白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

Alternative: Keith Jarrett Solo etc...

2011-05-29 | こころについて、思うこと
5/26

近鉄特急アーバンライナーには、
デラックスシートという1+2列の席がある。
1人掛けの方に腰をおろして、
内田百「阿房列車」を読んでいるうちに
三重ははやくもうしろの遠くへ過ぎた。





青山トンネルの長い闇を過ぎて
伊賀路に入ったところで車窓の外を初めて眺めると、
空から地へと、灰暗の雲が垂れ込めていた。
銅の錆びたような色の新緑が、
瘤のように、
山々の総身を内側から突き伸ばしていた。
雨が長く降り続いているから、さぞかし滲みて痛かろう。
天が、慈しむような顔ばかりしないことくらい、
ほんとうは、忘れられてしまうはずがなかった。





難波から大阪の街へと降り立つのは久しぶりだ。
数年前、難波の駅には阪神電車が乗り入れたが、
「三宮行き特別急行」の発車表示がどうにも不思議で
この眼になかなか馴染んでくれない。





かつて、百先生の降り立った大阪駅は、
先生の酩酊のせいもあって、
「いくらか柔らかいようで、ふにゃ、ふにゃ、していて、
足許のコンクリートがふくれて」いたようだ。
現在の大阪駅は、もともと在った南側の駅ビルを増床し、
新しく北側に高層のビルを建ててある。
2つのビルを掛け渡して10数本のホームを覆う大屋根は、
乗客を目映く射抜くことも、
包んで沁みていくこともあったであろう太陽のひかりを、
均して、ずいぶん退屈にした。





僕の知る大阪は旧阪急百貨店が取り壊されたときに滅した。
よそのまちがさらによそのまちになっていくだけと
言ったら言った先のすぐそこで、口が寂しい。背が寂しい。





西梅田のハービス大阪に在るホテルに荷物を預けてから、
桜橋にほど近い高層ビルを訪ねて、
夕方まで仕事をした。
大阪での昼食には、「インデアンカレー」を
選ぶことが多い。
その夜は、凡そ4年ぶりに日本銀行に務める後輩と会い、
軽い食事をとりながら、書道のことを長く話し込んだら
ずいぶん遅い時間になってしまった。





深夜、3月まで東京で仕事をしていたときに、
席を並べていた同僚の奥様の、死、という連絡を受けた。
ことばを失くしてしまったばかりか、夜伽・会葬も叶わず、
香典を託すので精いっぱいで、何たることか、と、黙った。





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5/27

ホテルで慌ただしい朝食を済ませて仕事場へ出掛けた。
この日の昼には、
大阪駅前第3ビルに在る「はがくれ」のうどんを戴いた。
仕事場へ戻る道すがら、
スティーブ・ドブロゴスの作品を
マルビルのなかのタワーレコードで購った。
ドブロゴスというひとは、
僕のクライテリアのひとつであって、
ラドカ・トネフというノルウェイの歌手の伴奏者である。
マルビルに在るタワーレコードには、
大阪郊外の箕面や高槻に住んでいた頃に通い詰めた。





夕方に差し掛かるころから節や筋がひどく痛んだ。
ずっと座り詰めの仕事をして、また黙りもしたから、
こわばり、きしんで、歪んでしまったのに違いない。
ホテルに戻ると直ぐに指圧とスクラワンのマッサージを
2時間半をかけて施してもらった。
おそらくはスーチンの絵のような顔をし通しだったろう、と
施術のさなかの、特に腰のあたりの痛みを思い返していると、
それだけでも痛んでくるような気がしてくる。
つまりはそれだけ痛くて顔を顰めどおしだった。
実によく効いたおかげさまか、この夜は晩飯を食べそこねた。





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5/28

眼の前で出来あがる半熟のオムレツと1杯のシャンパンが
味噌汁と炊きたてのごはんに惹かれる気持ちを凌いで、
この日の朝食は、めずらしく欧州の流儀になった。





大阪空港へ向かう車窓は重くて、六甲はおろか、
五月山さえも、ろくすっぽ姿を見せない。
全日空正午羽田行の隣席では、生まれたばかりの子を
その母が抱いていた。
いのちの匂いがした。





大阪ではとうとう傘を使わなかった。





羽田空港から東京駅八重洲を経て半蔵門のホテルに入り
蒸し暑さをひとまず洗い流してから銀座へ出た。
「林檎館」が「アップルストア」を指示することに気づかず
危うく「林檎館」を探すはめに陥るところを救われた。
「アップルストア」で、感謝や祈りがそのひとそのもので
あるかのようにすがたを探した。
渋谷へ向かう前に、喫茶店で珈琲とモンブランをいただいた。
3月と変わらず、銀座線の各駅構内は薄暗い。





