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コハルママさんの「ふたり展」が開催されている東急東横線綱島から横浜経由で金沢文庫駅へ行ったので、サークルの仲間の集合には間に合わず、駅から金沢文庫まで一人で歩きました。初めての町を通りがかりの人に道を聞きながら一人でキョロキョロ観察しながら歩くのもいいものです。
称名寺の門前で金沢文庫はその境内にあることを知りました。金沢文庫も称名寺も有名なのに知らなかったとは迂闊でした
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鎌倉時代に北条一門の金沢氏が金沢文庫をつくって、和漢の書籍を集めました。鎌倉幕府滅亡時に金沢氏も滅んだので、隣接する菩提寺・称名寺が金沢文庫を管理したとのことです。
この門から称名寺です。
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称名寺の本堂は寝殿造のような池を前庭にしていました。
阿弥陀堂建築(平等院など)を模倣しているのかしら。
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現在の金沢文庫
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大学時代のサークルは仏教美術の勉強を彫刻・建築・歴史・絵画などのグループに分かれてしていました。私は1年の時に建築班、2年から絵画班に属しました。特に彫刻のグループのメンバーは他のグループより勉強熱心でまじめな人が多かったです。不勉強な私は現在でも仏像鑑賞の時は、そっと後について行き、みんなの話を聞いています。
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このポスターでアピールしているように、今回の目玉は三体の大日如来像です。誰でもがとりわけ注目するのは奈良県の円成寺所蔵の大日如来坐像(1176年作)ではないでしょうか。この仏像ができた頃は平清盛の全盛期でもあり、浄土教の盛んな頃でした。1175年には法然が天台宗の修行をすべて捨てて、専修念仏(南無阿弥陀仏を唱える)で極楽往生するという浄土宗を開いています。このようなことから、この時代は日本各地で阿弥陀如来像が作られていました。運慶もまた阿弥陀如来像を幾つかつくっています、が、円成寺の大日如来像ほど人々を引き付ける作品はないと思います。阿弥陀全盛期になぜ大日如来像を作ったのかしらと、今日は考えてみました。
(あと2つは真如苑の大日如来坐像(8日からの展示なので鑑賞できませんでした)、栃木県の光得寺所蔵の厨子入り大日如来坐像)
平安時代に京都仏師が強大な力を発揮している時、奈良仏師の一人である運慶は興福寺を拠点に天平彫刻を手本に腕を磨き、破損した仏像の修理に余念ない日々をおくっていたのではないかしら、、天平彫刻のシンボル・東大寺の大仏(毘盧遮那仏=密教では大日如来)を毎日仰ぎ見ていたかしら、と、思いをめぐらしてしまいます。
1180年、平清盛の命で五男重衡は興福寺・東大寺を攻撃、火を放ったので両寺は炎上しました。翌年、後白河法皇は南都復興の命令を出し、重源を大勧進職につけます。この南都の復興という大事業に参加した奈良仏師は日ごろ鍛えた力量を発揮し運慶・快慶の名を高めることになったのです。東大寺南大門の8メートルにも及ぶ金剛力士阿像・吽像を運慶・快慶の指揮の下に69日で完成しました。この大事業がなければ運慶の名はどれだけ残っていたでしょうか。このように仏師らの仏像作りは発注者の注文に応じて作品が出来上がるわけです。円城寺所蔵の大日如来像の発注者が誰であるか調べたことはありません、が、なぜ阿弥陀像ではなく大日如来像だったのか? 平安時代の大日如来像は妖艶な感じのものが多いのに、円成寺の大日如来像は若々しく、すずやかに生き生きと輝いています。大日如来像は密教の中心となる仏(ほとけ)です。世の中は極楽浄土を願ってはいましたが、これから歴史の中心に躍り出る武士や庶民は現世利益を求め、密教の中心仏である大日如来像への祈りを懇願したのではと思います。鎌倉時代の幕開け前にふさわしい仏像は現世利益の大日如来だったのではと、、、武士や庶民の新しい時代を作る息吹を感じさせようと若々しさを運慶はこの彫刻に彫りこんだのではと、今回の見学で感じました。日本の伝統的な仏像彫刻は運慶の後は人目を引くようなものはほとんどないようです。運慶で頂点に達した仏教彫刻はその後の発展はなかったといっても過言ではないと思います。
今日の鑑賞の感想です。大学2年の時に初めて円成寺のお堂の中にひっそりとお座りになっている大日如来さまを拝観した時は運慶の若い時の作品なので若々しさがでていると思い、魅せられました。もし、10年後に再び円成寺の大日如来像に出会えたらどのように感じるかしら・・・・。
今回、ガラス越しではありますが、照明も程よく、ガラスを感じないで拝観できます。
円成寺にお帰りになると多宝塔の中に安置され、十分な鑑賞は不可能だと聞いておりますので、是非この機会に鑑賞されることをお薦めします。