肌寒さも感じる中で頬を染め、小さなお口にお喋りの花が咲く。
誰でもがそれぞれに自分だけの興味や関心の世界を持っているのだから、まあ賑やかそうなこと。
口にふたをするのは損とばかりに、一聞いて十話すのは、えっと…この子? 十聞いて一話す賢さを感じさせるのは、そう、この子あたりかな。
なるほどそうかと、人の話にうなづいているのは…。褒める人、くさす人。静かにほほ笑む人あり。
不平の嵐じゃ花が散ってしまう。
人の話を外に流さないことが、安心できる条件だとエライ先生のお話だけど、こんなところで喋ってしまうとしたら、まずまずい。
おちょぼ口のかわいい馬酔木の花が咲いていた。
昨日は女の節句。ハレの日だし?ちょっと贅沢に先日来気になっていた本を買わせてもらった。(このあと何を節約しまひょ)
背表紙を追いながら偶然の出会いが『世阿弥最後の花』(藤沢周)だった。
光とは、なんと不思議なものでございましょう。
あんなにもさんざめいて瞬き、銀糸を刺した帯のようにうねるかと思えば、金箔をはった扇のようにも広がる。また縮み、わだかまり、螺鈿が弾けたように、まばゆさを広げてきらめく。
あれは、調べか。歌であろうか。
と、序章は始まっていた。
句読点のリズムが自分に合って、とっても心地よく入れる。この文章の呼吸が合う、ということがまず嬉しい。
そしてこのあたり、漢字とひらがなの使い分けが視覚的にも気持ちよく、イメージする余白が美しい。
世阿弥についてはポツンポツンとした知識があるだけで知らずにいる。
難しくてもいい。即決した気持ちに素直に、自分の根っこを掘り返せるといいけどなと思うのだ。