( 8½ )(18)VR奥儀皆伝 TP-VR Attract. 謎解き・テーマパークVR Web版

2020-12-13 | バーチャルリアリティ解説
 Number18 / 本家テーマパーク(DL)の設計思想 『フューチュラマ』の展示(VR之極意①-1-1)『ヴィーナスの洞窟』(①-1-2)
                          【( 8½ )総目次
 最初に サイトマップを示しておきます。なお、今回から「武田倫招(みちあき)」名での連載です。


 VR之極意: ① 「ディズニーランドが10倍楽しくなる」では、これ以降に、
 ①-1 本家テーマパークの設計思想 DL、1955年)と、
 ①-2 東京ディズニーランドの設計思想( TDL、1983年)、そして、
 ①-3 DL以外のテーマパーク の設計思想、さらに
そこから導かれる将来像を整理します。


 テーマパーク構築技法の序論は、これまでの(11)~(16)に書きました。

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 本家 テーマ―パークの設計思想  VR之極意 ①-1

 ディズニーランドの起源については、専門家でも頭の中が混乱する話題です。

 スパイク・ジョーンズ監督の傑作映画『マルコヴィッチの穴』(1999年)では、私たちは 俳優のジョン・マルコヴィッチ氏の頭の中に自由に出入りできました。が、あんな感じで 1955年のDL開園直前のウォルトの頭の中に入ったら、何が見えたのでしょう。

 『フューチュラマ』の展示 VR之極意①-1-1)

 彼の記憶に一番強く残っていた体験は、1939年のニューヨーク万国博覧会でした。( 極意①-1-1 )

 ゼネラルモーターズ(GM)社の出展したジオラマ展示によるライド・アトラクション『フューチュラマ』(Futurama)を、この万国博の期間中、来場者のうち2500万人が体験しました。GM社の造った近未来のジオラマの圧倒されるほどの強い印象から、50年代のアメリカにはモータリゼーション社会が実際に誕生し、郊外の住宅地の(例えば、2002年の映画『エデンより彼方に』に描かれたような典型的な1950年代の)生活、ライフスタイルが実際に生まれました。このことは、ドクトロウ著の小説『紐育万国博覧会』(1985年)などに詳しく紹介されていますので、それについては、また改めて紹介したいと思います。

 ※ ともあれ、アメリカ社会の近未来像は「XXラマ」と名付けられたメディアによって、この後に注目されました。SF小説の流行も、『フューチュラマ』がきっかけです。



 そして、万国博の当時37歳だったウォルトが『フューチュラマ』のジオラマなどのアメリカの近未来像から受けた感動は、ものすごいものだったと想像されます。この1939年の万国博の感動が おそらく 起源となって、ウォルトは 次の1964年のニューヨーク世界博覧会のアトラクション開発に積極的にかかわりました。ペプシコーラが提供してユニセフのパビリオンとして公開された『イッツ・ア・スモールワールド』を始め、『Great Moments with Mr.Lincoln』『Progressland』『Ford Magic Skyway』をウォルトが新しく開発しました。そして、64年の世界博で公開された後に、これらはディズニーランドに移設されたのです。『Great Moments with Mr.Lincoln』は、リンカーン大統領の感動の演説の再現(The Hall of Presidents)、そして『Progressland』(Carousel of Progress)は、現代の暮らしの中の科学進歩を6つのステージで見せるアトラクションで 観客席が移動することで見物できました。そして、『Ford Magic Skyway』(PeopleMover)は、園内を循環する無人操縦の新交通でした。

 ですから、DLを開発中のウォルトの頭の中で、一番大きなエリアを占めていたのは万国博覧会でした。そして、『フューチュラマ』の感動は、やがて『エプコットセンター』の巨大な未来都市のライフスタイルの実験に結実します。

 ちなみに、ウォルトの没後に エプコットで公開された『Body Wars(1989年)という体感劇場アトラクションは、『バックトゥザフューチャー・ザ・ライド』(1991年)の開発スタッフが口を揃えて「あの揺動は、ひどい。絶対に酔うから参考のために体感しておくべきだ」と言われたので、わざわざ私は そのためにエプコットを訪れて体感した、いわくつきの作品でした。『Body Wars』の観客は ボランティアの乗組員になって車両Bravo 229と一緒にミニチュア化され、2063年に設立された「小型化探査技術株式会社」(MET、Miniaturized Exploration Tech-nologies Corporation)の医師として患者を治療中だった美人のシンシア・レア博士を救い出し、無事に実寸大の世界に戻ってくるという作品です。映画『ミクロの決死圏』(1966年)を元に、ライドにした作品でした。

