ロシア史において、とりわけ私が好きな女性がいます。
エカチェリーナ・ダーシュコヴァ公爵夫人(1744-1810)です。
かのエカチェリーナ2世の女官長として、またブレーンとして仕え、ロシア・アカデミーの初代総裁としてロシアにおける学術の普及に努めた、才媛中の才媛、トップオブ才媛といっても過言ではないでしょう。
ロシア史普及に一役買った歴史作家アンリ・トロワイヤには『見境がない』『要求がましい』と酷評された彼女ですが、私にはそうは思えないのです。
エカチェリーナ2世とダーシュコヴァ公爵夫人、ともに名前がエカチェリーナでちょっと分かりにくいですね。
なので、ダーシュコヴァ公爵夫人のほうをこの名前の愛称であるカーチャと呼んで話を進めていきたいと思います。
ちなみにこちらが女帝のほうのエカチェリーナさん。
カーチャは大富豪ヴォロンツォフ伯爵家の三女として生まれます。母を早くに亡くし、家庭の事情で叔父の家で養育されます。
家庭的には恵まれませんでしたが、フランス語にイタリア語、ドイツ語、ラテン語、哲学、数学、音楽、絵画とありとあらゆる高度な教育を受けるという少女時代を送りました。塾通いでひいひい言ってた自分が恥ずかしいです。
天才少女の誉れ高かったカーチャは参内を許され、同じく学問を愛好する皇太子妃エカチェリーナと意気投合します。年の差が15歳もありましたが、器の大きい皇太子妃はまだほんの少女であるカーチャの真価を見抜いていたのでしょうね。
また、近衛士官のダーシュコフ公爵と結婚してダーシュコヴァ公爵夫人と呼ばれるようになったのもこの頃。
さて、カーチャは伯爵令嬢で公爵夫人で才媛で皇太子妃の親友で、どこから見ても恵まれているように見えますが実はそうではありません。
カーチャは三女ですので姉が二人いました。
そのうちの1人が、エリザヴェータ・ヴォロンツォーヴァ伯爵令嬢、愛称リーザです。
リーザはなんと、エカチェリーナ皇太子妃の不仲の夫、ピョートル皇太子の愛人だったのでした。
こちらがリーザ・ヴォロンツォーヴァです。(白黒しか画像がなかった…)
こうして政治的にも皇太子派と皇太子妃派は対立を深め、現女帝であるエリザヴェータが死の床についてからはそれが表沙汰になることもしばしばという殺伐とした状況が続きました。
そんなバックグラウンドはありましたが、皇太子妃とカーチャ、二人のエカチェリーナは友情を深めていきます。
夫のダーシュコフ公爵は皇太子妃派でしたが、実家のヴォロンツォーヴァ家はリーザのこともあって一門あげて皇太子派に与します。
このときのカーチャの気持ちを思うと、胸が痛くなります…
さて、女帝が崩御して皇太子がピョートル3世として即位すると、
皇妃であるはずのエカチェリーナは劣勢となります。
カーチャの夫であるダーシュコフも、外交官として在外勤務に。
栄転と言う名の左遷って感じでしょうか?
