ウイキの要約です。詳しくはリンク先をご覧ください。
目 次
1 概要
2 背景
3 ナチス党の躍進
4 1932年の大統領選挙
5 ブリューニング内閣崩壊
6 パーペン内閣
7 パーペン内閣崩壊
8 ナチス党分裂の危機
9 水面下の策動
10 ヒトラー内閣成立
11 治安権力の掌握
12 国会議事堂放火事件
13 「最後の選挙」
14 全権委任法
15 国家と党の一体化
16 強制的同一化
17 長いナイフの夜
18 国家社会主義革命の完了
1 概要
ヒトラーとナチス党はドイツの今までの内閣や大統領、君主達が
得ることのできなかった大きな権力を表面上合法的に手中にした。
この権力掌握過程は二つの時期に分類される。
ナチス党が国内有数の政党になってからヒトラー内閣が成立するまでの期間と、
政権についたヒトラーとナチス党が政敵を一掃し、
立法権・行政権・司法権の三権を含むドイツ国内の権力を支配するまでの期間である。
後者は2年以内の短期間であった。
2 背景
ヴァイマル共和政期のドイツは第一次世界大戦の講和条約によって
莫大な賠償金を課せられ、領土は割譲された。
また大量の軍人が職を失い、失業者や武装組織ドイツ義勇軍のメンバーとなり、
社会の不安定要因となった。国会は安定多数を獲得する政党が最後まで出現せず、
議会に基礎を置く首相の指導は不安定であった。
またドイツ帝国以前から各州の独立傾向は強く、中央政府の権力は制限された。
3 ナチス党の躍進
ヒトラーがナチス党の指導者となって拡大を続けた。
ナチス党はバイエルン州政府でクーデターを起こしたが失敗。
ナチス党はその後合法戦略に転換し、国会選挙での議席獲得を目指した。
ナチス党の半武装組織「突撃隊」は共産党と激しく衝突し、
政治活動が禁じられていた軍内部にも浸透。
1929年テューリンゲン州議会選挙でナチが大勝し
フリックが内相として州政府に入閣。
フリックは全権委任法、バウハウスの閉校、警察組織制度改革など
ナチス党の思想に基づく政策を実行し、ナチス党政策の「実験場」となった。
ヴィルト内務大臣はナチス党の合法性を疑い訴訟に発展。
ヒトラーは法廷で「合法誓約」を行って党の合法性をアピール。
政府と州は和解に同意。ナチス党の違法判断は行われる事無く
合法政党として扱われるようになった。
4 1932年の大統領選挙
1929年の世界恐慌と賠償金支払い期間の延長は政府への支持を一気に失わせた。
1930年3月20日にドイツ社会民主党のミュラー首相が辞職すると、
ヒンデンブルク大統領は後継首相に中央党のブリューニングを指名。
ブリューニング以降の首相は、国会を経ず大統領の信任のみに基づく内閣となった。
1930年9月の選挙でナチス党は107議席を得て第2党となり共産党も躍進。
与党の国家人民党と人民党の議席が激減し議会運営は困難になった。
このためヒンデンブルク大統領に、議会の議決を必要としない
大統領令を発出させることで政権運営を行った。
1931年は大統領緊急令の数が、国会立法の数を上回った。
ナチス党は国家人民党や鉄兜団などの右派とともに、
ブリューニング内閣とヒンデンブルク大統領への攻撃を強めた。
1932年3月、大統領選挙が行われヒトラーは次点となったが、決選投票の末に敗れた。
ヒトラーとナチ党の勢いを物語るのに十分な結果であった。
5 ブリューニング内閣崩壊
4月、グレーナー国防相は、首相と大統領に要請して
ナチ党の突撃隊と親衛隊を禁止する大統領令を出させた。
ブリューニング内閣の東部農業救済政策はユンカーの猛反発を受け、
政権は末期状態となった。
国防次官のシュライヒャーはヒトラーと会談し、
ナチス突撃隊・ナチス親衛隊の禁止令を解除すること、
新内閣成立まもなく総選挙を行うことと引き替えに協力を求めた。
ヒトラーは応じ、次期内閣への支持を約束した。
ユンカーであった大統領の信任も失い、5月ブリューニング内閣は総辞職。
6 パーペン内閣
パーペンが新首相、シュライヒャーは国防相となった。
シュライヒャーとヒトラーの密約通り突撃隊・親衛隊禁止令は解除され、
国会も解散されたが、ナチス党は人気のないパーペン内閣を支持せず、
反政府の立場を鮮明にした。
7月首都ベルリンのあるプロイセン州で、
ナチス突撃隊と赤色戦線戦士同盟が衝突し17名の死者が出た。
パーペン首相はこの事態を利用し大統領令によってプロイセン州政府を罷免し、
自ら州の国家弁務官(総督)となって州を支配下に置いた(プロイセン・クーデター)。
州政府罷免は裁判所によって違憲とされたが、パーペン首相は従わず乗り切った。
この事件は後にナチス党が州政府を掌握する際の先例となった。
7月国会議員選挙の結果、ナチス党は230議席を得て第一党となった。
パーペンは辞職してヒトラーに政権を渡すことを考えたが、
ヒトラーを嫌っていたヒンデンブルク大統領は許さなかった。
8月ヒトラーはシュライヒャー、パーペンと会談。
その日の午後3時、ヒンデンブルク大統領とヒトラーが会談。
ヒトラーは首相の地位を要求したが、ヒンデンブルク大統領はあくまで拒否。
7 パーペン内閣崩壊
ナチス党は中央党の協力を得てゲーリングを国会議長に選出。
共産党が内閣不信任案を提出し大荒れとなった。
ヒトラーは不信任案に賛成するように命令したため、
ゲーリング議長はこの不信任案を可決。
パーペン首相は大急ぎで国会解散の大統領令を出すことで不信任案の採決を
阻止しようとしたが、ゲーリングは無視して不信任案の採決を行った。
不信任案は採択されたが、同時に解散命令も発効し国会選挙が行われることになった。
ヒトラーはこの選挙でさらに圧倒的な力を見せつけられると確信していたが、
度重なる選挙でナチス党の資金は底をつきかけていた。
このため以前の選挙のように大規模なキャンペーンを打つことは出来なかった。