雨の渋谷は夥しい傘のせいで歩きにくい。
オーチャードホールに着いたのは開演の15分ほど前だった。
1階6列21番~22番という席が、最前列中央であることに
気がついたのは、そこにたどり着いたときだった。
ピアノからは3~4mほどの距離だろうか。
舞台には、録音のためのマイクが幾つも置かれている。
会場はやがて暗転し、いつになく大きな拍手に迎えられて
キース・ジャレットが姿を現した。





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このコンサートを通して聴いた音は、
会場に放たれ、拡散して輪郭と陰影を失って消えていく
音ではない。
キースの弾く楽器自体の音が直にこちらに入ってきた。
キースの側に拡がる音や、その反対方向に拡がる音、
大屋根から拡がる音、響板の底で震え響く音の一切が
まるでピアノの傍に寄り添っているように聴こえてくる。
フォルテシモからピアニッシモまでが、粒立っていて、
決して弱弱しくならず、意志を持った「強い音」として
決然として在る。





まるで自分の家の10畳ほどのピアノの置いてある部屋で
音楽が始まっていくような感覚で、コンサートを聴いた。





第1部を略述する。
最初の即興と2番目の即興では、大洋の揺らぎのなかに
日本の伝統的な5音音階が顔を出した。
日本、東北を強く感じた。
3番目の即興で、それらは破壊されて滅した。
それ以降はいつものように、キースは会場の温度や照明、
咳払いなどのノイズに過敏な反応を見せていたものの、
いつになく穏やかで優しい音が始終響き続けたのだった。





休憩後の第2部に演奏された即興は、
寸分の隙もなく研ぎ澄まされたもののはずでありながら
聴き手に対して開かれているというものだった。
美しい旋律とグルーブの心地よい喜悦感に溢れていた。
聴き手の集中度が増したせいか演奏中のノイズは消えた。
鍵盤から手が離れただけでは拍手は起きず、ペダルから
足が離れてようやく大きな拍手が湧き上がった。
何度もキースは立ちあがって深く礼をした。





この夜、彼にとって音楽とは喜びだったと感じる。
拍手に迎えられたとき、ピアノの蓋を閉めて帰ろうと
いたずらをしてみたり、椅子を使っておどけたりして
笑顔を絶やすことがなかった。
第2部の3曲目を終えたあと、キースはおもむろに
客席の方を向いて、このようなことを話した。


「英語がわかるひとは伝えてほしい、
 細かいことまではあまり覚えていないが、
 これまで日本で170回以上のコンサートを開いてきた。
 わたしの音楽をこれほど好きでいてくれて、
 本当に感謝している。」


会場から万雷の拍手が起きた。
そして、キースはこう続けた。


「わたしはスタジオで音楽をつくるのが好きではない。
 だからこうして、ここで音楽をつくっている」





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僕はキースのこの言葉を聴いた瞬間、ほぼ無意識のうちに
彼に向けて、反射的なことばを発していた。


「Thank you very much.」


彼の「ケルン・コンサート」を聴いてピアノを弾き始めて
もう20年にもなる。
ずっとひとりでピアノを弾いてきた。
僕は彼の音楽に出会っていない自分を想像だにできない。
彼の音楽に述べられることばがあるとすれば、
このたった4つのことばしかなかった。





キースが僕のほうを向いたのはその瞬間だった。
彼はこちらを見つめてそのまま何度かうなづいたあと、
沈思黙考の体にはいった。
そして、E♭Majorと、親しみやすいコード進行と、
この上なく美しい旋律を用いて、
碧空のように、ひかりのように、森のように、
土のように、
いま、ここにこうして「在る」ことの一切合財を
すべて肯定するような音楽を弾いた。
それは奇しくも僕が最も好む調性であるばかりでなく
最も弾きたいと願い、聴きたいと祈る音楽だった。





拍手が止まず、何度めかの呼び戻しのとき、
ピアノの傍らへと進み出てきたキースと眼が合った。
僕は彼のほうを見つめて笑顔で拍手していた。
彼は優しく笑った。
3度のアンコールの最後に「いつか王子様が」が演奏され
コンサートは終わった。





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フレッシュネスバーガーで、ささやかな乾杯をした。
何だかずっと大きな感情で一杯になってしまった。
ことばに結び切ったら一切が薄れて消えてしまいそうで
恐かった。
願いと祈りを口に封じるようにビールを飲んだ。





コンサートのさなか、キースは即興を終えたあとで
ふと寸断されたような音を弾いて
Alternative Ending と言った。
それなら、Alternative Beginningがあってもいい。 
変えようのなさや、かけがえのなさだけでなく、
試み続けることの自由もある。





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5/29

最愛のひとを喪った元同僚から、メールとともに
香典返しが届いた。
ありがとう、ということばが、こんなにもつらい。
Alternativeという語が、いまは途方もないほどに
頭のなかを占めてしまっている。







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