白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

fleur

2006-10-21 | こころについて、思うこと
日頃の自分の妄想が、思いがけない日時、
思いがけない場所に思いがけず実現されるとき、
それを認めた瞬間にこころがどのように動くのか。




めぐらせておいた戦略が、いつしか既定の路線で
あったかのようにして物事を推し進めていくとき
果たして、それをどの程度の出来上がり方までを
自分の功績であると放言することができるだろう。




例えば、恋しいひとと、思いがけず出くわしたとき、
どきり、と心臓は激しく一拍を打って、
その後しばらくは激しい波を寄せ返す。
こころのホメオスタシスが思いがけず破られれば、
それがどれほど恋しい相手であっても、
自らの狂おしい感情は彼、あるいは彼女には折り返されず、
自分自身のこころの水盤の揺らぎを、相手の眼差しに
きらめかせることを拒むようにして、
その場を早く立ち去り、安らぐまでは姿を隠し、
平穏を装えると判断するまでは、
決して恋しいひとの前になど現れたくなくなるだろう。




こころは、おもいがけぬことを眼の前にして、
その現象に真向かい合う自らが揺らいでしまったことを
恥じらい、現象を拒絶するために、いま、その在り方で
真向かうことをやめる。
それは、こころの様態の、絶えざる自殺の連鎖とでも
呼びたくなるようなものだ。




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たとえば、反映の美。
この眼が、スペクトルグラデーションの偏在性を見抜くとき、
見抜かれるものは、物言わぬままにただそこに「ある」ことで
視覚に従属して、死のように沈着しているべきである、という
判断力によって、動的な性質を殺されなければならない。
こころは美的なるものの受容において、美的なるものに死を求める。
性質も名称も抜き取られ、抽象化された形象と物質は
可塑的に扱われ、こころの「顔」を埋め合わせて、滑らかに整える。




美の塑像としての、のっぺらぼうのような外面のこころの
なめらかさ、つややかさ、甘さ、かぐわしさを
消費するわれわれが、いざ、その反映の美として
恋しいひとにみつめられることになったとしたら、
われわれもまた、恋しいひとによって、なめらかさ、つややかさ、
甘さ、かぐわしさへと抽象されて、生命性を奪われて、
可塑的な死として、埋め合わされるにすぎなくなる。




それを拒むために、われわれは美それ自体への志向ではなく
美の観照者としての距離を保とうとする。
自らが美になりおおせることを拒み、
鏡像としての虚構性、非実在性のなかへと自らを投げ込む。




対他的実存の死を即自的実存の生のなかにうまく編みこみ
こころの外皮を滑らかにする技術はしかし、
恋するひとに思わず出くわしたようなとき、
自分にとっての「美」に不意に撃たれて美との距離を
喪失してしまったとき、
思わずしてみずからのこころのあり方自体に反映されて
自己の抽象化を猛スピードで推し進める。




自らが素材として解体されていく一方で、
自分の意識以外にその解体をまなざすものが非在であることに
対する底知れぬ恐怖、震え、おののきが、
いま、このこころのあり方を自殺させることによって
理想主義的な精神を復権させ、理性的判断力に基づいた
具象的なこころへの揺れ戻しを呼び起こす。




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こうしたときには、こころはたとえば、距離を遊ぶ。
こころのあり方として、決して結ばれぬであろうことを
わかっているものが、目的のない駆け引きを行うなかに
粋に遊ぶのだ。
諦めにも似た、醒めたこころのなかに
恋しさゆえの薄紅をほんのりと差すようにして、
限りなく近づきながら、紙一重のところで突き放す、
遠近のやりとり。




そこには、思いがけぬものすらも、諦めのなかに
ふ、と、溶かし込んでしまうような不可思議な魔性がある。
いま、そこに真向かいあっている、一期一会の邂逅に
互いを生命的に燃焼させるのではなく、
むしろ愛しさは沈められて、深蒼のオンディーヌのように
一片の名残も残さずに心を消していくようなせつなさ、
あるいは、解決もしないままに空中へ放り投げられたままの
バッハの未完のフーガのようなやりきれなさに近い。
ぽつりと置き去りにされて、それをじっと受け容れるという
どうにもならない定め、巡り合わせの妙に感じ入って、
うつむいて浮かべる微笑の、さみしく物悲しい遊びである。




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けれど、われわれのこころは、
聴きたくもない真実を聴こうとし、
自らすすんで傷つくことを望む。
自分を不幸であると思うものは、
他人を幸せにすることで自らに復讐する。
もはや物悲しい微笑は、破れかぶれの慟哭に変じ、
罪を感じることも忘れてしまう。
虚言を弄してひとのこころをもてあそびもし、
引き受けるべきものも、背負うものも捨てて
悪口と軽口に日々を費やすがごとき
怠惰で緩慢な死のなかに生きようとする。




ならば日々を慄然とさせ、こころを絶えず自殺させて
美をいのちとして感じ、距離を呼吸として感じ、
花として眠るようにすることだ。
こころを鏡としてではなく、実像として見つめ、
心臓の巨大な一拍と寄せ返しに導かれて、
自らのきらめきに耐える事だ。




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うつつとも夢ともしらぬ世にしあれば有りとてありと頼べき身か
                       (源 実朝)




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