白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

Ensembles

2011-01-16 | 日常、思うこと
1月14日午後1時00分上野発特急スーパーひたちは
午後0時57分の車掌アナウンスを以って
午後2時30分まで上野駅に留め置かれることになった。
常磐線、江戸川橋梁から松戸方向にすぐの資材置き場で
火災が発生したため、運転が見合わされたのである。
昼のスーパーひたちは思いの外に乗客が多い。
そこに、後続の特急に乗る予定だったと思しき人びとが
乗り込んできた。
車内はまるで帰省ラッシュの新幹線のような様相を呈した。





気忙しい乗客たちも、最初こそ黙っておとなしくしていたが、
30分ほど過ぎると徐々に苛立ちを隠せなくなりはじめた。
車掌が、運行再開時刻を13時45分と説明していたから、
それを14時15分に変更するという放送が行われた途端、
エゴイスティックなひとりごとと会話と振舞いが顕れた。
苛立ちは欠伸よりも早く伝染する。
昨夏の洋行の折、カールスルーエ~シュトゥットガルト間の
トンネル内で、1時間ほど車両故障のために留め置かれたが、
この時よりもひとが多いせいで、こちらもずいぶん疲れた。
途中、息が苦しくなって、3度ほどホームへ出た。
車内に缶詰めにされなかっただけでも、不幸中の幸いだろう。





結局、水戸に到着したのは15時45分だった。
仕事先には事情を説明してあったのだが、肝心の余暇活動は
半分あきらめた気持ちでいた。
それでも何とか、17時過ぎには、閉館間際の水戸芸術館へ
駆け込むことが出来た。
大友良英アンサンブルズ2010~共振、という、
即興演奏を物したことのある身にとって、避けては通れない
名前を冠したインスタレーションが、今日まで催されていた。





***************************





大友良英が大きな影響を受けたのは高柳正行というギタリスト、
実験者であって、僕自身もレニー・トリスターノの理論研究から
高柳の音楽を知り、一時期は随分、彼の音源に深入りした。
大学の卒業にあたって、彼に触れた思考を書いたほどである。
いま読み返すと、あまりに稚拙な思いつきの書付であるので
ここに引くことはしない。
それでも、僕が即興を試みるとき、ずっと頭をかきむしったり
あちこち怪我をしてきた理由であるところのテーゼは、
弾くもの(弾くこと)と聞くもの(聞くこと)の関わりや、
その相互浸潤と共振について、可能性をひらくことである。
自分が聴きたい音を弾く、という考えを先鋭化してきたのにも
理由があってのことだ。いくつもの言葉を発してきた。


「音楽の場所は、音楽の、一歩手前にある。
 みんな、それを踏み越してしまうだけだ。」

これは、ブログを読みなおして見つけた、5年前の言葉で、
そうあながち間違っているとは思わない。
次のように、女性の独白を装ってはいるものの、
嗜好・思考のこととも、音のこととも、男女のこととも
なるべく判らぬようにして、
身と心が火照り焦がれるようなようなかかわりの可能性を
メタフィクショナルなものに事づけることもできる。


「もし わたくしの隙間にすっかり浸みてしまった水が
 ひとたび凍ってしまおうものならば
 わたくしが凍えてひと震えでもしようときには 
 水はきっと熱して軋んで 
 凍てたわたくしを内側から断ち割ってしまうことでしょう」


「もし わたくしが水風船のように生まれていたならば
 月のようにうまいこと 
 わたくしだけで満ちていられたやもしれませぬ
 口惜しければ わたくしだけでも欠けられた
 この肌からはみ出してさえいられたやもしれぬと思うと
 もう馬鹿らしくってたまらなくもなります」


「御着物をぴったり合わせたり押し込んだりに忙しくって
 肌のところまで貌を膨らませておくのもおっくうで
 なんだかあんまり苦しくって
 でも ひとたびはみ出してしまったら
 風に当たっただけなのに擦り剥き傷やら引っ掻き傷やら
 手当てにまた忙しくなってしまいましょう
 替えの包帯や絆創膏が幾つあっても足りやしないですもの
 買えばいいっていったって限りもありましょうし
 けれど ちいさな傷の微かな痛みっていうものが
 どうにもここちよくって 愛おしい時だってございます」


