世阿弥の生涯 ― といっても、足利義教によって佐渡へ遠流となって、赦免(帰洛の赦し)の報せが届くまで、8年余りの暮らしを題材にしている。
八十路に達しようという年齢になった。
佐渡で出会った縁は、思いもよらなかった恵まれた環境だった。6つ7つだった童のたつ丸をはじめとして、世阿弥を慕う人びとがいて、あたたかな心を結んできた。
そして能一筋、一途な人生を生きる佇まいは、老いても美しかった。
己れ(世阿弥)、亡くなった息子の元雅、武士を捨て出家した了隠、3人の視点から物語は語られ、世阿弥像が膨らむ。
72歳の身で「まったく咎なく、勘気を蒙って」遠流となった佐渡での暮らしだが、読み進めるにつれて幸福感をもたらすものだった。
配流先が伊豆でも隠岐でも土佐でも対馬でもなく、日蓮、順徳院、京極為兼、日野資朝といった先人が流された佐渡であったこと。
著者は、この地で亡くなり沈んだ霊の数々に手向ける花になろうとする世阿弥を描いた。とりわけ〈順徳院の悶死するほどの悲しみを謡にして弔い、せめてもの供養としたい〉と能「黒木」を描かせ、寺の法楽とした。
「世阿弥殿はよろずにおいての師、また良き翁であるゆえ、離れがたき想いは重ね重ね強」くなる。けれども、「世阿弥殿の帰洛をかなえてやるのが、我らが佐渡人のつとめ」
一方で世阿弥は、
「何から何までお世話になり申した佐渡のひと人への礼」として、「西行桜」演能を決める。
世阿弥の舞の所作や謡の箇所の描写は、簡潔に美しく、引き込まれた。
読後、著者藤沢氏は謡、仕舞を観世流の師に師事中であることを知る。なるほど!の描写だった。
「花なる美は、十方世界を変えましょう」
「佐渡の四季折々の美しい景色とともにあった童が、言葉を覚え、詞章を覚え、調べを覚えて、より法界の真如を探す時期に来ているのであろう。十方世界の美にもっとも近しいものは、たつ丸かも知れぬ」
能に詳しくなくても、暖かなものがこみ上げる作品だった。
心がぬくとうなった。
よい小説には幸福感があると、辻原登氏が言われていたのを思い出す。