白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

君は僕を忘れるから

2007-05-27 | 日常、思うこと
「僕らは離ればなれ たまに会っても話題がない
 いっしょにいたいけれど とにかく時間がたりない
 人がいないとこに行こう 休みがとれたら
 いつの間にか僕らも 若いつもりが年をとった
 暗い話にばかり やたらくわしくなったもんだ
 それぞれ二人忙しく汗かいて

 すばらしい日々だ 力あふれ すべてを捨てて僕は生きてる
 君は僕を忘れるから その頃にはすぐに君に会いに行ける

 なつかしい歌も笑い顔も すべてを捨てて僕は生きてる
 それでも君を思い出せば そんな時は何もせずに眠る眠る
 朝も夜も歌いながら 時々はぼんやり考える
 君は僕を忘れるから そうすればもうすぐに君に会いに行ける」


           (『すばらしい日々』 奥田民生)




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死にかけて一ヶ月ほどたった2003年の秋頃だろうか、
休職をいいことに、社員寮で毎夜のごとく酒浸りとなる
生活を送っていた頃、午前3時を過ぎると
よくNHKの深夜映像を眺め観ていた。
東京下町、早稲田近辺を包む暖色のふわりとした柔らかな
麦色の陽射しの景色に重ねられていたのが、
矢野顕子の歌う「すばらしい日々」だった。




大学時代、Yに呼び出されて箕面市牧落のTAROコーヒーで
ケーキとキリマンジャロとピースミディアムを喫して
数時間を過ごした後、
阪急箕面線沿いにではなく、いったん桜ヶ丘へと上って
豪壮な家屋敷並ぶ界隈を、5月の鮮やかな碧青の空の下に
阪急桜井駅まで居並んで歩いた。
紅葉橋の下にさざめく水音と道へせり出した木々の枝越しに
道を揺する木漏れ日の中を、
いつか溶けてしまう大切な氷を、大切にしようとして思わず
抱きしめてしまうような愚かしい切ないこころで歩いていた。





3年半前、矢野顕子の歌は、その気持ちを見透かすように
夜半の僕を風に巻いた。
Yのために砕いた心や消費したエネルギーばかりでなく、
Yに2度と会うことがないだろうことを納得させてくれた。
Yは今も相変わらず元気に過ごしているようだ。





この曲の入ったCDは人にあげてしまって、
この2年ほどは聴く機会も無かった。
金曜、勤めからの帰途、ブックオフに立ち寄って
この音盤をみつけ、購った。
大学4年の頃、毎晩のように酒を酌み交わしながら
他愛も無い、けれど確実に刻印された会話が
繰り返されていた箕面市瀬川のデザイナーズマンションに
絶えず流れていた、MONDO GROSSO feat. birdのLIFEと
合わせて、2200円ほどを耳に注ぐ。
今も、この曲を聴いて浮かぶ景色は、箕面の山の手の
きらきらとした坂道で、変わらない。





矢野顕子は飄々と、しかし諦観を湛えながらも現状を受忍する
ユニコーンの原曲を丁寧になぞり、
一通り歌い上げたあと、Gm,Cm,F7,B♭,E♭,Cm,D7 という
コードを情念を込めて弾き進め、
「君は僕を忘れるから」というフレーズを繰り返す。
奥田民生がちょうど僕の今の年齢の頃に書いたこの曲は、
いまは僕に近しすぎる。





「僕らは離ればなれ たまに会っても話題がない
 いっしょにいたいけれど とにかく時間がたりない
 人がいないとこに行こう 休みがとれたら
 いつの間にか僕らも 若いつもりが年をとった
 暗い話にばかり やたらくわしくなったもんだ
 それぞれ二人忙しく汗かいて

 すばらしい日々だ 力あふれ すべてを捨てて僕は生きてる
 君は僕を忘れるから その頃にはすぐに君に会いに行ける

 なつかしい歌も笑い顔も すべてを捨てて僕は生きてる
 それでも君を思い出せば そんな時は何もせずに眠る眠る
 朝も夜も歌いながら 時々はぼんやり考える
 君は僕を忘れるから そうすればもうすぐに君に会いに行ける」





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土曜、矢野顕子、レニー・トリスターノを寝ころんで聴き、
キース・ジャレットの「ラ・スカラ」を泳ぎ、
ピアノの前に座って、I LOVE YOU PORGYを試みた。
弾けた。





次の音のための音。
誰のためでもない。愛するものや憎らしいもの、聴衆も家族も
自分も無い、ただ、次の音のための音が弾けた。
アブサンを呷り、力尽きて眠る。





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日曜、昼食を家族分作って振舞った後、
父方の祖父の命日を前に墓参に出かけた。
父方の祖母の死に際して、本家を継いでいる叔父と
僕の家は絶縁状態に陥ったので、僕は本家の墓参りを
したことが無かった。
渋い顔を浮かべる父親を説き伏せて、中途の道で
花を購い、菩提寺を訪れた。




父方の祖母は晩年耄碌の兆しが見えた。
最後に会ったのは死の年の正月だった。
座敷に居並ぶ親戚一同の真ん中にかしこまって座る
祖母の目は、僕を険悪な光で射抜いた。

「この子はどこの子や」

祖母の娘である叔母たちは、僕の父の名を出して、
ほら、あの子の息子やないの、しゃあないなあ、
と、笑ってその場を取り繕おうとした。
祖母は続けた。

「ちっともにとらへん」

そう言って、祖母は僕から顔をそむけた。
その場所には僕の母も居合わせていた。
その一件があってから、僕はいくら祖母が痴呆を
発症していたから、と父に説得されても、
今もなお、僕は死んだ祖母をどうしても許せずにいる。




しかし、祖母は本家の家族には冷遇されていたという。
風呂場で倒れて硬膜下出血となり意識不明となっても
本家は救急車すら呼ぶことが無かった。
搬送された病院の医師から、祖母が栄養失調であることを
僕の父は告げられた。
父はその足で本家に向かい、祖母の死を以って絶縁することを
通告した。





今も父は本家を許せずにいる。
僕も本家を許せないが、死んだ祖母をも許せずにいる。
そうした複雑な思いはあれ、墓参をしないというのも何となく
後ろめたさがあった。
寺を訪れてみれば案の定、本家は墓守を放棄していて
墓の周りは雑草が伸び、供花も枯れて朽ちていた。
父とともに雑草を刈り、水と束子で清め、花を生け、合掌した。





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菩提寺を後に、近くの明神に詣でることにした。
縦長の集落に平行する形で鉄道が走っている。
菩提寺の真南に位置する明神へは、街道よりも
線路を歩いたほうが近い。
還暦を迎えた白髪初老の父と居並んで線路を歩く。
スタンドバイミーごっこやろうや、と、
2001年に大阪城JAZZフェスティバルの帰途、
深夜、ベーシストと一緒に阪急石橋から箕面線を
居並んで歩いた記憶が蘇った。





一面の麦の穂が風になびき、黄砂を切り裂いて
燕が飛び去った。





帰途、本家の前を過ぎようとして、
荒れるがままに手入れのされていない屋敷を見て
二人して苛立って帰った。





もう会うことも無い人々。
会わずに過ぎたい人々のための歌は無い。
けれど、会いたい人のための歌もまた無い。
どうでもいい、と口にはしながら、
どうでもよくないがために、口にした言葉に裏切られる。




歩き疲れて寝ころんでみたが眠れないのです、と呟いて
いつのまにか酔いどれて眠るのです。





君は僕を忘れるから、か。

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