本法寺に長谷川等伯による「佛涅槃図」を拝見しようと出かけたところ、ちょうど春季特別寺宝展が開催されていた。
平素は原寸大(縦約10m・横約6m)の複製が展示されてい
首を真上に向けて見上げる。でっかい~って感じ。
「一番左の沙羅双樹の根元に座り込み、緑色の僧衣をきて、ほお杖をついている男」を探した。下から見上げ、二階から、半分上を近くに見ることができる。洋犬も探し当てた。
多くの縁者と別れがあった。60歳を過ぎた老境の身での作。
帰り際、誰もいない気楽さから少しお話をさせてもらった。
「そこに白い壁が見えますやろ。等伯さんはそこに住んで本法寺にかよわはったといいます」
拝観受付の窓口で座って指さす先を振り返った。
〈安土桃山文化の芸術担い手となったのは、法華檀信徒だった。狩野元信・永徳、等伯、本阿弥光悦(王林派の祖)。日蓮の革新的性格が伝統様式から解放したのでは〉などと何かで目にしたことがある。光悦と等伯のかかわりも深い本法寺。
カラーでしたつもりなのにごめんなさい、といってくださった。
「生き残ったものにできるのは、死んだ者を背負って生きることだけだ」「ひとはそれぞれ重荷を背負いながら、一日一日を懸命に生きている。大切なのはその生き様であって、地位や名誉を手にすることではない」(『等伯』)
『等伯』を読み、五木寛之氏の『百寺巡礼』第9巻の本法寺、能登半島の付け根、羽咋にある妙成寺について第2巻で読むなどして、そして、狩野永徳を主人公にした『花鳥の夢』とも出会い、
「長谷川等伯とは、いったいどんな人生を送った人だったのだろう」と私も関心を寄せた。
自分で史実を調べるということまでには至らないのだけれど…。
2015年に高野山夏季大学でお会いした当時82歳の女性の、「『等伯』を読んでごらんなさい」のひと言が心にとどまり、巡り巡って今に至る、この巡り合わせの不思議を思うばかりだ。
「東福寺の涅槃図には猫が描かれているそうですね」
私は観たことがないと言ってから、こんなふうに添えた。
「猫は明兆さんのお手伝いをよくしたそうですよ。それで、お前も描いておいてやろうって描き足したそうです。エライ先生がおっしゃっていました。ほんとうでしょうかね」
「真如堂の涅槃図にはやはり猫が描かれていました。ガンジス川が流れているのですが、タコやクジラまで描いてありました」
帰りのバスの車内で、こんな会話もしたのだった。面白そうに小さく笑ったのを覚えている。このとき、それまでずっとしていたマスクを外されたから。
彼女は本法寺のこの大きな佛涅槃図は御覧になっていたのだろうか。
妙覚寺で狩野家累代の墓に参った。塀沿いに山梔子の実が生るのが見えた。