さらにピョートルはリーザを女官長に抜擢し、彼女を宮廷の女主人として扱います。
ともあれ政治的に苦しくなった皇妃を救うべく、カーチャは尽力します。
軍の若手を中心に皇妃のシンパを増やし、青年将校達の中で中心的存在であったオルロフ5兄弟を味方に引き入れます。
一方で不義の子を宿していた皇妃(父親はオルロフ兄弟の2番目だそーです)をかくまい、秘密裡に出産させ、母子の安全を確保します。
そして同志のひとりが皇帝派に検挙されたことをきっかけに、皇妃派はクーデターを敢行。
結果、皇妃はエカチェリーナ2世として即位。ピョートル3世は逮捕され、廃帝として軟禁されます。
ここまでがーっとお膳立てしたカーチャ、なんと当時19歳。
これが即位時の女帝エカチェリーナです。
りりしい。
さて、こうして究極の連携プレイを見せてくれたふたりのエカチェリーナではありますが、即位のときを頂点にしだいにぎくしゃくし始めます。
不協和音の最初の原因は、廃帝ピョートル。
実はですね、オルロフ兄弟の3番目、アレクセイがピョートルを暗殺してしまったのですね。
女帝のあずかり知らぬところで実行されたことだとされましたが、本当はどうなのだか闇の中。
けれど女帝の密命であれ、寵臣の暴走であれ、公明正大を矜持とするカーチャには許せないことだったのでしょう。
女帝の戴冠の際にカーチャにも最高女官長の位が用意されますが、
と同時に高官に取立てられたオルロフ兄弟との軋轢は深まるばかり。
さらにカーチャにとって打撃だったのは、
当時ポーランド派遣軍の司令官として外地赴任していた夫のダーシュコフ公爵が任地で急死したことでした。
ダーシュコフ公爵には莫大な借金があり、女帝は負債処理のために世襲領地を売って返済に充てる勅許を出しますが、その対応にカーチャはショックと憤りを感じます。
そしてカーチャは「領地を売ることなく借金を返済してみせる!」と決意して宮廷を去り、公爵家再建と領地経営に専念します。
どうやら彼女は領主としての才能もあったようで、なんと5年で負債を完済。どこまでいってもパワフルですね。
さて、借金返済のめどがついたころ、カーチャは子供たちを連れてヨーロッパ外遊の旅に出ます。
プロイセンで国王フリードリヒ2世に謁見したり、
渡英してオックスフォード大学を視察したり、
パリで哲学者のディドロと交流を持ったり、
スイスで思想家のヴォルテールに会ったり。
まさしくセレブ、ソーシャライツです。
このときディドロはカーチャのことをこう語っています。
「ダーシュコヴァ夫人は全く美人ではない」
「当時27歳の彼女が40歳くらいに見えた」
…けっこう辛辣ですね…
けど、
「話すときは率直で、力強く、説得力がある。
正義を重んじ、尊厳を尊ぶ。
芸術を理解し、人間をよく理解し、祖国の窮状を知り、圧制とあらゆる暴虐を強く憎む」
と、内面を絶賛。
こう評されるカーチャ、やっぱり素敵なひとだったんだと思うんです。
さて、こうして西欧を外遊したことをきっかけに、以降10年近く、カーチャはロシアと西欧を行き来する生活に入ります。
ロシアでは領地の運営、海外では見聞を広めることと子供の教育(息子をスコットランドの大学に入学させたりもしています)に意欲的に取り組み、西欧的な自由思想に対する理解も深めていきます。
そして38歳になったある日、カーチャは久しぶりに女帝エカチェリーナに拝謁します。こうして20年近い時を経て、二人のエカチェリーナは和解したのでした。
この頃には二人のいさかいのもとになったオルロフ兄弟は失脚しており、女帝の傍らにはその終生のパートナーとなるグレゴリー・ポチョムキンがいました。
カーチャはポチョムキンとは気が合ったようで、(小さい意見の対立はあるものの)お互いを認め合う信頼関係を築いていたようです。
ディドロやヴォルテールとの交流や西欧滞在でさらに広がった見識を買われ、カーチャは科学アカデミー院長に抜擢されます。
カーチャはここで学術の発展はもちろん、
金権政治が横行していた組織の体質改善に努め、
数学者・物理学者として有名なオイラーの論文集や博物学者ロモノーソフの全集などを廉価で発行したり公開講座を開講したりして、
アカデミーに黒字収支をもたらします。
夫の急死後の領地経営にしてもそうですが、
彼女にはどうやらビジネスの才能もあったようですね。
さらに翌年、ロシア語研究の必要性を説いたカーチャの案が受け入れられてロシアアカデミーが設立され、その初代総裁にカーチャが就任します。
しかしここで女帝とカーチャに、2度目のすきま風。
ロシア語辞典の編纂や文芸雑誌の編集方針、
さらにはアメリカ合衆国の独立やフランス革命など海外の政情なども相まって、
西欧で学んだ自由主義を祖国にも取り入れたいカーチャとあくまで専制君主としての立場を守りたい女帝との間に亀裂が生じます。
