なまぬるい生活

エホバの証人 元二世のブログ

神様は いる?いない?

2021年03月24日 06時25分03秒 | 批判的意見

以前の記事「エホバの証人のこと、今はどう思ってる?」のコメントで「エホバ神はいないと思ってるんですか?(中略)人間は猿から進化した?」とありがたい言葉をいただきましたので回答しますが、僕はエホバという神がいるのかいないのかはどうでもいいと思っています。

神様はいるかもしれないし、いないかもしれない。僕はエホバの証人を経験したことで、不可知論者に近い考えになりました。

誰が何を信じようと自由なので、いると思う人はそう思えばいいし、いないと思う人はそう思えばいい。

人間は神様が創造したかもしれないし、猿から進化したかもしれない。

実証できないことはどうでもよくて、それが解明できなくても生活に支障はないんですよね。

聖書が事実だと思って信じているのでしたらそれは自由です。ただ、僕の生活に聖書は必要ありません。

ただ、「エホバの証人」という組織がインチキ集団であることは疑いの余地がない事実ですのでそれは断言しておきます


エホバの証人が大阪市立阿倍野市民学習センターを不正使用

2012年03月30日 00時51分56秒 | 批判的意見

エホバの証人が大阪市立阿倍野市民学習センターを不正使用。虚偽で申し込みか?」という記事が投稿されていたので、こちらのブログでも掲載します。

画像の招待ビラで分かると思いますが、4月5日(木)午後 7:00 阿倍野市民学習センター 講堂にてエホバの証人による「主の記念式」が行われます。

投稿者が問題視していたのは、この阿倍野市民学習センターが宗教活動を禁止しているにもかかわらずエホバの証人が利用する予定である、という点です。

大阪市立阿倍野市民学習センターのサイトには

「市民の生涯にわたる学習活動を支援し、生涯学習の振興を図ることにより、市民の文化と教養を高め、市民生活の向上に寄与することを目的」(条例第2条)として設置された施設です。
上記の目的に基づき、大阪市民もしくは市内に通学通勤されている方で構成されたグループ・団体の学習会や研修会などにご利用いただけます。
政治活動、宗教活動、また物品販売など営利活動の目的での利用はできません。
パーティなど飲食を伴う利用はご遠慮ください。

とあり、宗教活動での利用を明確に禁止しています。しかも「油注がれた残りの者」が出席していれば「飲食を伴う利用」になる可能性だってあるわけですよね。(貸室案内のページにも飲酒ができないことが明記されています。)

宗教活動であることを隠して申し込んだのか、エホバの証人だけ特別扱いしてもらったのか分かりませんが、市民の税金で運営されている公共施設が「市民の文化と教養を高めることもなく、市民生活の向上に寄与することもない」団体に貸し出されることが許されるのでしょうか?

上位の権威に従うはずのエホバの証人が、利用規約を無視してまで開催することに疑問を抱きます。

[追記] 4月2日現在の状況(大阪市在住の方が問い合わせてくれています。)

共産党阿倍野委員会からセンターに問い合わせてくれました。 申込者は「阿倍野会衆」。宗教団体との認識はなかったため、申し込みを受理してしまった。当日は講堂でなされる内容をしっかりチェックし、今後は貸さないようにしたい」とのことでした。

センターとしては、今回は申し込みを受理しちゃったので、いまさら使うなとは言えないとのこと。次回以降は使わせないよう注意する、とのことでした。

センターを所管している、財団法人 大阪市教育振興公社に電話しました。庶務課長さんが対応してくれました。事情を説明したところ、状況を確認して追って連絡する(週明けになるかも)とのことでした。

大阪市教育振興公社より連絡ありました。阿倍野会衆は2007年と2010年にも利用実績があるとのこと。 

「申請書に利用内容を何と書いているのか確認してほしい。また申請者に『あなたたちがやろうとしているのは宗教活動なのか』と確認してほしい」と伝えました。

「地域住民はビラを受け取り、センターで宗教行事が行われることを知っている。このままでは。市が公共施設での宗教行事を認めているとみなされかねない。それは市にとっても問題だし、規則を無視しているエホバの証人にとっても問題なはずだ」と伝えました。

