蔵くら日記

人生最後の数年を田舎暮らしで。2004年4月、実現のための行動開始!それは思わぬ展開でスタート・・。今では安曇野三昧

浦里小学校写真集

2006年11月29日 | 安曇野を離れて
過去のコメント覧で気になってしょうがなかった小学校を訪ねた


いつもの姨捨駅から、晩秋の棚田風景


上田市といっても・・・・・青木村のそばだった
圧倒的な迫力  創立130年の現役バリバリです
教室や和室が映画の撮影に利用されることがありますが、エキストラは地域の大人のみだそうです
ながら族の先駆者「二宮金次郎さん」は、戦時中は金属類回収の憂き目にあい撤収されたようですが、
それでも全国にはきっといくつも健在だろう。このロケーションは似合いすぎ・・・

写真左:ちょっと覗かせてもらったら、こんな廊下が・・・靴箱が並ぶ
写真右:裏にまわると、渡り廊下の奥に木製の観音開きの男子トイレ。手前は手洗い台

校庭では学童保育チームとお父さんチームで今年の納会野球に興じていました
応援のお母さん達が左の白い塊りでチラホラ。選手も応援の子ども達もちらほら
のどかですねぇ。
すぐ裏の山がわが有明山にそっくりなのも嬉しか

写真左のグリーンのネットは耐震補強工事中だった
校舎の存続か廃止かでもめたであろうと想像できる。存続の選択にまずは拍手を送りたい

周りには新興住宅も多く上田市や近隣市のベッドタウン的存在のようだ。充分通勤圏である
各学年1クラスの陣容で、縦割り行事が多く「みんな仲が良い」とお母さんの話

校庭の近くに鶏小屋がある
私が5・6年生の2年間、飼育当番でアヒルや鶏を世話していたことを懐かしく思い出した


卒業生の作品とおぼしきオブジェの前に「標高453メートル」「根性」の文字も
ハウスメーカーの新しい家に住んでる生徒がこの学校で過ごす6年間は、
それだけでも相当の根性だと思うよ


↓この看板を見ずとも掃除の行き届いた学校でした
 将来生徒が親になり、自分達の子どもに自慢できる学校だと思う
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2 コメント

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Unknown (路進)
2006-11-30 23:18:22
二宮金次郎さん、ありました。我小学校にも。木造校舎懐かしい。小学校の時は石炭ストーブで上級生が下級生の部屋のストーブに毎朝火を入れていた。今では到底考えられない。退化した人類。ステンレスの流し台が妙に懐かしい・・・?
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昨今のいじめを思うと (kurakura-get)
2006-12-01 18:56:08
古き良き時代を笑わば笑え・・ですね。
私のクラスに足の不自由な男子とすこし知恵遅れでよだれを流す男子がいました。ハンサムで優秀なクラス委員がきっちり目配りしてましたよ。京都市立葵小学校。25年ほど前だったか、行ってみたら鉄筋校舎に変わっていました。
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