さらに女帝にとっては伴侶、カーチャにとっては盟友でもあったポチョムキン公爵の死がそれに拍車をかけることになります。
女帝はカーチャに休暇を勅許し、カーチャは再び宮中を辞することに。
その2年後、女帝は心不全で崩御。
最後まで疎遠なままだったのかな、それともプライベートなやりとりは続いていたのかな。
若い頃から苦楽をともにし、物別れしてもまた友情を復活させたふたりの女性のことを考えると、女帝の生前に和解していたと思いたいです。
さて、女帝の死後。
後継の皇帝パーヴェル1世は母の政策を総じて憎んでいましたので、
カーチャもまたそのあおりを食らって公職から追放されます。
パーヴェルは5年という短い在位でして、次に即位したアレクサンドル1世は女帝の薫陶を受けたいわゆるばーちゃん子で、
ばーちゃんの片腕であったカーチャに復帰を要請しましたがカーチャは高齢を理由にこれを固辞。(って言ってもまだ57歳なんですが)
アレクサンドルの戴冠式に名目上の最高女官長として列席したのを最後に、公の場から姿を消します。
晩年の彼女はずいぶんと寂しい日々を送ったようです。
心血を注いで教育した息子にも先立たれ、
父親の末弟の孫であるイワンを養子に迎えます。
そして婚家と実家の家名を併記したヴォロンツォフ=ダーシュコフ家を名乗る許しを得た後、65歳でその波乱に満ちた生涯を終えました。
ヴォロンツォフ=ダーシュコフ家は帝室と縁組したり政治家や軍人を輩出したり、
帝政崩壊までロシアを代表する名家として家名を繋ぎ、
現在もその血を伝えています。
(今のご当主はアメリカ在住らしい・・・)
さすがのインテリ女性カーチャ。
肖像画も、書物に囲まれてます。
参考文献:
『女帝エカテリーナ 上・下』 アンリ・トロワイヤ著 工藤庸子訳 中公文庫
『女帝のロシア』小野理子著 講談社
『ロシアとソ連邦』 外川継男著 講談社学術文庫
ヴォロンツォフ美術館公式サイト(英語/ロシア語)
エカチェリーナ・ダーシュコヴァ公爵夫人(1744-1810)です。
かのエカチェリーナ2世の女官長として、またブレーンとして仕え、ロシア・アカデミーの初代総裁としてロシアにおける学術の普及に努めた、才媛中の才媛、トップオブ才媛といっても過言ではないでしょう。
ロシア史普及に一役買った歴史作家アンリ・トロワイヤには『見境がない』『要求がましい』と酷評された彼女ですが、私にはそうは思えないのです。
エカチェリーナ2世とダーシュコヴァ公爵夫人、ともに名前がエカチェリーナでちょっと分かりにくいですね。
なので、ダーシュコヴァ公爵夫人のほうをこの名前の愛称であるカーチャと呼んで話を進めていきたいと思います。
ちなみにこちらが女帝のほうのエカチェリーナさん。
カーチャは大富豪ヴォロンツォフ伯爵家の三女として生まれます。母を早くに亡くし、家庭の事情で叔父の家で養育されます。
家庭的には恵まれませんでしたが、フランス語にイタリア語、ドイツ語、ラテン語、哲学、数学、音楽、絵画とありとあらゆる高度な教育を受けるという少女時代を送りました。塾通いでひいひい言ってた自分が恥ずかしいです。
天才少女の誉れ高かったカーチャは参内を許され、同じく学問を愛好する皇太子妃エカチェリーナと意気投合します。年の差が15歳もありましたが、器の大きい皇太子妃はまだほんの少女であるカーチャの真価を見抜いていたのでしょうね。
また、近衛士官のダーシュコフ公爵と結婚してダーシュコヴァ公爵夫人と呼ばれるようになったのもこの頃。
さて、カーチャは伯爵令嬢で公爵夫人で才媛で皇太子妃の親友で、どこから見ても恵まれているように見えますが実はそうではありません。
カーチャは三女ですので姉が二人いました。
そのうちの1人が、エリザヴェータ・ヴォロンツォーヴァ伯爵令嬢、愛称リーザです。
リーザはなんと、エカチェリーナ皇太子妃の不仲の夫、ピョートル皇太子の愛人だったのでした。
こちらがリーザ・ヴォロンツォーヴァです。(白黒しか画像がなかった…)
こうして政治的にも皇太子派と皇太子妃派は対立を深め、現女帝であるエリザヴェータが死の床についてからはそれが表沙汰になることもしばしばという殺伐とした状況が続きました。
そんなバックグラウンドはありましたが、皇太子妃とカーチャ、二人のエカチェリーナは友情を深めていきます。
夫のダーシュコフ公爵は皇太子妃派でしたが、実家のヴォロンツォーヴァ家はリーザのこともあって一門あげて皇太子派に与します。
このときのカーチャの気持ちを思うと、胸が痛くなります…
さて、女帝が崩御して皇太子がピョートル3世として即位すると、
皇妃であるはずのエカチェリーナは劣勢となります。
カーチャの夫であるダーシュコフも、外交官として在外勤務に。
栄転と言う名の左遷って感じでしょうか?
