歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

《饗庭孝男の小林秀雄論 その3》

2021-06-09 18:20:01 | 文章について
《饗庭孝男の小林秀雄論 その3》
(2021年6月9日投稿)



【はじめに】


今回のブログも、『小林秀雄とその時代』(小沢書店、1997年)で論じられた饗庭孝男の小林秀雄論を紹介するが、ベルクソン、ランボー、モーツアルト、ドストエフスキーなどの西欧の人物と作品について、小林秀雄がどう論じたかのかを紹介してみたい。




【饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店はこちらから】

小林秀雄とその時代





饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年
本書の目次は次のようになっている。
【目次】
第一章 「故郷」喪失と「意識」のドラマ――「一ツの脳髄」
第二章 批評の誕生――ランボオとヴァレリー体験
第三章 拮抗する批評の精神――「様々なる意匠」と志賀直哉論
第四章 「思想」と実生活――「私小説論」の成立
第五章 意識の「地下室」を求めて――ドストエーフスキイ論考
第六章 歴史の闇の花――『無常といふ事』
第七章 「無垢」な魂の歌――『モオツアルト』
第八章 「精神」としての絵画――『ゴッホの手紙』と『近代絵画』
第九章 「経験」の深化――ベルクソン論としての「感想」
第十章 「信」としての<知>――『本居宣長』
あとがき





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・小林秀雄とベルクソン
・小林秀雄とランボオ
・小林秀雄の思考
・小林秀雄のモーツァルト論
・小林秀雄とドストエーフスキイ
・小林がドストエーフスキイと取り組んだ理由








小林秀雄とベルクソン


昭和14年に、ヴァレリーを論じた「『テスト氏』の方法」において、小林は次のように述べている。
「ヴァレリイは、人間を抽象して、cogitoといふ認識の一般的形式を得たのではない、自分の純化に身を削つたところに、テスト氏といふ極めて純粋なもう一人の人間を見付けた」

そして、さらにそれを補完するために、ベルクソン の「ラヴェソンの生涯と業績」における、あらゆる色彩のニュアンスを収斂レンズに透して一点にみちびき、純粋な白光をうるという「直観」への比喩をかりて、ヴァレリーが、「彼独特の視力の純化」によって「テスト氏」を得たとのべた。

このようなジード、ヴァレリー、ドストエーフスキー体験がベルクソン にゆきつく。
いや、逆に、すでに学生時代からのベルクソン体験の潜在的力というものが、こうした個性のなかにベルクソン的視角をつくり出したとも、饗庭はみている。そうであってみれば、小林秀雄の生涯にわたる批評と、その人間認識の射程は、ベルクソンによって支えられていたと考えることもできるという。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、284頁)

ベルクソンと小林秀雄の「経験」をめぐるちがいについて、饗庭は述べている。
ベルクソンへのふかい共感と同意から出発しながら、小林は、「経験」の問題を実生活の方向に屈折させ、生の知恵としての「常識」の問題とむすびつける。そのことによって、普遍的な開かれた場におかず、空間における事物と存在との直接経験の側に、いわば日常の世界におきかえていった。
ここにベルクソンと小林の「経験」をめぐるちがいがある。
ベルクソンの「祖述」ではなく、小林の理解する「経験」のとらえ方がここにあると、饗庭はみている。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、276頁)

小林が「経験」とともにベルクソンに共感した点は、「見る」というヴィジョンにかわる審美的な領域の問題であるといわれる。
すでに「沈黙の言語」としての絵画や、陶器から知覚について得たこの直接的な対象を得る道は、身体論的認識とつながりながら、「当麻」や「オリムピア」における「精神と肉体」とのあいだの内密的な関係への、あるいは意識と行為の関係、思考と身体の思惟性との連関の有機性にたいする小林の鋭い関心のあらわれであった。

小林は、もともとベルクソンが芸術と哲学を「直観」でつないでみせたその点に共感した。
その小林にとって、「自然の深さとは、一切を忘れてこれを見る人の感覚の深さの事」(『近代絵画』)というように、概念を排した知覚の拡大であり、「知覚と呼ぶより寧ろvisionと呼ぶべき」(「私の人生観」)ものであった以上、「経験」の実在性への依拠よりもましてこの「直観」の問題が重要であった。

ただ、ベルクソンはこう述べている。
「芸術とは、たしかに、現実のより直接なヴィジョンにほかならない。しかし知覚のこの純粋性は、有用な因襲とのある断絶、感覚ないしは意識の先天的な、しかも特に範囲を限られたある利害感の欠如、要するに人が理念主義(イデアリスム)と呼んできた生の一種の非物質性を含んでいる」(『笑い』)

このことから、小林が「見る」ことは、「画面の物質性を貫いて、その背後にある生命性にまで達する」という時、それは「実相観入」としての、あの東洋的認識と「直観」としての知覚の拡大が、小林の裡に一つの内密的(アンチーム)な合意をうんだ。であってみれば、小林がこのヴィジョンを、「心眼」とも「観」とも呼んでいる。
いいかえれば、それはまた、小林がセザンヌが得ようとしていた「見る」という行為を考え、「自然といふ持続する存在」(『近代絵画』)に達することであったとのべたこととひとしい。

不思議なことに、メルロ=ポンティは、その「眼と精神」という論文の冒頭に、J.ガスケの『セザンヌ』のなかの一文
「私があなたに翻訳してみせようとしているものは、もっとも神秘的であり、存在の根そのもの、感覚の感知しがたい源泉と絡みあっているのです」(滝浦・木田訳)をひいている。
これはベルクソンと小林秀雄とメルロ=ポンティの、たとえばセザンヌを具体的媒介にした精神的血縁の系譜をものがたる例であると、饗庭はみている。

さて、この「見る」ということに関して言えば、すでに西田幾太郎は『芸術と道徳』のなかで、芸術を「生命の表現」として、ベルクソンなどを援用しながら、一つの視覚作用と身体の運動の、筋覚を内在的にふくんだ「人格作用」と呼んでいる。

この西田の思考の系譜にも小林はまた入るようだ。
(ここでもベルクソンの媒介は重要である)
なお、メルロ¬=ポンティについては、彼はベルクソンの「見る」ことを一つの契機とするように、自らの身体が世界の織目のなかに取りこまれていること、その意味で、セザンヌが「自然は内にある」と考えたことを肯定し、質、光、色彩、奥行は外にあるとともに内に反響を呼びさまし、むかえ入れるからこそ知覚できるものであるとした。

このような、ベルクソン、メルロ=ポンティ、あるいは西田幾太郎の「見る」問題のなかに、小林も「実相観入」のプリズムをとおしながら位置づけることができると、饗庭は捉えている。
小林は西田よりもまして、ベルクソンの理論とセザンヌの絵画の具体的な媒介によって、この精神的血縁性を示している。

しかしながら、「見る」という行為によって得たものをいかに言葉の領域にもたらすか、という点に関しては、小林はさほど多くをかたっていない。もとより小林によってベルクソンが「詩人」として映じた以上、言葉にたいするベルクソンの精通の仕方をとりあげ、知性のかぎりをつくすことが「言葉の限りを尽す」ことであり、「実在の本質的な不正確さが、正確な言葉に敵対し抵抗する。少しも構はない。彼は出来るだけ正確な言葉を採り上げる」(「私の人生観」)であると見ている。

このような見方の背後にあるものは「論理を尽すが言葉を尽してをらぬといふ事である。観念の群れが、合理的に整合しさへすれば、これに言葉といふ記号を付けることなどわけはない」(同前)とする小林の批判である。

こうした小林の断言からうかがわれるものは、若い日、象徴主義の言語における「表現」の自立性を、マルクス主義文学の言語の「伝達」性に拮抗させた思考の遠い反響というべきものである。それにもまして、ベルクソンの言う、「言葉の上の解決を放棄」することによって得た哲学的方法の開眼と「経験」の重要性に立ちかえるという考えであると、饗庭はみる。

小林は本来、観念と分析による現実の把握に嫌悪をもっていたので、ベルクソンの言葉にたいする深い反省に強く共感したようだ。
ただ、いかにして言葉と実在との関係を回復するかについて、小林はさして多くの言葉をついやしてはいない。
むしろ「実相観入」の無言語的な身体論的把握や「経験」のとらえ方に小林の思考の比重がかかっている。観念と分析が「個」の「表現」とともに、いかに現実にたいする言葉の記号的な認識が、「あいまい」かつ不備なものであろうと、それが世界における事物と存在の「配分」と再構成を行う<知>の機能であり、現実の不透明さにたいする認識とロゴスへの還元のあいだに、せめぎあいがあると考える態度への相対的視角が働いていないように感じられる。
このことは、「詩人的」な「表現」にかわらぬ関心を持ちながらも、小林が「経験」と「実在」とのむすびつきへの関心を、「実相観入」の軸にそい、ベルクソン的な視角をふかめる方向に思考の重心を置いていたためであるようだ。

だが、ベルクソンの「経験」と「実在」への「直観」的認識を支えるものは、プラトンからカントに至る「すべて可能な経験を既存の鋳型に入れ、直観を忘却する」ことによって、「固定したものから動くものへ向う符号的認識」の量的増大を行ってきた西欧的<知>の働きについての鋭い批判であったとされる。
ベルクソンとは、言葉をめぐってまさに「不動」と「変化」の間における弁証法的関係のなかに、そしてその史的展望のなかの<知>の反動(リアクション)の個人的な出現であったといわれる。

ベルクソンのこうした、自己をふくんだ<知>の反省は、たとえば、あらためてミシェル・フーコーが『言葉と物』のなかで、一そう精密に解明した問題でもあった。
フーコーは次のように考えている。
・16世紀において、言語(ランガージュ)が、たとえ記号(シーニュ)の働きをすでにもっていたとしても、なおそれ自体が解読されるべき「物」としての「謎」をもち、「物」の類似であった。

・それに対して、17世紀以降、言葉(パロール)は、「書かれたもの(エクリチュール)」に、その真理をゆずりわたし、言語(ランガージュ)は、何かを記号(シーニュ)によって示すばかりではなく、それ自体、体系(システム)として構造化され、「物」としての「謎」を失って中性化し、透明化して「秩序」の量的増殖と複雑化にむかって進んできた。

ベルクソンが、言語の分節化への史的展望をつくったのにたいして、フーコーは、いわば言語の記号(シーニュ)の構造的様相をとらえたといえる。
このフーコーの論理は、ゆきつくところ、デカルト的な「われ思う」がなぜ「われ在り」の明証性につながらないかという点に至る。主体の「純粋思惟」がロゴス的な還元を果すことができず、「経験」と言語の乖離が極限に達した。
こうしたフーコーをベルクソンの延長線上につなぐまでもなく、西欧の<知>の自己批判が、ふたたび『野性の思考』を呼びもとめ「経験」のまことの意味を問い直すという点で、その「経験」にはつねに記号(シーニュ)(言語)への緊張にみちたディアローグが内包されていると見なければならない。

このように考えてみると、小林がベルクソンに触発されてふかめようとした「経験」の問題は、この「言葉」への還元とは何か、という自問を同時に内包していなければならなかったはずである。
しかし、晩年の『本居宣長』においても明らかなように、小林は、言霊(ことだま)という「物」の「謎」にむかって、あるいはハイデッガーが神話的言語と科学的言語をわけた、その神話的言語にむかって、文学的に遡行することはあっても、それが科学的<知>としての「分析」と体系とに、どのようにかかわるかを、一対の不可分な問題としてとらえなおす視野を欠いていたと、饗庭はいう。

したがって、言葉は「分析」ではなく、詩的言語のレヴェルにとどまり、「経験」は「物」としての言霊(ことだま)にむかって収斂され、その根底に「実相観入」の思考をもちながら、小林の言語観は、ディアローグよりもモノローグのトートロジー的な方向に働いて行った。
「感想」のなかに圧倒的に「経験」について、くりかえしのべられている個所が多いのもそのためであるようだ。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、278頁~283頁)

小林秀雄とランボオ


小林のランボオ体験は、「ランボオⅠ」(大正15年)「ランボオⅡ」(昭和5年)「ランボオⅢ」(昭和22年)の三つの評論を重ねあわせて読むべきである。衝撃の刻印は、「ランボオⅠ」にある。

ここには、ランボオの「純粋単一な宿命の主調低音」、芸術家が「最初に虚無を所有する必要」、生命とその宿命との交錯による「絶対」への参与、実行家としてのランボオ、人生斫断、自然の掠奪、生活者としての意識などがかたられている。
「ランボオⅡ」「ランボオⅢ」と後にゆくにしたがい、最初のランボオとの出会いと、ランボオの意味が相対化され、精密になっている。
小林の意識の「球体」は、あらあらしいランボオの実行によってうちくだかれ、生は「斫断」され、夢想はランボオの「生活意識」によって否定されたと、饗庭は理解している。

小林秀雄は、ボードレール的「純粋単一な宿命の主調低音」をランボオの「無意識」のなかにみとめ、それを契機として「絶対」に参与した。その時、「宿命」とはすでにヴァレリー的な純粋自我とニュアンスをことにしていると、饗庭は解釈している。というのも、ヴァレリーの意識は非人格的で非個性的な働きとなるからである。ヴァレリーの意識のとらえ方は、小林のいう「宿命の主調低音」と無意識の重なりとは意味をことにするという。

小林のボードレール体験とは、ボードレール固有との出会いではなく、むしろ自意識とは何か、創造とは何か、という原理的な問題をつきつめる一つの例であったにすぎないという。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、52頁~57頁)

小林秀雄の思考


小林には、マルクス主義であると否とを問わず、「思想」に憑かれ「夢」に憑かれるところに、人間の本性を見るという思考があるといわれる。それは、すでに「様々なる意匠」のなかで、ネルヴァルについて「各自の夢を築かん」とする考えにもあらわれている。

小林は、一方で「私小説論」にみるように、日本の自然主義とその私小説を否定し、他方で、マルクス主義運動のなかに、本能的に「思想」に憑かれた人間を見、それを正宗白鳥との、トルストイの家出をめぐる論争に重ねるという作業を行ってみせた。
小林が、時代の左翼にたいして批判的であろうと、本質的に人が「思想」と「夢」によってしか生きえないという原理的な問題をそこに見ようとした。その結果が、白鳥との「思想と実生活」にあらわれているとされる。
とすれば、この論争は、文学における「私」の死ののち作品が再生するフローベール的な枠組をもちながら、マルクス主義の同伴者として「思想」の息づく様をまのあたりにした小林の体験のリアリティによって支えられていると、饗庭はみている。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、129頁)

小林秀雄のモーツァルト論


小林秀雄は、『モオツアルト』を昭和21年12月に文学雑誌『創元』に書いた。

小林は、昭和21年2月の『近代文学』同人との座談会で、次のようなことを語っている。
・美術品などにかかわるうちに得た「文学は又形である」ということをのべながら、自分はもう文芸時評の世界にはかえらないこと
・それよりも「天才の思想の国」や「美の国」という一流の世界に、自分の一生の時間が足りないほど惹かれること
・また、言葉は実質ある材料であって、論理をすすめる手段ではないこと
・そして批評の表現についても、解っていることを紙に写すのではなく、「解らないことが紙の上で解ってくる」「即興」の文章が書ければいいということ

こうした考えが、「当麻」「西行」や「実朝」、ドストエーフスキイをめぐる論考にあらわれていると饗庭はみている。そして、『モオツアルト』も『ゴッホの手紙』も、その延長線上から出てくるとする。

ところで、小林は、昭和21年の5月、母の精子を失っている。
『モオツァルト』の献辞に「母上の霊に捧ぐ」とあるのは、そのためである。
小林は、戦争中に『モオツアルト』を書きはじめたが、一度中断、それを改めて書きなおし、昭和21年の12月、『創元』第1集に発表した。

妹・高見澤潤子の回想(『兄 小林秀雄』)によれば、新稿については「あんな風な調子のものになるとは思ってもみなかった」とのべ、「あの『モオツアルト』の悲しみは、母の死の悲しみから出て来たものだろう」とかたったという。
(高見澤潤子『兄小林秀雄』新潮社、1985年)

【高見澤潤子『兄小林秀雄』新潮社はこちらから】

兄 小林秀雄

小林が、この評論のなかで、モーツアルト(饗庭孝男の表記、以下同じ)が友人と父宛に母親の死について書いた手紙にふれ、それをよくモーツアルトにある「転調」とむすびつけ、母親の死から何でもない日常の出来事にモーツアルトが移る条りを書いているあたり、小林自身の体験が重なっていると見られている。

たとえば、次のようにある。
「死んだ許りの母親の死体の傍で、深夜、ただ一人、虚偽の報告と余計なおしやべりを長々と書いてゐるモオツアルトを、僕は努めて想像してみようとする。僕には、彼の裸で孤独な魂が見える様だ。それは、人生の無常迅速よりいつも少しばかり無常迅速でなければならなかつたとでも言ひたげな形をしてゐる」

そして、すぐあとに、スタンダールとアンリ・ゲオンの言う「かなしさ」(tristesse)の例の個所がつづく。
このように、小林の母の死にモーツアルトの母の死が重なり、妹・高見澤潤子の回想にあったように、旧稿とは思ってもみなかった調子(トーン)がうまれたようだ。
この調子がある程度、小林のモーツアルト像の旋律の一つの特色をなしている。

このことは、「感想(一)」のなかで、小林は次のようにのべている。
「母の死は、非常に私の心にこたへた。それに比べると、戦争といふ大事件は、言はば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかつた様に思ふ」
また、『モオツアルト』にたいする母への献辞も、
「極く自然な真面目な気持から」であり、「私は自分の悲しみだけを大事にしていた」と、正直な私情をかたっていることにつながると、饗庭は解説している。
(なお、この「感想(一)」が後のベルクソン論となる発端を示す)

小林が「戦争といふ大事件」よりも「母」の喪失という私情を中心にしたとのべた点に、饗庭は注目している。
江藤淳も「戦後と私」のなかで、「この世の中に私情以上に強烈な感情があるか」とかたっているが、母の死と戦後の「家」の喪失をむすんだ江藤の感性は、ある点で、小林の批評のあり方ともつうじているとする。

小林にとっては、人間の理解について、「私といふ人間を一番理解してゐるのは、母親」であり、それは彼女が彼を一番愛しているからだという(「批評家失格Ⅱ」)。
その母の内面にたち入りながら、「歴史」という大きな「時間」をも、母親にとって死んだ子供への愛情からとらえられるとした解釈に見られる「母」の意味をあらためて想起すれば、『モオツアルト』の「かなしみ」の基底に息づいている「母」の意味の大きさに注目せざるをえないと、饗庭は理解している。

小林は結果として「母」という、隠されたモチーフによってこの評論のリアリティを獲得することができた。『モオツアルト』の主要な主題としての「死」の透明な旋律も、この隠された「母」のモチーフとむすびついている。

