なまぬるい生活

エホバの証人 元二世のブログ

不自然な会話の実演

2010年01月23日 01時39分33秒 | 一般記事
エホバの証人の集会や大会では多くの実演があります。
家庭や野外でどのように対応するべきか実際に演じるわけですが、どうしてあんなに不自然な会話なんでしょうか。棒読みも多いし。

普通の会話では使わないような言い回しや、現実的ではない受け答えが非常に多いと思います。

親子の設定の実演では、あり得ないような会話が毎回同じような内容で演じられています。
例えばこんな感じです。

「ねぇお父さん、クラスの智美から来週の金曜日カラオケに行こうって誘われたの。行ってもいいかなぁ?少しくらいならいいでしょ?」

「そうだなぁ。友達と一緒に遊びたいと思う智美の気持ちはお父さんもよく分かるよ。でも、来週は巡回監督の訪問があるよね。野外奉仕に参加するよう励まされているし、もしその交わりに参加するなら、エホバはどう思うかなぁ。若い人が尋ねるの本には、そのことがきっかけでアルコールやタバコ、不道徳の問題に発展することがあるって警告してるよね。だからお父さんは智美に注意深く決定して欲しいと思うんだよ。」

「そうだねぇ。その交わりにはクラスの男の子も参加するって聞いたし、帰りが遅くなるかも知れないなぁ。“悪い交わりは有益な習慣を損なう”って聖書にあるから断ることにする!お父さん、アドバイスありがとう!」

司会者「いかがでしたか?(以下略)」

こんな内容が大会で実演されます。その他に「独り言を言っている実演」とか、「大会バッジの意味について聞かれて証言している実演」など、毎回同じような内容で聴衆はよくも飽きないなぁと感心してしまいます。

これらの実演が不自然なのは、ただ「エホバの証人の実演」を演じてるからなんですよね。

骨髄移植と臓器移植に関する見解

2010年01月22日 23時44分11秒 | 一般記事
エホバの証人と血の問題

エホバの証人と輸血拒否の問題はこのブログでも何度か取り上げましたが、僕が納得できないのは、輸血が禁止されているにも関わらず骨髄移植や臓器移植を受けるかどうかは「個人が決定する」ことになっていることです。

輸血を受け入れることは「断絶したこと」と見なされ、排斥処分になるにも関わらず骨髄移植や臓器移植は個人的決定というわけですが、この違いに根拠はあるのでしょうか?

エホバの証人にとって輸血拒否は看板教理であり、輸血の危険性を大々的に伝え、輸血を拒否して亡くなった子どもを「神を第一にした若者たち」と賞賛し、毎年奉仕会で「継続的委任状」を確認するよう指示している以上、「輸血を拒否するかどうかは個人が決定すべき事柄です」とはならないでしょうね。

そのことによる内外からの批判を受けるくらいなら、これまでの伝統どおり輸血拒否を押し通すつもりでしょう。

「血を避けるように」という聖書の命令が今でも有効である根拠としてエホバの証人は使徒たちの活動 15:20 を挙げますが、その聖句について某掲示板でこんな投稿がありましたので引用します。
毎年、輸血拒否によって多くの人命が失われています。
下はその根拠とされる、新世界訳の使途行伝15:20です。

20 ただ,偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送ることです。

その理由が次の21節に述べられています

21 モーセは安息日ごとに諸会堂で朗読されており,彼を宣べ伝える者が古来どの都市にもいるからです

ユダヤ人には、もともと20節に挙げられているような伝統がありました。
ですから、ユダヤ人と異邦人の対立をやわらげ、クリスチャンとして一致させるために、ユダヤ人改宗者に配慮してこれらを避けなさいと言っているわけです。

従って、本来キリストによって律法が廃止された後では、これらの規定に従う必要はありません。
ただ、当時の、ユダヤ人と異邦人が慣習の違いから対立していた状況ではユダヤ人改宗者の習慣に配慮する必要があったということです。

つまり、仮に20節の血に輸血を含むとしても、現代においてこの規定に絶対的に従う必要はないといえます。

聖書に全く根拠のない教理のためにどれほどの多くの人たちが死んでいくのでしょうか?
統治体のややこしい説明より、このような「世」の意見の方がまともに見えてしまうのはなぜでしょう。

「筆記の復習」の思い出

2010年01月19日 00時30分41秒 | 一般記事
現在、2ヶ月に1回 神権宣教学校で「口頭の復習」(神権宣教学校の復習)があり、準備してきた答えを30分で復習していますが、2002年までは「筆記の復習」という名前で、準備してきた答えを覚えておき聖書だけを使って答えるという、今よりも難易度の高いプログラムでした。