さらにベルリンの大管区指導者ゲッベルスは、独断で共産党主導の
ベルリン市電ストライキ支援にナチス突撃隊を参加させた。
ベルリン市民から反感を買い、新聞はナチス党を共産党扱いした。
このため共産党を警戒する財界人は援助を引き上げた。
11月選挙ではナチス党は大いに票を失い、196議席に後退。
ヒンデンブルク大統領とヒトラーの会談が2回行われたが物別れに終わった。
ヒトラーを首相にするようにという請願書が多数大統領の下に送付された。
特にドイツ帝国銀行(中央銀行)元総裁、合同製鋼社長元首相らの政財界人が
連名で送った請願書は有名である。
事態は暗礁に乗り上げ、パーペン首相は議会の機能停止と軍隊による治安維持、
すなわち政府によるクーデターを提案した。
議論は長い間続き、疲れ果てた老体のヒンデンブルク大統領は
パーペン首相のクーデターを承認した。
翌日の閣議でシュライヒャーは軍や警察にナチス党が浸透しているため、
強硬手段は内戦やポーランドの介入を招くとの軍の調査結果を発表。
このため内閣のメンバーもクーデターに否定的となった。
ヒンデンブルク大統領も「祖国を内戦に追いやることは出来ない」として、
パーペンの辞職とシュライヒャーの首相就任を決断した。
8 ナチス党分裂の危機
12月シュライヒャーが首相に就任。
ヒトラーの協力は得られなかったため、ナチス党の組織全国指導者である
シュトラッサーに副首相就任とナチス党の協力を要請。
シュトラッサーは幹部会でこの提案を披露したところ、猛反発を受け、
シュトラッサーはナチス党の役職をすべて辞任。
9 水面下の策動
ヒトラーとパーペンは極秘会談を行い、
ヒトラーとパーペンによる内閣の設立が合意された。
1月、普段は注目されない小さなリッペ州の地方選挙を
ナチス党は一大キャンペーンで覆い尽くした。
ドイツ国民はリッペ州選挙は国政の行方を担う一大選挙と錯覚した。
選挙の結果、ナチス党は11議席中9議席を獲得して大勝利した。
ナチス党は再び上り調子の党であると認識され、沈滞ムードを吹き払った。
党には再び献金が殺到し、「党の財政状態は、一晩で根本的に改善された」。
ヒンデンブルク大統領の息子オスカーは公然とヒトラー嫌いの発言をしており、
ヒンデンブルク大統領を動かすためには彼の説得が不可欠であった。
ヒトラーとオスカーの極秘会談が行われ、
一時間ほどオスカーとヒトラーは別室で会談。
ヒトラーがヒンデンブルク大統領の土地取得に関する疑惑を
表沙汰にすると脅迫したものと見られている。
以降オスカーはヒトラーを首相にするよう、大統領にに働きかけはじめた。
1月シュライヒャーは最後の手段として国会の解散を
ヒンデンブルク大統領に持ちかけたがヒンデンブルク大統領は再度拒絶。
大統領は、パーペンを副首相、ブロンベルク中将を国防相にすることと条件に
ヒトラー首相指名を了解。ヒトラーはこの条件を承諾し、
かわりに総選挙の実施と、選挙後の全権委任法の制定を要求し合意が成立した。
10 ヒトラー内閣成立
首相への道が開けたことにヒトラーとゲーリング、ゲッベルスは祝宴を開いた。
そこにシュライヒャーの使者が訪れ、
ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に指名すれば、
軍部のクーデターが起こると警告して去った。
ヒトラーは驚き、ベルリンのナチス突撃隊に警戒態勢を取らせ、
党員である警察幹部に官庁街の占領準備を命令した。
さらにジュネーブ軍縮会議から帰国中のブロンベルク中将に連絡し、
ベルリン駅から大統領官邸に直行させた。
この措置は一揆の発生に対応するためと、シュライヒャーとの連絡を絶って
ブロンベルクを確実に味方に引き入れるためであった。
新首相の親任式が行われた。ナチス党員は歓喜し、街に繰り出して行進した。
ヒトラー内閣は首相こそヒトラーであるものの、閣僚の選定は各党の希望を入れて
パーペンが選定した。ナチス党員の入閣は内相のフリック、
無任所相のゲーリングの2名のみであった。
11 治安権力の掌握
2月、ヒトラーは中央党との話し合いが決裂したとして、
国会を大統領令により解散させた。さらに軍の支持を得るため
軍幹部を集めて政策の説明を行った。
ヒトラーはマルクシズムと「悪性腫瘍のような民主主義」の根絶を述べた。
また「東方の領土征服とその容赦ないドイツ化」のため再軍備を行うとした。
また軍事組織になるのではないかと警戒されていたナチス突撃隊に関しては、
軍隊が「唯一の武器の所持者であり、その組織に手を加えるつもりはない」と話した。
これ以降、ヒトラーとナチス党は軍部の取り込みに力を入れるようになった。
一方で軍となることを目指していたナチス突撃隊幹部は次第に反感を募らせていった。
2月「ドイツ民族保護のための大統領令」が発出され
集会・デモ・政党機関紙の統制が行われることになった。
2月かねてから中央政府やナチス党に反発していたプロイセン州政府に対して
「プロイセン州における秩序ある政府状態を確立するための大統領令」が出され、
プロイセン州は国家弁務官となるパーペンの指揮下に置かれることになり、
新しい州内相にゲーリングが就任。これにより全土の3分の2を占めるプロイセン州の
警察権力はナチス党によって握られることとなった。
また国家弁務官は他の州にも相次いで置かれ、州の独立は失われていった。
これは国家による州の強制的同一化の始まりであった。
州内相となったゲーリングは警察幹部を交代させ、
「突撃隊、親衛隊、鉄兜団への敵意を示すような行動を避ける」ことと
「国家に敵意を持つ組織には断固として対処し、銃の使用をためらわない」ように
通達。これは実質的な共産党に対する警察権力の行使であり、
彼らは反発し、機関紙は政権を激しく非難した。
ゲーリングはこれを『共産党叛乱の予告』として、
ナチス突撃隊、ナチス親衛隊、鉄兜団の団員5万名を『補助警察』として雇い入れた。
