白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

影絵の世界 2

2006-07-09 | 哲学・評論的に、思うこと
感覚と思想が矛盾無く調和していることにこしたことはなく、
両者の弁証的、対立的な関係のどこかに一致点を持ち、
それが歴史の発展の力になっていることが望ましい。
しかし、われわれの時代の宿命的な不幸は、それら両者に
調和も統一もない、感覚と思想の分裂のみが存在することだ、と
唐木順三は述べた。





唐木の言葉を引こう。





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『近代という時代は、300年の歴史を持つ科学的世界観、
 すなわち力学や幾何学の方法をモデルとして構築された
 機械的な世界観のもとにあるといってよい。
 芸術や文学は、科学的なこの思想の下僕となり、あるいは
 それに反抗し、脱出も試みられた。
 しかし、科学的世界観はそれによって傷ひとつ負わなかった。
 ドストエフスキーの主人公は壁に頭を打ち付けてそれを
 壊そうとするが、傷つくのは自分の頭だった。
 科学的世界観は宗教の抵抗をも排除して、実証主義、無神論、
 唯物論というイデオロギーを生んだ。
 また、精神分析の名の下に、ドストエフスキーを癲癇者とし、
 ニーチェを梅毒とし、キェルケゴールをうつ病として、
 例外者として扱ったのだ』





たしかに近代の歴史において、たとえば精神を病んだものは
生まれながらにして罰を受けている、とされてきた。
それはしかし宗教的要請と、科学的世界観の結託による
狂人の疎外であったことは、フーコーが述べている。
唐木の文章を援用しつつ、こうした世界観の発展を
デカルトの敷いた道筋に従ってみていこう。
「芸術」の無縁墓の、延々と続く小道を。





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デカルトはその省察において、ものごとに向かい合った我々が
そのものごとの色、音、温度といった感覚から得られる要素を
棄てて、
その3次元空間における位置、かたち、運動のしかたの差異を
計測することにより、客観的な数値や記号を用いて「真」なる
認識を得る、という、合理的で科学的な要素を重視した。
こうした実証に基づいて客観的な真理を積算することにより
世界の「真」の姿が浮かび上がってくることを述べ、
その至上の形態として、神の存在を証明した。
感覚は、主観的な要素が強いものとして、実証されたデータより
下位に置かれることとなり、
必然、人間の感覚や情念に訴えかけることによって世界の説明を
試みてきた文学や芸術の位置は、引き下げられることになる。





また、実証の過程において、それが非合理的で偶発的で実証が
不可能であるものは、欺瞞として排除されていった。
理性の優位は、夢、空想、妄想といったものを迷妄として、
あるいは罪として既定していく。
懐疑することのできる理性を有するものこそが人間である、
というデカルト的人間観が、
精神病者という、その人格の特質として、妄想や空想の世界に
生きているものを「理性の欠落したもの=間」として扱い、
それが余程の芸術的才能でも発露しない限り、徹底して排除し、
迫害をしてきたことは事実である。





確かに、癲癇質の修道女が信託を伝えるものとして崇拝され、
聖女となった、という事例も西欧には稀に見られること、
障害者は古今東西、差別され社会的に抹殺され続けながら、
一部は崇拝の対象であったこと(七福神等)も顧慮されねば
ならないのだろうが、
そういった事例が、デカルト的世界観を根幹から揺さぶったことは
一度も無い。



  

もっとも、唐木によれば、既に1715年、ウィレイという
イギリスの詩論家が、ある友人の詩人の言葉として

「デカルトは詩の息の根を止めてしまった」

という記述を残している。
また、18世紀イタリアの哲学者ヴィーコは、

「想像は知性よりも先であり、情熱は反省よりも先であり、
 美は真よりも先であり、形式よりも詩が先である」
 
と述べ、デカルトを批判した。





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このデカルトとヴィーコの対立の解消の可能性、
連合の可能性を、カントは「判断力批判」において問うている。





カントは合法則性を最上規範とする自然科学の世界と
自由を最上理念とする自律的道徳の世界を区別し、
理性のはたらきが、自然科学の世界の中に自由の実現の
可能性を見出すことにより、

(画家の理性が、自然科学の世界を描いた作品を生み、
 それが鑑賞者の内なる自由を触発することがあるように)

逆に言えば、普遍的で合目的性に満ちた自然科学の世界が、
理性に何かしらの内面的自由のあり方を揺さぶるような作用を
及ぼしうるという限りにおいて、
自然は、その色彩や質感により自らを特殊なものとして
理性の前に立ち現れ、
その合目的性が、われわれの判断力によって拾い上げられると
述べた。





カントにとって美とは、われわれの感情に喜びを与えると同時に
われわれの認識のあり方の合目的性を保障するものであり、
対象と主観が結びつく場面において、その適応の度合いを
確かめる能力が、想像力であるという。
そして、芸術を生み出せるものは、その天衣無縫で自由な
態度を保持しつつ、合目的性を実現した作品を生み出せる
ひとにぎりの天才に集約されるという。
天才は、それが生み出す作品の訴求力において、言語も文化も
超越したレベル、いわば人間の「共通感覚」の次元において
作用をもたらすことができる稀有な存在である・・・・





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思索の歴史は、カントにおいて芸術を浪漫性に委ね、
その存立を、他者の協賛に賭けた。
しかし、尊いものを仰ぎ見て、それを礼拝する、という
意味において、一握りの人間にしか許されぬ創造は、
鑑賞者の芸術への参加を実際には拒絶するものでありはしないか。
天才を、われわれの文明の、あるいは自然の財産とみるか、
あるいは、「われわれとは違うもの」として賛美する姿勢で見るか。
その賛美的な姿勢も、ある日突如、「われわれとは違う」という理由で
排撃されることになるやもしれぬではないか。





今だって、天才が精神を病めば、彼は狂人でありはしないか。





デカルト的方法によって排撃された芸術を、その理論を援用して
復権し、人間の知と営為の可能性の拡張に資すること、
それは人類の可能性とその存立のための賛歌でありながら、
ひとにぎりの人間の特殊性、神秘性の称揚に資される危険を
孕んでいた。
ヘーゲルのように、黒人を「生まれつきの奴隷」と呼ぶ人間が
弁証法という理論で以って、絶対者の前に遍くひれ伏すべし、
という哲学を生み出すことに、カントは実によく役立つ。





正気と狂気が対立するのなら、
天才と凡人が対立するのなら、
そこからは何が止揚されるのであろうか。
個人や人権という概念とて、
それが付与されるべき対象があらかじめ予定されていたのに。
そうして選ばれた、人間ではないものとされたものの累々たる
屍の上に立ち上がる、あのドラクロワの自由の女神のような
特権としての人権を持つ個人たちは、
神の名の下に人類という類概念へと回収されて、とうとう
彼らも、人間であることから外れてしまう。





そもそもわれわれは天才を前にして、絵画を前にしても
阻害されていたのではないか。
科学的世界観が、人間の営為から自らを阻害させていたのではないか。
ドストエフスキーやニーチェら実存主義者がこのことに
気付き、自らのよすがとしての文学や芸術を以って抵抗したときには、
既に産業革命は達成され、都市は膨張してしまっていて、
彼らが頼るべき人間はあまりに多忙で、彼らの声は都市のノイズや
工場の作業音、機関の駆動音にかき消されてしまっていた。





そしてその天才すら、世界の多忙な生活に阻害されていたことが
鑑賞者に知られることとなった頃には、
天才はすでに、周囲の無理解や、科学的世界観に対する自らの
感性の敗北によって、多くが狂気の中に死んでいたのである。






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