笛吹きひゃらりのひゃらひゃら日記

器用貧乏系OLひゃらりが平穏な日常の中でフルート吹いたり歴史に夢中になったりしている日記です。

グリゴリー・ポチョムキン【お気に入り人物伝】

2010-08-03 01:25:58 | ロシア史なお話
ダーシュコヴァ公爵夫人の生涯を追ったついでに、
せっかくなのでその盟友ポチョムキン公爵についても勉強し直してみたくなりました。
グリゴリー・ポチョムキン(1739-1791)は女帝エカチェリーナ2世の愛人として知られています。
エカチェリーナ2世は多くの愛人をとっかえひっかえしていたとされ、
孫のニコライ1世に『玉座の上の娼婦』と酷評されたほどでしたが、
ポチョムキンは数多の情夫たちとは一線を画した存在であったと言われています。
その政治的・軍事的センスや女帝への献身はエカチェリーナにとってはかけがえのないもので、
ふたりの間には互いに「夫」「妻」と手紙の中で呼びかけあうほどの強い絆がありました。
 
ポチョムキンは地方都市スモレンスク近郊で下級貴族の家に生まれました。
ポチョムキンの先祖はロシア・ポーランド戦争で活躍した有能な軍人で宮廷への直参も許されていましたが、
彼が生まれたころにはすでに没落していました。
長じてモスクワ大学に学び近衛連隊に入隊したころ、皇妃エカチェリーナを奉る一派による軍事クーデターが起こります。
まだ23歳だったポチョムキンも、青年将校の一員として参加。
このときのふたりの関係はまだ、皇妃と一介の軍人に過ぎません。
こちら、若かりし日のエカチェリーナです。
 
それから12年後、ポチョムキンは10歳年上の女帝の恋人として歴史の表舞台に登場します。
それも、生涯において数多の男性と浮名を流したエカチェリーナの男性遍歴の中でも特別な存在として。
エカチェリーナの情夫たちはあまり有能なタイプは多くなかったと言われていますが、彼は文武に長けた軍人であり、
それゆえに私生活のみならず、政務や軍務においても女帝をサポートすることになります。
精神的な結びつきも深く、たくさんの恋文が残されていたり秘密結婚をしていたという説があったりします。
エカチェリーナは立場上ポチョムキンからの手紙をほとんど燃やしてしまいましたが、
ポチョムキンはエカチェリーナからの手紙をずっと大切に持っていました。
この恋文がちょっとすごいです。
 
私は放埓を好む女ではなく、
もし若いときに愛することの出来る夫に恵まれていたなら
その人に貞淑だったろうと思います。
ただ困ったことに私の心は
一刻も愛なしにいることを望まないのです。
こんな愛のありようはやはり善良というよりは
罪深いものなのでしょうか。

 
という、ふたりの関係が始まったばかりのころの魂の告白。
 
いとしい人、わたしの魂、愛するあなた、
わたしは今日、気がへんになっています。恋、恋のせいね。
心で、頭で、魂で、体で、わたしはあなたに夢中。
五感のありったけであなたを愛してるの。
そして未来永劫に愛し続けるでしょう。
だからお願い、あなたのわたしを愛してくださいな、
ね、きっとよ・・・・・・。
 
という情熱的な文面や、
 
わたしは、心の底から愛しているときは、とてつもなく優しいのよ。
わたしの魂はあなたに会いたくて、会いたくて、たまらない。

こんにちは、あなた。みんな、お元気かしら。
わたしは元気であなたのことが好きです。

 
という優しい、あたたかな愛情を感じる呼びかけ。
 
やっぱり知的な女性は、ラブレターもステキだなぁと思ってしまいます。
ふたりの間には一女エリザヴェータ・チョームキナも生まれました。
 
1774年、プガチョフの乱を鎮圧。
1775年、ザポロージャ・コサックのシーチ(本拠地)を廃止。
軍人として辣腕を振るうポチョムキンは、
1776年、女帝に命じられて帝都から遠く離れた南部ロシア地方の総督として現地に赴任します。
そうなると女帝の傍らにはいられない…
ここでポチョムキンは、普通の男性では考えられない行動に出ます。
 
