
杉本苑子さんが亡くなられたのを知った。91歳。
『穢土荘厳』上・下巻(1986年)。
蘇我氏の血を受け継いだ持統、光明、元明、元正ら女帝が築いてきた勢力に対して藤原氏が政権奪取に立ち上がり、最大の政敵・長屋王への襲撃から火蓋が切られる。華やかな天平文化の陰に、人間の業の深さ、迷妄の種の限りなさを見る。大仏開眼に至る、歴史のうねりが描き出されている。
訃報を知り、思わず書棚から取り出しページを繰っていた。杉本苑子と言えばこの1冊。詳細な部分は忘れているが、歴史に名を知る多くの人物が登場する。30代に入っても、このあたりの時代を背景にした作品が好きだったことへの懐かしさがこみ上げた。作者の確かな歴史認識で物語性豊かな世界に誘われた。格調高い文章も好みだった。
東大寺境内の西南の隅にある切崖で、大仏開眼法会の様子を見ながら行善と行浄が言葉を交わしている。
【日本全土を仏国土たらしめ、政教一致の理念を基礎にして国家の統一と安泰を図ろうと願望しながら、あべこべに造寺造仏が人々の生活を破綻させ、社会不安を助長させてしまった。「一切衆生」といえば、特権に預かれる皇族や貴族らだけでなく、乞食、浮浪、奴隷、人間とみなされていない者たちすべてを包含している。しかし、聖武上皇は貴賤の垣、浄穢の偏見を打ち破って、「一切衆生」の『心』の中に仏国土を想像することはついにできなかった】
この行善の言葉を聞きながら、行浄には「大仏殿が、きらびやかなだけになお、たまらなく淋しいものに感じられてくる。上皇の孤独、人間すべての苦悩の、無限を具象するものとも映」り、「浄土は空のあなたに在るものではなく、めいめいの心の中に求めるべきものなのだ」と思う。
法会が挙行される平城京に雨が降り、荒天の晴れ間を虹が短く飾る。それを、「穢土を穢土のまま肯い、荘厳しようとしてくれている大自然の意思」とも行浄は受け取っていた。
織田作之助が「繰り返し読むことが楽しいような書物を座右に置きたい」「僕は繰り返し読む百冊の本を持っていることで満足している」と書いている(「僕の読書法」)。『穢土荘厳』を私の100分の1冊とすべく、再読してみようか。
何だか懐かしい様な気がしました。
杉本苑子さんと言えば、私も「穢土荘厳」は、忘れられない一冊です。
細部のストーリーは、覚えていませんが、読み終えてから見た夕空が、今までと違っていたことを思い出します。
もう一度、読んでみようかしら。
不思議です。「ゴマメのば―ばさんは読まれたかしら」と書きながらふっと思ったのです。
しかも「読まれたかもしれない」と。
何かとてもうれしい気持ちです。
再読しようと、時々手には取る一冊で大事にしてきましたが、ついつい後回しになっていました。
大仏殿を訪れても、こうした「物語」を浮かべることはなくなりました。
想像しながら歩くのも楽しいでしょうね。
「もう一度、読んでみようかしら」、私も~。ありがとうございました。
重厚な歴史小説を書かれる方ですね。
『穢土荘厳』は好きな時代背景でしたので、とりわけ夢中で読んだ記憶があります。
ドラマ化された作品もあって、ファンもたくさんおいででしょうね。