饗庭は、小林の『モオツアルト』の根底を支えているのは、小林の三つの体験であるとみている。
①「ト短調シンフォニイ」(K.550)をもって、観念をうちくだかれた体験
 大阪の道頓堀をうろついていた時に、突然、「ト短調シンフォニイ」の有名なテーマが鳴りひびき、「脳味噌に手術を受けた様に驚き、感動で慄へた」という体験
 観念のいりくんだ透明な世界を一瞬のうちに透明にしてみせた恩寵にも似た体験
②「自然」とともに生に感覚的実存の形(フォルム)を与えられた体験
 昭和17年5月、友人の青山二郎の家で、D調クインテット(K.593)を聞いたとき、モーツアルトの音楽の形(フォルム)が、感覚的実存となり、「自然」と交感しながら、出現し、聴くものの生自体が支えられていると感じた体験
③「母」の死という愛するものの「死」によって見えた生の「かなしみ」(tristesse)を感じた体験

これらの体験について、饗庭は次のように解説している。
「それらのいずれもは日常の時間と観念をつきくずし、一瞬にして生の展望をかい間見せるとともに、生の仮象をとり去りながら、時空をこえる別の宇宙に彼を純化しつつ置き換える体験である」ともいえる。
換言すれば、「全ての意識の下から感覚をとおして出現する、しばしば「突然」に彼をとらえる啓示の体験」とも称している。
いわば、生の「経験」の全的な提示である。この契機によって、小林ははじめてモーツアルトの意味とつかんだとする。

日本における西洋音楽の受容の歴史についても、饗庭は触れている。
日本ではじめてモーツアルトが演奏されたのは、明治20年7月、上野音楽取調掛における「音楽演奏会」で、「交響曲変ホ長調」(K.543)のメヌエットが演奏されたという。また、モーツアルトの音楽史上の位置づけは、森鷗外が「楽塵<西楽と幸田氏>」(明治29年、幸田氏は幸田延子のこと)で記している。

これ以降、モーツアルトの演奏はかなり多くなったが、圧倒的な量を誇っていたのは、ベートーヴェン以降の19世紀音楽であった。
モーツアルトの作品の紹介は昭和を俟たなければならなかったようだ。
(交響曲では、「ト短調」と「ジュピター」が抜きんでて多く演奏されたが、ベートーヴェン以降には及ばなかった)
この事実は、西欧文化にたいする明治・大正にかけての受容の態度と密接にかかわっているといわれる。
たとえば、和辻哲郎が「生は不断の戦いであるゆえに苦患と離れることができない」(「べエトオフエンの面」)とのべ、ベートーヴェンの面をみて、「この顔こそは我らの生の理想である」とした。このように、大正教養主義における、倫理的で理想的な側面を代表する人として、ベートーヴェンを捉え、人格主義と自我昂揚のにない手の一人にベートーヴェンを擬した。
一方、モーツアルトには、ベートーヴェンのような言語的にも自らの思想を開陳し、あるいは主題としてそれを音楽に提示するようなところはない。(いわば、思想の手がかりを与えない音楽そのものの美しさを与えるから)

この点、饗庭は、小林を文学史的に位置づけている。
小林が『白樺』派と武者小路実篤をとおした形で接点をもちながら、その影響少なく他方で、すでに教養主義の末尾に位置してはいたものの、それに深い懐疑を覚えていた芥川龍之介をも否定的媒介としてのりこえようとした。
小林は、そこにおのれの思想的位置を得た。そのことは、小林の前の世代のもつ、観念的で概念的な「近代」理解を否定するところに来ていたことを意味する。
そのことからも、「ト短調」体験における観念否定がうまれ、「D調クインテット」の「自然」との融合と交感があらわれたと、饗庭はみている。
つまり、小林のモーツアルト受容は、日本における「近代」理解の一つの転換を、個人の内部で果たす役割を演じたともいえる。
(単にロマン派批判のみではなかった。これは一つの日本における精神史的文脈[コンテクスト]に属する問題であるという)
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、201頁~211頁)

小林は、『モオツアルト』を書くにあたり、厖大な文献的渉猟をし、できる限りのレコードとスコアに接したといわれる。
小林はスタンダールの『ハイドン、モーツァルト、メタスターシオ伝』、『ロッシーニ伝』、アンリ・ゲオンの『モーツァルトとの散歩』をとりわけよく読みこんだようだ。またゲーテの『エッカーマンとの対話』のモーツァルトについての僅かな言及にも目をとどめている。

小林はスタンダールのモーツアルトに関する論考から、かなりの示唆を受けた。
もともと、ハイドンに関するスタンダールの評論は、ジュゼッペ・カルパーンから、そして『モーツァルト伝』はウインクラーから剽窃に近いものとされる。ただ、その肉付け、構成、そして解釈がスタンダール固有の魅力をもっている。小林も、このことをふまえながら読み、啓示を受けている。

たとえば、スタンダールは「音の組合わせは、一つの感情、一つの想、一つの性格を常に力強く明快に表現する。この、音楽という言語の明晰性に匹敵するものはなにもない」(『ロッシーニ伝』高橋・富永訳)とのべている。
この言葉は、小林に原理的な認識を喚起したようだ。
「音楽家の意識の最重要部は、音で出来上つてゐる」とのべ、「明確な形もなく意味もない音の組合せの上に建てられた音楽といふ建築」と、小林は記している。

それはモーツアルト自身、1777年の父に宛てた手紙にある「言葉でなく音でなら光と影、表情と仕草を表現することができる」とした部分の引用とむすびつく。
(小林は、芸術表現における音楽言語の自立性について言及している)

さらに「『ロッシーニ伝』序論」の「イタリアにおけるモーツァルト」のなかで、この天才が「時として彼の音楽の力は余りに強く、ために、そこに現われてくるイメージもそれと定かに見きわめられぬままに、聴く者の心はその力に突然捉えられ、憂愁の洪水に浸され」るあたりは、ゲオンの「疾走する悲しみ」とあいまって、小林が「突然に」このモーツアルトの根源的なかなしみにとらわれる意味を明らかにしてくれると、饗庭は解釈している。

また、スタンダールが『モーツァルトの生涯』で、モーツアルトの感性と肉体の不均衡をかたっている部分は、小林がいうモーツアルトがつまるところ「音楽という霊」でしかありえないような見方につながっているとする。

そしてこの点は、スタンダールが「モーツァルトの手紙」の最後をしめくくるにあたってのべた「かつてはモーツァルトと呼ばれ、今日イタリア人が『あの怪物じみた才人』と異名を与えているこの驚くべき存在において、肉体の占める部分は能うるかぎり少なかった」という言葉に呼応する。そして、小林も「あたかも、無用なものを何一つ纏はぬ、純潔なモオツアルトの主題の様に鳴」りひびくという。

饗庭は、この点、「実朝」において歌われた「無垢」の旋律と同じだと解している。そして、この『モオツアルト』の主調低音のように、スタンダールの『パルムの僧院』の主人公、ファブリスの「無垢」とも共鳴しあっているともいう。

小林がスタンダールのモーツアルトによせた短文を「洞察と陶酔との不思議な合一を示して、いかにも美しく、この自己告白の達人が書いた一番無意識な告白の傑作」であり、「自分の魂の感ずるまゝに自由に行動して誤たぬ人間、無思想無性格と見えるほど透明な人間の作者」とした理由は、モーツアルトをとおしてスタンダールをみつめ、そこに「実朝」やランボオを透かして、「無垢」と「孤独」の旋律を見ようとした小林の感性の本質的な志向をあらわしていると、饗庭はみている。小林がここに心理分析者としてのスタンダールを見まいとしたのも、うなずける。
(ただ、スタンダールはあくまで感覚の純化と「生きる歓び」をそのイタリアニスムに求めていたのに対し、モーツアルトはフリーメーソンにおける「死」の幸福を最終的に考えていた点がことなると、断っている)

次に、P.J.ジューヴから、小林は次のような影響を受けたという。
たとえば、「彼の聖歌は、不思議な力で僕を頷かせる。それは、彼が登りつめたシナイの山の頂ではない。それはバッハがやつた事だ。モオツアルトといふ或る憐れな男が、紛ふ事ない天上の歌に酔ひ、気を失つて仆れるのである。而も、なんといふ確かさだ、この気を失つた男の音楽は」という条りがある。

これは、ジューヴの次の言葉から換骨奪胎したものであるそうだ。
「モーツァルトは消え失せます。彼は、バッハがシナイ山上のモーゼの頂きまで登りつめたように、彼自身の頂きに達するのではなくして、恍惚のうちに喪神するのです」(高橋英郎訳)

この「喪神」は、モーツアルトの音楽がもつ個人の輪郭のなかに働く音楽そのものの霊によるものであろう。それは小林が考えるモーツアルトの音楽の「確かさ」でもあり、このことは「死」の問題とも通底している。

小林は次のように記す。
「何故、死は最上の友なのか。死が一切の終りである生を抜け出て、彼は、死が生を照し出すもう一つの世界からものを言ふ。こゝで語つてゐるのは、もはやモオツアルトといふ人間ではなく、寧ろ音楽といふ霊ではあるまいか」と。

このように、ジューヴにとって、「死」が「精霊」の働きと見たものを、小林は「音楽といふ霊」としてとらえる。

さらに、小林は、『モオツアルト』の終り近く、その音楽が「罪業の思想に侵されぬ一種の輪廻を告げてゐる様に見える」と書く。
この認識も、ジューヴの幻視(ヴィジョン)の影響がみられるようだ。モーツアルトの天才は、「死の星のもとにある」とのべ、それが生と死の純粋は働きとして、「罪業そのものの上に――信仰に照らし出され、しかも美の黄金律にしたがって、理性的精神を働かせてそびえ立っている」とジューヴは記す。
(ただ、ジューヴの視線にある信仰の光の相が小林にはなく、生の輪廻の相があったというちがいにとどまると、饗庭は補足している)

小林は、モーツアルト論において、スタンダールとジューヴの影響を受けた。
それにもまして、アンリ・ゲオンから多くの啓示と示唆、そして共鳴を受けとっていた。
先述したように、「走る悲しみ」(tristesse allante)について、ゲオンは、「むせび泣きすらが旋律」であり、「初めから終わりまで、純粋な音楽のみがほとばしり、流れている」と、「ト短調」(K.516)のアレグロについてのべている。
小林も、「確かに、モオツアルトのかなしさは疾走する。涙は追ひつかない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる」とする。

この部分が、小林の『モオツアルト』のなかのひとつの頂点をなす「歌」である。ゲオンの旋律を抜きにして、小林の「歌」を聴くことはできないと、饗庭は捉えている。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、212頁~215頁)

小林の『モオツアルト』には、ランゲの肖像にモーツアルトの内面と「ト短調」と重ねて見るような、一種の倫理的で文学的な音楽の聴き方があることも否定できないといわれる。
それは芸術と実生活の完全な分離をモーツアルトに見るような、一種の倫理的で文学的な音楽の聴き方があることも否定できないといわれる。
それは芸術と実生活の完全な分離をモーツアルトに見えるような視線からすれば、「孤独な魂」と「走る悲しみ」の感傷のヴェールを重ねて聴く態度とつながって、不透明な印象を与えかねない部分ともいえる。
(換言すれば、「人間の心理学的な扱いにおいて、詩と真実とをあまり区別しなかったロマン派伝来の天才像」(ヒルデスハイマー[渡辺健訳]『モーツァルト』)の残滓を小林もまた持っていたともいえる)


モーツアルトを「悲劇的、喜劇的側面のすべてを含む生の充実」を描く表現者としても見ることもできる。
それにまたモーツアルトに「孤独な魂」の表現があるというより、モーツアルトにあっては、舞台と観客との意識の「間主観的共同体」の自由な表現があったとする。
(シュッツ[中矢一義訳]「モーツァルトと哲学者」)

ところで、モーツアルトの時代は、なおも「個」と共同体が分ちがたくまじり合っていた時代だった。共同体から、教会から、貴族からの注文がなければ、そして演奏会場での観客や聴衆の意識上の共同体的な参加がなければ、作曲家の「個」などは存在しない時代だった。
この点については、小林はいささかもふれていないと饗庭は批判している。さらに、モーツアルトがフリーメーソンに入って、「死」をも「幸福」と考える程の思考を得たとすれば、それは一に「個」の信仰のレヴェルよりは、フリーメーソンという共同体の信仰のイデ―によっていたともみることができる。

ここで、饗庭は次のような例をあげている。
〇モーツアルトは「夕べの思い」(K.523)の作曲にさいし、「最愛の人」という最初の献辞を後に削除し、「おお、友よ」と変えているが、その「友」とはフリーメーソンの「友」にほかならない。
〇キャサリン・トムソンは『モーツァルトとフリーメイソン』(湯川新・田口孝吉訳)のなかで、モーツアルトが父の死の10日前に完成した「弦楽五重奏曲ト短調」(K.516)についてのゲオルク・クネプラーの解釈を引用している。
それは、「個人の悲しみが集団の調和をうち崩す。一人で悲しみにくれる者は人間社会にいかなる慰めをも見出すことはできない」こと、「最も深い悲しみであろうとも、人間の共同体のなかで克服することができる」とモーツアルトが考えていたという点の強調である。
〇さらに『魔笛』の最終合唱の「アレグロ」8小節がトランペットのファンファーレとともに「人間の友愛」の地上への成就であるとするトムソンの考えも注目に値する。

そうすると、モーツアルトの「突然」の転調も、生の光と影のようにその全的な表現として、たとえ「死」の星の下に人間があろうとも、「悲しみ」と歓びが刻々に織りなす、生の表現であったにちがいない。
そうであれば、さまざまな不安をこえながら、モーツアルトが父に宛てて、「死は、よく考えてみれば、われわれの生存の真なる目的地ですから」とのべていること、友バリザーニの死について「彼にまた相まみえる喜びの日まで」と書いたことも、納得がいくという。
共同体の目にみえぬ「死=幸福」の信条(クレド)に支えられた透明な音楽こそ、モーツアルトの本質であると、饗庭は解説している。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、222頁~224頁)

小林秀雄とドストエーフスキイ


小林秀雄がドストエーフスキイに着目したきっかけの一つに、ジードの『ドストエーフスキイ』があったといわれる。
(小林のドストエーフスキイ研究に大きな示唆を与えたジードの『ドストエーフスキイ』(武者小路実光・小西茂也訳)が出たのが、昭和5年であった)
「私はドストエーフスキイ以上に矛盾や首尾一貫しないことに富む作家を知らない」とジードは記している。

小林はジードの『ドストエーフスキイ』から多くの示唆を受けた。
意識や心理を倫理と不可分なものと見、矛盾と複雑さをそのまま生かし、一見、架空、「荒唐無稽」にみえがちなものをなりたたせる細部の陰翳の表現に忠実なリアリズムをドストエーフスキイに見る点などが挙げられる。
ただ、小林がジードのその書に強いリアリティを覚えたとすれば、それは単にジードの意識にかかわるドストエーフスキイ解釈に共感しただけではないと、饗庭は主張している。
ジードのその解釈自体にうかがわれる西欧小説にたいするジードの反省をとおしての共感であったという。

ここで、饗庭はこの点について解説している。
〇ジードは、バルザックを例にとりながら、西欧の小説の場合には知性と意志を主人公が貫徹する。それに対して、ドストエーフスキイの小説の主人公は知性を放棄し、「個人的意志を棄権し自己放棄によってのみ神の国に入る」という考え方を示している。
〇そして、ここに見られる「知性」と「意志」こそ、少なくとも、ドストエーフスキイに至る小林秀雄のフランス文学体験にもとづく、その批評の要(かなめ)となっていた問題であった。
〇したがって、ドストエーフスキイを読むことは、小林にとって、この二つの問題への反省と検討を迫り、明晰な知性によって解きあかしうる意識の根底に自己放棄によって思いがけない展開をみせるドストエーフスキイの作品の、力動的に息づく不可測な存在の「闇」を凝視することであった。

これがジードに小林が学んだ主要なことであった。

(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、139頁~144頁)

小林がドストエーフスキイと取り組んだ理由


小林は、「Xへの手紙」のなかで、「自己解体」をかたり「ただ明確なのは自分の苦痛だけだ」ということをのべている。
それは時代のなかで、次のこととむすびつくと饗庭はみている。
〇太宰治の「自己喪失」
〇亀井勝一郎の言う「苦痛」による新しい自我の発見
〇保田與重郎の考える「盲目の精神の闇」をとおす自己確認
〇中村光夫の提唱する「自己の内奥の苦痛」の表現の必要

これらとひびきあい通底し、ドストエーフスキイに収斂したようだ。

ドストエーフスキイの文学とその「個」の意識という地下室の「闇」のような「自己」に収斂してゆく有様は、偶然というより、むしろともに時代の暗部に下りたつような必然性を感じさせると、饗庭は捉えている。

ちなみに、蔵原惟人は、昭和3年「プロレタリア・レアリズムへの道」(雑誌『戦旗』)のなかで、ドストエーフスキイの文学を「純粋にブルジョアジーの立場にも立ち得ず、また積極的にプロレタリアートの立場にも移つてゆくことが出来」ない、動揺しつつある、博愛、正義、人道主義的な小ブルジョワ・レアリズムにすぎないと批判している。
(この判断は、宮本顕治「敗北の文学」のなかで、芥川批判と重なっていくことになる)

芥川龍之介が、その詩「手」のなかで、ブルジョワを白い手に、プロレタリアを赤い手に擬し、自らもその「赤い手」に数えながら、「しかし僕はその外にも一本の手を見つめてゐる。/――あの遠国に飢ゑ死にしたドストエフスキイの子供の手を」とした懐疑にゆれうごく。
その人道主義は、宮本、蔵原の否定すべき対象としての意味をもっていた。
ドストエーフスキイも、「自己解体」の「苦痛」に何ほどか見合うべき、自己再検討と再生の象徴として映じていたようだ。

「芥川的なるもの」から「ドストエーフスキイ的なるもの」への転位の過程は、このようにして転向によって明らかな道すじを示した。
亀井勝一郎の転形期の自我の「苦痛」も、保田與重郎の盲目の「闇」も、中村光夫の「苦痛」の認識もいずれもが、ドストエーフスキイに収斂した。そして、それは、太宰治の「自己喪失」の表現としての小説の手法をふくみ、小林秀雄の、明瞭な「苦痛」の自覚をよびさました。
シェストフの「不安」を一つの大きな共鳴盤としながら、ほとんど時代の暗い主調低音となって、あたらしい「自己」凝視とその造型に人々をみちびいたと、饗庭は捉えている。そして、ここにも小林が、自らの希求とともに、時代にうながされて、ドストエーフスキイと取組まざるをえなかった一つの大きな理由があるという。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、136頁~138頁)


