白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

口惜しき夢

2008-12-04 | 日常、思うこと
こんな夢を見た。





招かれて、昼下がりの夙川の桜道を歩いていた。
微風に花びらがちらほらと舞っていた。
陽光は殊更静穏で、爽やかである。
こんなに清々しくて気持ちのいい、花盛りの日曜の
夙川であるのに、人影は驚くほどにまばらだった。
浅瀬の流れを走っていく子供らが、
水滴を無数の光の玉に変えているすぐそばで、
川を切れ切れに渡してある飛び石の淵に、
散ってしまった花びらが小舟のように座礁していた。





子供らの遊ぶ姿を、愛しくやわらかな心で眺めて
堤から脇道へと下りて進んだ。
瀟洒な住宅街の一角に、招かれた先の家があった。
ピアノを弾きに来てほしい、という手紙が届いて、
訪ねた先は、愛するひとの家だった。





呼び鈴を押して間もなく、門が開いて、
玄関のところまで彼女が迎えに出ていた。
最後に会ってから3年経って、彼女の顔には
しっかりと、揺るがぬ意志のようなものが宿っていた。
その涼やかな目元には、凛とした意気地の強さが
微笑の中に隠れていて、彼女はいっそう美しくなっていた。





彼女の傍らには、2歳ほどの男の子がいた。
眼に映るものをすべて受け入れるような、純真な眼で、
指をくわえてこちらを見ていた。
色の白い、本当に可愛らしい子で、僕は思わず微笑み
さらさらの栗毛を撫でて、
その眼の高さに背丈を合わせるように、しゃがんでから
あいさつした。
彼女が、まだ、しゃべれないの、と言うよりもはやく、
幼子は彼女の後ろへ半身を隠した。





応接の部屋にピアノがあって、
彼女の義父と思しき初老の男性が待っていた。
ようこそお越しくださいました、という挨拶もそこそこに、
僕はピアノのほうへと誘われた。
それはヤマハのサロンピアノだった。
うちにはピアノを弾くものがいないもので、どうしても
ほったらかしにしてしまって、という紹介のわりには、
実によく調整されていて、状態のよいピアノだった。
彼女が紅茶とマドレーヌを運んできた。
部屋を、温いオレンジの香りが満たした。





久しぶりの再会ならば、普通は互いの近況を話すだろうに、
彼女は自分のことをあまり話そうとはせず、僕の近況へと
すべての言葉の語尾を継いだ。
僕のほうとて、特別に近況に変化があったわけでもない。
何か大きなエポックがあったのならよかったのだろうが、
代り映えのせぬ、交友にさえも事欠くような日々の暮らしの
パネルをいくら並べてみたところで、
話が弾むようなこともない。
昔、彼女と二人きりで話をしていて、何度となく訪れた
不意の沈黙と、ずれの感覚が、いま、ここでさえも現れて、
僕はどうにもたまらなくなった。





今日という日は、彼女なりの、僕に対する気遣いだった。
彼女は、僕が今でも、彼女を愛していることを知っていた。
それゆえに、彼女は自分の現在を、余さず僕に見せることで
彼女から僕が去るように、仕組んだのかもしれなかった。
それならば、はじめから招待などせねばいいのに、と思って、
僕は彼女の招きに、どうしても応じる気がしなかった。
けれど、彼女から2度、3度、同じ招待が届くうちに、
僕自身が、進んできちんと心の整理をして、区切りをつけて、
自分の生に、節目を入れなければならないように思えたから、
今日、ここへとやってきていた。
彼女が自分の近況について話をしようとしないのは、
それを話してしまうことが僕の気持ちを傷つけて、
彼女自身に深く悔いを残すのではないかという、
僕に対するやさしさと、一種の恐れがあるからだろう。
彼女と話しているうちに、
僕は、だんだんいたたまれぬ気持ちになっていった。
来たのはやはり、間違いだったと思えてきた。
たまらなかった。





そうして、何度目かの沈黙が訪れようとしたそのときに、
不意に低く、ピアノの音がした。
振り返ると、幼子が二人掛けのピアノ椅子によじ登って、
鍵盤の少し低いところを、小さな拳で叩いていた。
彼女は僕に、少しあわてるようにして、ピアノを弾いて、
と、言った。
何がいい、と訊ねると、マイ・ファニー・ヴァレンタイン、
好きだったよね、と、返ってきた。
いいよ、と言って、おもむろに鍵盤のほうに向き直って、
僕は傍らの幼子に、見ててみ、と、微笑んでから、
ゆっくり、そっと、指を下ろした。





ビル・エヴァンスの、アンダーカレントのテンポに沿って、
マイ・ファニー・ヴァレンタインを弾き進めた。
幼子が、だあ、だあ、と、言葉になる前の声といっしょに
動かす手が、腰のあたりを何度かかすめた。
弾いているうち、旋律が、いくら指に落としても足りぬほど
後から後から、頭蓋の内側に流れ込んで、止まなくなった。
いつしか、視界が滲んだ。眼が、燃えるようだった。
彼女の名が、もう少しで口をついて出そうになるのを
堪えながら、僕は目の前の鍵盤に、十指の先から音を注いだ。
彼女のほうを、向き直ることはできなかった。
彼女のいるほうの隣の部屋に、彼女の最愛のひとがいることに
僕はずいぶん前から、気づいていた。





*****************************





夢はここで途切れて、深夜3時、覚醒の中に追放された。
風邪がぶり返して、ひどく咳きこんで眼が醒めたらしく、
夢がまるで空転して宙を舞っているかのように思われた。
ウェルテルを生きたような心地がした。





もう一度眠れていたら、夢はどのように続いていただろう。
鍵盤に落とし切れぬ旋律が溢れ零れて、涙に濡れているような
深い愁いを、絶望のうちに感じたろうか。
あるいは、堪らなさ、切なさ、口惜しさ、狂おしさ、無念さが
何か別のかたちで現れるような、恐ろしい事態に至ったろうか。
彼女の元を飛び出して、夙川に身を投げることも出来たろうし
阪急線に轢かれることも出来たろう。
彼女の決然とした意志の裏側に微妙に揺曳するやさしさと恐れの
感情が、いったい僕に何を引き起こしたことだろう。





悲しい夜、しかし、いっさいは夢の中のこと、
幻として、消え去るのみ、





と、
一切の幻燈が滅びた漆黒の闇夜に、ひとりで醒めて残されて、
午前4時を過ぎる頃、僕はひとしきり、思いきり泣いた。





泣き腫らした眼を、家族や職場の誰もが、疲れだと言った。
そうだ、と、答えた目尻に、涙がまだ、残っていた。
夙川の子供らの、散らした光の玉だ、とは、言えなかった。

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