ナチス党が国政の指導を引き受けたとき、敵を撲滅する最重要手段の一つが
警察組織でなければならないということははっきりしていた。
『警察国家』はナチス体制を示す象徴。
共産党本部をプロイセン州が捜索し、「共産党叛乱の計画書」を発見と発表。
12 国会議事堂放火事件
2月国会議事堂が炎上。現場では一人の男、元オランダ共産党員で
国際共産主義グループ に属するルッベが捕らえられた。
調査に当たったプロイセン州政治警察局はルッベの単独犯行であると見ていた。
しかしヒトラーやゲーリングは「共産主義者による叛乱の始まり」であるとした。
ヒトラーは「コミュニストの幹部は一人残らず銃殺だ。共産党議員は全員
今夜中に吊し首にしてやる。コミュニストの仲間は一人残らず牢にぶち込め。
社会民主党員も同じだ!」と叫び、単独犯ではなく組織的な陰謀であると断定した。
ゲーリングもプロイセン州政治警察局の意見を無視し、
公式発表にあった「百ポンド」の放火材料も「千ポンド」と書き直した。
さらに二人の共産党議員が共犯であるとも付け加えた。
この日のうちに国会と地方の共産党議員および公務員への逮捕命令が出され、
共産党系新聞はすべて発行停止となった。
翌日、ヒトラーは閣議で「民族と国家の保護のための大統領令」と
「ドイツ民族への裏切りと反逆的策動に対する大統領令」の二つの
緊急大統領令制定を提案した。
これは「法的考慮に左右されずに決着を付ける」ためのものであり、
政府は非常大権を得た。
言論・報道・集会および結社の自由、通信の秘密は制限され、
令状によらない逮捕・「保護拘禁」が可能となった。
この結果3000人以上の共産党員・ドイツ社会民主党員が逮捕・拘束された。
こうした行為は市民に恐怖を与え、「当局に反対しただけで警察の追求を受ける」
という認識が広まった。さらにゲシュタポが密告を奨励したため、
市民の間には友人が密告者かもしれないという恐怖心が芽生えた。
また、拘禁された人々のその後が不明であることも恐怖に拍車をかけた。
市民は「今更じたばたしても無駄である」という感情に包まれた。
13 「最後の選挙」
ヒトラー、ゲーリングは大企業の首脳と会合しナチス党への協力を求めた。
ゲーリングは「この選挙がこれから先10年間の、いやおそらくは100年間の
最後の選挙となることを認識されるのであれば、われわれがみなさんに要求する
犠牲は決して過大なものではないでしょう。」と語りかけている。
ナチス党は圧倒的な資金力と国家権力で選挙活動を行えることになった。
ヒトラーは首相就任を「国家社会主義運動にドイツの指導を
ヒンデンブルク大統領が託した」ものであると定義し、
この時点でヒトラーとナチス党は「国民と国家の指導者」となっており、
選挙はその信任投票であるとした。
「ドイツ国民よ、我々に4年の歳月を与えよ、しかる後、我々に審判を下せ!」
と訴えた。党の主要な演説は、ラジオ放送され、街頭のスピーカーからも流れた。
ナチス突撃隊の暴力は警察によって見逃された。
3月に投票が行われ、結果ナチス党は288議席を獲得した。
得票率は43.9%であり、単独過半数には及ばなかった。
しかし連立相手である国家人民党の52議席を合わせれば340議席となり、
過半数を越えた。
14 全権委任法
ヒトラーは閣議において選挙結果は「革命であった」と宣言し、
当初予定されていた憲法の枠内に収まる全権委任法ではなく、
憲法そのものを覆す包括的授権法である事を明らかにした。
ヒトラーは「かかる授権法を国会は可決するであろう。」と述べたが、
憲法改正的するためには国会議員定数3分の2の以上の出席、
そしてその3分の2の賛成を必要とし、さらに参議院の賛成も必要であった。
しかしヒトラーはこう続けた
「共産党の議員は国会開会の際に姿を見せることは無いであろう。
それというのも、彼らはあらかじめ拘禁されてしまっているであろうから。」。
ナチス突撃隊幕僚長らは、突撃隊を引き連れてバイエルン州首相官邸に押しかけ、
州首相ヘルトに辞職を要求。ヘルトは大統領に救援を求めたが、
「首相と相談せよ」という返事を得たのみであった。
ヘルトら州政府は解任され、国家弁務官にミュンヘンのナチス突撃隊指導者
エップが任じられた。これにより、すべての州が政府の統治下に置かれ、
州政府による自治は事実上終焉した。
閣議で全権委任法の具体的な案を提示。
政府に国会や憲法に制約されない幅広い権限を授与するものであった。
さらに「議長は許可を得ず欠席した議員を排除できる」
「自己の責任によらず欠席した議員は、出席したものとみなされる。
排除された議員も出席したものとみなされる」という
議院運営規則の修正案を出した。
新国会の開会記念式典が行われ、同日午後、国会に全権委任法法案と
議院運営規則改正案が提出。
また「国民高揚の政府に対する卑劣な攻撃の防衛のための大統領令が制定され、
「政府と政府を支持する政党」に反対する「虚偽の宣伝」を行うことが禁止された。
すでに緊急大統領令による拘束者数はプロイセン州だけで7700人を超えていた。
国会はヒトラーの言葉通り、共産党議員81人全員、そして社会民主党議員26人、
中央党・ドイツ人民党議員それぞれ1人は、逮捕・病気・逃亡などの理由で欠席した。
緊急大統領令によって議員を拘束できるナチス党に抗う事はもはや不可能であった。
議院運営規則改正案は起立多数で通過し、採択の時が迫った。
中央党も党に降りかかる災難を恐れて賛成に回った。
3月23日、ヒトラーはこの法律が
「国民と国家の指導の精神的かつ意思的統一を確立」するためであり、
「民族の意思と真の指導の権威が結びついた一つの憲法体制をつくりあげる」
ものであるとした。さらに国会や州、大統領の権限は侵されないと強調した。
議場をナチスの突撃隊が取り囲み、「われわれはこの法律を要求する!