 『Body Wars』のような試行錯誤もありましたが、『エプコットセンター』の狙いは明確でした。『フューチュラマ』が 50年代アメリカのライフスタイルを準備したように、21世紀の(世界の人々が民族性を尊重したまま融和する)ライフスタイルが エプコットを通して予見できる とウォルトは考えたのでしょう。

 参考までに記しておきますが、映画『トゥモローランド』(2015年)には ウォルトの万国博関連の遺品が映されていました。

 万国博覧会とテーマパークの関連については、また書くつもりです。

 ※ The world of tomorrow「明日の世界」がテーマだった1939年のニューヨーク万国博覧会に ゼネラルモーターズ (GM) 社の出展したジオラマ展示によるパビリオン『フューチュラマ』(Futurama)は、次のようなライド・アトラクションの傑作でした。ここには「20年後の米国の未来像」が精密にジオラマで描かれ、観客は「ムーヴィング・チェア」と呼ばれる座席に腰かけて横に移動しながら広大なジオラマを(ヘリコプタ―くらいの高さから)眺めました。この機構はテーマパーク的には回転率が非常に良い展示方法で、1939年の万国博4500万人の来場者のうち2500万人がこのジオラマを観たそうです。『フューチュラマ』は、テーマパークにおけるトロッコ移動型(ライド)アトラクションの起源になったと言われています。模型の道路が交差する街角を最後にショーが終わり、観客が屋外に出ると「あっ!」、そこは実寸大の道路が交差する街角でした。観客は未来の街の ただなかに出てきたという演出が されていたのです。


 画像借用元:https://www.sjsu.edu/faculty/wooda/149/149syllabus11summary.html

 そして、『フューチュラマ』の展示が(信じられないかも知れませんが)実際に50年代、60年代の米国社会の姿になりました。このとき展示されていたのは「超高層ビルが 立ち並んでいる都心」と、そして「郊外の明るい大規模な住宅地」、さらに その未来的な両者を「高速道路によるネットワーク」が結んでいるという(1939年に想像された)1960年頃の米国の姿でした。『フューチュラマ』で提案された「郊外の住宅地」のイメージは、その後の雑誌の広告デザインにそのまま採用され、実際に建築された住居デザインや そこでのライフスタイルに反映されました。このパビリオンのアトラクションが、米国の将来像を いわば「決定づけ」たのです。

 ※ おそらくウォルトは「XXラマ」というアトラクションを体験したことで、アメリカだけでなく「世界の民族の融和」という近未来を『 It's a Small World 』で示そうとしたのだろうと思います。フランスの哲学者ディドロが1772年に書いた『ブーガンヴィル航海記補遺』には、世界の国々が民族性を尊重したままで融和できる未来がある、というウォルトと同じ構想が先取りして示されていました。実は、20世紀まで西欧の教会からのお墨付きで、「植民地の原住民は自然に属する野生動物と同じなのだから、未開の植民地を発見した西欧人は、彼らを自然の一部とみなして奴隷(家畜)にしても良いし、殺しても構わない」と思われていたのです。南米のある植民地では一つの町の現地人の男性が全員殺されて女性だけが残され、彼女たちと西欧人男性の子孫がその町の住人になったことが遺伝子検査から分かっているそうです。ですから、化生論者のディドロは、そうした西欧人の おちいった「自然 対 文明」という対立を乗り越えるための方策を示していたのですが、18世紀当時は「なんで奴隷にしては いけないの?『風と共に去りぬ』のメイドは黒人奴隷が当たり前でしょ?」という風潮ですから全く理解されませんでした。ウォルトも、断固として「世界の民族が互いに敬意を払いながら融和できる」という理想をエプコットに示しました。厳密に言えば、万国博会場に並ぶ世界のパビリオンの個性あふれる姿 → ウォルト流の『フューチュラマ』構想 → エプコット・センター だったのかも知れません。世界は広く、互いに違っていて理解が難しいように見えても友人になれるのだ、というウォルトの確信は、エプコットという実験都市を生んだのです。「この世界は、喜び、そして、涙。この世界は、希望、そして、恐怖。僕たちが共有できることは、たくさんある。今 その事に気がつくべきだ。この世界は、結局、小さな世界なのだから、」It's a world of laughter, a world of tears. It's a world of hopes, a world of fear. There's so much that we share. That it's time we're aware. It's a small world after all.