《饗庭孝男の小林秀雄論 その2》

2021-06-06 18:42:24 | 文章について
《饗庭孝男の小林秀雄論 その2》
(2021年6月6日投稿)



【はじめに】


 今回のブログでは、饗庭孝男『小林秀雄とその時代』(小沢書店、1997年)において、論じられた日本古典論について解説しておきたい。
 まず、「当麻」「平家物語」「徒然草」、そして「西行」および「実朝」といった小林秀雄の古典論について、饗庭孝男がどのように捉えていたのかを説明してゆく。
 そして、小林秀雄の大著『本居宣長』と言語観について、饗庭がどのように理解しているのかについて、述べてみたい。



【饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店はこちらから】

小林秀雄とその時代



饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年
本書の目次は次のようになっている。
【目次】
第一章 「故郷」喪失と「意識」のドラマ――「一ツの脳髄」
第二章 批評の誕生――ランボオとヴァレリー体験
第三章 拮抗する批評の精神――「様々なる意匠」と志賀直哉論
第四章 「思想」と実生活――「私小説論」の成立
第五章 意識の「地下室」を求めて――ドストエーフスキイ論考
第六章 歴史の闇の花――『無常といふ事』
第七章 「無垢」な魂の歌――『モオツアルト』
第八章 「精神」としての絵画――『ゴッホの手紙』と『近代絵画』
第九章 「経験」の深化――ベルクソン論としての「感想」
第十章 「信」としての<知>――『本居宣長』
あとがき




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・小林秀雄の古典論
・小林秀雄の古典論に対する饗庭孝男の理解
・「信」としての<知>――『本居宣長』
・小林秀雄の「言語」観と『本居宣長』






小林秀雄の古典論



小林秀雄にとって開戦の翌年から、昭和18年にかけては、古典論を書くことに専念した期間であった。
「当麻」「無常といふ事」「平家物語」「徒然草」、そして「西行」が昭和17年に、「実朝」が翌年である。

その間、昭和17年の10月には、「近代の超克」(『文學界』)に出席している。この大座談会における小林の発言は、古典論と並行している時だけに多くの示唆をふくんでいると、饗庭はみている。
小林は、歴史は変化であり、進歩と見なす考えに懐疑を覚え、「何時も同じもの」があり、それを貫く人の書いた作品を「古典」とし、「美学」と呼び、現代にいても「古人の達したより以上のものは絶対にできんといふ謙遜な気持」をもつことを力説している。
ここに歴史から古典への移行が期せずしてかたられている趣きがある。

「当麻」は、形ある美しさへの直接経験にのみ認識の根拠を求めようとする思想から書かれたものである。古典論のはじめが、身体的行為としての能の表現についてのエッセイであることは、その意味で象徴的である。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、184頁~185頁)

小林秀雄の古典論に対する饗庭孝男の理解


沈黙のなかで戦争という歴史の劇を生きながら、小林は言いようのない「孤独」を感じていたはずである。
「徒然草」から「西行」「実朝」に至る評論を一貫して流れるものは、抗しがたい歴史(必然)の運命を前にした自意識の「孤独」が奏でる、あるパセティックな短調とでもいうべき、暗く低い旋律であったと、饗庭は捉えている。

兼好も西行も、実朝のいずれもが戦乱のなかで歴史(必然)に打ち砕かれる思想を「孤独」の裡に織っていた。そこに小林がおのれの姿を重ね、古典を現前させ、あるいは逆に古典のなかにおのれを織りこみ、いわば時をこえて生きつづける存在の「あかし」を願おうと考えたとする。

「当麻」は、そうした巨大な現実を前にし、それに拮抗しようとする小林の態度をものがたる古典論の「序奏」とでもいうべき作品であった。
この小さな「形」のなかに、「近代」日本にたいする自らをとおした総括的反省がこめられているとともに、歴史の闇のなかの「孤独」を「花」と化し、逆にそこに自らの「歴史」をイメージによって現象させようとした小林の意図が息づいているとみる。

「当麻」につづいて書かれた「平家物語」のとらえ方についても、「当麻」と同じく、イメージによる把握と「肉体の動きに則つて観念の動きを修正」しようとする小林の意図を看取できるようだ。
「言葉の故郷は肉体だ」とのべた思考が「当麻」と同じく、この「平家物語」をもつらぬいているという。
(こういう思考とは、かつて志賀直哉に小林が見た「自然」と「行為」の表現にたいする讃嘆の延長線上にあるものである。小林が志賀直哉論以来、歴史(自然)認識をへて対象のなかに、おのれの思考と共振するものをよみ、いかにそれをリアリティあるものとしているか否かが、そこでは問題であった。小林は『平家物語』に、いわば自らの思考と出会うもののみをイメージで表現した)

一方、『徒然草』に対しては、別の接近の仕方を行った。わずか2頁半のこのエッセイで小林が描いたものは、小林が批評行為の中心においた「見る」ことに徹した兼好の態度であった。
小林は「生死」と「自然」を見、それを表現するモラリスト的な形式の見事さと文体に感嘆した。「見る」行為と表現の形式と文体への関心こそ、このエッセイの本質であると、饗庭は理解している。

ところが、「西行」と「実朝」は、これまでの、対象にたいする独自な接近と、その切り口の提示が身上であった古典論と趣きをことにするようだ。そこには対象の全体を小林なりの視角からとらえようとする意図がある。

小林は西行を描くにあたって、「根は頑丈で執拗な」人間であると見た。小林が見ようとしたのは、「生得」の詩人であるばかりでなく、たとえば「世の中を反き果てぬといひおかんと思ひしるべき人はなくとも」という歌にみられる意志をつらぬこうとする勁い人間であった。
この視角から西行は「自ら進んで世に反いた者の世俗に対する嘲笑と内に湧き上る希望との渦巻く青春の歌」をうたう人として映じ、「女々しい感傷」をもたぬ「空前の内省家」となる。その苦い内省によって、そのまま放胆で自在な、しかも正確な歌をよむ詩人と、小林は考えた。

だから、小林はこう言い切る。
「天稟の倫理性と人生無常に関する沈痛な信念とを心中深く蔵して、凝滞を知らず、頽廃を知らず、俗にも僧にも囚はれぬ、自在で而も誤たぬ、一種の生活法の体得者だつたに違ひないと思ふ」

定家がいかにして歌を作るかという悩みをいだいていたのに対して、西行はいかにしておのれを知るか、という自問を持っていた詩人であると、小林は見る。西行にとって、「自然」とむかいあう、そのあらわな心の「孤独」を歌うことが唯一の生のあかしとなったという。
西行は「自然」にさらされた「孤独」をいだきながら、北面武士の俤をもち、勁い意志により、自意識の苦痛をもちながらも「行為」のひととして生きたとする。

この西行像は、「自然」をめぐり、ランボオから志賀直哉を経て、展開されてきた「わが心」(意識)を「行為」によってのりこえようとする反「近代」的な、あるべき人間像であると、饗庭は捉えている。
小林は西行の歌と「行為」のなかに「自然」にふれて放たれる勁い「孤独」の共鳴音(レゾナンス)をもった旋律をききとったであろう。つまり、小林の「西行」とは、「個」の懐疑の果てに「近代」の否定にたどりつき、その上で「自然」(歴史)の覚醒によってあらわにされた「わが心」の「孤独」を西行の行為と歌をとおして彫琢しようとした批評行為の所産にほかならないとする)

次に小林の「実朝」はどうか。
小林は昭和18年、『文學界』(2月号、5月号、6月号)に「実朝」を書いている。一方、太宰治は前年の10月ごろから書下しの小説『右大臣実朝』にとりくみ、小林と同じ昭和18年の9月にこれを出版している。両者の暗合は不思議である。

太宰は天稟をもった実朝を「神様」のように無垢で清澄きわまりない人間とし、そこにキリストの犠牲を重ね、「アカルサハ、ホロビの姿」という予感のなかに息づいていた破滅へのいそぎをあらわした。
しかし、小林の実朝は、「無垢」の天稟をもった詩人という点では共通していても、万葉の精神と出会う資質をもち、約束多い和歌の枠を自在にこえ、その詩魂に独創的な孤独を宿した詩人であると見る点でことなっていた。
太宰は「滅亡」のフィルターをとおし、小林は「孤独」をとおして、ともに時代のなかにおける自己証明のように実朝を描いたようだ。

小林が実朝に見たのは、歴史の暗闘のなかで不可避な「死」をかかえた「無垢」の詩人であった。この点、西行が旅のなかに生き、俗と僧との間に矛盾をかかえて生きながらも、何よりも「わが心」のありようを求めたのとはちがう。
12歳で征夷大将軍となり、右大臣となった28歳の惨死まで政治のなかに生きた実朝は、「愛惜」としての歴史の名に値いする人間である。そして歴史の必然にうちくだかれる悲劇の詩人である。
小林は「孤独」の独創性を実朝に感じた。
小林が「歴史について」や「歴史と文学」でのべてきた「愛惜」ともっとも呼ぶにふさわしい対象が、この実朝であったと見ることができる。

実朝は天与の詩才をいだきながら政治の渦中に生き、それなりに「物」が見えた人間である。この実朝を描く小林の筆致は、緊張し、高揚し、終末にむかって、あたかもおのれ自身をおいあげ、純化してゆくような美しさをたたえているといわれる。饗庭は、小林の古典論のなかで、もっとも見事な達成をここに見ている。
実朝は、小林にとって、「行為」の領域に運命的に生きながらも、すぐれた「天分」によってその運命をこえ、時の外に出て、しかも「伝統」のつねに「現前」する存在の典型に見えた。

小林は、史料を過信せず、感性的認識によって実朝の歌を、その「色や線や旋律」から、「夕暮」や「白波」あるいは「見え隠れする雪を乗せた島」からとらえたイメージをとおして、「詩魂」の内部に直接に推参しようとする。

小林は、「物」であの「形ある美」のリアリティを考えるに、観念や概念をこえて直接経験を重要視する人間であった。「大切な事は、真理に頼つて限定する事では」なく、「見る事が考へる事と同じになるまで、視力を純化する」(「私の人生観」)ことが、実朝の歌に対する感覚的把握の根底に働いていた。
「もの」にしたがい、その現前性をとらえ、「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」(「無常といふ事」)「伝統」の実体に迫る上で、おのずから遥かな日本の伝統的認識の仕方を小林は体現した。
この心性(メンタリティ)の個人的顕在こそ、小林の古典論を支えたものであると、饗庭は捉えている。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、187頁~195頁)

「信」としての<知>――『本居宣長』


饗庭孝男は、『小林秀雄とその時代』(小沢書店、1997年)において、「第十章 「信」としての<知>――『本居宣長』」において、小林秀雄と『本居宣長』について、次のように述べている。

饗庭は、小林秀雄という批評家を次のように規定している。
「小林秀雄は、生涯にわたって「言語」とは何かを考えつづけてきた人間であった」(311頁)

そして小林の著作『本居宣長』について、次のように評している。
「『本居宣長』は、その意味でこうした「言語」を中心とし、それを「伝統」への「信」を前提としながら神話的共同体へと開いてみせた小林の批評の到達点であり、その集成とも呼んでいいものである」(312頁)

小林の『本居宣長』の主題は、「何よりも小林秀雄にとって重要であったのは、少くともこの『本居宣長』に関するかぎり、「言語」の発生のありようであった」(313頁)

宣長の「言語」についての論議は、賀茂真淵の『冠辞考』を問題にするあたりからはじまっているが、そこには2つの方向があったと饗庭は解説している。
①「ひたすら言語の表現力を信ずる歌人の純粋な喜び」という詩的言語への重視→歌人の「個」の表現
②「物のあはれに、たへぬところより、ほころび出る」、声や抑揚をもつ歌の原初性への重視→「言語」の身体性

①には、象徴主義の「言語」観の痕跡がある。②には、荻生徂徠の、音声を文字に優位させる、いわば現象学的な思考の反映があると饗庭はみる。
そして小林秀雄の『本居宣長』における「言語」論は、この2つが分ちがたくむすびついているとする。

また、饗庭は、小林の『本居宣長』に対する批判点として、次のようなことを述べている。
本居宣長の「物のあはれ」論から「古語」を明らかにすることで「道」をとく思考過程を、単に物語論と歌道、そして古語にかかわる「言語」論の水準で考える困難がここにあると饗庭は指摘している。
「古語」と「道」との関係をときほぐすために、宣長が生きた時代と彼の階級意識、そしてそこに息づく思想の交点を見ることが、小林秀雄にはさけてとおることのできない問題であったとする。
つまり、『古事記』が形成していた言語空間を、宣長の思想にそって想像力のなかで有機的な連関をとらえる手続が必要であったという。
宣長の「思想」が明確になるのも、時代と階級とのディアレクティック(弁証法)によってであると饗庭は批判している。
(そのことによって、逆に宣長の思い描いた『古事記』の宇宙が一層見えてきただろうとする)

宣長がどのように徂徠の「言語」観から「音声」と文字の関係を見て行ったかについて、いささかも小林は論争をしているわけではないと、饗庭は指摘している。
彼は稗田阿礼の「誦習(ヨミナライ)にむかい「言語」の「いきほひ」をのべるに至るのであるが、この過程にあらためて「凡ソ言語ノ道ハ、詩コレヲ尽ス」とし「言に物有る物」と「行ひに格有る事」とし「理」よりも「事実」を重んずるに至った徂徠の「言語」観を採用する。

(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、311頁~314頁)

小林秀雄の「言語」観と『本居宣長』


小林秀雄は、生涯にわたって「言語」とは何かを考えつづけてきた人間であったと、饗庭は規定している。

小林の「言語」観は、象徴主義やヴァレリーの詩的言語をたてとし、伝達の機能よりも表現の意味作用を「個」と文学の自立性とにむすんだという。そして、それはマルクス主義と対峙した。その「言語」観は、「歴史」と「伝統」に出会うことによって、「言霊」の原初に遡行していった。

小林の批評の本質的な意味作用について、
〇「個」から「無私」へ
〇象徴主義の「言語」から共同体の「言霊」へ
と移っていった。

小林の『本居宣長』は、その意味で、こうした「言語」を中心とし、それを「伝統」への「信」を前提としながら、神話的共同体へと開いてみせた小林の批評の到達点であり、その集成であると、饗庭は理解している。
(饗庭孝男「「信」としての<知>」『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年所収、311頁~312頁)

小林の「言語」についての論議には、二つの方向があったといった。
その一つは、荻生徂徠の、音声を文字に優位させる、いわば現象学的な思考の反映があると饗庭はみている
(ジャック・デリダやフッサールの現象学における「言語」を解読しながらのべた「声(phoné フォネ)としての気息の精神性」(『声と現象』)に似た側面)

そして小林秀雄の『本居宣長』における「言語」論は、この二つが分ちがたくむすびついているとしたが、饗庭は、このことを時代の展望のなかにおきなおしている。
徂徠は、「言語」を漢字文化のなかで考えぬいたが、宣長は、漢意を排し、歌をとおして『古事記』のもつ口承的言語の原日本語的「言葉(パロール)」に移行した。
(ただ、宣長がどのようにして徂徠の「言語」観から「音声」と文字の関係を見て行ったかについて、小林は論証しているわけではないと、饗庭は断っている)

そして、饗庭は次のように記している。
「おそらくベルクソンを読み、そこにおける記号的認識にたいする深いベルクソンの懐疑と小林の「経験」主義にもとづく「物」への「無私」で直接的な感受の態度が、宣長の独自な「言語」観と共鳴しつつ、「見る」ことという態度とともに「古語を得る」宣長の内的経験の想像力的な復元にあって、その現象学的な接近を可能にしたにちがいない」
(饗庭孝男「「信」としての<知>」『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年所収、313頁~316頁)

言葉が力をもつとすれば何か、という自問を、小林は身体論的なレヴェルにつねに戻して考える習慣をもつようになっていた。それゆえ「言葉の故郷は肉体だ」(「オリムピア」)と小林が言うのも当然である。

小林は『本居宣長』のなかで、「古言」を得ることは「手答へのある『物』」であるとのべている。また、「言葉」について「私達の力量を超えた道具の『さだまり』」とする。
また、言葉を「たましひ」をもっている「生き物」と見る。「言語表現の本質を成すものは」「その人の持つて生れて来た心身の働きに、深く関はつてゐる」と考えている。

こうした認識のなかに、小林の「言語」観が一つのものとなってむすびついているといえる。
『本居宣長』における言語論の根は深い。
いいかえれば、小林は記号的な「言語」にたいする懐疑から、神話的言語へと遡行してきたと饗庭は捉えている。いわば≪自然≫に根ざし、存在と事物が認識の渇望によって呼び出される時、その根源の場でうかびあがる「言語」に小林は心惹かれてきたという。
多義的で重層しながら肉体を失わない原初の「言語」の意味作用(シニフィカシヨン)への関心が、小林をみちびいて本居宣長に至った。

「歴史」から「伝統」、そして古典の神話的言語空間へと、初期において得た西欧の象徴主義的な「言語観」は、日本の心性のなかでためされ、遡行の働きを得、小林の内部において「古語を得る」宣長の追体験への希求の道すじをたどって変容をとげた。

さて、小林は、こうした「言語」観を根底にもちながら、古典文学を題材とした次のような批評を書いた。「当麻」「無常といふ事」「徒然草」「西行」「実朝」等。
そして、日本近世の思想家たちのありかたに関心を集中させるようになる。
それは、パスカル、デカルト、ベルクソンといったフランスの思想家、ソクラテスやプラトンという古代の思想家にたいする関心と重なり、あるいはそれを契機として深められた。
小林のモラリスト的志向がたとえばモンテーニュをとおし、吉田兼好に「物が見え過ぎる眼」の「物狂しさ」と「死」への認識をよみとっていたのも、そうした糸口をつくっていたと、饗庭は推測している。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、292頁~293頁)



《饗庭孝男の小林秀雄論 その1》

2021-06-05 19:28:45 | 文章について
《饗庭孝男の小林秀雄論 その1》
(2021年6月1日投稿)
 


【はじめに】


 今回のブログからは、3回にわたって、『小林秀雄とその時代』(小沢書店、1997年)で論じられた饗庭孝男の小林秀雄論を紹介してみたい。
 今回のその1では、小林秀雄と中原中也、芥川龍之介との関係を通して、小林が詩や小説ではなく、なぜ批評活動におもむいたのかについて、述べてみたい。あわせて、小林の文章観、歴史観について解説してみたい。
 次回以降、その2では、小林の日本古典論について、その3では、ベルクソン、ランボー、モーツアルト、ドストエフスキーなどの西欧の人物と作品について、小林秀雄がどう論じたかのかを紹介してみたい。




【饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店はこちらから】

小林秀雄とその時代
 





饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年
本書の目次は次のようになっている。
【目次】
第一章 「故郷」喪失と「意識」のドラマ――「一ツの脳髄」
第二章 批評の誕生――ランボオとヴァレリー体験
第三章 拮抗する批評の精神――「様々なる意匠」と志賀直哉論
第四章 「思想」と実生活――「私小説論」の成立
第五章 意識の「地下室」を求めて――ドストエーフスキイ論考
第六章 歴史の闇の花――『無常といふ事』
第七章 「無垢」な魂の歌――『モオツアルト』
第八章 「精神」としての絵画――『ゴッホの手紙』と『近代絵画』
第九章 「経験」の深化――ベルクソン論としての「感想」
第十章 「信」としての<知>――『本居宣長』
あとがき





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・饗庭孝男『小林秀雄とその時代』について
・小林秀雄と中原中也  小林の批評の出発と関連して
・小林秀雄と芥川龍之介 昭和初期という時代
・小林秀雄の文章観
・小林秀雄の歴史観







饗庭孝男『小林秀雄とその時代』について


この書は、『文學界』(昭和59年7月号~61年1月号)に10回にわたって連載された「小林秀雄とその時代」をまとめたものである。
饗庭孝男は、「あとがき」において、小林秀雄について、次のように評している。
「小林秀雄は、日本「近代」文学において、批評をそれ自体「作品」として自立させた、ほとんど最初の人間である」(321頁)

フランスの象徴主義における「詩的言語」の自己完結的な「表現」に依り、しかもそれを「自意識」の問題と内密的にかかわらせながら、昭和初年における彼の文学的出発に際し、時代を風靡したマルクス主義文学による「思想」の「伝達」と有効性に対峙させつつあらわれた批評家である。」(321頁)

つまり、饗庭は、小林という批評家を理解する上で、重要な指標を示している。
〇日本「近代」文学において、ほとんど最初に批評それ自体「作品」として自立させた
〇フランスの象徴主義における「詩的言語」の自己完結的な「表現」に依っていた
〇それを「自意識」の問題と内密的にかかわらせた
〇昭和初年に小林は文学的出発した
〇当時のマルクス主義文学による「思想」の「伝達」と有効性に対峙した
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、321頁)

小林秀雄と中原中也  小林の批評の出発と関連して


精神と魂という二つの存在のかたちこそ、小林秀雄と中原中也の、文学表現をわけた重要な点であるといわれる。
中原と小林では、「歌う」ことと「見る」こと以上に存在のありようがことなっていた。
小林にとって、いかに女との生活が地獄でも、社会と自意識のあいわたる接点を見つめる精神の働きがあった。
「思想史とは社会の個人に対する戦勝史に他ならぬ」(「Xへの手紙」)という言葉がある。そこには、このような認識をうむ相対化された精神の働きがあった。

逆に中也は、精神より魂を重視する。つまり、「芸術とは、自分自身の魂に浸ることいかに誠実にして深いかにあるのだ」(「詩論」)という思い、あるいは生きることは感覚することであると考える。また、「それらは魂により織物とされ」「その織物こそ芸術」(「詩に関する話」)であるとする。中也には、魂のみが重要に思われた。

小林は、自らの「詩的精神」の及びがたさを知り、砕かれた魂の現場から「歌う」ことを断念し、地獄を体験した精神によって、「見る」ことをえらんだと、饗庭は解説している。
ここに少なくとも、小林の批評の出発にかかわる一つの問題が隠されているとする。
小林は女によって、書物的(リブレスク)的人生をうちくだかれ、「社会は常に個人に勝つ」ことを身をもって認識し、芸術が実生活に優位する神聖物であると考える幻想を捨てた。そして、中也に与えたふかい傷への苦い自覚を代償として、「見る」批評の根源をつかんだようだ。
(小林が文学的出発の当初書いた小説が、後に展開されなかったし、「歌う」ということが、ついに小林のものとならなかった理由の一つでもあったらしい)

ところで、小林は、中也がつれて来た長谷川泰子とひそかに会うようになる。
ここから4年にわたる小林の地獄がはじまる。
泰子は中也より3歳年長で、小林は中也より5歳年長である。
泰子は広島に生まれ、女優を志していた。面長で、グレタ・ガルボという、当時一世を風靡した女優に似ていた。しかし、自己中心的で、異様に神経症的に潔癖であった。
この女性によって、小林は、書物的(リブレスク)人生から現実に対して、目をひらかれ、また、恋という狂気(フォリ)によって自殺を思うという極限に追いこまれた。

例えば、「Xへの手紙」には、
「女は俺の成熟する場所だつた。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行かうとした俺の小癪な夢を一挙に破つてくれた」とある。
また、「批評家失格Ⅰ」には、
「実生活にとつて芸術とは(私は人々の享楽或は休息或は政策を目的とした作物を芸術とは心得ない)屁の様なものだ。(中略)芸術が何か実生活を超えた神聖物とみなす仮定の上にはどんな批評も成り立たぬ」と記す。

小林は、女と生活してみて、自分が度しがたく夢想家であり、また観念も言葉も現実との関係を経なければ意味をなさないということも理解する。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、46頁~57頁)

小林秀雄と芥川龍之介 昭和初期という時代


小林秀雄は、
〇昭和2年「芥川龍之介の美神と宿命」
〇昭和4年「様々なる意匠」を書く。

芥川龍之介は、昭和2年7月、自殺する。
小林が、「ランボオⅠ」を発表した翌年のことである。
小林のランボオ体験は、それ自体、根源的なものであった。詩(ポエジー)への断念と「見ること」への熾烈な希求が、やがて小林の裡に批評家を誕生させたと饗庭はみている。

この芥川龍之介の死に対して、昭和2年9月、小林は、「芥川龍之介の美神と宿命」(『大調和』)を書いた。
「芥川氏は見る事を決して為なかつた作家である。彼にとつて人生とは彼の神経の函数としてのみ存在した。そこで彼は人生を自身の神経をもつて微分したのである」
(「芥川龍之介の美神と宿命」)

当時、小林は25歳、長谷川泰子と同棲3年目であった。この女との地獄は、小林の言葉をかりれば、「シベリア流刑」であった。
小林の「シベリア流刑」のなかで、芥川龍之介の「あらゆるものを本の中で学んだ」生(つまり書物的な[リブレスク]人生)の懐疑が、小林にとって、いかに現実を知らぬものと見えたか。
小林は「女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行かうとした俺の小癪な夢を一挙に破つ」(「Xへの手紙」)た現実、男と女の間にさえ他者をもつ社会があるという現実を、日常のレヴェルから身にしみて感じていた。

小林は、何よりもヴァレリー的に「見る」ことを求め、自らの意識の「球体」をうちやぶることをとおして、芥川を見たようだ。
小林の芥川批判は、現実の「シベリア流刑」をとおして、小林自身の書物的人生を歩んできた自己を、ランボオの衝撃とともに、否定しつくすことにほかならなかったと、饗庭は捉えている。

この「芥川龍之介の美神と宿命」を書いたのちに、12年経った後も、「見る」ことにかかわりのある「懐疑」にことよせながら、小林は次のように述べている。
「僕は芥川氏の自殺に少しも同感も共鳴も出来なかつた。懐疑といふものは、もつと遠くまで行く筈だと信じてゐた」
(『芥川龍之介作品集』内容見本、岩波書店)
このように、小林が書いたことの背後には、間接的な自己批判の意味合いもあったようだ。

芥川の死と近接して小林が立った位置について、「文明開化の論理の終焉」という場を示していると、饗庭はみている(保田與重郎の表現をかりつつ)。
明治という時代は、「国家」の概念が、漱石と鷗外、啄木などの数少ない例をのぞけば、「個」に優位していた時代である。大正は、「人類」という概念が、ほとんど無媒介に、「個」の教養と直接していた時代である。それに対して、昭和の初期は、はじめて「社会」という概念が、否応なく、そのなかの「個」を知識人の参加という現実をとおして、うかびあがらせるようになった時代であった。

小林は、まさに、この「個」の内実を問い、さまざまな思想の「意匠」ではなく、思考の果までゆく懐疑こそ、はじめて裸形の「個」の確立であると信じたという。
これが、昭和という時代の小林の出発点における象徴の意味にほかならないと、饗庭は捉えている。
芥川批判の根底には、そうした自覚があったとする。小林の「見る」という視力の純化への希求もそこにかかわっていたようだ。

昭和は、明治からの「近代」化が一サイクルをおわった時期にあたる。芥川と小林のバトン・タッチは、こうした意味で否定を媒介としたものであった。この徹底した「個」の確立こそ、小林が生きた時代におけるマルクス主義の風圧にたえる唯一のとりでとなるはずであった。
小林が「芥川龍之介の美神と宿命」を書いた時、「様々なる意匠」よりも早く、自らの批評の意味を自覚したにちがいない。ただ、現代をよく「見る」ためには、過去の自分の存在の総体をかけて、否定する必要があった。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、60頁~67頁)

小林秀雄の文章観


小林秀雄の「様々なる意匠」は、それ自体一個の批評論として自立しているが、しかし明らかに時代のマルクス主義とその文学運動に対する強力な反措定として戦略的に出されたものであるとされる。

小林は、マルクス主義に対して、そのキイ・ワードである「意識」「存在」「商品」等を逆に用いながら、その「搦手から」の反措定を出した。だが、「様々なる意匠」のなかで小林自身が自己の文学観を逆照明しようとして措定した強力な抵抗体としてのマルクス主義の文献からの引用とその応用は、単にこの批評作品のみにかぎられるわけではない。
それは、昭和4年から昭和8年にかぎってみても、その批評の根底に働いていると、饗庭は指摘している。例えば、次のような小林の批評である。
・「アシルと亀の子」
・「物質への情熱」
・「マルクスの悟達」
・「文芸時評」
・「文芸批評の科学性に関する論争」
・「現代文学の不安」
・「新しい文学と新しい文壇」
・「年末感想」
・「文学批評について」
・「私小説について」

小林がマルクス主義という「思想」を自らに対峙する強力な相手として、いかに意識していたかをものがたる。
このことは逆に言って、小林がマルクス主義運動の存在によってこそ、あらためて「自己」「懐疑」「意識」「存在」「言語」「社会」等の問題を徹底的に考えさせられたということにもなる。それが小林の批評意識を尖鋭にしたようだ。小林はマルクス主義関係の文献も熟読していた。例えば、『ドイツ・イデオロギー』『哲学の貧困』『資本論』『フォイエルバッハ論』『反デューリング論』『自然の弁証法』『唯物論と経験批判論』が挙げられ、引用されたテクストである。

そして、小林は、三木清が書いたマルクス主義に関する論文・著作にも影響を受けた。例えば、昭和2年の「マルクス主義と唯物論」、昭和3年(小林の「様々なる意匠」が書かれる前年)の『唯物史観と現代の意識』(岩波書店)である。

小林の「様々なる意匠」のなかで、言語とその社会性について論及している要(かなめ)の個所には、表現のニュアンスおよび小林の言う「言語の魔術」をのぞけば、言わんとすることは等しかった。つまり、言葉の内面を捨てることで得られる社会的な実践性という核心にあたる部分は同じであると、饗庭はみている。
小林は三木清の「マルクス主義と唯物論」を読み、関心をそそられ、それを換骨奪胎し、逆用することによって、小林の言語論を武器とする批評の中心にそれを置いた。

小林は、用語の上でも、思想の上でも、マルクス主義や三木清の表現を援用し、それをよみかえることで、おのれの批評主体を鮮明にうち出した。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、77頁~84頁)

小林秀雄の「様々なる意匠」を中心に、それに隣接して書かれた文芸時評その他の評論は、3つの領域に分けられる。
①自己(意識)のとらえ方
②言語に関する部分
③作品創造の「過程」の重視

それらは有機的に、密接に関連し合っており、相互補完的によまなければならない。
自己認識とは、「批評とは自覚すること」であり、「宿命」の自覚である。それはマルクス主義批評のような「普遍性」への志や、「方法」意識からうまれるものではない。
批評するとは、作品のなかに「作者の宿命の主調低音」を聴くという、その共鳴(レゾナンス)と理解の外にはなく、全く「個」の問題に還元される。批評とは、自己認識を他者の裡に、作品のなかによむことである。

文学作品が「方法」やイデオロギーによって客観的になど書かれるわけはないと小林は批判する。作品は作者の現実認識の結果からしかうまれず、また、その創造の過程こそ重要だという。そして何より作品の内側に身を置く態度を強調する。

作品は社会に規定されているというマルクス主義の論理を逆のバネとして、小林は論理を展開して、作品は時代と社会の裡にうまれるが、目的意識にしたがって、それらを刻むのではなく、作品固有の法則にしたがって自己完結するのであり、時代と社会の姿があるとしても結果の問題にすぎないと、小林は見ていた。

作品を批評するとは、そこに隠れて働く<純粋我>である「宿命」をよみとり、その固有の創造過程に内密的に参加することにほかならないと、小林は考えた。
作品の制作過程をヴィヴィッドに内覚することであり、外から観察してえがくことではない。

この生成の内的知覚、その創造過程にたいする感性と想像力の参加(批評)こそ、小林の目指したものであった。そこにヴァレリー的認識に加えて、ベルクソン的な生の把握も影響を与えたとされる。

小林の3つの領域、すなわち自己認識と言語、作品の創造過程への注目が、いずれも相互補完的に働いて、小林の独自な思考と批評主体をつくりあげた。
この領域とその内密的な関係への明晰な把握こそ、小林がマルクス主義による批評に拮抗しえた理由であり、また同時に「心理主義小説」や私小説への単純な「方法」や素朴な印象批評を一蹴し去った点であったと、饗庭は理解している。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、84頁~90頁)

小林秀雄の歴史観


小林秀雄の歴史観については、「第六章 歴史の闇の「花」――『無常といふ事』」に述べられている。

昭和12年7月に日中戦争が勃発し、それはさらに昭和14年のソビエトとの「ノモンハン事件」をふくみながら、昭和16年12月の太平洋戦争勃発へとひろがってゆく。いわば「非常時」への突入の時期にあたっている。

小林秀雄に、昭和初期におけるマルクス主義運動とはちがった意味で、「政治」や「歴史」、そして「日本」を問い直す機会を外から与える時期でもあった。かつての「思想」としてのマルクス主義にたいして、「現実」としての戦争が否応なしに小林を状況の前にみちびいた。
しかも、文学における「思想と実生活」は国家と歴史の状況のレヴェルに拡大されて、あらたな検討を小林にうながした。

予測のつかぬ「現実」をひたすら直視するほかにしか、「思想」をつくり出す契機はないと小林は考えるに至ったようだ。「現実」そのものの受容におもむいた。
「現実」は、「人為」をもってはいかんともなしがたい「自然」のように、ある絶対的性格を帯びてあらわれた。したがって日中戦争をも「長い年月の間に緩慢に蓄積された莫大な諸原因の結果」(「事変と文学」)として見ることになる。「歴史」もまたこの視線のもとにとらえられ、やがて「第二の自然」として映じるようになった。
(そこに戦争を「人為」であるとともに「自然」とも見る相対的な思考は働かないのであり、「現実」の絶対化はこのようにして小林の戦争に対する態度を決定するに至ったそうだ)
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、165頁~167頁)

ところで、小林は昭和11年から明治大学で「日本文化史研究」という講座を開講し、歴史にふかい関心を示すようになっていた。そして、昭和14年に「歴史について」を書くが、これはそのまま『ドストエフスキイの生活』の「序」となった。それは、きわめて抽象的な歴史についての自問的な文章である。

ただ、この「序」には、ドストエーフスキイについてのべられた部分がまことに少ない。それは10頁のうち、わずか最後の1頁のみである。素材によって自分を語らず、在ったがままのドストエーフスキイの姿を再現するつもりもなく、「あらゆる史料は生きてゐた人物の蛻の殻に過ぎ」ず、「邪念といふものを警戒すれば足りる」として、「立還るところは、やはり、ささやかな遺品と深い悲しみとさへあれば、死児の顔を描くに事を欠かぬあの母親の技術より他にはない」という有名な一文を加えているのみである。
(この主情的な歴史認識については後述)

※「ドストエフスキイの生活」の「序(歴史について)」は、たとえば、『現代日本文学体系60 小林秀雄集』(筑摩書房、1969年、3頁~8頁)を参照のこと。
「あらゆる史料は生きてゐた人物の蛻(もぬけ)の殻に過ぎぬ」(8頁)とある。

【『現代日本文学体系60 小林秀雄集』筑摩書房はこちらから】

現代日本文学大系 (60)

この「序」全体にある小林の「歴史観」を取り上げて、饗庭は考察している。
「自然は人間に関係なく在るものだが、人間が作り出さなければ歴史はない」と小林が言う時、それは格別に斬新的でなく、まっとうな歴史解釈である。
また、自然を軸にし、人間を自然化しようとする能力と、自然を人間化する能力のせめぎあいに歴史があるというのも、正統的(オータンティック)である。
その上、史料という問題を媒介に、次のように小林が語る場合にも、的確に歴史と人間の関係を見ている。
「言はば歴史を観察する条件は、又これを創り出す条件に他ならぬといふ様な不安定な場所で、僕等は歴史といふ言葉を発明する。生き物が生き物を求める欲求は、自然の姿が明らかになるにつれて、到る処で史料といふ抵抗物に出会ふわけだが、欲求の力は、抵抗物に単純に屈従してはゐない。」

小林が歴史をこのように見る立場は、すでに昭和初年代におけるマルクス主義運動の過程で否応なく自分なりに歴史への把握を迫られていることに起因している。
小林が「自然」と人為のあいせめぎ合う劇のなかに歴史の姿を見ると考える時、それが時代のうながしから来ていることは容易に推察できる。

一方、三木清は、『歴史哲学』(昭和6~7年)に歴史について、次のように考えた。
歴史の「基礎経験」(現実の存在の構造全体)は「事実としての歴史」であり、歴史にかかわる「行為」を示す。ついでその「事実」(行為)が出来事をつくるゆえに、それは「存在としての歴史」となる。したがって、前者の「作る」行為にたいし、「作られたもの」として考えられる。この両者の弁証法的展開から歴史がうまれると三木は考えた。
(単純化すれば、それは「行為」と「存在」との力動的関係にほかならない。小林的に言えば、自然を「人間化」することと、人間が「自然化」されることの間における劇であろうと、饗庭は表現している。そして、小林は三木の諸論文を読んでいたと推測している。『様々なる意匠』にも、三木の影響があると指摘している。)

さて、小林の「序」において、そうした歴史のディアレクティックを説いている部分と、亡児を惜しむ母の感情としての歴史をのべた最後の結論との部分とは、異質なものと映じる。そして、その間に思想の連続性がほとんど存在しないように見える。
小林は、いずれに力点をおいたのかと、饗庭は問いかける。