さもなければ放火と殺人だ!」と叫ぶ中、唯一社会民主党が反対に周り、
党首ヴェルスが反対演説を行った。しかし抵抗はむなしく、圧倒的多数で可決された。
ナチス突撃隊員は歓喜して党歌『旗を高く掲げよ』を合唱した。
続いて開催された第二院でも、満場一致で採択された。
第二院の議員は州政府選出議員であり、指示を行う州政府がナチス党によって
握られた今、反対などできるはずも無かった。
こうして国会の立法権は政府に吸収され、議会政治は終焉した。
15 国家と党の一体化
3月31日、ラントとライヒの均制化に関する暫定法律が制定された。
これにより州議会の各党議席は国会の議席配分と同一のものに変えられた。
ただし、すでに禁止された共産党は除外されている。
4月には第二法律が制定され、国家弁務官にかわって州総督が設置された。
これにより中央集権化の動きは加速していった。
4月10日にはゲーリングがプロイセン州首相となり、
プロイセン州政治警察局が、プロイセン州秘密警察局に改組した。
この組織は「ゲシュタポ」と呼ばれる。
11月『秘密国家警察に関する法律』が制定され、ゲシュタポの権限は
国内全域に及ぶことになった。合議体であった内閣もヒトラーの独裁体制となった。
国会無効化に続く次の目標は、ナチス党以外の政治勢力の消滅であった。
6月社会民主党の活動が禁止され、財産も没収された。
この頃から他の政党も「自己解散」の道を選び消滅した。
11月ナチス党のみを対象とする国会議員選挙が行われ一党独裁体制が確立。
12月「党と国家の統一を保障するための法律」が制定され、
党は国家と一体であると発表された。党の組織はほぼ公的な組織となり、
ナチス党の地域区分である大管区の指導者が事実上の地方支配者となった。
16 強制的同一化
ナチス党の基本理念では、民族は国家社会主義運動にふさわしい考え方や
行動を取ることが当然であると考えられていた。
理想的な民族による民族共同体を、一人の指導者が率いる指導者原理によって
指導する体制がナチス・ドイツの理想とする社会であり、
党や国家はそのための手段であると考えられた。
州自治の停止や政党解体もこの動きの一つである。
大統領令により『国民啓蒙・宣伝省』が設立。
宣伝省が国民の意識を同質化する政策を行うことになる。
5月1日、「国民労働の日」というイベントが行われ10万人の労働者が集まった。
その翌日、ドイツ国内の労働組合はナチス突撃隊とナチス親衛隊の襲撃を受け
財産を接収され、解散に追い込まれた。
5月10日には「ドイツ労働戦線」が成立し、ナチス党による労働者の
組織化が行われた。5月26日には共産主義者の財産を没収する法律が定められた。
この頃から医師連盟から同好会に至るまでありとあらゆる団体は解体され、
ナチス党主導によるものに再編成された。街の社会的な組織はほぼ完全に根絶され、
「独裁者が歓迎するあの組織なき大衆へと鋳造された」。
出版・放送業界も宣伝省の監督下に置かれ、報道・表現の自由は消滅した。
このような動きに大きな抵抗は出ず、ヒトラーの山荘ベルクホーフは
ヒトラーの姿を一目見ようとする人々で賑った。
10月14日、ドイツは国際連盟から脱退。
ナチス党組織や行政組織による投票行動への監視は厳しいものであり、
投票場への組織的な駆り出しが行われた。
投票率が100%、ナチス党支持率が100%の地域がいくつか存在している。
投票内容自体も監視の対象であり、誰が反対票を投じたか監視できた。
国会議事堂放火事件の共犯者に無罪判決を出すなど、
一定の独立性を保っていた司法界もやがてナチス党の支配下に組み込まれた。
上級地方裁判所の上に「証拠調査の必要を認めないという確信を得た場合、
これを拒否できる」「判決に関してはいかなる法律上の救済も認めない」等
強い権限を持つ特別裁判所が設置された。
9月から刑法の見直し作業がはじまった。在来の法概念を根底から覆す
罪刑法定主義の放棄により、犯罪そのものだけではなく、
民族共同体に悪影響を及ぼす「犯罪への性向」も刑罰の対象とされた。
さらに1934年には人民法廷が設置され、ヒトラー・国家・ナチス党・
民族共同体に対する反逆はこの法廷で裁かれることとなった。
この法廷においては職業裁判官と別にヒトラーに指名された者が裁判官となり、
法律ではなくナチズムの見地から見て好ましい判決が要請される、
一種の政治裁判所であった。
4月7日にはユダヤ人が公職に就くことは禁止され、教育機関からも追放された。
17 長いナイフの夜
こうした動きの中で、不満を強めていったのがナチス突撃隊の幹部達であった。
彼らは、国軍にかわってナチス突撃隊が新たな軍となることを目指していた。
一方、ナチス親衛隊の長である親衛隊全国指導者ヒムラーは
各州の警察権力を徐々に手に入れていった。
1934年4月プロイセン州警察とゲシュタポの管理権限も与えられ、
親衛隊は実質的な全土の警察権力を手に入れた。
ゲーリングは、ナチス突撃隊幹部排除の計画を建てた。
6月頃からナチス突撃隊反乱のうわさが流れはじめ、情勢は不穏になった。
ヒンデンブルク大統領と国軍もナチス突撃隊に対する何らかの措置を求め、
もしもの場合は大統領権限で戒厳令を敷くと通告した。
ここにいたってヒトラーも突撃隊粛清の意思を固め、親衛隊に準備を命じた。
6月30日、ナチス突撃隊幹部達は集められ逮捕された。
ベルリンなどでもナチス親衛隊が動き出し、次々に逮捕・処刑した。
また前首相シュライヒャーやブレドウ将軍、元ナチス全国指導者シュトラッサー
などの政敵も逮捕・暗殺された。パーペンも自宅に軟禁された。
こうした「長いナイフの夜」と呼ばれる一連の粛清は7月2日まで続いた。
7月3日には「国家緊急防衛の諸措置に関する法律」が制定され、
この粛清は合法的なものであるとされた。
突撃隊は素行が悪く評判も悪かったために、粛清は大方の国民から
好感を持って受け入れられた。こうして党内の最大勢力突撃隊は骨抜きにされ、
親衛隊の勢力が大きく拡大していくことになる。
18 国家社会主義革命の完了
高齢であり衰弱していたヒンデンブルク大統領は死を迎えつつあった。
8月1日、緊急閣議が行われ、「国家元首に関する法律」が制定された。
ヒンデンブルク大統領が死んだ後に大統領の職を首相と統合し、
権限を「指導者兼首相であるヒトラー個人」に委譲するというものであった。
翌日大統領は死去し、法律が発効してヒトラーは国家元首の権限を手に入れた。
以後、ヒトラーの地位を日本では「総統」と称する。
この措置の正統性を問う国民投票が行われ、投票率95.7%、89.9%が賛成。
翌日、ヒトラーは肩書き無しの「アドルフ・ヒトラー」として
次のような布告を行った。
「国家社会主義革命は、権力事態としては終了した。これから1000年間、
ドイツにおいてはいかなる革命も起こらないであろう」。
こうして、ナチス党の権力掌握は完了した。
(麻生元総理 ナチスの手口に学べ)
2013年、麻生元総理は次のような発言をしました。