[使用申込書]

ある方から阿倍野会衆の「使用申込書」コピーを提供していただきました。

「施設の条例・規則を遵守します」と申し込んでおきながら、内容は宗教行事という、これが「善良な市民」のやることでしょうか。

「使用目的・内容」は「講座・研修」と記載しているのも悪意が感じられます。


祈りがささげられるとき手をつないではいけない

2010年01月11日 01時05分27秒 | 批判的意見
会衆での祈り

前回のブログでほろりさんから、ものみの塔 2009年11月15日号の第一研究記事 6ページ 19節についてコメントがありました。

その節では、集会で祈るときに夫婦が手をつないだり抱き合うことは慎むように、あります。

日本ではあまりこういった光景は見られませんが、僕がアメリカに滞在していたときはホストペアレンツは家の食事前はもちろん、王国会館での祈りでも手をつないでいました。

向こうではそれが当たり前の光景だったので、手をつなぐ理由を聞いたことはありませんが、単なる習慣かもしれないですし、意味があるとしたらお互い夫婦で神に近づこうとか、お互い信仰を深めようとか、そういう気持ちの表れだと思います。

それを「エホバに対する恭しい気持ちを抱くよりも,自分たちのロマンチックな関係に心を向けている」とか「集中できない」「当惑する」「つまずく」などと感じるとしたら、それはひがみか心が貧しいのでしょう。
愛の神に愛を持って近づいて何が悪いのでしょうか。

そもそも祈りの時は目を閉じるものです。
そういうことでつまずくのなら早めに目を閉じたり、一番前の席に座るべきではないでしょうか。(協会は一番前の席から座るよう勧めている)

ある人は、もしかしたら生活上の問題で悩んでおり、祈りの間に夫の支えが必要かもしれません。

こうした些細な習慣を「慎むべき」といちいち研究記事にするのはどうかと思います。

親がエホバの証人になったら

2009年10月27日 01時42分13秒 | 批判的意見
以前、「学校とエホバの証人」のブロシュアーについて、そしてその記事の補足を載せましたが、先日受け取った「ものみの塔」誌 2010年1月15日号 15ページの写真を見て、また子供の頃の嫌な思い出を思い出してしまいました。

なら雑誌を見なきゃいいのに、ネタ探しでつい見ちゃうんですよね。

親がエホバの証人になってしまうと、子供もエホバの証人のマニュアルに沿った生活を強いられることになります。

親の言うことを聞けば「永遠のパラダイスが待っている」、反抗すれば「ハルマゲドンで滅ぼされる」と幼い頃から強烈にマインドコントロールされ、子供は学校でも親の教えられたとおりに行動する必要があるわけです。

例えば、エホバの証人は校歌を歌うことが学校崇拝になると考えているので歌いません。

「僕は聖書を勉強していて、校歌を歌うのはエホバ神ではなく学校を崇拝していることになるので歌えません」のように先生に「証言」しなければならないわけです。

それを「自分の意志で(決定で)やっている」と言われても、先生は気づいていますよね。親にやらされてるって。

その他にも
・国歌斉唱
・運動会での応援合戦や騎馬戦
・柔道や剣道などの授業
をしてはならないなど、様々な「中立の問題」に直面することになります。

それ以外にもこの画像にあるように、年中 何かしら禁止されている行事に直面していました。
学校とエホバの証人

自分もこのような環境で育ったわけですので、学校は楽しかったことがある反面、このような つらい面を思い出してしまいます。

今考えると、「このような行動を神が喜んでいる」とは心から思ったことはないですね。ただ耐えてただけで、時が過ぎて欲しいと感じていました。

集会に参加している子供たち、特に研究し始めた母親の子供を見るたびに、これらの子供も犠牲になってしまうのか、と複雑な気分になります。

以前、K兄弟と話したとき、「親が信じるのは勝手だけど子供に強要するのは許せない」と言っていました。

僕もそのように感じており、同じ思いをして欲しくないと思うのですが、自分では何もできないのがもどかしいと思っています。

忠実で思慮深い奴隷級バンザーイ!

