬に抵抗できる築城法を実装できたのは、部下のキリシタン大名を介して得た戦術についての情報があったからです。信長は、宣教師 ルイス・フロイスと1569年に会見しました。場所は二条城の建築中の現場で、一般庶民が周囲を囲む中での公式謁見です。信長は、フロイスに布教を許しました。ちなみに、信長は、爆薬で攻撃されても「館」が火事にならないための石垣を1563年の小牧山城から築いています。「石垣に瓦葺きで高層の天守閣」という近世城郭は、爆薬と鉄砲への対策として生まれました。しかし、

 この後の秀吉の 刀狩令(1588年)で、石垣構築の効果は分かり難くなりました。

   『豊臣秀吉の刀狩令』(1588年、天正一六年 条文)
   一、百姓が刀・脇差・弓・槍・鉄砲、その他の武具を持つことをかたく禁止する。これらは一揆や反抗の基になるから、領主の責任で没収せよ。
   二、取り上げた武具は、建立する大仏殿の釘・かすがいに寄進するので、百姓はこの世のみならず、来世まで助かるであろう。
   三、百姓は農具を持ち、耕作に専念すれば、子々孫々まで長久である。


 同様に、その当時 世界で最も多くの鉄砲を保有していたのが日本でした。秀吉が、鉄砲を大量に廃棄させたので 火薬の消費が減り、困った製造者の平和利用で 江戸時代に花火が盛んになりました。軍事ではなく 民需にお金を循環させたので、江戸は 100万の人口を支える平和な街になりました。

 話を、信長とフロイスの会見に戻します。会見場所は、二条城を築城途中の建築現場でした。信長は 疑問に感じていたので、「どうして日本みたいな遠国まで、わざわざ布教に来たのか?」と質問しました。フロイスは 遠国までキリストの栄光を届けるためですと このとき述べました(それは彼らの本音でした)が、例えば、西郷と勝の江戸城無血開城が 先に打ち合わせが済んでいたのと同じで、それはセレモニーの公式の発言でもありました。この質問なら  非公式の場では宣教師の誰に聞いても、
   「それは、マルコ・ポーロが 1298年の『東方見聞録』に『莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできている』とジパングを紹介しているからです」
と 自分たちの関心を答えたはずです。そこで、サービス精神に溢れた信長は、わざわざ 宣教師との謁見のためだけに安土城天主に豪華な「信長の館」を用意したのだ、と私は思います。そこは、「黄金の国」をテーマにした パーク・アトラクション でした。

 実際に 宣教師の もたらした情報は、それだけ信長にとって貴重なものでした。地球儀の中の日本の「位置と大きさ」や、西欧と日本が 仮に軍船で対峙した際の 援軍到着までの時間距離などは、宣教師以外の誰が答えてくれたでしょう。また、フロイスが王に認可された正式のキリスト教団に属している事実 なども「日本国の代表」(国主)としての信長には貴重でした。宣教師を通して信長は、ローマの法王に直にメッセージを届けられたからです。それで、彼らのもたらした情報への答礼として、信長は立派な アトラクション を造成し、珍しがる家臣たちには 信長が入り口で入場料を取って 黄金の「信長の館」を見学させました。この後、豊臣秀吉が それを真似て「黄金の茶室」を作りました。信長と同じコンセプトの、ジパングをテーマにした VRアトラクションです。
 「黄金の茶室」は、寛大にも 無料で公開してやった民衆に受けません。「信長様が黄金の部屋を公開されたときには、宣教師たちが 啞然としたのだぞ。驚け!」ですね。私の演出案ですが、有料にして、パンフレットに『東方見聞録』の一部を載せれば、多少は感心して貰えたと思います。

 しかし、黄金の「信長の館」の噂は 宣教師が持ち帰って西欧に伝わり、独り歩きして、ルイ14世の『鏡の間』というジャポニズムを生んだ、と私は考えています。信長の事績を伝えたのは、天正遣欧少年使節(1582-90年)、そして、慶長遣欧使節(1613-20年)でした。少年使節をゴアまで引率した 宣教師 ヴァリニャーノは、安土城を描いた豪華な屏風信長からの「法王へのプレゼント」に託されました。少年使節が グレゴリウス13世に拝謁して書斎に通されたとき1585年)には、「私も 安土城の 信長の館に招かれました」と 誇らしく話した宣教師がいたかも知れません。ジパングの国王「ノブナガ」は 黄金の部屋で 宣教師と接見し、「アツモリ」という題の舞踊を上品に舞える教養がありました。

 金づくめの部屋が そこにあった という証拠は、おみやげの金屏風でした。

 ※ テーマパークの「物販」(おみやげ)の重要性は (22)に記しました。

 長くなりましたので、信長が上杉謙信に贈った『源氏物語図屏風』や 宣教師に託した 金屏風(ジパングのおみやげ。思い出のよすが)、そして茶器などが、その後の江戸時代の 文化の基層になったことは、また後ほど。(35)参照)


 ブロンズィーノ 《ビア・デ・メディチの肖像》1542年頃 ウフィツィ美術館 「日本人が初めて見たイタリア・ルネサンスの芸術」に焦点をあてた『遥かなるルネサンス 天正遣欧少年使節が たどったイタリア』が 2017年に 神戸市立博物館 などで開かれました。グレゴリウス13世は、少年使節を 大歓待しています。

 ところで、私は、大仏開眼時の唐風の原色の衣装や、信長のプロデュースした「金屏風」が、その後、時がたつと、同じ金ぴかでも落ち着いたデザインの「カキツバタズ 屏風」になったことなどが、どうしてだろう。不思議だ、とずっと考えていました。
 言葉を変えると、TWI2050を開発している外国人のお宅には、何をおみやけに持って行くと「日本人が来てくれた」と喜ばれるのでしょう。それは日本人が、自分たちのアイデンティティとして何を VR作品の開発テーマに選ぶか、ということにも係わります。
 そして、外国人が 万国博会場で「ジパングだ」と一目見て喜んだ陶磁器の作品や 金屏風は(それらは、技術のすごく高度な超絶の美の作品で 完売もしましたが)やがて、しばらく日本で暮らしている外国人が 和装で 地味めの鼠志野の茶碗を好んで「落ち着きますなぁ」などと言ったりもしているのです。良く考えれば、変?です。 それでは、例えば、官庁は 今後 どんな VR研究に予算を組めば良いのでしょう

 アイバン・サザランド氏が DARPAの予算を組み換えたので、人類は月に到達しました (16)

 私は、そのヒントは、最初は ジパングらしさとして(派手さの)目立った安土桃山文化(例えば、飛雲閣)が、徐々に時間を経て 落ち着いて行くプロセス、例えば、信長や 古田織部の(濃淡の強い茶碗の)窯が やがて 落ち着いた美濃焼に定着する変化を、外国との交流の中に確認して参考にするのが良いと思います。こうした日本文化の変容を、「日本文化の波動」という仮説で 見事に論証したのが哲学者の上山春平氏でした。梅棹忠夫、多田道太郎 編著『日本文化の構造』(講談社現代新書、1972年)所載の上山春平氏の「日本文化の波動」が典拠です。
 今回の駆け足の説明については、次回に詳しく解説します。



 【おまけ】「在原業平と二条后」月岡芳年 19C

 画像借用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%AB%98%E5%AD%90 業平と関係した女性は 3733人いたそうですが、二条后と伊勢斎宮が有名です。

VR奥儀皆伝( 8½ )(26)パーク・アトラクションを造ります 桃山再現VR 続き 〈後編 ②〉 → こちら
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