『ドイツでは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、
ヒトラーが出てきたんですよ。ヒトラーはいかにも軍事力で(政権を)
とったように思われる。全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。
ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。間違わないでください。
そして、ヒトラーは、ワイマール憲法という、
当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下にあって出てきた。
どんなに憲法がよくても、そういうことはありうるということですよ。
(中略)
憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、
ナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気づかないで変わった。
あの手口学んだらどうかね。もうちょっとさ。
リンク先の記事には、
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目 次
1 概要
2 背景
3 ナチス党の躍進
4 1932年の大統領選挙
5 ブリューニング内閣崩壊
6 パーペン内閣
7 パーペン内閣崩壊
8 ナチス党分裂の危機
9 水面下の策動
10 ヒトラー内閣成立
11 治安権力の掌握
12 国会議事堂放火事件
13 「最後の選挙」
14 全権委任法
15 国家と党の一体化
16 強制的同一化
17 長いナイフの夜
18 国家社会主義革命の完了
1 概要
ヒトラーとナチス党はドイツの今までの内閣や大統領、君主達が
得ることのできなかった大きな権力を表面上合法的に手中にした。
この権力掌握過程は二つの時期に分類される。
ナチス党が国内有数の政党になってからヒトラー内閣が成立するまでの期間と、
政権についたヒトラーとナチス党が政敵を一掃し、
立法権・行政権・司法権の三権を含むドイツ国内の権力を支配するまでの期間である。
後者は2年以内の短期間であった。
2 背景
ヴァイマル共和政期のドイツは第一次世界大戦の講和条約によって
莫大な賠償金を課せられ、領土は割譲された。
また大量の軍人が職を失い、失業者や武装組織ドイツ義勇軍のメンバーとなり、
社会の不安定要因となった。国会は安定多数を獲得する政党が最後まで出現せず、
議会に基礎を置く首相の指導は不安定であった。
またドイツ帝国以前から各州の独立傾向は強く、中央政府の権力は制限された。
3 ナチス党の躍進
ヒトラーがナチス党の指導者となって拡大を続けた。
ナチス党はバイエルン州政府でクーデターを起こしたが失敗。
ナチス党はその後合法戦略に転換し、国会選挙での議席獲得を目指した。
ナチス党の半武装組織「突撃隊」は共産党と激しく衝突し、
政治活動が禁じられていた軍内部にも浸透。
1929年テューリンゲン州議会選挙でナチが大勝し
フリックが内相として州政府に入閣。
フリックは全権委任法、バウハウスの閉校、警察組織制度改革など
ナチス党の思想に基づく政策を実行し、ナチス党政策の「実験場」となった。
ヴィルト内務大臣はナチス党の合法性を疑い訴訟に発展。
ヒトラーは法廷で「合法誓約」を行って党の合法性をアピール。
政府と州は和解に同意。ナチス党の違法判断は行われる事無く
合法政党として扱われるようになった。
4 1932年の大統領選挙
1929年の世界恐慌と賠償金支払い期間の延長は政府への支持を一気に失わせた。
1930年3月20日にドイツ社会民主党のミュラー首相が辞職すると、
ヒンデンブルク大統領は後継首相に中央党のブリューニングを指名。
ブリューニング以降の首相は、国会を経ず大統領の信任のみに基づく内閣となった。
1930年9月の選挙でナチス党は107議席を得て第2党となり共産党も躍進。
与党の国家人民党と人民党の議席が激減し議会運営は困難になった。
このためヒンデンブルク大統領に、議会の議決を必要としない
大統領令を発出させることで政権運営を行った。
1931年は大統領緊急令の数が、国会立法の数を上回った。
ナチス党は国家人民党や鉄兜団などの右派とともに、
ブリューニング内閣とヒンデンブルク大統領への攻撃を強めた。
1932年3月、大統領選挙が行われヒトラーは次点となったが、決選投票の末に敗れた。
ヒトラーとナチ党の勢いを物語るのに十分な結果であった。
5 ブリューニング内閣崩壊
4月、グレーナー国防相は、首相と大統領に要請して
ナチ党の突撃隊と親衛隊を禁止する大統領令を出させた。
ブリューニング内閣の東部農業救済政策はユンカーの猛反発を受け、
政権は末期状態となった。
国防次官のシュライヒャーはヒトラーと会談し、
ナチス突撃隊・ナチス親衛隊の禁止令を解除すること、
新内閣成立まもなく総選挙を行うことと引き替えに協力を求めた。
ヒトラーは応じ、次期内閣への支持を約束した。
ユンカーであった大統領の信任も失い、5月ブリューニング内閣は総辞職。
6 パーペン内閣
パーペンが新首相、シュライヒャーは国防相となった。
シュライヒャーとヒトラーの密約通り突撃隊・親衛隊禁止令は解除され、
国会も解散されたが、ナチス党は人気のないパーペン内閣を支持せず、
反政府の立場を鮮明にした。
7月首都ベルリンのあるプロイセン州で、
ナチス突撃隊と赤色戦線戦士同盟が衝突し17名の死者が出た。
パーペン首相はこの事態を利用し大統領令によってプロイセン州政府を罷免し、
自ら州の国家弁務官(総督)となって州を支配下に置いた(プロイセン・クーデター)。
州政府罷免は裁判所によって違憲とされたが、パーペン首相は従わず乗り切った。
この事件は後にナチス党が州政府を掌握する際の先例となった。
7月国会議員選挙の結果、ナチス党は230議席を得て第一党となった。
パーペンは辞職してヒトラーに政権を渡すことを考えたが、
ヒトラーを嫌っていたヒンデンブルク大統領は許さなかった。
8月ヒトラーはシュライヒャー、パーペンと会談。
その日の午後3時、ヒンデンブルク大統領とヒトラーが会談。
ヒトラーは首相の地位を要求したが、ヒンデンブルク大統領はあくまで拒否。
7 パーペン内閣崩壊
ナチス党は中央党の協力を得てゲーリングを国会議長に選出。
共産党が内閣不信任案を提出し大荒れとなった。
ヒトラーは不信任案に賛成するように命令したため、
ゲーリング議長はこの不信任案を可決。
パーペン首相は大急ぎで国会解散の大統領令を出すことで不信任案の採決を
阻止しようとしたが、ゲーリングは無視して不信任案の採決を行った。
不信任案は採択されたが、同時に解散命令も発効し国会選挙が行われることになった。
ヒトラーはこの選挙でさらに圧倒的な力を見せつけられると確信していたが、
度重なる選挙でナチス党の資金は底をつきかけていた。
このため以前の選挙のように大規模なキャンペーンを打つことは出来なかった。