 ヴィーナスの洞窟(極意①-1-2 )

 次にウォルトが大きな影響を受けたのは、ルートヴィヒ2世(1845年-1886年)の「リンダーホーフ城」(1878年)だったと私は思います。ハンス・ユルゲン・ジーバーベルク監督の映画『ルートヴィヒⅡ世のためのレクイエム』(1972年)では、当時の国家官僚から「狂王」と評されて「際限なく国庫の財産を妙なお城の建築に費やした」と非難された この国王の「お城」が、現在のドイツ、バイエルン地方の観光収入の柱になっているので、狂王と呼ぶのは余りにも この国王に失礼だ、というジーバーベルク監督の怒りが134分の映画にさく裂しました。



 もしかすると、「狂った王が国庫財政を破産させる」と心配した周囲の官僚の危惧が、この国王の謎の死を招いたのかも知れません。久生十蘭氏(小説家、ひさおじゅうらん 1902年-1957年)が この国王の死について精査した『泡沫の記 (ルウドイヒ二世と人工楽園)』が青空文庫に入っていて、大変に参考になります。ヴィスコンティ監督の傑作映画『ルートヴィヒ(1972年、237分)を観れば、遺体発見現場の「湖畔の あんな浅瀬で、溺死するはずなんて ないよなぁ」ということも良く分かりました。そして、ルートヴィヒ2世の生前の唯一の理解者が、映画『ルートヴィヒ』でロミー・シュナイダーの演じたオーストリア皇后エリーザベト(シシー)でした。(宝塚歌劇団による 1996年の『エリザベート -愛と死の輪舞-』の主人公です。)皇后エリーザベトが 1873年のウィーン万国博の会場で、神社を建てている大工の「かんなくず」を女官に拾わせたエピソードについては、また改めて考察します。

 19世紀の後半には万国博覧会を開催できる、ということが国威の発揚でした。つまり、産業振興策の貿易を通じての発達と観光の拡大を共に可能にした展示会が万国博だったのです。万国博の開かれたパリには、百貨店という業態が(万国博の即売会場をモデルに)新しくパリに開店し、万国博の「水族館」に使われていたガラスの水槽が百貨店の商品の陳列ケースとして初めて使用されました。洋服屋や靴屋も それまでの訪問採寸・縫製・お宅への持参納品という業態をやめて、百貨店での店頭販売によって財を成しました。国際的な勧業博覧会としての万国博は、購買者の生活習慣や産業構造を変えてしまったのです。
 事実、パリ万国博覧会を通じてフランスは、世界のファッションや香水、美術品、料理などのトレンドリーダーになりました。ウィーン万国博覧会は、「音楽の都」を世界に告知しました。ついでに、ジャポニズムが19世紀後半から20世紀初頭の欧州の最先端の流行になった理由も書いておくと、パリ万国博(特に1867年78年89年1900年)や ウィーン万国博覧会(1873年)で日本の工芸品の優秀さが評判になって争うように購入された お陰でした。フランスの印象派(モネ、マネ、ドガなど)やウィーンの分離派(クリムトなど)は、万国博に展示された日本の工芸品が生んだと言って良いでしょう。葛飾北斎の『神奈川沖浪』は、ダビンチの『モナリザ』と並んで 世界で一番知られている絵画になっています。


 画像借用元:https://www.mbc.co.jp/event/satsumayaki/ 黎明館
 http://girlsartalk.com/feature/24504.html 東京都庭園美術館
 https://www.koransha.co.jp/news/2015/post_237.html

 【参考】セーヴル陶磁器美術館「薩摩焼パリ伝統美展」(会期 2007.11 - 2008.2)

 それでは、万国博を開催するだけの財力が無いバイエルンのような小国は?

