白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

White Eye, White Night, White Pain

2007-01-10 | 日常、思うこと
ここのところ、心身の調子がすぐれない。
昨年末から軽度の睡眠障害に陥ったようで、
午後11時に床につくと、決まって午前2時過ぎに
目を覚ましてしまい、明け方まで眠れない日々が
続いている。
おかげで、勤務における単純な書類作成と処理の反復が
揺り籠のように作用して、時折ふ、と意識が飛びかけて
大いに焦ることがある。
そのせいか、帰宅して着替えるとそのまま床にへたり込み
しばらく動けなくなってしまうほどに体が重くだるい。
30分ほど横になると大抵は回復するのだが、
昨日などは帰宅後全く動けなくなってしまい、すぐに眠り、
食事をとっては横に、入浴しては横になり、結局は夜半に
目を覚ましてしまってそのまま明け方を迎えるという、
何ともつらい時間の過ごし方をした。




眠れぬと言うのは、非常につらいものである。
これまで小学校と高校の頃に2度ほど不眠に陥ったことが
あるために、そのつらさはよくわかっているのだが、
焦燥と不安が余計に日頃の煩悶や不快を呼び返して、
あるいは封じていた恥辱のようなものまでも上映するから
たまらない。
そうしたときには、気を紛らそうとして手にとる書物も
決まって悪い。
漱石の夢十夜、柳田の遠野など、ふと首筋に生温さを感じ
あるいは耳元に触れるもの、背後にぼんやり浮かぶものの
ぞくりとするような影を感じてしまうものばかり手に取る。
おかげで心臓は影に怯えて激しく打ち、どうにも体に悪い。




それでは音楽を耳に注ごうとすると、もはや音楽を「音を
楽しむ」などというアングロサクソンの好みそうな翻訳が
耳にも脳髄にも皮膚にも出来なくなってしまった僕には、
音を追い、分析し、反芻し、遡上して構造化してしまう
プロセスが身に染み付いてしまっていて、
過剰な反応を示してしまうため、ちっとも子守唄にならない。
癒しの音などそこにはなく、メディアと身体の触る場所の
齟齬が、まるで電車の連結部のようにがたりぎしりと響いて
いっそうの覚醒的な疲労を強いる。




おかげで、休日に昼まで眠ることだけではどうにも体が
持たず、結局は休日午後も床の中でぐずぐずと過ごして、
何とも勿体無く日送りしてしまうことが多くなってきた。
加えて、原因のわからぬ微熱やら、肩や胸やの痛みやら、
肩こり、頭痛、腰痛、胃痛と、全身が痛んで仕方がない。
今日など、仕事中にいきなり酷い鼻血を出してしまい
Yシャツが血染めになってしまった。
高校時代、誰とも話をせず軽い失語症に陥った時期に
あって以来の人前での鼻血で、少々参った。
割りに早く治まったので安心したのだが、たまらないのは
周囲である。
眼の前で突然鼻血を出されたら、白血病か変態の妄想を
疑うことしか出来ないのが一般のひとびとの解釈だから、
その両方でもないことを説くのに少しく苦労した。




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こうしたこともあり、少しばかり気休めを、と思って
始めたのが、メジロの餌付けである。
手のひらに軽く乗っかってしまうほどの小さな姿態に
抹茶をふんわりとまぶしかけたかのような緑がかった背、
暗褐色の羽、目の周りの白い輪、その愛くるしい調和が
小刻みに周囲を見回して、一心に山茶花の蜜を吸い、
ちい、ちい、と高く鳴いて相手を呼び、
互いに鳴き交わしながら、我が家の庭の松、椿、南天、
木蓮、紅葉を次々に飛び移るさまは実にぼくをこころ
軽やかにし、またそっと躍らせる。




メジロを飼うことは鳥獣保護法によって禁止されている。
よって、その姿をいずこかに留めるには、餌付けをするしか
ない、ということになる。
みかんを横に2つに切って、ちょうど空から陰となる場所、
常緑の葉に深く翳された木蓮や椿の枝分かれに据えておくと、
どこからかメジロがそれをみつけて、朝の7時から日没まで、
飛んできては啄ばみ、飛び去ってはまたやってきて啄ばみ、
ということを繰り返している。




この切り分けられた丁寧なみかんを狙うのはメジロだけではない。
ヒヨドリのややしゃがれて劈くような声が響き、モノクロームの
シジュウカラの姿が見える度、メジロは飛び去ってしまう。
しかし、しばらくすると、何事もなかったかのように戻ってくる。
どうやら、ヒヨドリやシジュウカラにわが身をわざと追わせて、
それを撒いてから、安心して餌にありついているようなのだ。
小賢しく、したたかな鳥である。




氷点下の寒さの中、春告げ鳥としてメジロの姿をみると、
季節は、必ずしも一色に世界を塗り込めるわけではないことに
気付く。
メジロの仄かな暖色が冷徹な空気に映える冬の朝、太陽の光は、
年中を通して最も鮮烈な輝きを放つ。
複数の鼓動が刻む複数の時間の偶然に重なり合うときには
途方もない生のエネルギーが放たれるのではないかと思われる。
衝突による対創生という、二極による生命のダイナミズムより
もっとあいまいな形で自立的にそれ自身の力で生まれ行く、
より穏やかなダイナミズムを、こうしたものをまなざすときに
感じるのだ。




一切の迷いも、一切の無駄もなく見えるメジロの所作を見る
われわれに、それとの対立項を見出すのはたやすい。
生命に強弱はあれ、貴賎はない。
人間とはかくも無駄で、かくも迷う生命なのだから、
無駄を謳歌し、迷いの中に生き切ればそれでいいではないか。
なぜ、自らの首をしめる。
自らの行いを律するのが倫理である。
しかしそれは道徳ではあれ、定法ではない。
首をしめれば、人間として永眠してしまうではないか。
眠るのは、生命だけでいい。




メジロは既に、どこか人知れず眠っている。
自らの首をしめる手など持たず、
飛ぶことだけを許された羽を休めている。

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