現在の「口頭の復習」が宿題なら、「筆記の復習」はテストのようなものでしょうか。

このテストは5項目あり、それぞれ

1. 以下のそれぞれの文の正誤を答えてください。
  (問題が「正しい」か「誤り」か答える)
2. 以下の質問に答えてください。
  (質問に答える。これが一番難しい)
3. 必要な語句を補い,下記のそれぞれの文を完成させてください。
  (虫食い問題)
4. 以下の各文の正しい答えを選んでください。
  (選択問題)
5. 以下の聖句を下記の陳述に当てはめてください。
  (5つの聖句の中から該当する適用を選択する)

といった内容でした。

幼い頃、この25分間の沈黙は異様な雰囲気がしたものです。
とりあえず5番目の問題をやって、余った時間でそれ以外の分かりそうな問題をやっていました。

今も昔も変わらないのは、提示されている資料の通りに答えないといけないということでしょうか。

間違った答えをすると司会者は「その他に答えはありますか?」などと遠回しに答えを否定し、なかなか「正解」が出ないと「模範解答を申し上げますね…」と読み上げる始末です。
(この模範解答は集会後に掲示板に張り出され、熱心な人はそれを見てメモします)

以前、注解についてブログに書きましたが、答え合わせのような注解ではなく、そのときどう感じたとか、どう適用できるかなど自由な注解の方が思考を刺激するのではないかと思います。

結局この復習も資料を調べるという手間が増えただけで、いつもの「ものみの塔研究」や「聖書研究」(書籍研究)と同じ認識の刷り込みでしょうね。

ベテル 短期住み込み、パートタイマー募集のおしらせ

2010年01月12日 22時28分59秒 | 一般記事
残されたときが少なくなっている今、海老名ベテルでは短期住み込み、パートの仕事を募集しています。
募集要項は次の通りです。
勤務地神奈川県海老名市
職種印刷業
時給0円
勤務時間8:00~17:00 (実働8時間)
就業期間住み込み:1週間~3ヶ月
パートタイム:月~金曜日のうち 1~2日
資格独身、子どものいない夫婦(子どもがいてもOKですが、同伴はできません)
霊的で、身体的に健康であること
どんな仕事でも喜んで働く気持ちがあること
コンピューター、音響関連の技術、理容師、美容師、医師、歯科医師、ナース、
介護ヘルパーなどの資格や経験があれば歓迎します。
(そのような資格があっても手当は出ません)
交通費支給されません
詳細は協会からの手紙をご覧ください。
  ・
  ・
  ・

先日の集会でこんな手紙が読まれました。テンポラリー・ボランティアとパートタイム・コミューターを募集するそうです。

意味もなく横文字ですが、短期間の住み込みと、パートタイムの仕事ができる人を募集するということです。

払戻金(給料)は払いたくないけど、ただで働く人が必要ということでしょうか。

「皆さんはこのことを知って喜ばれるに違いありません」「どんな仕事でも喜んで働く気持ちが必要です」
ベテル(神の家)で働かせてやるんだ、のような意識があるのか、お金を出さないくせに、妙に上から目線なんですね。

ただ働きで雑用をすることで「エホバ神の豊かな祝福」があるようなので、暇な人、ベテルの内部に関心がある人は応募してみてはいかがでしょうか?

祈りがささげられるとき手をつないではいけない

2010年01月11日 01時05分27秒 | 批判的意見
会衆での祈り

前回のブログでほろりさんから、ものみの塔 2009年11月15日号の第一研究記事 6ページ 19節についてコメントがありました。

その節では、集会で祈るときに夫婦が手をつないだり抱き合うことは慎むように、あります。

日本ではあまりこういった光景は見られませんが、僕がアメリカに滞在していたときはホストペアレンツは家の食事前はもちろん、王国会館での祈りでも手をつないでいました。

向こうではそれが当たり前の光景だったので、手をつなぐ理由を聞いたことはありませんが、単なる習慣かもしれないですし、意味があるとしたらお互い夫婦で神に近づこうとか、お互い信仰を深めようとか、そういう気持ちの表れだと思います。

それを「エホバに対する恭しい気持ちを抱くよりも,自分たちのロマンチックな関係に心を向けている」とか「集中できない」「当惑する」「つまずく」などと感じるとしたら、それはひがみか心が貧しいのでしょう。
愛の神に愛を持って近づいて何が悪いのでしょうか。

そもそも祈りの時は目を閉じるものです。
そういうことでつまずくのなら早めに目を閉じたり、一番前の席に座るべきではないでしょうか。(協会は一番前の席から座るよう勧めている)

