京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

門の主は不在のまま

2022年03月21日 | こんなところ訪ねて
存在すべき?仁王像がない、とは知っていたような気がする。空っぽなのが普通でほとんど意識することがないままいたのだろう。
『荒仏師 運慶』(梓澤要)を読んでから、今一度しっかり確かめようと、無いものはないのだけれど、気になり始めた。今日は21日で弘法さんの日。たくさんの露店が出て市が立つので賑わいもあって、ちょうどよいかなと東寺に向かった。
いったん南大門の前を通り過ぎ羅城門跡に立ち、戻ることにした。日差しが戻り始め、人でも多そうだ。

 


南大門の外から見て。右のブルーのテントの奥、その反対、左側とに本来なら阿形像と吽形像とが正面に向かっておられると思うのだけれど。

 
                   ↑ 右に阿形像。
                 「左腕を高々と振り上げ、侵入せんとする魔や仏敵を
                  威嚇するために大きく口を開いて吠えたてている」
  ↑左に吽形像。
 「左腕の肘を曲げて腰に置き、
 口をへし曲げて力を蓄えている」 

「朱の色も鮮やかな真新しい門」に、「われらが造った仁王像」を納めた。「配置も造形も奇をてらわず伝統にのっとっ」て、「6人の息子全員を制作に携わらせた、最初の大仕事」。一門の披露目にもなるような仕事に、霊験仏師運慶と噂になったことが描写されている。

寺の歴史によると、1486年の文明の土一機で南大門を含めて大きく焼失してしまった。その以前にも焼失、再建を繰り返しているが、
仁王像は不在のままに。なんでかな? 想像の楽しみはあるとはいえ、どうして?


弘法市が開かれた境内を散策しながら、御影堂近くに咲く桜を眺めて、京都駅まで歩いた。
やはり門に主はなくて、空っぽだった、とだけははっきりした。       
コメント (2)
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