2008年12月18日 01時01分47秒 | 批判的意見
寝る前にベッドで横になりながら「この世の」雑誌や本を読んだりすることが多いのですが、「たまには ものみの塔でも読んでやるか」と思い最新号の信者向け雑誌 2009年2月15日号を斜め読みしてみました。

24ページからの第4研究記事「彼らは『子羊に従って行く』」(4月27日~5月3日)は、「よくもまぁこんなに自画自賛できるなぁ」と感心してしまいました。

エホバやイエスがどれほど奴隷級を信頼しているか、私たちが奴隷級を信頼すべき理由やそれをどのように態度で示せるか、などと5ページにわたって力説しています。

音声で聞く
記事を見てみる 24ページ / 25ページ / 26ページ / 27ページ / 28ページ

「忠実で思慮深い奴隷級に従え」というような内容は度々出てきますが、こんなに大々的に特集を組むほど、権力を誇示したいのですかね。

これほど役に立たない記事も珍しいかと思います。

宗教の勧誘お断り

2008年11月18日 11時54分04秒 | 批判的意見
エホバの証人が野外奉仕活動で家を訪問するとき、戸口に「宗教の勧誘お断り」と書いてあっても、大概はそのままチャイムを鳴らします。

「世界的に読まれている雑誌を皆さんに読んでいただくため」とか「聖書を知っていただくため」などの理由で、「勧誘ではない」ということだそうです。

でも、そのような訪問で関心を示した人は再訪問し、研究を取り決める、そしてエホバの証人の一員になってもらう、というのが目的でしょ。

それを「宗教の勧誘」と言わないんでしょうかね?

家の人の考えを尊重せず何度も訪問することは「粘り強さの表れ」でしょうか。
何度もしつこく訪問することで、エホバの証人自体の評判を傷つけていないでしょうか。

「最近は家の人の反応が早い」とよく聞きますが、すべてサタンのせいでしょうか。
なお、「反応が早い」とは「すぐに断られる」という意味で、よくエホ証同士の会話で使われます。

エホバの義の基準は変わることがない

2008年08月19日 21時44分37秒 | 批判的意見
先日、公開講演で話されたこと。

「エホバの義の基準は変わることがない。世の中の基準はどんどん下がっている。数年前まで同性愛が非とされていたが、今ではごく当たり前の生き方となっている」

確かに、エホバの基準は昔から変わっていません。

でも、エホバが唯一導いておられる、と自称するエホバの証人はどうでしょうか。

80年代は子どもが何かするたびにムチで打たれましたが、現在はそれほど厳しい親はほとんど見かけません。
神権宣教学校、伝道者、バプテスマになろうとするとき、以前は模範的かどうか厳しくチェックされ、場合によっては保留されることもありましたが、現在はそれほど厳しくありません。
正規開拓者の要求時間も90時間から70時間に減り、補助開拓者は60時間から50時間に減っています。
『その日が近づいているのを見てますます集まり合わなければならない』(ヘブライ 10:25)はずなのに、集会が2009年から2回に減ります。

時代の変化に左右され、統治体の判断で教義・取り決めがころころと変わる…
そんな組織が本当に神によって導かれているのでしょうか。

開拓奉仕学校に弁当の提供は必要?

2008年07月13日 21時39分27秒 | 批判的意見
友達の開拓者が開拓奉仕学校に招待されたので、仕事を休んで参加するそうです。

開拓奉仕学校とは、巡回監督による開拓者向けの特別プログラムのことです。
2週間で10日間(5日間×2週)通う必要があります。
全国すべての学校でそうなのか分かりませんが、昼食は近隣の会衆から提供されます。


で、いつも思うんですが昼食の援助は必要ですかね?

物がない時代でもないですし、昼食を買おうと思えば歩いていける距離にコンビニもあります。

いつも食べている昼食が用意できないほど貧乏なのですか?
それとも弁当を用意する・買う暇もないほど忙しい学校なのですか?