さらにピョートルはリーザを女官長に抜擢し、彼女を宮廷の女主人として扱います。
ともあれ政治的に苦しくなった皇妃を救うべく、カーチャは尽力します。
軍の若手を中心に皇妃のシンパを増やし、青年将校達の中で中心的存在であったオルロフ5兄弟を味方に引き入れます。
一方で不義の子を宿していた皇妃(父親はオルロフ兄弟の2番目だそーです)をかくまい、秘密裡に出産させ、母子の安全を確保します。
そして同志のひとりが皇帝派に検挙されたことをきっかけに、皇妃派はクーデターを敢行。
結果、皇妃はエカチェリーナ2世として即位。ピョートル3世は逮捕され、廃帝として軟禁されます。
ここまでがーっとお膳立てしたカーチャ、なんと当時19歳。
これが即位時の女帝エカチェリーナです。
りりしい。
さて、こうして究極の連携プレイを見せてくれたふたりのエカチェリーナではありますが、即位のときを頂点にしだいにぎくしゃくし始めます。
不協和音の最初の原因は、廃帝ピョートル。
実はですね、オルロフ兄弟の3番目、アレクセイがピョートルを暗殺してしまったのですね。
女帝のあずかり知らぬところで実行されたことだとされましたが、本当はどうなのだか闇の中。
けれど女帝の密命であれ、寵臣の暴走であれ、公明正大を矜持とするカーチャには許せないことだったのでしょう。
女帝の戴冠の際にカーチャにも最高女官長の位が用意されますが、
と同時に高官に取立てられたオルロフ兄弟との軋轢は深まるばかり。
さらにカーチャにとって打撃だったのは、
当時ポーランド派遣軍の司令官として外地赴任していた夫のダーシュコフ公爵が任地で急死したことでした。
ダーシュコフ公爵には莫大な借金があり、女帝は負債処理のために世襲領地を売って返済に充てる勅許を出しますが、その対応にカーチャはショックと憤りを感じます。
そしてカーチャは「領地を売ることなく借金を返済してみせる!」と決意して宮廷を去り、公爵家再建と領地経営に専念します。
どうやら彼女は領主としての才能もあったようで、なんと5年で負債を完済。どこまでいってもパワフルですね。
さて、借金返済のめどがついたころ、カーチャは子供たちを連れてヨーロッパ外遊の旅に出ます。
プロイセンで国王フリードリヒ2世に謁見したり、
渡英してオックスフォード大学を視察したり、
パリで哲学者のディドロと交流を持ったり、
スイスで思想家のヴォルテールに会ったり。
まさしくセレブ、ソーシャライツです。
このときディドロはカーチャのことをこう語っています。
「ダーシュコヴァ夫人は全く美人ではない」
「当時27歳の彼女が40歳くらいに見えた」
…けっこう辛辣ですね…
けど、
「話すときは率直で、力強く、説得力がある。
正義を重んじ、尊厳を尊ぶ。
芸術を理解し、人間をよく理解し、祖国の窮状を知り、圧制とあらゆる暴虐を強く憎む」
と、内面を絶賛。
こう評されるカーチャ、やっぱり素敵なひとだったんだと思うんです。
さて、こうして西欧を外遊したことをきっかけに、以降10年近く、カーチャはロシアと西欧を行き来する生活に入ります。
ロシアでは領地の運営、海外では見聞を広めることと子供の教育(息子をスコットランドの大学に入学させたりもしています)に意欲的に取り組み、西欧的な自由思想に対する理解も深めていきます。
そして38歳になったある日、カーチャは久しぶりに女帝エカチェリーナに拝謁します。こうして20年近い時を経て、二人のエカチェリーナは和解したのでした。