さらにベルリンの大管区指導者ゲッベルスは、独断で共産党主導の
ベルリン市電ストライキ支援にナチス突撃隊を参加させた。
ベルリン市民から反感を買い、新聞はナチス党を共産党扱いした。
このため共産党を警戒する財界人は援助を引き上げた。
11月選挙ではナチス党は大いに票を失い、196議席に後退。
ヒンデンブルク大統領とヒトラーの会談が2回行われたが物別れに終わった。
ヒトラーを首相にするようにという請願書が多数大統領の下に送付された。
特にドイツ帝国銀行(中央銀行)元総裁、合同製鋼社長元首相らの政財界人が
連名で送った請願書は有名である。
事態は暗礁に乗り上げ、パーペン首相は議会の機能停止と軍隊による治安維持、
すなわち政府によるクーデターを提案した。
議論は長い間続き、疲れ果てた老体のヒンデンブルク大統領は
パーペン首相のクーデターを承認した。
翌日の閣議でシュライヒャーは軍や警察にナチス党が浸透しているため、
強硬手段は内戦やポーランドの介入を招くとの軍の調査結果を発表。
このため内閣のメンバーもクーデターに否定的となった。
ヒンデンブルク大統領も「祖国を内戦に追いやることは出来ない」として、
パーペンの辞職とシュライヒャーの首相就任を決断した。
8 ナチス党分裂の危機
12月シュライヒャーが首相に就任。
ヒトラーの協力は得られなかったため、ナチス党の組織全国指導者である
シュトラッサーに副首相就任とナチス党の協力を要請。
シュトラッサーは幹部会でこの提案を披露したところ、猛反発を受け、
シュトラッサーはナチス党の役職をすべて辞任。
9 水面下の策動
ヒトラーとパーペンは極秘会談を行い、
ヒトラーとパーペンによる内閣の設立が合意された。
1月、普段は注目されない小さなリッペ州の地方選挙を
ナチス党は一大キャンペーンで覆い尽くした。
ドイツ国民はリッペ州選挙は国政の行方を担う一大選挙と錯覚した。
選挙の結果、ナチス党は11議席中9議席を獲得して大勝利した。
ナチス党は再び上り調子の党であると認識され、沈滞ムードを吹き払った。
党には再び献金が殺到し、「党の財政状態は、一晩で根本的に改善された」。
ヒンデンブルク大統領の息子オスカーは公然とヒトラー嫌いの発言をしており、
ヒンデンブルク大統領を動かすためには彼の説得が不可欠であった。
ヒトラーとオスカーの極秘会談が行われ、
一時間ほどオスカーとヒトラーは別室で会談。
ヒトラーがヒンデンブルク大統領の土地取得に関する疑惑を
表沙汰にすると脅迫したものと見られている。
以降オスカーはヒトラーを首相にするよう、大統領にに働きかけはじめた。
1月シュライヒャーは最後の手段として国会の解散を
ヒンデンブルク大統領に持ちかけたがヒンデンブルク大統領は再度拒絶。
大統領は、パーペンを副首相、ブロンベルク中将を国防相にすることと条件に
ヒトラー首相指名を了解。ヒトラーはこの条件を承諾し、
かわりに総選挙の実施と、選挙後の全権委任法の制定を要求し合意が成立した。
10 ヒトラー内閣成立
首相への道が開けたことにヒトラーとゲーリング、ゲッベルスは祝宴を開いた。
そこにシュライヒャーの使者が訪れ、
ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に指名すれば、
軍部のクーデターが起こると警告して去った。
ヒトラーは驚き、ベルリンのナチス突撃隊に警戒態勢を取らせ、
党員である警察幹部に官庁街の占領準備を命令した。
さらにジュネーブ軍縮会議から帰国中のブロンベルク中将に連絡し、
ベルリン駅から大統領官邸に直行させた。
この措置は一揆の発生に対応するためと、シュライヒャーとの連絡を絶って
ブロンベルクを確実に味方に引き入れるためであった。
新首相の親任式が行われた。ナチス党員は歓喜し、街に繰り出して行進した。
ヒトラー内閣は首相こそヒトラーであるものの、閣僚の選定は各党の希望を入れて
パーペンが選定した。ナチス党員の入閣は内相のフリック、
無任所相のゲーリングの2名のみであった。
11 治安権力の掌握
2月、ヒトラーは中央党との話し合いが決裂したとして、
国会を大統領令により解散させた。さらに軍の支持を得るため
軍幹部を集めて政策の説明を行った。
ヒトラーはマルクシズムと「悪性腫瘍のような民主主義」の根絶を述べた。
また「東方の領土征服とその容赦ないドイツ化」のため再軍備を行うとした。
また軍事組織になるのではないかと警戒されていたナチス突撃隊に関しては、
軍隊が「唯一の武器の所持者であり、その組織に手を加えるつもりはない」と話した。
これ以降、ヒトラーとナチス党は軍部の取り込みに力を入れるようになった。
一方で軍となることを目指していたナチス突撃隊幹部は次第に反感を募らせていった。
2月「ドイツ民族保護のための大統領令」が発出され
集会・デモ・政党機関紙の統制が行われることになった。
2月かねてから中央政府やナチス党に反発していたプロイセン州政府に対して
「プロイセン州における秩序ある政府状態を確立するための大統領令」が出され、
プロイセン州は国家弁務官となるパーペンの指揮下に置かれることになり、
新しい州内相にゲーリングが就任。これにより全土の3分の2を占めるプロイセン州の
警察権力はナチス党によって握られることとなった。
また国家弁務官は他の州にも相次いで置かれ、州の独立は失われていった。
これは国家による州の強制的同一化の始まりであった。
州内相となったゲーリングは警察幹部を交代させ、
「突撃隊、親衛隊、鉄兜団への敵意を示すような行動を避ける」ことと
「国家に敵意を持つ組織には断固として対処し、銃の使用をためらわない」ように
通達。これは実質的な共産党に対する警察権力の行使であり、
彼らは反発し、機関紙は政権を激しく非難した。
ゲーリングはこれを『共産党叛乱の予告』として、
ナチス突撃隊、ナチス親衛隊、鉄兜団の団員5万名を『補助警察』として雇い入れた。
ナチス党が国政の指導を引き受けたとき、敵を撲滅する最重要手段の一つが
警察組織でなければならないということははっきりしていた。
『警察国家』はナチス体制を示す象徴。
共産党本部をプロイセン州が捜索し、「共産党叛乱の計画書」を発見と発表。
12 国会議事堂放火事件
2月国会議事堂が炎上。現場では一人の男、元オランダ共産党員で
国際共産主義グループ に属するルッベが捕らえられた。
調査に当たったプロイセン州政治警察局はルッベの単独犯行であると見ていた。
しかしヒトラーやゲーリングは「共産主義者による叛乱の始まり」であるとした。
ヒトラーは「コミュニストの幹部は一人残らず銃殺だ。共産党議員は全員
今夜中に吊し首にしてやる。コミュニストの仲間は一人残らず牢にぶち込め。
社会民主党員も同じだ!」と叫び、単独犯ではなく組織的な陰謀であると断定した。
ゲーリングもプロイセン州政治警察局の意見を無視し、
公式発表にあった「百ポンド」の放火材料も「千ポンド」と書き直した。
さらに二人の共産党議員が共犯であるとも付け加えた。
