40年前の沖縄本土復帰記念式典は大阪のテレビでみた。
父が転勤に伴い東京で生まれて沖縄・千葉・大阪と移動し沖縄へ戻ったのが本土復帰の1972年後半。小学6年生からワタシは正式に(?)ウチナーンチュである。
1872年の琉球処分以降歴史に翻弄されてきた歳月は1世紀を超えている。子供心にも「昔は琉球王国だったんだからまた独立すればいいのに」と、一緒に復帰記念式典のTV中継を観ながら母と話した記憶がある。
単純にはいかない事情がたくさんある。しかし充分検証・模索すべきところである。ワタシ自身の子供達が次々と選挙権をもつ年齢になった今、我が家でもいつもそんな話題で沸いている。より良い社会をつくるために、次代にしっかり踏ん張れる土壌を引き継いでいかなければならないと思う。
さてワタシは大阪時代「どつき漫才」発祥の地(?)南河内は羽曳野市で小学3年~5年生までを過ごしたのだが、そこでかなり精神的に鍛えられたと思っている。なにせ年に数回クラスで"余興会"みたいなのがあって、ひとりひとり芸を披露しいかに「笑かす」ことができるかを競う激しい攻防戦が繰り広げられていたのだ。こうして培われたサービス精神旺盛な大阪人の気質は今も大好きだ。
東京から転校してきた「おとなしい京子ちゃん」もだんだんと変貌を遂げ、ついにはクラスで最もクールなグループに収まるようになっていた。・・そう、転勤族の子達はこうして自分の立場作りみたいなものが行く先々で待ち受けていて大変なのよね。
さらにいうと、ともすれば差別されがちな沖縄出身のワタシが助けられたのは、当時大人気だったフィンガーファイブや南沙織の活躍。「沖縄へもどったらフィンガーファイブのサインをもらってくれるかもしれない同級生」というのはステータスが高かった。今も昔もスターの役割って大きいね『アキラありがと~』
本土復帰を思うとき、頭の中にフィンガーファイブの曲とフォーシスターズの歌声がこだまする。
さて5月も文字通り中盤。。GWはArt Print Showと画廊へのお客様がたくさんあり、何かとドタバタしている。長男は引継ぎで足止めとなっている熊本転勤がそろそろ稼動しそう。次男は国家公務員一種の一次試験(なんと合格。。でも今年は採用を40%も削減するというから地方からは無理だろうね。。)を皮切りに向こう2ヶ月間就職試験漬けの日々が続く。どこかに着地地点があることを祈るばかり。。そして末娘も大学受験(成績は良いが目標なし。一番厄介かも)。
ま、子供の動向を見守りつつも最重要なのはダンナとワタシの人生。より動きやすくなるように、今年はたくさんの仕掛けをしていきたいと思う。
※写真上:琉球大学「憲法講演会」準備光景の取材。次男を含め学生達が新報・タイムス両紙に。写真下:母の日に頂いたお花