約束を一日ずらして、映画「大いなる沈黙へ」を見ました。原題は「Into Great Silence」
ベールに包まれた伝説の修道院の日々が音楽もナレーションも、照明もなく映し出されていきます。構想から21年。監督一人だけが入ることを許可され、6か月間修道士と共に暮らして撮影されたのだそうです。
フランス、アルプス山脈に建つグランド・シャルトルーズ修道院は戒律の厳しさで知られるカトリックの男子修道院。俗世間から隔絶され、毎日を祈りに捧げ、独居房で命ある限り一日のほとんどを一人過ごす生活は、何世紀にもわたって変わらない決められた生活なのだと。
食事は各房についた小さな差し入れ口から配膳されるのですが、日曜日だけは「家族」としてそろって食事をする、そこに共同体の形を見ました。
また、その日の昼食後の散歩時間にだけは会話が許されているのです。冬、雪の積もった小高いところから滑り降り、中には失敗してころげる修道士もいるのですが、楽しげに、子供のように笑うその声は、たまらなく嬉しくなるシーンでした。
神をひたすら信じる。信仰はただ信じるしかない。「死は命の終わり。それによって神に近づくのだから恐れるものはない」と語った盲目の修道士がいました。いっさいをお任せして、ひたすら信じる、自力の行の姿は鸞聖人の姿に重ねられるのでしょうか。自身の全存在をかけて法然上人を信じるという描写を、五木寛之氏の『親鸞』に記憶するところです。
死んであの世に行ったら、親きょうだい始め懐かしい人に会えるなどと思うことでもあればいい方で、仏陀に近づけるなどと思ったこともなければ聞いたこともない私。「一生を清貧の内に生きる」、この修道院の生活を素晴らしいと思うことはありません。ただ、現代の世の「七宝で造られた牢獄」に意識が向いたこと、気付かされなくてはいけないと思う出会いはあったような…。「生活の便利さ、衣装の華やかさ、住居の快適さ、食卓に並ぶ食品の量、種類、国際性の豊かさ…」。
特殊な信仰の世界。簡素に生きる日々の高潔さ、崇高さなど感じることもありました。
満席で立ち見の方々も出る映画でした。
↓の花はセンニンソウのようでもありますが
本当にきれいですね!
さて、勘違い..危ういところをセーフだったようですが
私は、書き留めてないと、もうダメですね。
音がないからこそ聴こえてくるものがある。
言葉がないからこそ見えてくるものがある。
「大いなる沈黙へ」のサイトに行ってみました。
果たしてこれが正しいのか否かは分かりませんね
隔離された世界で一生を終えることが良いとは
考えにくいと思いました。
うっかり、で済むならまだまし?大きな迷惑をかけてしまわないように、
これからはいっそう注意がいるようになりそうですね。
私もなかなか理解しきれないことが多かったのです。
でも、はたから頭で理解しようとすることではないのかもしれません?
迷いのない表情、神に仕えるという一念。
それがその人の全てをかけての信仰の姿なのでしょうか。
こういう信仰の世界があることを知ると言う体験ができました。