白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

信仰の原風景 (改訂版)

2006-09-02 | 日常、思うこと
公職にある者には、有給休暇のほかに、夏季特別休暇なる
7日間の休暇が与えられる。
これを活用し、この1ヶ月、週休3日制労働についてきた
僕は、自らの生活を省みて罰当りであると思い、
日本における信仰の起源のひとつ、禊ぎ・祓いを実行して
自らの罪状すべてを水に流すべく、
三重県中部、奥伊勢へと車を走らせた。




雨降る伊勢自動車道から、山間より霧湧き出でる紀勢自動車道へと
入り、大紀町へ向かう。
高速を下りてすぐ昼食を取った後、国道42号を南下し、20KMほど
進んだところ、旧大内山村に入り、
日本で唯一の「頭」の神であるという、頭之宮四方神社を訪れた。




この社の詳細は、このホームページをご覧いただきたい。
(音量を上げてどうぞ)
縁起は、社の傍らを流れる清流より流れてきた髑髏を村の子らが
拾い上げ、この御霊が老人に乗り移ったところから始まるという
おどろおどろしいものであるが、
さすが「あたま」の神である、現代ではIT化の進展目覚しく、
神社のテレビCMの着歌ダウンロードすら可能となっている。




養老氏、茂木氏を引くまでも無く、現代は脳の時代である。
脳マニアならば、一度は訪れられたし。
境内を睥睨する巨樹の群れに圧倒されつつも、
現代の地方工務店の持てる技術の粋を集めた拝殿は
興趣皆無の鉄骨造り、信心喚起する品格を全く欠いており、
境内の数々の広告物・掲示物は、神を前にするわれわれの
心構えを容赦なく削ぎ落としていく。




とはいえ、頭脳活性化に効能抜群と書かれた
巨大で間が抜けた戯画風の蛙の石像の口から
老人の小便のようにいつまでもだらしなくじょぼじょぼ滴る
「頭の水」を、柄杓一杯飲み干してしまうあたりが、
僕の小市民たる証左とでも言うべきか。




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大内山より引き返し、今回の目的たる
伊勢神宮別宮・瀧原宮へ向かう。




伊勢神宮内宮とほぼ同じように、
広大な神域に鬱蒼と茂る原生林、巨樹の群れ、
長大な参道の右側を流れる清流、
その奥に鎮座する神明造の社殿、遷宮用の旧殿地が
配列されている。
伊勢神宮のように開けておらず、参拝者もほとんどいない
その神域は、
折からの驟雨に煙り、冷気を地平に鎮め、川の流れは
こちらのこころを微動だにせぬほどに清々しく、
やがて開けた殿地に並び立つ社の群れは、無がそこに
立ち表れたかのようにひっそりと、しかし確実にあり、
日本人の信仰の原風景とはこうであったのか、という
実感を、浸透するように与えてくれた。




瀧原宮は、伊勢神宮が現在の位置に鎮座する以前、
神体流転の旅程の最後の位置にあるという。
古代、創建当時の伊勢神宮の姿は、おそらくこうであったろうと
いう思いが、何の疑いも無く生まれてくるほどに
気高い宮である。




以下、それらの写真を掲載しておく。






                                 





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浄らかな旅をした。





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<補遺>




伊勢神宮の建築はブルーノ・タウトによって
世界の建築の王座、とまで絶賛されている。




磯崎新によれば、伊勢神宮の建築は
神話以前の起源、本来はありえなかったものを
隠すための構造を取っているという。




伊勢神宮に用いられた建築様式は唯一神明造であるが
それはまさに高床式倉庫の形状をしている。
倉庫のなかに、
「ありえないもの、どこにもないもの」=「起源」が
しまわれている、というのだ。





西行が伊勢を訪れたときに詠んだものとして、

「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」

という歌がある。
この、「何事のおはしますかは・・・」の部分、
何があるのか、その正体はわからないが、なんとなくありがたく
かたじけないという感情をひとびとに喚起し、
無の余白ともいうべきもの、実体のない霊的生命の気配を
そこに漂わせるために創出された演出的空間の最たる成功例として
伊勢の建築は受け継がれてきた、というのである。





始原の擬態、ともいうべきその虚構は、
有と無を自在に行き来する異次元の空間デザインとしては
確かに、世界に類をみない。





巨樹を見上げてふと視線を森に移すと、天女の姿が
明滅しているような感覚に陥る。
その危うさと故無き畏れが、切り開かれて一面の玉砂利が
敷き詰められた殿地に群れ並ぶ社殿に至ると、
そこにいる人間の輪郭の矮小を際立たせて、信仰への導線となる。





神宮の構造は能舞台の構造とも類似する。
「こちら」から「あちら」への掛け渡しが、神宮では参道、
能舞台では橋である。
ただ、能においてはあの世からこの世へとシテが渡ってきて
物語を語るから、舞台はあくまでもこの世にて進行するが、
神宮の構造は、現世に生きるものが「こちら」から出て
「あちら」に行き、また戻るという往還可能なもの、
つまり、日本古来の信仰にある「生まれなおし」「再生」が
舞台構成として完璧に形象化されている点に最大の特徴がある。





眼の前にありながら、決して触れ得ないもの、
そしてそれはもともと有り得ないもの、
近づいても、透過してしまうもの、
こうしたものに、日本人の心性は脆く、惹きこまれる。




日本人には、「BODY」の概念が薄いのも、
こうしたことに由来するのではないだろうか。
女性を抱いているときよりも、その次の夜に
ひとり眠りにつくとき、
ふと枕から立ち昇る化粧の残り香に
一層強く「存在」を感じてしまうのは
そういう理由からだろうか。





余談だが、無から有を生むもの、性器信仰は
世界各地にみられる土俗信仰であるけれども、
日本の神話における、女性神にして太陽神である
アマテラスの天岩戸の伝説には、
僕などは、多分にかなり露骨な性的隠喩を感じる。
神宮はこうした母性信仰を見事に形而上化しているように
思われるのだが・・・
参道から内奥へすすみ、また「こちら」に還ってくるという
神宮の構造は、まさに性行為における往還運動の隠喩にしか
思われないのだけれど、どうだろうか。

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