「仏教学とはなにか」
そんな大きなテーマでお話を聞くことが自分の何になるのか?と、少しばかり出渋らせる思いが湧いた。けど、事前に申し込み済みだったし…。
宇宙にはたくさんの星が輝いているのにどうして暗いのか…。佐々木閑先生は工学部ご出身、物理学のお話からだった。
「古来不変の宇宙法則」の信念は、宇宙の膨張が確認され、ビッグバン宇宙論の登場により崩れていった。
物理学に始まり、あらゆる自然科学、哲学も人文科学の諸分野もすべて、歴史学の一種となった。宗教も、然り…。
仏教も本質となる「釈迦の言葉」を、後の人たちが様々に解釈を示し、周辺は異なった見解で大きく膨らんだ。宗派によって、また同一宗派内であっても、それぞれに元とする「経」が異なる。いつ、どこで、誰の手により、どのようなプロセスを経て現在形になったのか。
仏教学は、「釈迦の言葉」として承認されている聖語・聖典の言葉の正しい理解を探求することを目的に、解体される科学的思考の世界になっている。
こうしたことは仏教の価値を損なっていると思われる現代社会の諸問題を見出し、それらへの対処の方法を探るという手順へと続く。研究の成果は直接、現在の仏教の在り方に影響を与え、出家修行者の日常生活にも重要な関わりを持ってくる。仏教世界に混乱を招くだけと批判もされるだろうが、しかし、…と還暦も過ぎたこれからの研究生活に思いを向けられる言葉で結ばれた。
日常にどう取り込めるお話なのか追い直してみたが…。ただ一つ、心に留めておこうと思ったことある。
消滅、消え去った者(小宗派、組織とか)を軽んじ貶める悪口がある。例えば、自殺者を「心が弱かったから」と口にする人がいるが、裏を返せば、自分は心が強いと表明することばである。反論できない者たちが自分の隣に座っていると想像し、心を汲んでモノを言おう。【歴史学の本義は、消え去った者たちへの慈悲の表出である】と。学問に限らない…。
今日まで目を労り
自重しています。
やれやれ、なんとか痛みが去りそうです。
PCに向かって小説を…、これもリスク大きいかもしれませんね。
かと言って、ですよね。
お大事にしてください。
豊かな日々をお過ごしですね。
仏教学とは、仏教の本質とは、といった話にはうまくついて行けない不勉強が恥ずかしくなります。
ただ、ごく普通に、隣に反論できない人が座っていれば、わずかではあっても、心を汲んであげようか、せめて耳を傾けようかなどと思うことはあるようです。
やはり、生きている限り修行との縁は切れないようですね。
奥が深くて、入り口を窺う程度のことしかできていない自分を感じてしまいます。
一切皆苦が仏教ですから、満たされないのです。なら、欲求しない自分を作らなくっちゃ。
それが、なんですよね。すぐ忘れて難しい。
ときどき気付かされ、また忘れてしまい、そのうちこうしてまた気づかされる機会があって…、
と揺れながら生き直しているんでしょうか。
恥ずかし恥ずかし。
>仏教学は、「釈迦の言葉」として承認されている聖語・聖典の言葉の・・・。
長年、常に私の脳裡から消えないことでした。「釈迦の言葉として」。言葉と「して」なんですねぇ。追求すればそれは「原始仏典」に。いやそれさえも正確ではないですねぇ。
スッタニパータやダンマパダなどに行きつきますね。それもまたバーリー語、更には釈尊が話されたマガタ国の言葉まで行かなければならなくなるような・・・。
大乗仏教の経典は、全て後世の経典作家?達によって作られたもの。ずっと私の心の奥に、今もなお沈殿しています。
それでもやはり、清沢先生の仰る「如来」、「仏教は学問ではなく実践である」のお言葉、そして又、歎異抄が戯作の類いであっても、私のような弱き者にとっては、これらはかけがえなき寄る辺でもあります。
>ただ一つ、心に留めておこうと・・・。
本当にそう思います。身に染みて。
この国のトップたちはその対極にあるような気が致します。
すみません。長々と。自分でも何が言いたかったのかと。支離滅裂のようです。
辛うじて拙ブログの緩慢な更新のみで、なかなか皆様の素晴らしいサイトにも参れませずにおりました。
それではまた。どうも有難うございました。
おおもとは「として」、なんですね。本質を信じて、生きられるか…、ですね。
大乗仏教はもちろんですが小乗仏教も後作が含まれるとは聞いたりしておりますが、
長い歴史があり幾多の人の手が加わっている事実…。その解明は学問の目的にもなっていくのでしょうか。
真宗寺院に生まれながら寺を出られ、仏教学の道に進まれた先生。
今でも時折僧としてお勤めですが、、講座で教えをうかがうこともあって親しみを感じております。
で、ついこの回も申し込んだのですが…。難しいことはさっぱりでした。
聞き取り方に理解に誤りがあるやもしれません。
宗教は単に教えとか客観的なものではなくて「死生の問題について安心立命せしむるもの」でしたね。