昭和14年のこの「序」から2年経った後の「歴史と文学」において、ふたたび次のように述べた。
「歴史を貫く筋金は、僕等の愛惜の念といふものであつて、決して因果の鎖といふ様なものではない」
「母親にとつて、歴史とは、子供の死ではなく、寧ろ死んだ子供を意味する」
こうした点を読めば、後者の側に小林の考える歴史の意味があったことは明らかである。
この事実は、小林の歴史解釈が本質的に「個」のエモーショナルな領域から見られ、その主情性のリアリティにのみ存在することをものがたっている。
そこには「自然」と人間との間の動的な関係もディアレクティックもない。史料の相対的操作の必要も存在しない。

「自然」と人間の動的な、自然化と人間化の相剋の劇としての歴史という観点はなく、動かしがたい歴史にたいする嘆きと愛惜という「抵抗」においてしか歴史はないと考えるのが、小林の立場である。
母親の亡児にたいする愛惜のなかにこそ歴史(必然)が存在するのであれば、「自然」と人間とのディアレクティックな構造的展開は、小林にとって無縁となる他はない。
換言すれば、小林が言う意味での歴史は「自然」そのものの働きを嘆きにおいて表現することとなり、歴史という「必然」は嘆きという「意匠」をまとってあらわれる。
(ここに結果として、歴史の絶対化があらわれる。それは「現実」の絶対化と同質の構造ではなかろうかと、饗庭はみている。)
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、175頁~179頁)

この思考の水準で言うならば、井伏鱒二が昭和10年「炭鉱地帯病院」を書いたとき、そのなかで、不幸が人間に押寄せて来た時には「能ふる限り嘆き」、その嘆きのみが人間に与えられた自由であるとのべている点とひとしい。井伏は一貫して抗しがたい「自然」の運命にたいする人間の嘆きをとらえた。『黒い雨』のなかで、原爆をも天災と同じとらえ方で描いたとされる。

小林の歴史解釈は事の是非は別として、彼固有の思考をこえる日本の心性(メンタリティ)の表現に個人的輪郭を与えているともいえる。
当時のマルクス主義運動における「世界史的必然」の歴史解釈が、「日本的なもの」の伝統的自覚に先んじて、小林に歴史とは何かを自問することを強いた。
それからうまれた小林の観念と主義(イズム)嫌悪は「個」の自覚なき日本のマルクス主義者に対する批判の延長線上に「世界史的必然」という、「因果の鎖」に整合された歴史にかわるものを、時代のうながしのなかで見たようだ。それは「日本的なるもの」の覚醒のなかからあらわれた「伝統」であり、歴史という「自然」であった。
しかも、この自然が「必然」として絶対化され措定され、それにむかいあう態度が、それに打ち砕かれるところに生じる愛惜という主情的な認識にもとづくものとなる。
(小林の視野にあった、二つの「必然」は時代の推移にしたがい、このような置換をとげたと、饗庭は捉えている。)

このような歴史解釈が小林という「個」の認識からあらわれたことにかわりはない。
マルクス主義における歴史の客観性にかわる小林の歴史の主観的で、感性的な解釈がここにうまれたと、饗庭はみている。

「歴史といふものを眺めて兎や角言ふ自分といふ様なものを考へるのは誤りである。僕等には歴史を模倣する事以外に何も出来る筈はない。刻々に変る歴史の流れを、虚心に受け納れて、その歴史のなかに己れの顔を見るといふのが正しいのである」(「文学と自分」)という、このような認識が、非個性的な「日本主義」とことなっている。それはマルクス主義に拮抗することなくしては、うまれなかったという意味で個性的であった。
そのうえ、歴史(自然)の「必然」によって打ち砕かれたところにうまれる愛惜という感性的認識から歴史を「個」のなかに再創造するととらえる。このとらえ方が小林なりの確とした解釈であるとすれば、それは十分に文学的であった。

ここから小林が、ほとんど必然のように、歴史のなかの想像的空間である「古典」にむかったとしても、不思議ではない。
(それこそは、愛惜という表現にふさわしい想像力と感性の解読であり、批評という創造の場における再生であると、饗庭は解している)

小林は本来、政治と権力の力学からつくり出される歴史を「伝統」におきかえ、さらにそれを「古典」によみかえていった。いわば政治から美意識へのこうした過程を見る時、その感性的把握の仕方は、小林の「個」をこえて日本の心性の隠されたモーターのように存在していたようだ。

饗庭は、小林の歴史観と日本の文化について、次のように考えている。
小林が歴史を「思い出」として考え「愛惜」としてとらえるのも、それが日本においては、「木の文化」に象徴されるいちはやい滅亡の空しさ、時には一回性の儚なさとして把握される習慣があるからと推察している。
それと比較して、「石の文化」は、過去を連続的に、しかも可視的にとどめている。日本では、歴史が存在しなくなったものを思い出す感性的な形式であるのに反して、西欧では眼前に石の建物のように過去を多様に示すあらわな実在感をもった即物的な対象である。

この点、小林の著作の中から、例を挙げている。
例えば、「ガリア戦記」について、それを「石のザラザラした面、強い彫りの線」であらわされたものとして、「ロオマの戦勝記念碑の破片」のように感じた。
それに対して、『平家物語』を、短調でかかれた音楽にたとえて、その哀調に「叙事詩としての驚くべき純粋さ」をもった「詩魂」の存在として愛惜のうちに感得する。
(これは、小林の歴史のとらえ方の端的なあらわれであろう)

このようにして、小林は日本におけるマルクス主義運動の非個性的な歴史解釈にたいするアンチテーゼを、伝統(自然)にたいする「個」の感性的確認からつくり出して「歴史の魂に推参する」創造的行為として、歴史のなかにおける言語空間としての「古典」解読におもむいた。
それが日本の心性の歴史感覚を一つの自覚としてとらえなおした小林の歴史意識であると、饗庭は解している。

そして小林の思想の鳥瞰図は、『平家物語』でのべているような、全てが「諸元素の様な変らぬ強い或るものに還元され、自然のうちに織り込まれ」ていると見るところにあらわれているようだ。
それはすでに無常感ではなく、無常観とでもいうべきリアリスティックな「自然」への認識のはてにあらわれた視界であり、美といっていいと、饗庭はみている。
小林が古典にかかわる態度の根底には、このような認識が主調低音のように鳴っている。その上で愛惜としての歴史があり、古典が一つの旋律を奏でている。

昭和16年12月8日、太平洋戦争がはじまる。小林にとって、歴史の必然はここにおいて「自然」の形をした必然にきわめられたようだ。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、179頁~182頁)



≪小浜逸郎の小林秀雄論≫

2021-06-01 18:33:52 | 文章について
≪小浜逸郎の小林秀雄論≫
(2021年6月1日投稿)

【はじめに】


 これまで、作家の文章読本を取り上げて解説してきた。
 今回からは、小林秀雄論について述べてみたい。
 小林秀雄は、日本を代表する文芸批評家として知られている。
 これから、小林秀雄論を著した3人の論者の著作を紹介しつつ、小林秀雄の文章観、歴史観などを解説してみたい。
 その3人の論者と著作は次のものである。
〇小浜逸郎『日本の七大思想家』(幻冬舎新書、2012年)
〇饗庭孝男『小林秀雄とその時代』(小沢書店、1997年)
〇粟津則雄『小林秀雄論』(中央公論社、1981年)

今回のブログでは、小浜逸郎『日本の七大思想家』(幻冬舎新書、2012年)をもとに、小林秀雄論を考えてみる。
 小浜逸郎(こはまいつお)は、1947年生まれで、執筆当時、国士舘大学客員教授であった。



【小浜逸郎『日本の七大思想家』幻冬舎新書はこちらから】


小浜逸郎『日本の七大思想家丸山眞男/吉本隆明/時枝誠記/大森荘蔵/小林秀雄/和辻哲郎/福澤諭吉』 (幻冬舎新書)

【饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店はこちらから】

小林秀雄とその時代

【粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社はこちらから】

小林秀雄論 (1981年)








小浜逸郎『日本の七大思想家』(幻冬舎新書、2012年)
本書の目次は次のようになっている。
【目次】
序説 敗戦経験という基軸
第一章 丸山眞男 1914~1996
第二章 吉本隆明 1924~2012
第三章 時枝誠記 1900~1967
第四章 大森荘蔵 1921~1997
第五章 小林秀雄 1902~1983
第六章 和辻哲郎 1889~1960
第七章 福澤諭吉 1835~1901
あとがき
主要参考文献




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・小林秀雄(1902~1983)について
・小林秀雄の文章 小浜逸郎による解説
・小林の思想と文体
・小林秀雄の実存思想的な歴史観・生活観
・小林秀雄の「歴史」の捉え方~樫原修による解説
・小林秀雄とベルクソン
・小林秀雄の「実朝(實朝)」
・樫原修による「実朝」理解
・大森荘蔵の哲学の特徴
・時枝誠記の「詞辞」論について






小林秀雄(1902~1983)について


小浜逸郎は、思想家、批評家の小林秀雄を次のように規定している。

小林秀雄は、文学や芸術や私生活の価値に立てこもることによって、表街道の政治的・社会的喧騒のうちに現われる近代合理主義的・客観主義的「正論」から人間性(生活者の実存からにじみ出る声)を守ることに徹してきた思想家である。また、日本の近代文学における自然主義や私小説が西洋のそれの表層のみを学んで、その背後に長年にわたる近代社会との戦いを経てきた西洋の近代文学者たちの苦悩を理解しなかったことを、口を酸っぱくして説いてきた批評家である。
(小浜逸郎『日本の七大思想家』幻冬舎新書、2012年、329頁)

思想家と批評家としての小林秀雄を、小浜逸郎は次のように規定している。
〇小林秀雄は、近代合理主義的・客観主義的「正論」から人間性(生活者の実存からにじみ出る声)を守ることに徹してきた思想家である。
〇日本の近代文学における自然主義や私小説が、西洋の近代文学者たちの苦悩を理解しなかったことを、説いてきた批評家である。

また、江藤淳は力作『小林秀雄』の冒頭で、小林の仕事の特徴を次のように言い切っている。
≪小林秀雄以前に批評家がいなかったわけではない。しかし、彼以前に自覚的な批評家はいなかった。ここで「自覚的」というのは、批評という行為が彼自身の存在の問題として意識されている、というほどの意味である。≫

つまり、江藤は、小林秀雄を、批評行為を自分自身の存在の問題として意識した「自覚的批評家」として捉えた。
小浜逸郎は、この形容を言い換えている。
「人はどのように生きるべきか」という問題を、客観的な理論の体裁から遠くはなれて、実存という足場を一歩も踏み外さずに追究した「思想家」が、小林秀雄であるとする。
(小浜逸郎『日本の七大思想家』幻冬舎新書、2012年、279頁~280頁)



小林秀雄の文章 小浜逸郎による解説


小浜逸郎は、小林秀雄の文章の特徴について、次のように述べている。
「ところで、よく言われるように、彼の文章は一見、逆説に満ちていて通説を否定するような形式をとっていることが多く、その文体に不用意に接した読者にとっては、趣旨を正確に読み解くのに頭を悩ます種となっている。たしかに気楽に書かれた感想のたぐいを除いては、すらすらと流し読みできる平明な文体とは言いがたく、ことに若い頃の文章には、ひとつひとつの語彙や文脈の選択に相当な精力と時間を費やし、彫琢に彫琢を重ねていることがあらわなものが多い。いきおい読むほうも、肩に力を入れて行間を読み取ろうとする構えを強いられる。ある意味で難解な文体と呼んで誤りではないだろう」
(小浜逸郎『日本の七大思想家』幻冬舎新書、2012年、281頁)

箇条書きにまとめてみると、
〇小林の文章は一見、逆説に満ちていて通説を否定するような形式をとっていることが多い。
〇そのため読者には、趣旨を正確に読み解くのに頭を悩ます種となる。
〇すらすらと流し読みできる平明な文体とは言いがたく、ことに若い頃の文章は、そうである。
〇その頃の文章は、語彙や文脈の選択に神経を使い、彫琢を重ねているものが多い。
〇そのため、読者も、行間を読み取ろうとする構えを強いられる。
〇ある意味で難解な文体といえる。

このように、小林の文章は、逆説に満ちて通説を否定するような形式を取っており、趣旨を正確に読み解きにくく、ある意味では、難解な文体であるとされる。

小林はみずから書いている。
あるとき、小林の娘さんが試験問題を見せて、なんだかちっともわからない文章だと言うので、読んでみると、なるほど悪文なので、こんなもの、ただわかりませんと書いておけばいいのだと答えると、娘さんが笑い出し、この問題はお父さんの本からとったと教師が言ったというのである。
(「国語という大河」全集第9巻『私の人生観』所収)

※小林秀雄の言葉を拾い集めた簡便な本として、新潮社編『人生の鍛錬』(新潮社、2007年、179頁)にもあった。
【『人生の鍛錬―小林秀雄の言葉』はこちらから】

人生の鍛錬―小林秀雄の言葉 (新潮新書)

このエピソードは、いろいろな含みを持っていると小浜逸郎はみる。
①物書きという商売を長くやっていると、若い頃何をどんなふうに書いたかをけっこう忘れてしまうものだということ。
小林は遠い過去の自分の文章に執着するようなタイプの文筆家ではなかったようだ。
(「何を書いたか忘れてしまった」というような述懐にときおり出くわすことがある)
これは過去の自分に無頓着であり、ナルシシズムから自由であることを表している。
ただ、けっして言論人として無責任なのではない。むしろ逆に、いつ何を書いても本質的には変わらない自分という、一種の自己同一性に自信を持っている証拠なのであると小浜はみている。
小林は、この自己同一性に対する自信を背景にしながら、関心を持ったテーマにそのつど素手で取り組むことによって、全体として「ひとりの思想家」というある完結した像を期せずして表示している。
②もうひとつは、同じエッセイで小林自身が自己分析しているように、長い間物書きをやっているといろいろな文章ができあがってしまう理由のひとつは、分析し論難し主張することを旨とする「批評」という表現形式が、自分の文章を自在にあやつっているような錯覚を与えやすく、そのため自分の文章に関する自分の支配力を過信させることになるからだという。
じつは、自分で作る文章ほど、自分の自由にならないものはないことを、経験がいやおうなく教えた。書くことはいつまでたっても容易にはならないと、小林は内省している。
(こういう内省の仕方そのものにも、思想家としての小林の特質がよく出ていると小浜はみる。それは、文章表現に対する異様なほどの倫理感覚と美意識の現われである。また、一般に人々が生きる経験を積み重ねた果てに思い知る、「一番自由にならないものは自分自身だ」という感慨を、自分の職業に託して語っている。
(小浜逸郎『日本の七大思想家』幻冬舎新書、2012年、281頁~283頁)

小林の思想と文体



「思想と文体とは離すことはできない」(「私の人生観」)とは小林自身の言葉である。
小林の文章は、要約することの難しい文章である。ただ、だからこそ逆に、小林はその批評人生を通して何をやったかは、ほとんど数行で言い尽くすことができると小浜はみる。

すなわち、小林は、美しいものごとや感動的なものごと(ミューズやエロス)を味わおうとする人間の欲求が、私たち一人ひとりの現実的な生活にとって、どういう価値を占めているかを考え抜いた。そしてそのことを通して、近代の客観主義的な意識や言語の様式が、個別的・主体的な生の意味を見逃してしまう事態に徹底的に抗った。
このように、小林の態度を小浜は理解している。

この態度は言うまでもなく、最後の大作『本居宣長』にまで貫かれている。
小林は、その中で、彼自身の思いを宣長に託して述べている。
≪伝説の肉体は、極めて傷つき易く、少しでも分析的説明が加えられれば、堪えられず、これに化せられて歪むものだ。宣長が尊重したのは、そういう伝説の姿の敏感性であり、これを慎重に迎え、彼の所謂「上ツ代の正実(マコト)」が、内から光が差して来るように、現われてくるのを、忍耐強く待ったのであった。≫

要するに、小林は次のような確信を貫いたようである。
歴史や社会を客観的構造として把握する見方、人間をそのようなものによって規定されていると見る見方を根底から退けなければ、その日その日を取り返しがつかずに生きている実存者の内的感覚をけっして保存できないというものである。

小林にとっては、客観主義と「文学」、客観主義とそれぞれの「生活」は、両立できない絶対的な対立命題であった。
小林は、保守思想家でもなければ、芸術派なのでもない。またもちろん西欧的教養主義から日本的伝統主義に回帰したのでもない。小林は、「社会」とか「政治」とか大文字の「歴史」を中心と考える時代の支配的なイデオロギー(例えば、マルクス主義)に対して、身近な実存の意味を固守しようとした「抵抗者」なのである。
(もとよりそれは、個人主義などという「主義」ではない)

小林の表現には、一見人の意表をつくような逆説的レトリックが随所に見られるが、それはすべてこの身近な実存者たちの生の意味と価値を固守するというモチーフをいかに伝えるかにかかる渾身の苦労から出ていると小浜はみている。
小林の思想の根拠は、戦前や戦後を含んだ長い射程をもっており、どの時代に生きても同じ発想として出てくるような人間的な深みに根差している。それは、時代の変化に耐える、とても堅固な、強い思想であると小浜は捉えている。

小林の「抵抗」の方法は、政治的なものでもなければ、社会的なものでもなかった。文化という幅広く息の長い領域に最後まで立てこもることによって、それを果たした。その徹底性は比類がない。

小林は、文字どおりみずからの文体という「身」を言語空間に投げ出すことによって、その抵抗の正当性を確保しようとした。
小林の思想的抵抗は、世界についてのどんな客観的見取り図も与えなかったし、また社会の進歩についてのどんな指針も与えはしなかった。しかし小林の傑出した抗いの姿勢は、いわばひとつの「勇気」の型とも言うべきものを示したと小浜は捉えている。
それは、いかなる社会状況や時代状況の中にあっても、動揺せずに守り抜くべき人間的領域があるということを、いまも私たちに告知しつづけているとする。
(小浜逸郎『日本の七大思想家』幻冬舎新書、2012年、344頁~347頁)

小林秀雄の実存思想的な歴史観・生活観


小林の態度表明は、そのまま彼の実存思想的な歴史観・生活観につながる。
その時代の人たちが、未来の予見など叶わぬままに、いかに懸命に生きていたかという事実に思いを馳せずに、後知恵のさかしらから過去を裁断するような擬合理主義的な歴史観の持ち主こそ、小林がたえず批判して止まない「敵」であった。

小林は、日中戦争勃発からアメリカとの戦争に大敗するまで(1937~1945年)、主としてドストエフスキー論に打ち込むかたわら、「戦争について」(1937年)、「火野葦平『麦と兵隊』」(1938年)、「満州の印象」「歴史について」「事変と文学」「疑惑Ⅱ」(1939年)、「文学と自分」(1940年)、「歴史と文学」(1941年)、「戦争と平和」(1942年)などの重要論文を発表する。