この頃には二人のいさかいのもとになったオルロフ兄弟は失脚しており、女帝の傍らにはその終生のパートナーとなるグレゴリー・ポチョムキンがいました。
カーチャはポチョムキンとは気が合ったようで、(小さい意見の対立はあるものの)お互いを認め合う信頼関係を築いていたようです。
ディドロやヴォルテールとの交流や西欧滞在でさらに広がった見識を買われ、カーチャは科学アカデミー院長に抜擢されます。
カーチャはここで学術の発展はもちろん、
金権政治が横行していた組織の体質改善に努め、
数学者・物理学者として有名なオイラーの論文集や博物学者ロモノーソフの全集などを廉価で発行したり公開講座を開講したりして、
アカデミーに黒字収支をもたらします。
夫の急死後の領地経営にしてもそうですが、
彼女にはどうやらビジネスの才能もあったようですね。
さらに翌年、ロシア語研究の必要性を説いたカーチャの案が受け入れられてロシアアカデミーが設立され、その初代総裁にカーチャが就任します。
しかしここで女帝とカーチャに、2度目のすきま風。
ロシア語辞典の編纂や文芸雑誌の編集方針、
さらにはアメリカ合衆国の独立やフランス革命など海外の政情なども相まって、
西欧で学んだ自由主義を祖国にも取り入れたいカーチャとあくまで専制君主としての立場を守りたい女帝との間に亀裂が生じます。
さらに女帝にとっては伴侶、カーチャにとっては盟友でもあったポチョムキン公爵の死がそれに拍車をかけることになります。
女帝はカーチャに休暇を勅許し、カーチャは再び宮中を辞することに。
その2年後、女帝は心不全で崩御。
最後まで疎遠なままだったのかな、それともプライベートなやりとりは続いていたのかな。
若い頃から苦楽をともにし、物別れしてもまた友情を復活させたふたりの女性のことを考えると、女帝の生前に和解していたと思いたいです。
さて、女帝の死後。
後継の皇帝パーヴェル1世は母の政策を総じて憎んでいましたので、
カーチャもまたそのあおりを食らって公職から追放されます。
パーヴェルは5年という短い在位でして、次に即位したアレクサンドル1世は女帝の薫陶を受けたいわゆるばーちゃん子で、
ばーちゃんの片腕であったカーチャに復帰を要請しましたがカーチャは高齢を理由にこれを固辞。(って言ってもまだ57歳なんですが)
アレクサンドルの戴冠式に名目上の最高女官長として列席したのを最後に、公の場から姿を消します。
晩年の彼女はずいぶんと寂しい日々を送ったようです。
心血を注いで教育した息子にも先立たれ、
父親の末弟の孫であるイワンを養子に迎えます。
そして婚家と実家の家名を併記したヴォロンツォフ=ダーシュコフ家を名乗る許しを得た後、65歳でその波乱に満ちた生涯を終えました。
ヴォロンツォフ=ダーシュコフ家は帝室と縁組したり政治家や軍人を輩出したり、
帝政崩壊までロシアを代表する名家として家名を繋ぎ、
現在もその血を伝えています。
(今のご当主はアメリカ在住らしい・・・)
さすがのインテリ女性カーチャ。
肖像画も、書物に囲まれてます。
参考文献:
『女帝エカテリーナ 上・下』 アンリ・トロワイヤ著 工藤庸子訳 中公文庫
『女帝のロシア』小野理子著 講談社
『ロシアとソ連邦』 外川継男著 講談社学術文庫
ヴォロンツォフ美術館公式サイト(英語/ロシア語)