KYOKUKENZO'S WORKSHOP 2024

「道」は自ら切り開くもの。
他人の後追いは「道」にあらず。

平和祈念資料館を訪ねて。

2019年11月27日 | 
米軍の
沖縄上陸作戦が始まった
1945(昭和20)年3月23日深夜

沖縄師範学校女子部と
県立第一高等女学校の生徒は

18名の教師に引率されて
南風原の沖縄陸軍病院に向かう。

動員された生徒たちの中には
卒業式を目前に控える最上級生
疎開の希望が叶わなかった生徒
帰省先から学校に
呼び戻されていた生徒もいた。

この日学校にいなかった生徒も
自宅から南風原へ駆けつけるなど
動員された生徒は222名になった。

動員された沖縄陸軍病院は
那覇南東5キロ南風原に位置した
なだらかな丘にあった。

丘の斜面に横穴が40近くも掘られ
むき出しの土壁に沿って
粗末な二段ベッドがあるだけの
施設が陸軍病院の病棟だった。

生徒たちは
各壕に分かれて働くことになった。

4月1日

米軍が沖縄本島に上陸すると
前線から負傷兵が次々と
送られてくるようになった。

負傷兵は増えつづけ、生徒たちは
寝る間もほとんどないまま
昼も夜も働き続けることになった。

病院壕の中は
血と膿と排泄物の悪臭が充満し
負傷兵のうめき声と
怒鳴り声が絶えなかった。

負傷兵の看護のほかに、
水くみや食糧の運搬、伝令、
死体埋葬など生徒たちの仕事だった。

それらの仕事は弾の飛び交う
壕の外に出なければならない、
とても危険な任務であった。

陸軍病院に動員されると聞いたとき
生徒たちは、弾の飛んでこない
赤十字の旗が立てられた病棟で
看護活動するものだと思っていた。

しかし現実は

前線同様、絶え間なく
砲弾が飛び交う戦場であった。

5月下旬米軍は
日本軍司令部のある首里に迫る。

日本軍は米軍の本土上陸を
遅らせるための持久作戦をとり
本島南部への撤退をはじめる。

5月25日

陸軍病院にも撤退命令が出され
生徒たちは歩ける患者を連れ
傷ついた友人を担架で運び

薬品や書類を背負って
砲弾の中を本島南部へと急いだ。

連日の爆撃と降りつづく雨で
泥沼と化した本島南部への道は
避難する住民や兵士があふれ
無数の死体が転がり

手足のない重傷者たちが
泥の中をはいずり回っていた。

各病院壕では、
歩けない重症患者に
毒薬などを与えた。

重症を負った
2人の学友は動かすことができず、
南風原に残さざるをえなかった。

南風原の陸軍病院や各分室から
移動してきた教師や生徒は、
沖縄本島南部の伊原周辺に
集まってきていた。

このあたりには
沖縄の言葉で「ガマ」と呼ばれる
自然洞窟がたくさんあり

その中に住民が避難していたが
もとからいた住民たちは
軍によってガマから追い出され
そこに軍や陸軍病院などが入った。

そのころの陸軍病院は
医療器具も医薬品もほとんどなく
病院としての機能を失っていた。

負傷兵を収容するに十分な壕もなく
学徒たちは砲弾の中、伝令や水くみ
食糧確保などにあたった。

6月18日夜半
陸軍病院では学徒に
「解散命令」が言いわたされた。

米軍が目の前にせまり砲弾が飛び交う中
生徒たちは壕を出て、自分の判断で
行動しなければならなくなった。

6月下旬
沖縄守備軍壊滅状態のなか

牛島司令官は、
生き残った全将兵に対して

降伏を許さず
最後まで戦うことを命じて自決した。

司令官の自決以降も、
米軍の攻撃から逃れることができず、
多くの住民、兵士が亡くなった。

動員から解散命令までの約90日間
ひめゆり学徒犠牲者は19名であるのに対し
解散命令後の数日で100名余が亡くなった。

現在

「ひめゆりの塔」が建っているガマは
陸軍病院第三外科が入っていた壕で
「伊原第三外科壕」と呼ばれている。

ここには

ひめゆり学徒を含む陸軍病院関係者、
通信兵、住民などおよそ100名がいた。

解散命令後の6月19日早朝
米軍のガス弾攻撃を受け
80名あまりが亡くなった。

解散命令を受けて壕を脱出した
生徒たちは入る壕もなく

昼間はソテツやアダンの
茂みに身をひそめながら
攻撃が弱まる夜間になると
海岸へと向かった。

傷ついた体を引きずりながら逃げる者
負傷した学友を助けて歩いていく者
重傷で動けずにその場に倒れる者
砲弾に吹き飛ばされていく者
海岸で大波にのまれる者

行き場を失い父母の名を
叫びながら死んでいく生徒が続出した。

米軍に捕まることをもっとも恐れ
手榴弾で自決した人もいた。

6月20日から23日の間には
多くの生徒が米軍に収容されたが

なかには2カ月以上も逃げ回り
日本の降伏も知らず8月22日になって
収容された生徒もいた。

ひめゆり学徒が
沖縄陸軍病院に動員された3月23日は

米軍の激しい空爆と艦砲射撃によって、
沖縄中が大混乱におちいった。

そのため

自宅から通学していた生徒の中には、
学校に駆けつけることができず
そのまま近所の駐屯部隊に協力したり、
家族とともに行動した人もいた。

陸軍病院に行かなかった
多くの生徒も戦火に巻き込まれ、
尊い命を失うことになった。

女師・一高女では、
陸軍病院に動員されて
亡くなった生徒と教師136名

動員以外で沖縄戦で
亡くなった教師と生徒91名

合わせて227名が
沖縄戦で命を落としていった。

(ひめゆり平和祈念資料館公式HPより抜粋)


私が沖縄を訪ねたのは
これが4度目になります。


でもこれまでは
妻とプライベートビーチで
ゴロゴロしたり

仕事の関係でゴルフや泡盛漬け。

首里城や平和祈念資料館を
訪ねたのは初めてのことです。

恥ずかしながら

沖縄戦の悲惨さを今回
初めて詳しく学びました。

戦争は

愚かな人間の

愚かな歴史。


こんな悲しみを

決して

繰り返してはならない。

再び戦争への道を

歩み続ける人たち。

私たちは絶対に

支持してはいけない。kyokukenzo

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