その直後、1942年から1943年の、戦局が急を告げる期間、「当麻」に始まり、「実朝」に終わる古典論を集中的に執筆している。
この成り行きは、あたかも社会情勢の進行をにらみながら、計画的に筆を進めたかのように、暗示的である。
まだ余裕のある間に、力作ドストエフスキー論(生活論と、作品論の主なもの)を仕上げ、文学内部における批評の仕事に一定の決着をつける。
その後は、文学や生活と、歴史や戦争との関係にかかわる自前の論理をたたみかけるような調子で説いていく。
そして国民の厭戦気分と敗北と死の気配が濃厚になるに及んで、「もののあはれ」の伝統の復活に賭けるとでも言いたげに、一連の日本古典の呼び返しに心を費やす(ただし、「平家物語」だけは、その叙事詩性を強調してやや異質だとされる)。
最終の2年間の断筆の理由は、素材や動機の枯渇というよりは、逼迫した日常生活の切り開きに専心したからであろう。

ここで、小林の歴史観・生活観に最も端的に現われた実存思想の特質を炙り出してみよう。
これは、主として二つの題材をめぐって展開されると小浜はみている。

①ひとつは、1938年、小林も選考委員の一人だった芥川賞が、「糞尿譚」で名を馳せた庶民作家・火野葦平の「麦と兵隊」に与えられたときに書かれた「火野葦平『麦と兵隊』」、および1年後に書かれた「事変と文学」にまずよく現れている。
②実存思想家として小林の特質を表わす第二の題材は、一連の歴史観を表白した論考群の中に歴然と現れている。
(小浜逸郎『日本の七大思想家』幻冬舎新書、2012年、302頁~309頁)

小林秀雄の「歴史」の捉え方~樫原修による解説


樫原修は、『小林秀雄 批評という方法』(洋々社、2002年)において、小林秀雄の「歴史」の捉え方のあらましについて、考えている。

小林秀雄は、歴史を自然(物質)と人間(精神)の対比から説明していく。
<自然は人間には関係なく在るものだが、人間が作り出さなければ歴史はない。>というのが、その基本的な捉え方である。

自然は人間(精神)とは無関係に、独自の機制において在るものだとされている。少なくとも自然は、<これを一対象として僕等の精神から切離さなければ考へられないある物
>である。
そして、そういう自然に対応するのが、<自然科学的精神といふ人間の一能力>である。それは<人間臭を脱した「自然常数」の確立を目指さざるを得ない>ものだという。

一方、歴史はどうか。
<僕等は史料のない処に歴史を認め得ない>が、その<史料とは、その在るが儘の姿では、悉く物質である>。
確かに自然から見れば、史料と史料ならざるものを区別する理由は少しもないのだから、<其処に自然ではなく歴史を読むのは、無論僕等の能力如何にだけ関係する>ということになる。歴史はいわば人間の側にあることになる。

そのように<自然を人間化する能力は、言はば生き物が生き物を求める欲望に根ざす、本質的に曖昧な力>である。歴史とは<神話に他ならず、言い換へれば僕等の言葉によって支へられた世界>である。それは<史料の物質性によつて多かれ少なかれ限定を受けざるを得ない神話>だということになる。
したがって、そのような世界では、自然科学に対応するような、<歴史常数>の発見を目指す歴史科学といったものは、ありえないことになる。

小林は、<僕等の日常の生命が、いつも外物の抵抗を感じて生きてゐる>という、生のあり様とのアナロジーで史料と歴史の関係を考えている。
そこから、例の<さゝやかな遺品と深い悲しみとさへあれば、死児の顔を描くに事を欠かぬあの母親の技術>に<歴史に関する僕等の根本の智慧>があるという、有名になり批判の的になった言葉も生まれている。

史料から歴史を読むのは人間自身の能力によるという、問題の発端は理解しやすいはずだが、歴史が<神話>にほかならず、それに関する根本の智恵は<母親の技術>にあるといわれた時、とたんに違和感を覚えてしまう。なぜだろうか。
それは、物質と精神という二元論で小林が話を始めた時、われわれが実在とは物質として在ることだと無意識に前提しているからであると、樫原は述べている。

<愛児のさゝやかな遺品>を前にして母親の心に起こるものを、小林が<歴史事実>と呼ぶとき、小林がそれを<客観的なものでもなければ、主観的なものでもない>と断っているにもかかわらず、われわれはそれを主観的な心理的事実としか考えられないのであり、客観的な<歴史事実>は別に実在しているとしか思えない。

実際、それは<歴史事実>とはいっても、母親によって思い浮かべられたイメージにすぎないものである。実体としての過去そのものではないはずである。それはせいぜい実物の<写し>でしかない、と考える。(注3)

(注3)において、樫原は、大森荘蔵の論文を参照した旨を記している。
大森荘蔵「過去は消えず、過ぎゆくのみ」
(『流れとよどみ――哲学断章――』産業図書、昭和56年、参照)。以下の記述もこれに拠るという。
大森は、デカルト的二元論の構図自体を崩していく。それに対して小林は、その構図を踏襲して自説を展開していく。大森の考え方は、小林の歴史観を考える場合、示唆に富むと樫原はみている。
大森は、<過去は想起されることとそれを外挿することの中にのみ在る>ことを証明しているという。この証明は、小林の区別した歴史と自然をも一貫するものである。
小林の<直観>は、大森の提出する構図によってこそ、うまく説明し得ると、樫原は考えている。
(樫原修『小林秀雄 批評という方法』洋々社、2002年、161頁~163頁、180頁~181頁)

なお、小浜逸郎は、その著作の第四章において、この大森荘蔵という思想家を取り上げているので、後に紹介してみたい。

【樫原修『小林秀雄 批評という方法』はこちらから】

小林秀雄 批評という方法

小林秀雄とベルクソン


1939年に発表された『ドストエフスキイの生活』に「序」として組み込まれた「歴史について」という論考は、小林が戦中期に発表した一連の歴史観の表明の中で、白眉をなす。
死んだ息子に対する母親の愛こそが息子の死という事実を現前化し確実なものとするという「想起歴史観」とでも言うべき考え方をそのまま引き継いで、時間も歴史も人間の「思い」が作るのだという決定的な認識が語られる。
(ただし今度は「母親の愛」という言葉が、「母親の悲しみ」という言葉に変奏されて登場する)

≪子供が死んだという歴史上の一事件の掛替えの無さを、母親に保証するものは、彼女の悲しみの他はあるまい。どの様な場合でも、人間の理知は、物事の掛替えの無さというものに就いては、為す処を知らないからである。≫
また、戦後ほどなく発表された「私の人生観」という講演録には、次のような一節がある。
≪私達が、少年の日の楽しい思い出に耽る時、少年の日の希望は蘇り、私達は未来を目指して生きる。老人は思い出に生きるという。だが、彼が過去に賭けているものは、彼の余命という未来である。かくの如きが、時間というものの不思議であります。≫

ここには、人生に対する深い洞察と分ちがたく結びついた、時間、過去、現在、未来、生の感情、歴史などに関する独特な哲学が打ち立てられたことがわかる。
その哲学の独特さについて、小林の実存思想の嫡出子と、小浜は表現している。つまり、一人ひとりの人間の実存と離れたところに客観的・合理的な法則や尺度を立てて、それによって生存の不安から免れようとする態度に対する、明確なアンチテーゼを、小林は提示したという。

この小林の認識の基本要素として強調されているのは、日常を生きている私たち自身の中から必然的に発酵してゆく感情、思い出、希望、幸いを求める知恵、生きる悲しみといったものである。これらが、理知、合理、脳髄、実証といった西洋由来の概念にはっきりと対置されている。

小林は、自分でもしばしば言及しているように、若い頃、ベルクソンの哲学に大きな影響を受けた。
その影響の最たるものは、時間論と記憶論であると、小浜はみている。
ベルクソンによれば、カレンダーや年表のように直線状の点の連続としてイメージされた時間は、本来の時間ではなく、時間を空間的な比喩に転化して考えられたものにすぎない。
私たちは自分の精神の内部に「純粋持続」と呼ばれる、けっして空間に転移されない時間性をはらませており、それこそが私たち一人ひとりの生の実質を形作るようだ。
したがって、そこでは、記憶は蓄積された固形物などではなく、常に未来を目指す存在としての私たちにとって必要な限りで、呼び返される一種のダイナミックな作用そのものなのであるとされる。小林の歴史観、人生観の根本には、この考え方があるといわれる。ただし、それは、日本人にふさわしい仕方で、思い出、希望、感情、哀しみといったキーワードに変奏されたうえで結実している。

ところで、ベルクソンは、西洋では哲学史上、非合理主義的哲学者として分類され、傍流ということにされている。
西洋哲学の「主流」なるものは、たとえば、デカルト→ロック→ヒューム→カント→ヘーゲルである。ただ、その「主流」も、分岐と乱立を繰り返して、現代では、何が主流なのか混沌としている。
そうである以上、生の非合理性をそのまま哲学として掬い上げたベルクソンのような人が依然として一定の地歩を固めて、その力をいまに伝えて、小林のような日本人に独創的な思想を編ませる原動力のひとつとなっていると、小浜は理解している。

小林は、「過去」についてどのように考えていたのであろうか。
この点、哲学者・大森荘蔵(おおもりしょうぞう、1921―1997)の「過去」観と、小林とのそれを比較して、小浜は次のように述べている。

大森によれば、過去は、「制作」されたものであることによって、知覚に取り巻かれた現在とは本質的にその様相を異にする。しかしそれは、まさに「もはやない」という形で、「いまここ」に現存する。
この点では、小林の「歴史事実はかつてそれが在ったというだけでは足りず、いまもなおその出来事が在る事が感じられなければ歴史事実としての意味はない」(「歴史について」)という考え方と深く共通するものを持っている。

しかし、大森は、「制作」されたものとしての過去をもっぱら言語命題による想起にもとづく「過去形の経験」とすることによって、「像」としての過去の現前を排除しようとしていたそうだ。

小浜は、この大森の見解に異議を唱える。
小林のように、「思い出」による現前化、事実化としてそれを捉えれば、「知覚対言語」という乾いた二項対立論理による不備は取り除かれ、新しく過去や歴史という概念が、私たち一人ひとりの生にとって、新しいものとして総合化されることになるとする。
そして、歴史に対してそういう態度を私たちが忘れないことによって、生き生きとした現存性を備えた過去や歴史を手元に還帰させることが可能となると、小浜は考えている。
(小浜逸郎『日本の七大思想家』幻冬舎新書、2012年、320頁~324頁)

小林秀雄の「実朝(實朝)」


「實朝」は、六篇の最後に当たる。
それは、あの実力をもって権威をやすやすと否定する関東武士たちの陰惨な世界への想像力が、限りなくよく届いた力作・傑作である。

小林秀雄と吉本隆明の実朝論を比較した場合、次のような相違があるとされる。
小林の場合、実朝に対する深い哀しみの共感によって彩られている。それに対して、吉本の実朝論は、それともやや違って、ある種の非情な突き放しを媒介としながら、かえってそのような批評方法によって、もはや事実を事実どおりに歌うほかないところにまで追い詰められた実朝の心の特異な様相を鮮やかに炙り出しているという。

また、そこには、文学を論ずることに徹する小林と、文学と社会との両方を重ね合わせるように論じずにはいられない吉本との二つの個性の違いが際立っているとも考えられている。

もちろん小林も、吉本が追いかけたような実朝の運命的な場所について、主として『吾妻鏡』を援用しながら、かなり緻密に記述してはいる。
しかしその関心は吉本に比べると、やはり実朝自身のより身近な周囲の不気味な動きをたどるところに限定されている。
吉本の実朝論のような社会的・客観的分析の要素は省かれている。つまり、吉本の場合、実朝の名歌の生まれる所以を、現実の歴史と、万葉以来の歌の歴史という二つの側面から捉えようとしている。それに対して、小林はいわばもっと直接に、悲運の実朝という個人の「側近」になることによって解き明かそうとしていると、小浜は解説している。

そこで、小林が、どのように叙述しているのか、具体的にみておく。
まず『吾妻鏡』の中に実朝の辞世として掲げられている歌、
「出ていなば主なき宿と成りぬとも軒端の梅よ春をわするな」について、
『吾妻鏡』の作者の稚拙な創作という説を認めながらも、そこには、作者が、実朝暗殺という不気味で象徴的な事件に対しておぼえた罪悪感めいたものが漂っているとする。
そして北条義時のためにしたはずの曲筆が、かえって実朝のためにした潤色となり終わっていると、小林は指摘している。
この指摘は、兄・頼家の横死や、唯一残された「貴種」の死による血統の断絶という前後の事情を考えると、いかにも説得力がある。

実朝は頼家の死に12歳のときに出会い、しかも自分を中心とする周囲の武士たちの血なまぐさい権力争いを目の当たりにしている。聡明で敏感な彼が早くから自分の運命を予感していたと考えるのは当然で、小林もそのことを前提として鑑賞している。吉本と同じように、「万葉調の雄々しさ、おおらかさ」という真淵、子規以来の俗説を否定し、実朝が残した数少ない秀歌に、「真率で切実な、独特な悲調」を読み込んでいる。

例えば、
「大海の磯もとゞろによする波われてくだけてさけて散るかも」
これは、分析的な歌であり、少しも壮快な万葉調の歌ではないと、評している。「青年の殆ど生理的とも言いたい様な憂悶を感じないであろうか」という鑑賞の仕方をしている。
小林の独特な鑑賞眼のあり方がうかがいしれる。

こうした一見逆説的な評言が当たっているか外れているかよりも、重要なことがあると、小浜はいう。それは、このような批評によって、小林が、実朝という年少のままに折れてしまった歌人(『金槐和歌集』に収められた歌の大部分は22歳以前の作であり、実朝の死は27歳であるから、22歳以降の歌は散逸してしまったと考えられている)に、何を見、それによってみずからの批評の方向をどこにもっていこうとしているのかを考えてみることであるとする。

『金槐和歌集』およそ700首は、当時の慣例にならって、春夏秋冬の題詠の部分、恋部、および雑部とに分類されている。小浜によれば、雑部に名歌が多く、特に秀歌と呼ぶべきものは、雑部の終わりに近づくほど集中して現われているそうだ。これに対して、春夏秋冬の部分では平凡な駄作あるいは習作ともいうべき歌が多い。

小林も無意識のうちに、そういう印象を抱いたと推測している。
悲運を確実に予知した者が、少年期から青年前期に至るプロセスの中で、限られたみずからの生のリズムとテンポに次第に衝迫を加えてゆく。

最終地点に近づいた頃、歌い上げられている心はどのような性格を帯びるだろうかという問いに、小林は、次のような回答を暗示させていると、小浜はみている。
「才能は玩弄する事も出来るが、どんな意識家も天稟には引摺られて行くだけだ。平凡な処世にも適さぬ様な持って生れた無垢な心が、物心ともに紛糾を極めた乱世の間に、実朝を引き摺って行く様を僕は思い描く。彼には、凡そ武装というものがない。歴史の混濁した陰気な風が、はだけた儘の彼の胸を吹き抜ける。これに対し彼は何らの術策も空想せず、
どのような思想も案出しなかった。(中略)彼の歌は、彼の天稟の開放に他ならず、言葉は、殆ど後からそれに追い縋る様に見える。その叫びは悲しいが、訴えるのでもなく求めるのでもない。感傷もなく、邪念も交えず透き通っている。」

小浜は、小林の「実朝」の、この評言を名文といってよいだろうと評している。
(この文章のトーンに、あの真珠湾攻撃を遂行した爆撃機上の兵士たちの心境について書かれた文章を小浜は連想している)

死の予感は、心の奥深くにすでに幾重にも折り畳まれてある。だから、「感傷もなく、邪念も交えず透き通っている」という点において共通している。

「実朝」最終回は、1943年6月に発表されている。
すでに日本の敗色は濃厚となり、ガダルカナル撤退後、同年4月には山本五十六が戦死し(5月発表)、5月にはアッツ島の玉砕によって守備隊が全滅する。
そんな時期に書かれたこの秀作「実朝」は、いわば次々に死んでいく日本兵たちに対する早すぎる鎮魂歌のような趣さえある。同時代の若い日本兵と700年前の一人の「少年歌人」とが期せずして結びついていると、小浜はみる。
(小浜逸郎『日本の七大思想家』幻冬舎新書、2012年、338頁~344頁)

樫原修による「実朝」理解


「実朝」で小林は、実朝を自然の必然性、あるいは第二の自然と化した歴史の必然性に、徹底して翻弄される人物として描いている。
実朝の精神の領域は、いわゆる認識とは無関係な<魂>に求められ、現実的にはまったく無力なものとされている。
(そこに、自然の必然性を徹底して受けれた小林の現実観との共通性もみられる)

そういう人物だからこそ<観察家にも理論家にも行動家にも>見えない、動かしようのない自然、あるいは第二の自然としての歴史に、彼は直面し得たとする。

その場所に実朝の歌の源泉があり、そこから直に歌は生まれてきたと、小林はいう。
小林は、多くの自己ならざるものに埋没して生きるわれわれの生から実朝を引き離し、最も純化された生の原型として実朝の生を描いている。

実朝の歌に関しては、<自分の深い無邪気さの底から十余りの玉を得たのだが、恐らく彼の垂鉛が其処までとゞいてゐたわけではなかつた>というように、<魂>において経験され、自らも明らかに認識しなかった生の意味のすべてが、わずか十数首の秀歌に凝縮されたと考える。

例えば、小林は次のように述べている。
「  箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ
この所謂万葉調と言はれる彼の有名な歌を、僕は大変悲しい歌と読む。(中略)
大きく開けた伊豆の海があり、その中に遥かに小さな島が見え、又その中に更に小さく白い波が寄せ、又その先きに自分の心の形が見えて来るといふ風に歌は動いてゐる。かういふ心に一物も貯へぬ秀抜な叙景が、自ら示す物の見え方といふものは、この作者の資質の内省と分析との動かし難い傾向を暗示してゐる様に思はれてならぬ。」

<言絶えた>自然に、直に向き合う<心に一物も貯へぬ>精神の存在が示され、一個の精神の最も本質的な姿が、さながらに表現されている。

(樫原修『小林秀雄 批評という方法』洋々社、2002年、177頁~179頁)
【樫原修『小林秀雄 批評という方法』はこちらから】

小林秀雄 批評という方法

大森荘蔵の哲学の特徴


小浜逸郎も、目次をみてもわかるように、その著作の第四章において、大森荘蔵(1921~1997)の哲学を解説している(212頁~278頁)。簡単に紹介しておこう。

大森哲学の主題は、西洋においてガリレイ、デカルト以来、主観客観図式による二元的な認識論的「誤謬」が定着し、現代の自然科学(ことに生理学)もまたこの「誤謬」図式の延長上にある事態に対して、徹底的な破壊と代案の提示を目論むところにあるという。
つまり、大森の目論みは、世界を客観(「死物」)と主観(閉ざされた「心」)とに分割したガリレイ、デカルト以来の世界構図を根本から破砕し、代わって「心」を広い外部世界のほうに再び還帰させるという同時に、これまで死物化されて捉えられていた「物」の世界に活き活きとした様相を取り戻させてやるというところにある。