この日のうちに国会と地方の共産党議員および公務員への逮捕命令が出され、
共産党系新聞はすべて発行停止となった。
翌日、ヒトラーは閣議で「民族と国家の保護のための大統領令」と
「ドイツ民族への裏切りと反逆的策動に対する大統領令」の二つの
緊急大統領令制定を提案した。
これは「法的考慮に左右されずに決着を付ける」ためのものであり、
政府は非常大権を得た。
言論・報道・集会および結社の自由、通信の秘密は制限され、
令状によらない逮捕・「保護拘禁」が可能となった。
この結果3000人以上の共産党員・ドイツ社会民主党員が逮捕・拘束された。
こうした行為は市民に恐怖を与え、「当局に反対しただけで警察の追求を受ける」
という認識が広まった。さらにゲシュタポが密告を奨励したため、
市民の間には友人が密告者かもしれないという恐怖心が芽生えた。
また、拘禁された人々のその後が不明であることも恐怖に拍車をかけた。
市民は「今更じたばたしても無駄である」という感情に包まれた。
13 「最後の選挙」
ヒトラー、ゲーリングは大企業の首脳と会合しナチス党への協力を求めた。
ゲーリングは「この選挙がこれから先10年間の、いやおそらくは100年間の
最後の選挙となることを認識されるのであれば、われわれがみなさんに要求する
犠牲は決して過大なものではないでしょう。」と語りかけている。
ナチス党は圧倒的な資金力と国家権力で選挙活動を行えることになった。
ヒトラーは首相就任を「国家社会主義運動にドイツの指導を
ヒンデンブルク大統領が託した」ものであると定義し、
この時点でヒトラーとナチス党は「国民と国家の指導者」となっており、
選挙はその信任投票であるとした。
「ドイツ国民よ、我々に4年の歳月を与えよ、しかる後、我々に審判を下せ!」
と訴えた。党の主要な演説は、ラジオ放送され、街頭のスピーカーからも流れた。
ナチス突撃隊の暴力は警察によって見逃された。
3月に投票が行われ、結果ナチス党は288議席を獲得した。
得票率は43.9%であり、単独過半数には及ばなかった。
しかし連立相手である国家人民党の52議席を合わせれば340議席となり、
過半数を越えた。
14 全権委任法
ヒトラーは閣議において選挙結果は「革命であった」と宣言し、
当初予定されていた憲法の枠内に収まる全権委任法ではなく、
憲法そのものを覆す包括的授権法である事を明らかにした。
ヒトラーは「かかる授権法を国会は可決するであろう。」と述べたが、
憲法改正的するためには国会議員定数3分の2の以上の出席、
そしてその3分の2の賛成を必要とし、さらに参議院の賛成も必要であった。
しかしヒトラーはこう続けた
「共産党の議員は国会開会の際に姿を見せることは無いであろう。
それというのも、彼らはあらかじめ拘禁されてしまっているであろうから。」。
ナチス突撃隊幕僚長らは、突撃隊を引き連れてバイエルン州首相官邸に押しかけ、
州首相ヘルトに辞職を要求。ヘルトは大統領に救援を求めたが、
「首相と相談せよ」という返事を得たのみであった。
ヘルトら州政府は解任され、国家弁務官にミュンヘンのナチス突撃隊指導者
エップが任じられた。これにより、すべての州が政府の統治下に置かれ、
州政府による自治は事実上終焉した。
閣議で全権委任法の具体的な案を提示。
政府に国会や憲法に制約されない幅広い権限を授与するものであった。
さらに「議長は許可を得ず欠席した議員を排除できる」
「自己の責任によらず欠席した議員は、出席したものとみなされる。
排除された議員も出席したものとみなされる」という
議院運営規則の修正案を出した。
新国会の開会記念式典が行われ、同日午後、国会に全権委任法法案と
議院運営規則改正案が提出。
また「国民高揚の政府に対する卑劣な攻撃の防衛のための大統領令が制定され、
「政府と政府を支持する政党」に反対する「虚偽の宣伝」を行うことが禁止された。
すでに緊急大統領令による拘束者数はプロイセン州だけで7700人を超えていた。
国会はヒトラーの言葉通り、共産党議員81人全員、そして社会民主党議員26人、
中央党・ドイツ人民党議員それぞれ1人は、逮捕・病気・逃亡などの理由で欠席した。
緊急大統領令によって議員を拘束できるナチス党に抗う事はもはや不可能であった。
議院運営規則改正案は起立多数で通過し、採択の時が迫った。
中央党も党に降りかかる災難を恐れて賛成に回った。
3月23日、ヒトラーはこの法律が
「国民と国家の指導の精神的かつ意思的統一を確立」するためであり、
「民族の意思と真の指導の権威が結びついた一つの憲法体制をつくりあげる」
ものであるとした。さらに国会や州、大統領の権限は侵されないと強調した。
議場をナチスの突撃隊が取り囲み、「われわれはこの法律を要求する!
さもなければ放火と殺人だ!」と叫ぶ中、唯一社会民主党が反対に周り、
党首ヴェルスが反対演説を行った。しかし抵抗はむなしく、圧倒的多数で可決された。
ナチス突撃隊員は歓喜して党歌『旗を高く掲げよ』を合唱した。
続いて開催された第二院でも、満場一致で採択された。
第二院の議員は州政府選出議員であり、指示を行う州政府がナチス党によって
握られた今、反対などできるはずも無かった。
こうして国会の立法権は政府に吸収され、議会政治は終焉した。
15 国家と党の一体化
3月31日、ラントとライヒの均制化に関する暫定法律が制定された。
これにより州議会の各党議席は国会の議席配分と同一のものに変えられた。
ただし、すでに禁止された共産党は除外されている。
4月には第二法律が制定され、国家弁務官にかわって州総督が設置された。
これにより中央集権化の動きは加速していった。
4月10日にはゲーリングがプロイセン州首相となり、
プロイセン州政治警察局が、プロイセン州秘密警察局に改組した。
この組織は「ゲシュタポ」と呼ばれる。
11月『秘密国家警察に関する法律』が制定され、ゲシュタポの権限は
国内全域に及ぶことになった。合議体であった内閣もヒトラーの独裁体制となった。
国会無効化に続く次の目標は、ナチス党以外の政治勢力の消滅であった。
6月社会民主党の活動が禁止され、財産も没収された。
この頃から他の政党も「自己解散」の道を選び消滅した。
11月ナチス党のみを対象とする国会議員選挙が行われ一党独裁体制が確立。
12月「党と国家の統一を保障するための法律」が制定され、
党は国家と一体であると発表された。党の組織はほぼ公的な組織となり、
ナチス党の地域区分である大管区の指導者が事実上の地方支配者となった。
16 強制的同一化
ナチス党の基本理念では、民族は国家社会主義運動にふさわしい考え方や
行動を取ることが当然であると考えられていた。
理想的な民族による民族共同体を、一人の指導者が率いる指導者原理によって
指導する体制がナチス・ドイツの理想とする社会であり、
党や国家はそのための手段であると考えられた。
州自治の停止や政党解体もこの動きの一つである。
大統領令により『国民啓蒙・宣伝省』が設立。
宣伝省が国民の意識を同質化する政策を行うことになる。
