エホバの証人と輸血拒否の問題はこのブログでも何度か取り上げましたが、僕が納得できないのは、輸血が禁止されているにも関わらず骨髄移植や臓器移植を受けるかどうかは「個人が決定する」ことになっていることです。
輸血を受け入れることは「断絶したこと」と見なされ、排斥処分になるにも関わらず骨髄移植や臓器移植は個人的決定というわけですが、この違いに根拠はあるのでしょうか?
エホバの証人にとって輸血拒否は看板教理であり、輸血の危険性を大々的に伝え、輸血を拒否して亡くなった子どもを「神を第一にした若者たち」と賞賛し、毎年奉仕会で「継続的委任状」を確認するよう指示している以上、「輸血を拒否するかどうかは個人が決定すべき事柄です」とはならないでしょうね。
そのことによる内外からの批判を受けるくらいなら、これまでの伝統どおり輸血拒否を押し通すつもりでしょう。
「血を避けるように」という聖書の命令が今でも有効である根拠としてエホバの証人は使徒たちの活動 15:20 を挙げますが、その聖句について某掲示板でこんな投稿がありましたので引用します。
毎年、輸血拒否によって多くの人命が失われています。統治体のややこしい説明より、このような「世」の意見の方がまともに見えてしまうのはなぜでしょう。
下はその根拠とされる、新世界訳の使途行伝15:20です。
20 ただ,偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送ることです。
その理由が次の21節に述べられています
21 モーセは安息日ごとに諸会堂で朗読されており,彼を宣べ伝える者が古来どの都市にもいるからです
ユダヤ人には、もともと20節に挙げられているような伝統がありました。
ですから、ユダヤ人と異邦人の対立をやわらげ、クリスチャンとして一致させるために、ユダヤ人改宗者に配慮してこれらを避けなさいと言っているわけです。
従って、本来キリストによって律法が廃止された後では、これらの規定に従う必要はありません。
ただ、当時の、ユダヤ人と異邦人が慣習の違いから対立していた状況ではユダヤ人改宗者の習慣に配慮する必要があったということです。
つまり、仮に20節の血に輸血を含むとしても、現代においてこの規定に絶対的に従う必要はないといえます。
聖書に全く根拠のない教理のためにどれほどの多くの人たちが死んでいくのでしょうか?