自分の代わりとなる愛人の手配。
 
女帝の好みを知り尽くしたポチョムキンは、
自分の息がかかっていておツムがあまりよろしくない(つまり自分の存在を脅かさない)美青年を次々に女帝にあてがいます。
なんという策士。
この話を知ったとき、私が真っ先に思い出したのはフランスのポンパドゥール侯爵夫人ジャンヌでした。
ルイ15世の寵姫だった彼女は、自分が現役を引退した後もルイのもとにどんどん美しい女性を送り込んでその影響力を持続したわけですが、
ポチョムキンはその男女逆転バージョン。
ポンパドゥール侯爵夫人のほうが若干時代が早いので、
もしかしたら先人の知恵に倣ったんでしょうか。
そうだとしたらすごすぎる。
 
男女の関係がなくなっても、遠く離れて暮らしていても、ふたりの間には確固たる信頼がありました。
ポチョムキンは愛するエカチェリーナのために、ばりばり仕事に取り組みます。
領土を増やし、そこを平定し、開発していきます。
また1784年には陸軍元帥と海軍元帥を兼ね、軍事参事会議長としてロシア全軍のトップに立ちます。
これはそのころの姿でしょうか。
そろそろおじさんぽくなって、ちょっとプヨッとした感じ。
 
かつて女帝と物別れに終わってしまったその親友、エカチェリーナ・ダーシュコヴァ公爵夫人を再び宮中に戻すきっかけを作ったのもこの頃。
ともに女帝を支えるという明確な目標を持っていたポチョムキンとダーシュコヴァは盟友とも言える関係を築きます。
また、ダーシュコヴァの愛息パーヴェルはスコットランド留学を終えた後、ポチョムキンの副官として南方に赴任。片腕として活躍することになります。
 
彼にとって人生最高の晴れ舞台は、
1787年に行われた女帝の南方視察だったといわれています。
神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世や外国大使などを伴った一行は、はるばる陸路と河川を伝って黒海まで南下。
ポチョムキンはその途上にことごとく宿営のための施設を設け、娯楽を提供し、新領土の発展を強烈に印象づけました。
反ポチョムキン派はこれを「張りぼてだ!」「見せ掛けだ!」と主張し、
現在も『ポチョムキン村』(=人目に着くところだけを美しく整備すること)というあまりいい意味ではない故事成語として残ってしまっていますが、
これはちょっとかわいそうな気がします…
 
さて、女帝のクリミア行幸以降、
ポチョムキンの人生は次第に寂しげなものになっていきます。
遠く離れて暮らす女帝との文通は続いていたしサンクト=ペテルブルグにも頻繁に帰京してはいたけれど、
老境に入り始めた女帝はかつてのような明晰さを失っていきます。
反ポチョムキン派が手配した愛人、プラトン・ズーボフが女帝の寵愛とポチョムキンの不在をいいことに専横を振るう宮中は、
彼にとってもはや帰る場所ではなかったのかもしれません。
1971年、ペテルブルグから任地に戻る道中で病に倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。52歳でした。
 
ポチョムキンの絶筆は、
エカチェリーナに宛てて書いた最後の恋文です。
 
なつかしいおっ母さま、
もう僕は生きられない。
君に会えないのだもの。
 
これを書き上げて愛する人に送ることは叶いませんでした。
 
さても驚くべきは、ふたりの信頼関係です。
ポチョムキンは15年もの間ロシアの4分の1にも及ぶ領土と軍事における最高権力を手にしていたにもかかわらず、
一度たりとも女帝エカチェリーナに反逆の不安を抱かせたことはありませんでした。
裏切り、裏切られて生きてきた彼女は決して猜疑心が薄いほうではない(むしろ強いほうだと言える)はずであり、
それを考えるとポチョムキンという男性の非凡さがより浮かび上がってくるような気がするのです。
 
ふたりの間に生まれた娘、エリザヴェータはポチョムキンの妹マリーヤの手で養育され、
ギリシャ系貴族のカラゲオルギ将軍に嫁ぎました。
旦那さんのお国にあわせたのか、肖像画の衣装もちょっとギリシャ風ですね。
 
参考文献:
『女帝エカテリーナ 上・下』 アンリ・トロワイヤ著 工藤庸子訳 中公文庫
『ロシアとソ連邦』 外川継男著 講談社学術文庫
『女帝のロシア』 小野理子著 講談社
『不思議な恋文 女帝エカテリーナとポチョムキンの往復書簡』 小野理子著 東洋書店
『恋文 女帝エカテリーナ二世 発見された千百六十二通の手紙』 小野理子、山口智子著 アーティストハウス
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