「簡素化」でこういう取り決めもなくしたらどうなのでしょうか。


うちの群れは人数で頭割りし、強制徴収されそうなので愚痴ってみました。
別に数百円が惜しいわけではなく、そういうのを当たり前だと思っている開拓者が嫌なのです。


(注) 画像はイメージです。

偽りの宗教の終わりは近い!

2008年06月03日 13時33分23秒 | 批判的意見
インターネットで調べ物をしていたら、2006年の「王国ニュース」について書かれていたブログを発見したので、ここでも紹介します。

第37号「王国ニュース」の主題は「偽りの宗教の終わりは近い!」で、2006年10月16日~11月12日に配布されました。(ウェブ版はオフィシャルサイトで閲覧できます。)

そのキャンペーンについては、2007年9月号の「王国宣教」でこのように報告されています。

わたしたちは,昨奉仕年度,幾つものキャンペーンを楽しみました。「偽りの宗教の終わりは近い!」と題する「王国ニュース」第37号を用いた特別な活動では,偽りの宗教や真の宗教についての説明に心を動かされ,聖書研究を行なうようになった人に関する非常に多くの報告が支部に寄せられました。「王国ニュース」第37号は,日本全体の約4世帯につき1部の割合に当たる,1,198万5,271部が配布されました。

僕もこのニュースを配布したのですが、「なんでこんな気味の悪いビラを配らなくてはいけないのだろう」と思ってました。
周りの人間は「統治体は、何か考えがあってそうしているに違いない」みたいなことを言ってました。


「自分の教義の説明をするよりも先に、他の宗教をディスることを優先するのがすごい。」(ディス=dis=軽蔑する;非難する)

とブログで書いてありますが、まさにその通りですね。
現在「書籍研究」で使っている「啓示の書」もそうですが、自分たちに不都合な過去はそっちのけで、国連や他の宗教を批判しているんですよね。

エホバの証人が真の宗教なら、「終わりの日」にエホバ神が偽りの宗教を滅ぼしてくれますから、すべてを委ねればいいのです。
私たちは平和を求めているのであって、復讐はエホバのものだからです。
ローマ 12:17‐21 などを参照してください。)
過度に他の宗教を批判する必要はありません。


ところで、このビラの「真の宗教を見分ける方法」が興味深いですね。

真の宗教は……

■ 神の言葉を信じます: 「伝統」や「人間の命令を教理として」教えるのではなく,真の宗教の教理は神の言葉 聖書に基づいています。(マタイ 15:6‐9)なぜでしょうか。「聖書全体は神の霊感を受けたもので,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益」だからです。―テモテ第二 3:16

「伝統」や「人間の命令を教理として」教える宗教は「真の宗教」ではありません。

そのような宗教には注意する必要がありますね。

エホバの証人と大学教育

2008年05月31日 22時38分11秒 | 批判的意見
統治体は高等教育(主に大学教育)に消極的かつ批判的です。

ものみの塔 2008年4月15日号の第一研究記事『「無価値なもの」を退けなさい』4ページ 10節を引用します。

10 では,大学で受ける高等教育についてはどうでしょうか。大学教育は成功に欠かせない,というのが一般的な見方です。しかし,そのような教育を追い求める人は,多くの場合,有害な思想を教え込まれることになります。そのような教育を受けるなら,エホバへの奉仕に費やすことによって最善の益が得られるはずの青年時代を浪費することになります。(伝 12:1)高等教育が一般化している国で,神への信仰がかつてなく弱まっているのも不思議ではないでしょう。クリスチャンは,生活の安定を求めてこの世の高度な教育制度に頼るのではなく,エホバに依り頼みます。-箴 3:5

大学に進学することで「有害な思想を教え込まれ」、「青年時代を浪費」することになるそうです。

このような記事を載せることで、これから大学を受けようと考えている人や現在大学生活を送っている人はどう思うでしょうか。
(今回の研究記事に限らず、大会などで何度も強調されています)

本人が目的を持って大学を選ぶなら、尊重すべきではないでしょうか。
大学教育を選ぶ人が神に依り頼んでいないかのような、大学が諸悪の根源のように一方的に決めつけるのはいかがなものでしょう。

そもそも、高等教育が一般化することと神への信仰が弱まることは、本当に関連があるのでしょうか。