 ルウドイヒ二世が考えたのは、「デザイナー」がデザインした「おとぎ話のような瀟洒 しょうしゃ な形のお城」を建てて観光の目玉にすることと、そのお城にワグナーの傑作オペラ『タンホイザー』などをテーマにしたライド・アトラクションを用意することでした。また、新機軸のバイロイト祝祭劇場を世界一のオペラ劇場として開場させることでした。バイロイト祝祭劇場は人気作曲家のワグナーによって設計され、バイエルンの国費が費やされています。
 それまでの欧州のオペラハウスは、公演のスポンサーである国王や貴族の姿が観客から良く見えるように設計がされていました。彼らがボックス席を高額で借りているので、庶民は安く鑑賞できたのです。ですから、値段の高い舞台すぐ横のボックス席 - リンカーン大統領は そこで殺されました – からは舞台の半分ほどしか観られませんでした。)
 しかし、バイロイト祝祭大劇場では貴族のボックス席を無くしました。全ての観客が舞台に視線を集中させる平土間の座席に変えたのです。作曲家は、国王や貴族のために(注文を受けて)作曲することをやめて、観客に支持される音楽を作曲するトレンドリーダーに変わろうとしていました。
 それでは、ルートヴィヒ2世(国王)の役割は? 彼が目指したのは、おそらく ワグナーのオペラがアトラクションになったテーマパーク「ワグナーランド」のオーナーになることでした。ですから、ウォルトは「船で遊覧するアトラクションのアイデア」をそこから拝借できたのです。



 話が あちこちしていますが、おそらくウォルトは「「リンダ―ホーフ城」の『ヴィーナスの洞窟』を観て、DLの『ピーターパン空の旅」などの演出を考えたのだろうと私は想像しています。オペラ『タンホイザー』の筋書は こうでした。
 人気のあるシンガーソングライター(吟遊詩人)の騎士タンホイザーは、権威ある声楽コンクール(歌合戦)の場で(最近まで入り浸っていた) 天国の至福を与えてくれる「ヴィーナスの山」に住む全裸の美神ヴィーナスや 格式ある半裸の女性たちの色香を、ついうっかり歌で礼賛してしまいました。さあ、歌合戦は大混乱。大スキャンダルを非難されたタンホイザーは ローマまで巡礼に行って法皇の赦しが得られるまでは出入り禁止(テレビなどから干されること)に相なりました。しかし、法王はヴィーナスが異教の神なので「罪は あまりに重い」と赦してくれません。結局、タンホイザーの許嫁のエリーザベト(オーストリア皇后と同じ名前であることに注意)がタンホイザーのために死んでくれたので、彼女の魂の救済によって 彼の魂も救われるという、「なんだっ!『ファウスト』と同じの結末じゃん」という筋書が オペラ『タンホイザー』だったのです。

 16世紀のファウスト博士が、ヘルメス科学の知識を身につけたことで ある錬金術ファンの男爵に雇われ、安定した身分と生活を手に入れたこと。そして あるとき(おそらく)化学実験の失敗で その五体が ばらばらになった( 地獄に落ちた? )という伝説(第七回)を思い出して下さい。そして、ルネサンスの絵画で一番人気のキャラクターが、異教神のヴィーナスだったことも重要です。おそらく、ヘルメス科学やヴィーナスが民衆に絶大な人気だったことで、教会や官僚組織は(プロテスタントを屈服させられなかった失敗に こりて)これらのサブカルの 17世紀の新しい動きを抑圧して叩いて見せることが「権威」の誇示につながる、と考えたのかも知れません。

 19世紀の ルートヴィヒ2世は、オカルト(ヘルメス科学)や異教をテーマにしたパークアトラクションが民衆の心を確実に掴んでいる 21世紀を、200年も昔に予見していたのだと私は考えています。ですから、化生論の歴史は、私には非常に重要だと感じられているのです。

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 このほかに、ディズニーランドの設計に影響を与えていたとされているのは デンマークのチボリ公園なのですが、ここは 東京ディズニーシーに直接の影響を与えた施設でもありますので VR之極意 ①-3 で改めて解説したいと思います。次回は、「東京ディズニーランド」の起源(VR之極意 ①-2)から続けます。( → ちょっと変えて「地獄」を特集することにしました。)

 ※ ディズニーの伝記を読んでも 『フューチュラマ』や「ルートヴィヒ2世」は出てきません。私は 「オズワルド効果」(第十六回)の悲しい経験をしたウォルトが黙っていたからだと考えています。でも、ディズニー関係者も ご存じない重要な開発ヒントではないか、と思ったので、ここに書きました。しかし、ルートヴィヒ2世については、分からないほうがどうかしています。ディズニーランドの真ん中に、ノイシュバンシュタイン城に良く似たお城が建っているからです。