5月1日、「国民労働の日」というイベントが行われ10万人の労働者が集まった。
その翌日、ドイツ国内の労働組合はナチス突撃隊とナチス親衛隊の襲撃を受け
財産を接収され、解散に追い込まれた。
5月10日には「ドイツ労働戦線」が成立し、ナチス党による労働者の
組織化が行われた。5月26日には共産主義者の財産を没収する法律が定められた。
この頃から医師連盟から同好会に至るまでありとあらゆる団体は解体され、
ナチス党主導によるものに再編成された。街の社会的な組織はほぼ完全に根絶され、
「独裁者が歓迎するあの組織なき大衆へと鋳造された」。
出版・放送業界も宣伝省の監督下に置かれ、報道・表現の自由は消滅した。
このような動きに大きな抵抗は出ず、ヒトラーの山荘ベルクホーフは
ヒトラーの姿を一目見ようとする人々で賑った。
10月14日、ドイツは国際連盟から脱退。
ナチス党組織や行政組織による投票行動への監視は厳しいものであり、
投票場への組織的な駆り出しが行われた。
投票率が100%、ナチス党支持率が100%の地域がいくつか存在している。
投票内容自体も監視の対象であり、誰が反対票を投じたか監視できた。
国会議事堂放火事件の共犯者に無罪判決を出すなど、
一定の独立性を保っていた司法界もやがてナチス党の支配下に組み込まれた。
上級地方裁判所の上に「証拠調査の必要を認めないという確信を得た場合、
これを拒否できる」「判決に関してはいかなる法律上の救済も認めない」等
強い権限を持つ特別裁判所が設置された。
9月から刑法の見直し作業がはじまった。在来の法概念を根底から覆す
罪刑法定主義の放棄により、犯罪そのものだけではなく、
民族共同体に悪影響を及ぼす「犯罪への性向」も刑罰の対象とされた。
さらに1934年には人民法廷が設置され、ヒトラー・国家・ナチス党・
民族共同体に対する反逆はこの法廷で裁かれることとなった。
この法廷においては職業裁判官と別にヒトラーに指名された者が裁判官となり、
法律ではなくナチズムの見地から見て好ましい判決が要請される、
一種の政治裁判所であった。
4月7日にはユダヤ人が公職に就くことは禁止され、教育機関からも追放された。
17 長いナイフの夜
こうした動きの中で、不満を強めていったのがナチス突撃隊の幹部達であった。
彼らは、国軍にかわってナチス突撃隊が新たな軍となることを目指していた。
一方、ナチス親衛隊の長である親衛隊全国指導者ヒムラーは
各州の警察権力を徐々に手に入れていった。
1934年4月プロイセン州警察とゲシュタポの管理権限も与えられ、
親衛隊は実質的な全土の警察権力を手に入れた。
ゲーリングは、ナチス突撃隊幹部排除の計画を建てた。
6月頃からナチス突撃隊反乱のうわさが流れはじめ、情勢は不穏になった。
ヒンデンブルク大統領と国軍もナチス突撃隊に対する何らかの措置を求め、
もしもの場合は大統領権限で戒厳令を敷くと通告した。
ここにいたってヒトラーも突撃隊粛清の意思を固め、親衛隊に準備を命じた。
6月30日、ナチス突撃隊幹部達は集められ逮捕された。
ベルリンなどでもナチス親衛隊が動き出し、次々に逮捕・処刑した。
また前首相シュライヒャーやブレドウ将軍、元ナチス全国指導者シュトラッサー
などの政敵も逮捕・暗殺された。パーペンも自宅に軟禁された。
こうした「長いナイフの夜」と呼ばれる一連の粛清は7月2日まで続いた。
7月3日には「国家緊急防衛の諸措置に関する法律」が制定され、
この粛清は合法的なものであるとされた。
突撃隊は素行が悪く評判も悪かったために、粛清は大方の国民から
好感を持って受け入れられた。こうして党内の最大勢力突撃隊は骨抜きにされ、
親衛隊の勢力が大きく拡大していくことになる。
18 国家社会主義革命の完了
高齢であり衰弱していたヒンデンブルク大統領は死を迎えつつあった。
8月1日、緊急閣議が行われ、「国家元首に関する法律」が制定された。
ヒンデンブルク大統領が死んだ後に大統領の職を首相と統合し、
権限を「指導者兼首相であるヒトラー個人」に委譲するというものであった。
翌日大統領は死去し、法律が発効してヒトラーは国家元首の権限を手に入れた。
以後、ヒトラーの地位を日本では「総統」と称する。
この措置の正統性を問う国民投票が行われ、投票率95.7%、89.9%が賛成。
翌日、ヒトラーは肩書き無しの「アドルフ・ヒトラー」として
次のような布告を行った。
「国家社会主義革命は、権力事態としては終了した。これから1000年間、
ドイツにおいてはいかなる革命も起こらないであろう」。
こうして、ナチス党の権力掌握は完了した。
(麻生元総理 ナチスの手口に学べ)
2013年、麻生元総理は次のような発言をしました。
『ドイツでは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、
ヒトラーが出てきたんですよ。ヒトラーはいかにも軍事力で(政権を)
とったように思われる。全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。
ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。間違わないでください。
そして、ヒトラーは、ワイマール憲法という、
当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下にあって出てきた。
どんなに憲法がよくても、そういうことはありうるということですよ。
(中略)
憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、
ナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気づかないで変わった。
あの手口学んだらどうかね。もうちょっとさ。
リンク先の記事には、
もっと長い発言が掲載されていますので御確認下さい。
戦争を起こす要因として、自国を拡大したいという野望のほかに、
自分の国の内政がうまくいかず行き詰った時に、
国民の目を外へ向けるために、敵国をつくり、
戦争へと国民をあおっていくことがあるように思います。
経済学者の水野和夫さんは、
超低金利は資本主義終焉のサインと述べています。
(参考ブログ)
・超低金利は資本主義終焉のサイン
http://blog.goo.ne.jp/kucctada/e/09cf1cea25a1335838b138c5d46f953d
・富者と銀行には国家社会主義で臨むが、中間層と貧者には新自由主義で臨む
http://blog.goo.ne.jp/kucctada/e/63630d80a0009d22c820894623069394
・デフレも超低金利も「退治」すべきものではなく、 新たな経済システムを構築するための与件
http://blog.goo.ne.jp/kucctada/e/deea29385c4b5d1c60e661de1359fecc