ある人は、もしかしたら生活上の問題で悩んでおり、祈りの間に夫の支えが必要かもしれません。

こうした些細な習慣を「慎むべき」といちいち研究記事にするのはどうかと思います。

本当に,本当にありがとうございます。

2010年01月09日 01時19分07秒 | 一般記事
みなさんご存じのとおり、2009年1月から書籍研究がなくなり、週3日の集会が 2日に減っています。

この取り決めについても、相変わらずピント外れな感謝の言葉が寄せられています。
2010年「年鑑」7ページにこうあります。

「本当に,本当にありがとうございます」って、どこかで見たなと思ったら、開拓者の要求時間の記事でも紹介した「エホバの証人の開拓者制度について」のページにありました。

こんなに感謝するというのは、会衆の書籍研究では益が得られなかったんでしょうね。

そもそも取り決めが変更される前から、定期的に家族研究するように指示されてましたよね。集会が一つ減らされてやっと家族研究するようでは、レベルも低くなったように感じます。

統治体が決めたことを「天の父は,知恵の表れた実にすばらしい取り決めを設けてくださいました」と感謝するあたり、「統治体の決定=神の決定」と思ってるんでしょうね。
それを載せる統治体もそのように思ってるんでしょう。

まさしく「世も末」ですな。

2010年 エホバの証人の地域大会 スケジュール

2010年01月08日 23時50分47秒 | 一般記事
2010年 地域大会の開催地
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今年も「ものみの塔」2010年3月1日号に 2010年地域大会の開催地が掲載されています。

2010年2月号の「王国宣教」4ページに www.jw.org(世界的な組織を持つエホバの証人)にも載せられるとありますが、今のところ載ってないので去年に引き続きここでも紹介したいと思います。

今年のタイトルは「エホバのもとにとどまりなさい」です。

大会の内容はタイトルだけで分かりますね。

「今が終わりの時で、組織の元に留まらなければまもなくハルマゲドンで滅ぼされる。のべ伝える業を拡大して、多くの人を真理に導き入れよう。」みたいないつもの内容だと思います。

みなさん、雇い主に休暇をもらえるように証言し、この大会で最大限の益を受けられるよう今から準備しましょうね。

「主の記念式」の招待ビラ 提供方法

2010年01月02日 22時39分19秒 | 雑誌の提供方法
王国宣教 2010年2月号

先日のブログで 2010年度版「主の記念式」招待ビラを紹介しましたが、その提供方法が王国宣教 2010年2月号 1ページに載っていますので紹介します。

この招待ビラは気色の悪い挿絵ですが、それを家の人に見えるようにして手渡すよう指示されています。
招待状は,表の挿絵が見えるようにして家の人に手渡すことができるでしょう。

そして、苦情が多いというポストインも指示されています。
会衆の区域が大きければ,長老たちは,最初の訪問から留守宅に招待状を置いてくるように取り決めることができます。

イエスが十字架(または杭)で処刑されたという話が根付いているキリスト教文化の国ならともかく、この日本でこの挿絵は受け入れられないでしょう。

2009年 エホバの証人の総計

2010年01月02日 00時55分42秒 | 一般記事

2009年の統計
去年、2008年の「エホバの証人の総計」を紹介しましたが、今年も「2010 エホバの証人の年鑑」31ページに 2009年の総計が載っていますので紹介します。

さて、気になる「全世界の記念式で表象物にあずかった人の数」は 10,857人と、去年に引き続き大幅に増えております。

またリストとグラフにしましたので見ていただけると分かりますが、8~9千人代を前後していた人数が初の1万人越えとなってしまいました。

これもエホバ神の導きでしょうか…

日本の平均伝道者数は 217,530人で、2008年の 217,339人に比べてわずか 191人の増加で、増加率は 0.087%、1人の伝道者を増やすのに 1,139人も必要というわけです。

日本でこれだけ多くの人が布教活動に参加しても信者が増えないのは、日本の風土にエホバの証人の教理が合わないのかもしれません。


2010 新年の挨拶

2010年01月01日 19時07分01秒 | 一般記事
謹賀新年

皆さま、明けましておめでとうございます。

昨年はこんなブログにも関わらず、多くの方が見に来てくださいました。
コメントもたくさんいただき、ありがとうございます。
今年もなまぬるく続けていきますのでよろしくお願いします。

今年も皆さまにとって良い年になりますように。アーメン。


あ、エホバの証人は新年の挨拶は禁止でしたね。

P.S.
コメントをいただいたので補足しますが、エホバの証人は「あけましておめでとう」とは言いません。

僕が子供の頃は「あけましておめでとう」と言われたら「今年もよろしくお願いします」と返すように、と言われてきましたし、新年の「野外奉仕の集まり」では「家の人から新年の挨拶をされたらどう答えるか」と討議することがあります。

新年のあいさつが新年を祝うこと、つまり偶像崇拝と同じという考え方なんでしょうね。

年賀状は出しませんが、受け取った年賀状の当選番号は気にしますけどね…