 全くの余談ですが、パリ・オペラ座(ガルニエ宮)の「ファントム」の専用ボックスは 2階の5番ボックスでした。現在は3番に番号が変わり、ここでの鑑賞予約もできるそうです。パリ・オペラ座はナポレオン三世を施主として、1875年に竣工しています。ナポレオン三世のために用意されていたボックスから舞台の全部は見えないそうで、割引価格のボックスになっているようです。
 青山昌文先生の「舞台芸術への招待」(放送大学 2011年)のビデオを昔、繰り返し見ましたが、青山先生によれば、貴族にとってはオペラを平土間で平民のように「全曲を」鑑賞するのは野暮だと思われていた時代だったそうで、ボックス席に簡易コンロを持ち込ませて演奏の途中に料理人に料理を温めさせたり飲み物を飲んだり新聞を読んで、オペラの途中で退出する貴族が大勢いたそうです。もったいないとも思いますが、公演期間を通しての予約席でした。ワグナーは自作の上演では、座のボックス席の販売をやめさせ、貴族も平土間にしか座れないようにして、切れ目のない音楽で途中で席を立ちづらくして、通しで全曲を聴くという習慣を聴衆に強いました。バイロイトでは、レストランもバーも作らせず社交を排して、ひたすらワグナーのオペラに詣でて ただそれだけを聴く「オーディオ道場」みたいな演奏会にしたので、その意味で画期的でした。ただし 経営的には、バイロイト祝祭劇場には「年間ボックス席」が無く「飲食」の収入も無いのでキャッシュフローに乏しく、舞台装置が極端に簡素になるとか、鎧兜のはずの騎士がタキシードで出てくるとかの新演出が多い弊害(?)も見られます。ルートヴィヒ2世が「リンダーホーフ城」に船でオペラを鑑賞するアトラクションを造ったのも、乗船中だったら 飽きっぽい観客でも おとなしくワグナーの音楽を聴いているだろうという目論見があったのかも知れません。

 ※ 武田倫招という名前についてですが、私の会社での体験を書くときに、上田純美礼著「総合アミューズメント企業 セガ」(1995年)ですとか「セガにおけるアミューズメント事業の展開について」(社団法人大阪工業会「新商品・新事業開発研究会」での1993年の社外講演の記録で、講演後に印刷されて会社の内外に広く配布されました)のような公開情報を元に、セガ・エンタープライゼスでの出来事を書くための新しい名前です。 公開済み情報を元に書きますので、本名で書いていた時のように、もしかすると今の会社にとって不利益になるような内容を勢いで書かれるのじゃないかですとか、余計な心配をお掛けすることがなくなるだろうと考えて筆名にしました。
 lemon6868というのは、私の奥さんに「日本のテレビドラマ評」ですとか「フランスの政治家のスピーチの上手下手」とかを喋って貰って(これが的確で可笑しいのです)それを Blogに載せて稼ごうと考えたので goo blogに登録したのですが、賛同されなくて私が使い始めた名前でした。彼女は、唐十郎とか(有名になる前の)三谷幸喜とか三代目市川猿之助とかを多く生で見ていますし、昔のマリ・クレール誌にジャンヌ・モローさんのエッセイを翻訳したりしていたので、彼女をご存じの方なら私の企画にうなづいて貰えたと思います。もっとも、ウォルトが「ウォルトと呼んでくれたまえ。なぜなら、Mr. Disneyと呼ばれると私の父親のことになってしまうからね」と言っていたのと同様に、「武田レモンさん」と呼ばれると、昔、家にいた しっぽの長いキジ猫が動物病院で呼ばれた名前になるのです。それで、改名の必要を つねづね感じていました。しかしながら、女性の武田 lemonさんの登場については、あきらめた訳ではありません。

VR奥儀皆伝( 8½ ) 『謎解き・テーマパークVR』(17) 数理モデルへの薔薇十字団の愛が「科学の未来」です。他に「バックキャスト」「逆工場」「 テーマパーク運営の公式」「バーチャルは仮想にあらず」「神武天皇は九州王朝分家の大和王朝の建国者」こちら

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