大森哲学は、この世界がどうなっているかを極めようとする情熱のみによって成り立っていると、小浜は理解している。大森の文章は、一般に日常的なわかりやすい言葉で説かれており、豊富な実例と的確な比喩に満ち、その問題意識の所在も明瞭であるようだ。

大森は、ガリレイやデカルトの提出した主客二元論図式に対して、ジョージ・バークリ(18世紀のアイルランドの哲学者)の論に依拠しているそうだ。バークリには、「存在は知覚なり」という有名なテーゼがある。ヒュームは、バークリのこの考えを受け継ぎ、デカルトの二元論はその内部に懐疑論、不可知論を内包していることを指摘した。

大森は、このバークリやヒュームのデカルト・ロック批判を土台として、デカルトがおこなった「外的対象」(延長実体)と、「心」のうちに取り込まれた「感覚」「印象」との分離こそ、主客二元論の犯した最大の誤りであるとした。そして、その「罪状」は現代の自然科学の発想をも深く規定していると、議論を発展させた。

大森は、次のようなことを説く。
一般には、「心」の現象と考えられている感情や記憶や想像や幻覚において、それらが「心の内」に存在するのでもなく、またそれらを引き起こす実物からの作用としての「影」でも「像」でも「コピー」でもなく、じかにそのもの自体がそのあるべき場所、あったはずの時間において、現在知覚しているものと同資格、同一身分で立ち現われるのであって、ただ知覚と異なるのは、それらの存在の様式が異なっているだけである。

たとえば記憶においては、過去にあったことがらのコピー(記憶像)が「心の中」に出現しているのではなく、知覚の様式とは異なる「想起」という様式において、過去のことがら自体がじかに、そのことがらの起きた時間と場所(つまり世界の中)に立ち現われている。
またたとえばデカルトが感覚が誤りやすい例として挙げた、「遠くから見たら丸い塔だと思ったものが、近づいてみたら四角い塔だった」という話や、蜃気楼がじつは幻であって、実物は地平線下のもっとはるかに遠いところにある例などは、視覚現象それ自体としてはいわゆる「本物」の立ち現われと等価であって、いささかもそのリアルさにおいて劣るものではない、とする。

この(常識に逆らう)主張は「立ち現われ一元論」と通称される。
これもまた「物」と「心」の二元論をいかに克服するかという大森の動機と関心に根ざしている。常識を覆そうとするその筆致は、執拗である。

大森によれば、記憶をよみがえらせてそのことについて語る場合に起きていることは、そこには言葉によるただひとつの立ち現われがあるのみであって、記憶像(過去において経験された事実のコピー)のような仲介物は必要なく、また「想起」とは過去の知覚経験の再現または再生ではなく、徹頭徹尾、言語的命題であるという。
(小浜逸郎『日本の七大思想家』幻冬舎新書、2012年、212頁~261頁)

時枝誠記の「詞辞」論について


時枝誠記は、日本語文法の特性を理論化して、「詞辞」論を唱えた。
日本語の文は、「詞」と「辞」の区別とその連関によって成り立っている。
この事実は、時枝の独創的な発見というわけではない。宣長、春庭、富士谷成章、鈴木朖らの「てにをは」論によって、気づかれ指摘されていた。
たとえば、宣長は、「詞」を玉に、「辞」を玉につなぐ緒にたとえて、両者相まって日本語(やまとことば)の文が成立すると説いた。
たとえとしては最高級の表現であり、詞と辞の区別とそれぞれの特徴に見事に的中している。

時枝誠記は、『国語学原論』において、「詞」と「辞」について、次のように定義している。
①「詞」~概念過程を含む形式
②「辞」~概念過程を含まぬ形式

①は、表現の素材を、一旦客体化し、概念化して、これを音声によって表現する。「山」「川」「犬」「走る」等がこれである。又、主観的な感情のごときものを客体化し、概念化するならば、「嬉し」「悲し」「喜ぶ」「怒る」などと表わすことが出来る。
②は、観念内容の概念化されない、客体化されない直接的な表現である。助詞、助動詞、感動詞の如きがこれに入る。
たとえば、「川が流れています」という文では、「川」「流れ」「い」は「詞」であり、「が」「て」「ます」は「辞」である。
(小浜逸郎『日本の七大思想家』幻冬舎新書、2012年、177頁~179頁)

【小浜逸郎『日本の七大思想家』幻冬舎新書はこちらから】



小浜逸郎『日本の七大思想家丸山眞男/吉本隆明/時枝誠記/大森荘蔵/小林秀雄/和辻哲郎/福澤諭吉』 (幻冬舎新書)


≪中村明の文章観について――その著作『名文』より≫

2021-05-30 18:27:04 | 文章について
≪中村明の文章観について――その著作『名文』より≫
(2021年5月30日)
 

【はじめに】


 今回のブログでは、『名文』(ちくま学芸文庫、1993年)をもとに、中村明の文章観について、述べてみたい。
 中村明は、どのような文章を名文と捉えているのだろうか。小林秀雄、志賀直哉、谷崎潤一郎、森鷗外、川端康成の文章について、どのように分析し、いかに評したのかを中心に概観してみたい。
 


【中村明『名文』ちくま学芸文庫はこちらから】

名文 (ちくま学芸文庫)



中村明『名文』(ちくま学芸文庫)の目次は次のようになっている。
【目次】
はしがき
一 名文論
 1名文の位置づけ
 2名文の条件
 3移りゆく名文像
 4名文とは何か
 5名文作法
二 名文の構造 
 1~50まで国木田独歩『武蔵野』、夏目漱石『草枕』、正宗白鳥『何処へ』など50人の作家の50作品を分析




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・中村明『名文』という本
・中村明による名文の捉え方
・小林秀雄の文章に対する中村明の評価
・小林の『ゴッホの手紙』の中村明による分析
・志賀直哉の文章
・谷崎潤一郎『陰翳礼讃』 に対する中村明の分析
・将棋的な文章と囲碁的な文章
・名文=透明説について
・鷗外の品格ある文章を絶賛した三島由紀夫
・川端康成『千羽鶴』についての中村明の鑑賞






中村明『名文』という本


中村明『名文』(ちくま学芸文庫)の構成は、二部に分れる。
著者自ら「はしがき」にも述べているように、第一部「名文論」では、名文の位置づけ、条件、変遷、本質、作法について論じている。
第二部「名文の構造」では、具体的な文章を取りあげ、表現美の言語的分析をとおして、名文性のありかを探りつつ、文体の特質を構造的に明らかにしようとしている。
いわば、第一部が理論で、第二部が実践である。

中村明の名文論は、現実の文章の言語的性格を突きとめ、それとその表現効果との対応を考える一連の実践作業の分析と総合をとおして成立したものであるようだ。つまり、具体的な名文例の文章分析の成果が名文論となった。この名文論が中村明の文章観である。

「はしがき」を、次の文章で結んでいる。
「この本が、文章表現を志す人びとはもちろん、日本の言語と文学に心を寄せる人びと、そして、人間を愛する多くの人びとにさらに広く読まれるなら、著者として望外のしあわせと言うべきだろう」(10頁)

中村が自信をもって執筆した著作が、『名文』という著作である。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、9頁~10頁)

中村明による名文の捉え方


『源氏物語』といえば、古典中の古典であり、しかも難解な古典の代表となっている。通時的に見ると、名文とされた時期が長かったようだが、悪い文章という意味での悪文と見られた時期もあった。明晰で判りやすいのを名文の第一義とするかぎりでは、『源氏物語』は名文とは縁遠いといえるが、その判りにくさは、古語と古典文法とのせいばかりではなく、表現法の問題が大きくかかわっているという議論がある。もし『源氏物語』の文章に、文を短く切り、主語を補い、会話をカギに入れるという三段の加工を施せば、現代語に訳さなくても、それだけで明晰さと判りやすさが大幅に増すという見方もあるようだ。
ともあれ、明晰で判りやすい文章にするには、まず一つ一つの文を短くすることが効果的である。このことを、司馬遼太郎は「一台の荷車には一個だけ荷物を積め」と表現している。つまり、一つの文には一つの情報だけを盛れと勧めている(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、41頁)。

また、中村明は、夏目漱石の『草枕』(明治39年)を引用して、その文章が言語的に見てどういう性格を持っているかを検討している。
『明暗』に収斂していく重い文章に比べて、『草枕』は、そういう翳がほとんど見えないという。文章の調子は硬い文章体でも軟らかい口話体でもなく、実際の会話ではほとんど起こりえない特殊な話しことば体であるという。『草枕』の文章は、「その調子の高さが少し気になるが、やはり美しい文章である」と評している。

また、文の長さの点では、現代日本の小説文章は文の長さが平均40字といわれるが、それに比べると『草枕』に見える雲雀の声の叙述は、非常に短い文の連鎖である。そして反復構造の文がリズム感を支えているという。
「雲雀は屹度雲の中で死ぬに相違ない」という空想が記されているが、作中の「余」はともかくも、作者の漱石が本気で信じていたはずはないが、「この文章の魅力は、なによりも、ひばりが雲にあくがれて死ぬという発想のロマンティシズムをひとつの自然状況の中で形象化した点にある」と中村は考えている(中村、1993年、99頁~106頁)。

また中村は鷗外の『空車(むなぐるま)』(大正5年)を「堂堂たる文章である」と評している。品格とも格調ともいえ、この文章にはスケールの大きさがあるという。
その一つの理由は、使用する語句や言いまわしに見られる正式性志向のせいであるとみる。また対句的表現を多用し、その形態美を兼ねた硬い力感を張っていると分析している。
そして接続詞は極度に少なく、空車を送る場面の描写には、19個の文からなる文全体の中にわずか2例を数えるのみで、2つとも「そして」で文展開をしている。このことは、その文章が論より感動で成り立っていることと対応していると説く。
そして、空車について、作者の個人的な感情を交えないで書いているために、文章がべたつかず、それが鷗外の文章の冷たさであり、品格なのであると中村は解説している。
また三島由紀夫が『寒山拾得』の「水が来た」という一句に注目してそこに強さと明朗さがあるとして絶賛した点にも言及している(中村、1993年、117頁~124頁)。

文章の判りやすさは、短い文であり簡潔な表現だと考えても、小林秀雄は例外かもしれない。よけいな修飾を加えず、文章を削ることだとしても、中村は小林秀雄がよく削る文章家であることを実感として知っていたようだ。
「事実、名文家のひとりである小林秀雄は呆れるほどよく削る。インタビューをし、その話が活字になるまでの過程を知っている私には、その削るすごさが実感として痛烈に判るのだ。しかし、人にはそれぞれのスタイルがある。やはり名文家のひとりである永井龍男は逆に推敲段階では書き足すほうが多いという(中村明編『作家の文体』筑摩書房、1977年所収)。

小林秀雄にしても、活字になった文章をあれ以上削ってさらに名文としてのすごみを増すとは思えない。小林秀雄が削りまくった最終原稿と永井龍男が加筆した最終原稿とは、思考と表現とのバランスが同じ段階に達しているのではなかろうかという。つまり、そこに至る過程こそ違え、どちらもその段階でちょうど調和がとれているのではないかとする(中村、1993年、46頁、90頁)。

中村は、実際にも活字になるまでよく削る小林のすごさを実感していたらしく、小林を名文家と信じて疑わない立場で、その小林の文章はよく削られた文章で、もし活字になった文章をあれ以上削ったら、名文としてのすごみが減じることになるのではないかと考えていることがわかる。簡潔な文章がすなわち判りやすい文章だとは必ずしも言えず、また簡潔であれば明晰であるとも限らない。むしろ逆な場合もある。

小林秀雄の文章に対する中村明の評価


中村明は、『名文』(ちくま学芸文庫、1993年)において、小林秀雄の文章をどのように捉えているのか。
具体的に抜粋してみよう。
〇「一文一文に過重の意味をこめて人をとまどわせ、結局は心酔させてしまう」個性的な文章(28頁)

〇「事実、名文家のひとりである小林秀雄は呆れるほどよく削る。インタビューをし、その話が活字になるまでの過程を知っている私には、その削るすごさが実感として痛烈に判るのだ」(46頁)

〇かつて、永井龍男は、名文の話をしながら、志賀直哉に、小林秀雄、それに梶井基次郎、堀辰雄、そして井上靖の名をあげたと、中村明は述べている(63頁)。

このように、中村明、そして永井龍男は、小林秀雄の文章を名文と捉えていたことがわかる。
但し、中村明は付言している。名文と騒がれる文章ほど、その評価の維持が難しい。強い個性が表層に目だつ小林秀雄の文章も、そのために危険であるとする。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、64頁~65頁)

一方、小林秀雄にとって名文とは何か。かつて小林は、永井荷風『濹東綺譚』、志賀直哉『暗夜行路』、川端康成『雪国』、瀧井孝作『積雪』とあげてきて、さてどれが名文かとなると、「まず勝手にしやがれ」ということになってしまうと述べた。
(小林秀雄「現代文章論」伊藤整編『文章読本』河出書房、1956年所収、中村、1993年、63頁、88頁を参照のこと)

小林の『ゴッホの手紙』の中村明による分析


中村明は、中村明『名文』(ちくま学芸文庫)の第二部「名文の構造――文体に迫る表現美の分析――」において、国木田独歩『武蔵野』、夏目漱石『草枕』、正宗白鳥『何処へ』といった具合に、50人の作家の50作品を分析している。
その中で、28番目に小林秀雄の『ゴッホの手紙』(昭和26-27年)を取り上げている。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、258頁~264頁)

小林の『ゴッホの手紙』の手紙部分は、特殊な調子で書かれているという。
対話調だが、実際にこういう調子でしゃべることは絶対にありえないと思われるほどの人工的な調子で手紙は綴られている。
例えば、
「僕等を幽閉し、監禁し、埋葬さえしようとするものが何であるかを、僕等は、必ずしも言う事が出来ない、併しだ、にも係らずだ、僕等は、はっきり感じている、何かしら或る柵だとか扉だとか壁だとかが存在する、と。」
この文について、「幽閉し、監禁し、」という連用形の中止法がその例である。
いわゆる連用中止は書きことばである。次の「……ものが何であるかを」をいう「デアル」の調子も同様である。
また、「併しだ、にも係らずだ」などはいかにも対話口調に見えるが、こういう連続は、現実の対話ではあまり起こらない。

その次のいわゆる倒置構文「はっきり感じている、何かしら或る柵だとか扉だとか壁だとかが存在する、と」など、いかにも作られた対話形式という感じである。
倒置表現そのものは現実の会話でいくらも現れるし、むしろ会話的でさえあるのだが、このようにはっきりと、引用の「と」で文を終止することは日常会話では、ほとんど起こらない。

次に、この小林秀雄という批評家の文章に、特徴的に現れる「ヌ」止めの文について、中村は指摘している。
例えば、「僕はそうは思わぬ」と小林は記す。これは「思わない」として終わる場合と比べ、現在では、書きことば的な調子が認められる。
さらに、「ああ、これは長い事なのか」といった詠嘆的な調子も、実際の発話に現れにくい。
また、「何がこの監禁から人を解放するか」といったいわゆる翻訳調も、会話で使ったら、相当気どった感じになる。実際には避ける。そして「幽閉」とか「訝る」といったような硬いことばを、一般の人が普通の対話では口にしないはずである。

このように、ゴッホの手紙文の言語的な性格を検討してみると、現実には起こりえない対話調であることが判るという。それは、地の文と同じである。どれもまさに小林秀雄の文章である。
こういう独特の文調が、そこで語られる人生論に躍動感を与えているともみられる。

さて、その地の文で、小林は次のように記す。
「理想を抱くとは、眼前に突入すべきゴールを見る事ではない、決してそんな事ではない、それは何かしらもっと大変難しい事だ、とゴッホは、吃り吃り言う。これはゴッホの個性的着想という様なものではない。その様なものは、彼の告白には絶えて現れて来ない。ある普遍的なものが、彼を脅迫しているのであって、告白すべきある個性的なものが問題だった事はない。或る恐ろしい巨なものが彼の小さな肉体を無理にも通過しようとするので、彼は苦しく、止むを得ず、その触覚について語るのである。だが、これも亦彼独特のやり方という様なものではない。誰も、そういう具合にしか、美しい真実な告白はなし得ないものなのである。」

いきなり「理想を抱くとは……」という定義文が現れる。
それは「眼前に突入すべきゴールを見る事ではない」といった否定形式の述語で展開する。定義形式で開かれた文章は、読者を突然その思考世界に誘い入れる効果があるようだ。

そして、すぐ反復否定が現れる。
「眼前に突入すべきゴールを見る事ではない」と一度打ち消したあと、「決してそんな事ではない」と強く念を押す。
強調的に駄目を押す、こういう文展開は、この小林という批評家の多用する極言のひとつの方法である。極言は非常に危険な修辞である。しかし、小林は恐れずに用いる。そして、ほとんどつねに人はそこで眼を開く。

それは、このような漸層的な否定だけでなく、いろいろな形で現れる。
例えば、『モオツァルト』には、次のような極端な二極的発想が出てくる。
「モオツァルトの音楽に夢中になっていたあの頃、僕には既に何も彼も解ってはいなかったのか。若しそうでなければ、今でもまだ何一つ知らずにいる事になる。どちらかである。」

また、『川端康成』には、次のようにある。
「川端康成の小説の冷い理智とか美しい抒情とかいう様な事を世人は好んで口にするが、『化かされた阿呆』である。川端康成は、小説なぞ一つも書いていない。」
これは、「小説」という用語を世間の慣用からずらして正当に使用することによって、川端文学の性格を暴いた好論であると、中村は評している。

さらに、『当麻』で、世阿弥の美論に言及した際の表現も、人を立ち止まらせる。
「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない。」
これは、「ロダンの言葉」の「美しい自然がある。自然の美しさという様なものはない」を転用したものらしい。
類似表現の差を絶対視する、こういう表現も、一種の極言とみられる。

人を驚かす内容にふさわしい形式である。ただ、この小林という批評家がこういう方法で人に訴えるときの効果が、それをどういう形式で表すかよりも、どこにその方法を用いるかにかかっていることは注目されると、中村はみる。つまり、強調すべき点の見定めに、この批評家は天才的な冴えを示すと、評価している。