「わたくしには 日々いかに心地よく在り
 また 刻々移ろう景色を美しくしていくということのほかに
 試みることはなにひとつございませぬ
 暮らしを愛でる暮らしとでもいいましょうか
 ひとたびどこかにちいさな美しさを見出そうものならば
 わたくしはそのちいさな美しさに満ちます
 否、そのちいさな美しさにこの身の丈を合わせるのです
 うつくしき御方を眺めるだけでもわたくしの胸はいっぱいに
 肋骨のあたりで擦れて焦がれて燻ぶります」


「たとえば緋色の友禅が川に濯がれ揺らめいているところへと
 燃え焦がれて降り落ちる黄金の落陽の粉を眼に入れましょう
 その煌めき その眩さに思わず眼を覆いますときに
 わたくしがなによりも愛おしむのは 
 友禅でも落陽でもない
 このわたくしの目蓋に残る じりじりとしてなかなか消えぬ
 紅に爛れた熱の影 そのものでございます」


「わたくしなど さぞ焦げた写真のにおいに過ぎぬものと覚ゆる
 それがほんとうの有体でしたらばそれに殉じてしまいましょう
 それとてもしや本望かもしれませぬ
 眠たいのでしたら眠たいわたくしが
 紅さすわたくしでしたら紅さすわたくしが
 訳なく逆剥けるわたくしでしたら訳なく逆剥けるわたくしが
 疼くのでしたら疼くわたくしがきっと真実でございますから
 お気になさらずに」





今日は音のこととして試しに読んでおこう。





*****************************





大友良英の「アンサンブルズ」の試みは2008年に始まる。
これは、その際の記録映像である。

"without records" - YCAM Otomo Yoshihide / ENSEMBLES


今回のインスタレーションは、音楽家、建築家、美術家、技術者、
地域住民とが関わりあい、共に創作し、演奏することによって、
人びとのアイデアやエネルギーが「共振」し、街なかにうねりを
つくりだすことをイメージして行われたものだという。
水戸芸術館での展示、パレード演奏、コンサート、ワークショップ、
ラジオ番組、ネット配信などによって構成されている。
僕は今回、展示のみに触れたことになる。





第一室から第五室まで、展示室が50mの真っすぐな軸となって
奥に行くにしたがって暗くなっていく。


第一室
スネアドラム、バスドラム、ターンテーブル、サムルノリ、サロン
プリペアド・ピアノ
第二室
ターンテーブル
第三室
解体されたピアノ、ワイヤーに吊られたピアノ線
第四室
CDプレーヤー、イアホンからの微細音、ターンテーブル
第五室
バスドラム、ラジオ、ターンテーブル、ピアノ、スピーカー


第一室から第五室までの軸の横に、廊下を利用した第六室がある。


第六室
50mのオープンリールテープを再生するデッキ

第七室
カセットテープ、レコード、ギター、アンプ、キーポード、
ラジオ、etc

製造時に音を発する目的で製造されたものもそうでないものも、
一切が配線で接続されており、プログラムによって発音する。
各室から密集した発音があったかと思えば、静寂のまま止まり
あちこちから雨漏りのように、工場の脇を過ぎるように、
その距離と指向性を測定しかねる状況で、音が聞こえる。
どの程度まで、ハプニングが管理されていたのかは不明である。
第五室で大友良英本人が、ピアノの自動再生装置を操作していた。
偶然の観衆はわずか数人ほどであり、甘いモード和音が静かに
プリペアドピアノから響いた。





*****************************





あれが、音楽を、訪れたひとにみつけてもらうしくみとすれば、
当然、聴衆の足音やこえに反応するように、プログラムは
組まれていたのだろうと思いたいのだが、どうだったのだろう。
小さなターンテープルが、レコードに針を当てないで空回りする
いとおしい景色。
ここに置かれたものの多くは、全国から集められたということで、
考えようによっては、持ち主の言霊ならぬ音霊を宿している。
この社会に拡がる音楽の発音体と受容体のネットワークの歴史を
可視化して見せようとする実験的インスタレーションだとすれば、
これを考えた大友良英というひとの凄みに背筋が寒くなる。





音盤に眠る音、脳の奥底に浸みていて、潜んでいて、
ある日突然いたずらのように立ち現われる記憶の音の再生装置、
眠りたいのに、鼻歌されて呼び出される、お気の毒な音たち。
そうした音への慈しみに満ちた、それでいて、その気配を消した
素晴らしいインスタレーションだった。






最新の画像もっと見る

コメントを投稿