先の引用部分から、類例を追加しておこう。
「これはゴッホの個性的着想という様なものではない。その様なものは、彼の告白には絶えて現れて来ない」
この部分は、反復否定である。
二度目には、「絶えて……ない」という形で強調した漸層的な否定連続をなしている。すぐ前の「眼前に突入すべきゴールを見る事ではない、決してそんな事ではない」の部分とほとんど同一形式と見られる。
つまり、この段落の冒頭から、「……事ではない、決してそんな事ではない」と始まり、「とゴッホは吃り吃り言う」を挟んで、また、「……という様なものではない。その様なものは、……絶えて現れて来ない」と、強調的な否定の連続する展開となっている。
これは、紛らわしい不要物を切り捨てることによって、核心に迫る論法のせいである。それと同時に、その論調の激しさを示していると、中村は解説している。

この小林という批評家の話は、雑談にもある広義の教訓がこもっていて、ずしりと重い。文章もそのとおりである。
例えば、「とゴッホは吃り吃り言う」と挟んでいる。その「吃り吃り言う」にもみごとな現実感がある。
難解なテーマを抱え、気持ちでは判っているはずなのに、いざ口に出して言おうとすると、ただ否定をくり返すだけで、うまく表現しきれないもどかしさと、それは対応する。
その意味で、「何かしらもっと大変難しい事だ」の特に「何かしら」と呼応していると、中村はみる。

漸層的な連続否定のくり返されたその段落は、次に、「AであってBでない。A’なのである」という分析的な記述に展開する。
すなわち、「ある普遍的なものが、彼を脅迫している」というのがAである。「告白すべきある個性的なものが問題だった」というのがBにあたる。
「或る恐ろしい巨きなものが彼の小さな肉体を無理にも通過しようとするので、彼は苦しく、止むを得ず、その触覚について語る」というのが、A’に相当する。
この文展開も「……だった事はない」という強い否定をばねとしている。
全体的にも、次の逆接の接続詞「だが」を介して、「これも亦彼独特のやり方という様なものではない」と、否定的に展開する。

そして、次の文も、表現態度としては、ゴッホを肯定しながら、「誰もそういう具合にしか、美しい真実な告白はなし得ないものなのである」という否定的な表現をとる。

こういう否定のエネルギーが集積し、論はますます先鋭化する。
ただ、鋭くなっても、つねに普遍を志向して一般化することに、中村は注目している。
「ゴッホの個性的着想という様なものではない」といい、「彼独特のやり方という様なものではない」といい、「誰も、そういう具合にしか、美しい真実な告白はなし得ないものなのである」とかぶせるところに、個性的な問題をも普遍的なものとして一般化して考える、この批評家の志向が見えると、中村は解説している。

そして、「『それは、深い真面目な愛だ』と彼が言うのは、愛の説教に関する失格者としてである」と小林は記す。
この箇所は、人の気づかぬ深層の真理をえぐり、それを逆説風に語ったものかもしれないと、中村は推察している。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、258頁~264頁)

志賀直哉の文章


小林秀雄は志賀直哉を尊敬したといわれる。
中村明は、志賀直哉の文章について、次のように述べている。
「近代の名文というと、多くの社会人がまっさきに思い浮かべるのは志賀直哉の文章であろう。それは、小林秀雄が言うように「見たものを見たっていうふうな率直な文章」(中村明編『作家の文体』筑摩書房、1977年所収)なのだが、それまでの飾りだらけの文章にいやけのさした人たちの眼にはきわめて新鮮に映ったにちがいない。そして、ついには文章の神様と崇められ、その文章を原稿用紙にそのまま書き写すことが最も有効な文章修業だとまで言われた。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、49頁)

そして、志賀とはむしろ対蹠的な文体で知られる谷崎潤一郎でさえ、かつてのベストセラーであるその『文章読本』の中で、『城の崎にて』を例にとって、志賀の文章を絶賛した。
だから、「……静かだった。……淋しかった」という『城の崎にて』の文章が名文の見本として教科書にも採られた。
ただ、あの文章は、実に判りにくいという批判があるようだ。文は判りやすいが、文章は判りにくいというのは事実だろうと、中村も付言している。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、49頁)

谷崎潤一郎『陰翳礼讃』 に対する中村明の分析


中村明は、『名文』(ちくま学芸文庫、1993年)において、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』(昭和8-9年)の文章を分析している。

谷崎は『陰翳礼讃』に、次のように記す。
「元来書院と云うものは、昔はその名の示す如く彼処で書見をするためにああ云う窓を設けたのが、いつしか床の間の明り取りとなったのであろうが、多くの場合、それは明り取りと云うよりも、むしろ側面から射して来る外光を一旦障子の紙で濾過して、適当に弱める働きをしている。まことにあの障子の裏に照り映えている逆光線の明りは、何と云う寒々とした、わびしい色をしていることか。庇をくぐり、廊下を通って、ようようそこまで辿りついた庭の陽光は、もはや物を照らし出す力もなくなり、血の気も失せてしまったかのように、ただ障子の紙の色を白々と際立たせているに過ぎない。(後略)」

谷崎のこの文章に対して、森鷗外、志賀直哉、井伏鱒二の文章と比較して、中村明は次のように評している。
「森鷗外の作品に見る知性的な格調というようなものはない。志賀直哉のある種の文章のような緊迫した簡素美があるわけでもない。かといって、井伏鱒二流の円い文体をそこに見ることもできない。それらとは明らかに異質であるが、この文章にやはり私は誘われる。何に誘われるのだろうか。」

この中村の表現は、小林秀雄の文章を思わせるような否定の反復がまず来ているのも面白い。つまり、森鷗外の文章のように、知性的な格調もなく、志賀直哉のそれのように緊迫した簡素美もなく、井伏鱒二流の円い文体もないという。最後に「この文章にやはり私は誘われる」と肯定している。

さて、中村は、谷崎潤一郎の文章が持っている言語的な性格について説明している。
まず、文の長さに着目している。
谷崎潤一郎の文章は一般に文が長い。つまり長文型である。
波多野完治は文体論を研究して、谷崎潤一郎と志賀直哉を対比的に捉え、鮮やかに解析した。それ以来、この事実は広く知られることとなった。
この『陰翳礼讃』も、その点、例外ではない。
先に引用した文章について、その一文あたりの平均字数は、80から90ほどである。
一般に、近代・現代の小説文章の平均文長は40字ほどであるといわれる。だから、この文章は、その2倍かそれ以上の長さだということになる。つまり、平均すれば文が非常に長いという結果になる。

短い文が集まると、極端な場合は痙攣的な文章になるが、長い文が集まった場合は、概してゆったりしたリズムが感じられる。この文章にも、大きなうねりを思わせるところがある。その一因は、この長文を基調とした文章の流れにある。

次に、この文章には、独特な一種の気品が感じられると、中村はみる。
過ぎ去ったものへの郷愁、懐かしいがやや古風な感じがあるそうだ。この点、谷崎流の用語の選定がかかわっている。
例えば、「その名の示す如く」というのは、「その名の示すように」より、改まった感じで、やや古めかしい。「いつしか」も、「いつか」や「いつのまにか」に比べて、やや古風で気どった感じがする。

また、この文章には、和風の語句が多く使われている。谷崎潤一郎が和文調の文章を綴ったことは有名な事実である。この『陰翳礼讃』も例外ではない。
ただ、和語を基調とした文章中に適量の漢語が散らばって、流れてしまいそうな文調を適度にひきしめている。
和文調とはいっても、やはり近代の散文なのである。「ひかり」とせずに「光線」とし、「日ざし」とせずに「陽光」としているのは、その例である。

このような用語法が効いて、文章の品格が保たれているとする。古風な言いまわし、やや硬い漢語は、読者との間に一種の距離感を生み出している。
度を越せばなじみにくい文章になるが、この文章には、そういう感じはない。むしろ親しみやすいという印象さえ受ける。
それはなぜかと、中村は問いかけている。
その用語法から来る距離感を、逆に縮める働きをする表現が見出される点を指摘している。
例えば、「ああ云う窓」という言い方である。一般に、「ああいう」ということばは、聞き手が話し手と同一の対象を思い描くことを期待して話し手の発するものである。つまり、話し手が聞き手を意識して発することばである。
「あのような」とせずに、「ああ云う」という言語形式を選び取ったというだけのことではないらしい。そういう言い方をすること自体から、作者と読者との連帯感、読者と膝を交えて話しているような親密感が生じるという。

そして、なんといっても、この文章の魅力は、通常なにげなく見すごしやすいところに思いを馳せ、ひとつの真実をつかんだ、という点にあると、中村は捉えている。
つまり、新しい発見が言語化され、かなりの説得力を持って伝わってくるというところに、中村は深く惹かれている。
その重要な発見は、明り取りの機能と効果にかかわるものである。床の間の明り取りというのは、「明り」を「取る」というよりも、逆に、取った明りを障子で濾して弱めるほうにその本領がある、と見る。
それによって実現する逆光線が、「寒々とした、わばしい色」をしていると見る。その光は「もはや物を照らし出す力」がないという。
ものを照らし出す力のない光というようなものを、一般には意識しないだろう。しかし、この文章によって、よく判ることになる。

谷崎潤一郎は、『陰翳礼讃』で、次のように記す。
「或は又、その部屋にいると時間の経過が分らなくなってしまい、知らぬ間に年月が流れて、出て来た時は白髪の老人になりはせぬかと云うような、「悠久」に対する一種の怖れを抱いたことはないであろうか。」

幽明の境に漂う光に、「悠久」に対する一種の怖れを嗅ぎとった。その感覚の深みに、中村は感銘をうけたようだ。薄暗さが恐怖を引き起こすのはあたりまえだが、それを「悠久」に対する怖れと捉えたところに、最も感動的な発見があったとみる。

以上のように、この文章のいわば名文性のありかは、多様である。なかでも、あの薄明に悠久への怖れを見出す思考が最も鮮烈に中村に働きかけたという。それがなかったら、この文章に対する感銘はかなり浅いところでとどまったと付言している。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、174頁~180頁)

将棋的な文章と囲碁的な文章


かつて修辞学の主要な任務であった名文論は、今でも広義のレトリックを絡めながら、そこに文体論が大きく関与することになる。その意味で、中野重治が書いている話は示唆的であると、中村明はみている。
(中野重治「名文とはどういうものか」創作講座Ⅳ『文章の書き方・味わい方』思潮社、1956年所収)

将棋的な文章と囲碁的な文章とがあるという。
「将棋における敵将に迫る気合は素描法であり、碁の布石は一つの盤を如何に大きく使うかのコンポジションである」という中川一政のことばを引き、そういう中川自身の文章は将棋的であり、中野自らは囲碁的な文章を心がけていると書いている。
将棋的な文章のように、デッサンだけで済ませることはできないということである。

中村明はこれを読んで、いつか永井龍男が、古今亭志ん生は随筆的で、桂文楽は小説的だと書いていた(「世間雑記」)のを思い出したと述べている。
文楽は台本がきっちりできていて登場人物の性格や舞台装置をすっかり飲みこんだ上で噺をするが、志ん生のほうは台本というより、そのときの気分でかってに進行してしまうという。つまり、後者は何を演(や)っても主人公はみんな志ん生になっているそうだ。
(中村明編『作家の文体』筑摩書房、1977年所収)

このように、個性を離れて文章について論じたところで始まらず、名文論も同様だと中村は主張している。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、67頁)

名文=透明説について


中村明は名文=透明説という文章観についても解説している。つまり、名文は、それを読んでいるときにそこに文章があるということを忘れている、という見方である。

これは長い間にわたって広く支持された説であったようだ。今では言語=道具観の衰退に伴い、一時ほどの勢力は失われたがまだ生き残っている。
古くは小島政二郎が次のように主張した。
「今現に読んでいる文章の姿が意識から消えて(旨いまずいが気にならぬ)、しかも描かれている対象が生き生き浮かぶ」という。
(小島政二郎「徳田秋声の文章」『日本現代文章講座』<鑑賞編>、厚生閣、1935年所収)

また、川端康成も、この名文=透明説と同じ方向だとする。
川端は、志賀直哉の『城の崎にて』を例に出して、作者から独立しているこういう文章こそ名文だとした。
(川端康成『新文章読本』あかね書房、1950年)

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新文章読本

そして、川端は徳田秋声の『爛』の冒頭を例にとって、それを読んでいく読者はそこに作者の個性を感じないで直ちにその小説世界に引き入れられるとした。
(川端康成『小説の構成』三笠書房、1941年)

この問題に関しては、日本の近代的な文体論を拓いた二人の功績者の間で、論争があったそうだ。すなわち、小林英夫と波多野完治の二人である。
まず、小林英夫は、媒体である言語というものが完全に克服されていて、読者が文章を読んでいるという意識を起こさないのが名文だと述べた。
(小林英夫『文体雑記』三省堂、1942年)

これに対して、波多野は疑いを感じた。
波多野は、逆に、あるひとつの事柄がまさに文章をとおして語られているという意識で読まれることこそ名文の資格だと反論した。
(波多野完治『文章心理学入門』新潮社、1953年)

そこに文学は言語そのものだという意識が明確に顕れてはいないが、少なくとも言語=道具説から半歩踏み出したとは言える。
小林は、波多野の主張を半ば受け入れ、文学作品のようないわゆる芸術文は波多野説、手紙や日記、あるいは報告や広告などのいわゆる実用文は小林説という形で、妥協的に処理した。そのため、本格的な論争には発展しなかった。

この点に、中村明はコメントしている。
言語表現においても、いわゆる実用文と芸術文とは、少なくともその言語的性格は連続的である。とするなら、このような妥協はおかしいという。
つまり、人を動かすのはその文章の運ぶ論理的な情報だけではなく、どこまで意識しようと、人は文章そのものに感動している。
(あるいは、文章をとおしてしか、その感動はやって来ないともいえる)
名文の真価は文章に漂う雰囲気と、そこから生ずる感動の質にあるのだから、文章が透明であるかどうかという条件自体が、どだい二次的な問題にすぎないと、中村はいう。

ただ、名文=透明説は、明晰で判りやすい文章が切望された、あの異常な状況を考えると、生まれるべくして生まれたとも付言している。
そして波多野の反論は、そういった過熱した欲求が収まった後の、文学にとって言語とは何かを問いうる状況の中でおこなわれた、という背景を考えてみれば、これも自然に生まれたと、中村はみている。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、59頁~60頁、88頁)

鷗外の品格ある文章を絶賛した三島由紀夫


三島は、鷗外の品格ある文章を絶賛した。例えば、森鷗外の『寒山拾得』には、次のような一節がある。

「閭は小女を呼んで、汲立の水を鉢に入れて来いと命じた。
 水が来た。
 僧はそれを受け取って、胸に捧げて、じっと閭を見詰めた。」

「水が来た」の一句が利いている。
三島は、下手な作家なら、次のようにでも書くとする。
「しばらくたつうちに小女は、赤い胸高の帯を長い長い廊下の遠くからくっきりと目に見せて、小女らしくパタパタと足音をたてながら、目八分に捧げた鉢に汲みたての水をもって歩いてきた。その水は小女の胸元でチラチラとゆれて、庭の緑をキラキラと反射させていたであろう」と。

そこを、ただひと言「水が来た」で済ませたところに、強さと明朗さがあるとして、三島は絶賛した。

なお、村松定孝も、よけいな説明を加えないところに非凡さがあると説く。ふつうなら、「小女が水を鉢を入れて運んできた」とか「静かにおそるおそるこぼれないようにかかえて歩をすすめた」とするところである。

中村明は、鷗外の『空車(むなぐるま)』(大正5年)の中の「大股に行く」という一句に同じ意味での非凡さがあるとする。「歩いて行く」とか「闊歩する」とかとさえせずに、ただ「行く」の一語にとどめている。
素朴な力強さは、作者の表現態度から出てくるというのである。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、123頁~124頁)

川端康成『千羽鶴』についての中村明の鑑賞


川端の描き出す女性には、どこか超現実的なところがあるといわれる。
この作品『千羽鶴』(昭和24-26年)に登場するどの人物にも、肉感的でありながら、なにかを背負っているような、不思議な不安定さがある。

小説では、脇役ほど現実の姿を呈しやすいとされる。
この作品では、ヒロインたちを対比的に光らせる役を担う茶の師匠栗本ちか子がそれにあたるようだ。(しかし、ある種の非現実性もある)
千羽鶴の風呂敷が過重の意味を持って作品に飛翔する、背景としての稲村の令嬢ゆき子もそうである。太田夫人に至っては、なおさらである。「人間ではない女」「人間以前の女」「人間の最後の女」としての妖気を漂わせている。文子はその娘である。

川端『千羽鶴』の文章の言語的性格について、中村明は考えている。
第一に、漢語が少なく和語が多いという。それが文章の軟らかさに結びついている。
やや硬い感じの漢語としては、「均衡」や「秘術」、「背後」ぐらいである。また、軟らかい印象は、和語が多いというだけでなく、いかにも軟らかさを感じさせる特定のこどばが用いられている。
「いざり寄る」「倒れかかる」「伸び切る」のような和語の複合動詞、「けはい」のような軟質の語がその例であるとする。さらに、「しなやか」「やわらか」という語がくり返され、有効に働いている。

第二に、擬声語・擬態語が目につく。
数が多いというのではなく、あるひとつの動きを描写したクライマックスの部分に、集中的に現れる。例えば、
「文子がぐらっとのしかかって来るけはいで、きゅっと体を固くした菊治は、文子の意外なしなやかさに、あっと声を立てそうだった。」
こういうオノマトペによる伝達は感覚的にしかできないが、そのためにかえって深く伝わる場合があるようだ。
「ぐらっ」とか「きゅっ」とかいう擬態語、「あっ」という擬声語は独創的なものではないが、この描写部分の形象性を高める働きをしていると、中村はみている。

この川端という作家は、まるで閃いては記すように、しきりに行を替えるのが特徴的である。短い一文が切れると、もう行が替わって別の段落に移る。そうすることによって、文間に断絶感が生まれる。『山の音』の信吾が不気味な“山の音”を聞く場面がその典型である。
『千羽鶴』でも、「菊治はとっさに手をうしろへかくした」から「はずみで文子は菊治の膝に左手を突いた」に移行する際に改行している。切れたというよりは切った感じが残っている。意味だけから言えば、「うしろへかくした」と「はずみで」との間は切れないのが普通である。
そこを切るのはほかの要因が働いたためであろうと中村はいう。
形態的に切ることによって、切れるはずのないものが切れてしまう、一種の空隙づくりの効果を狙ったものとする。

だいたい、この作家の文章展開は、対象の側の論理ではなく、素材の側の先後関係でもなく、視点人物の認識機構に合わせておこなわれるようだ。この作家は何人称で書こうと、視点が固定されないのが特徴であるとされる。
『千羽鶴』には、身をかわした文子について、「あり得べからざるしなやかさ」「女の本能の秘術」といった表現がある。つまり、女にこの世のものとは思えない一面を想定し、作家自らも驚こうとしている。少年期から川端作品の基調をなしてきた“驚異への憧憬”が、この作品にも鮮明に表われていると、中村は鑑賞している。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、241頁~248頁)