持続する夢

つれづれにふと気づいたことなど書き留めてみようかと
・観劇生活はえきさいてぃんぐに・日常生活はゆるゆると

近代能楽集/弱法師 3/3

2005-07-18 20:51:50 | 演劇:2005年観劇感想編
7/18のつづき>
蜷川幸雄氏は。舞台の上に全身全霊を投じることのできる演者を好む。自分の内側から。感情をわしづかみにし、舞台に投げ突けてしまえる役者を好む。

藤原竜也氏は。そのデビューの経緯からも、天才少年の呼び声が高く。ただ、その演目の『身毒丸』が苦手とする題材だったために、観ることなくここまできた。天才という響きから、感覚先行型(←こういうのも好き)を連想するのは短慮かとも思うが。ニナガワ氏への先入観も手伝って、そのように思い込んでいたことは事実。
実際に見た藤原氏の演技には。所作や声色の隅々にまで、緻密な計算がきちんと見えた。見えるから、まだ完成されていないね、なんてちょっと思ったりもする。そうだ、この年齢(現在23歳)で完成していてたまるもんか、と思ったりもする。

前置きはここまで。いまだかつて無い、不思議な体験をした。
世界の終焉の絶望を語る場面では。たとえば二通りの演出が考えられると思う。今作のように激情にまかせて叫ぶこと。極限まで抑えて語ること。三島由紀夫原作であるから、おそらくは後者のほうが適当であろうと考える。演者が藤原氏でなければ、だ。
フジワラが、ニナガワのミシマへの挑戦を可能にしている。美しい世界感を構築した作家。あれだけの言葉を駆使して作り上げた世界は。少しでも崩したら、二度と戻すことは叶わないと思われる。なのに、観たのは。崩した後に、より大きく再生された舞台だった。

藤原氏が、全力で叩きつけた感情は。板の上で跳ね散って。客席にまで届く。それに、捕えられて生まれ膨れ上がっていく、恐れや不安。が。あろうことか・・・! 彼の内に吸い込まれていって昇華される。多分。これが、『藤原竜也』の真骨頂なのだ。
こんな役者を使いこなせて。手放す演出家がいるわけがない。蜷川さんごめん。執着の理由を、観もしないで、わかる気がするなんて言ってたこと。そんな次元ではなかったんだ。

失礼を承知で言う。藤原氏はまだ完成されていない。だから。彼が、どこに向けて、どのように変貌していくのかを。今なら、追って見るのに、まだ間に合う。だから、観ていこう。

3回連載、おつきあいくださった方。ありがとう。以上、現段階で感じたことは全部書いたかな。願うのは。竜也くんを、最初からずっと見つめていたファンの方々に失礼になっていなければ良いな、ということ。何ゆえ彼に関しては新参者なので、異論反論大歓迎(もちろん賛論はもっとも嬉しいけれど←小心者)。

近代能楽集/弱法師 2/3

2005-07-18 00:33:03 | 演劇:2005年観劇感想編
7/17のつづき>
舞台は、赤く染め上げられ。美しい夕暮れが表現される。しかし、室内は、暑く不快なのだと説明されている。そこで、藤原竜也氏によって声高に語られる「この世の終わり」。彼の、はだけた肉体から訴え出る絶望には。感情を揺さぶられ続けて、身動きが取れなくなる。彼が身を揉んで訴えるたびに、見たことのない空襲が、見えるような錯覚に陥る。

この間。微動だにせず、傍らに立ち続ける夏木マリ氏は。彼の感情に一切揺らぐことがない。調停員として「複雑な事情なんて、ただのお化けです」と言い切った彼女は。彼ひとりが何を言ったとて、変わることが無い現実の代弁者。彼女は、まるで舞台に穿たれた楔のようで。ぐらぐらと悪酔いしてしまいそうなところに、安定を与えてくれる。劇場全体が、空襲の炎を信じる頃に。「ただの夕映えよ」と断言し。現在に引き戻してくれる。

そして。否定を受けた俊徳は、諦念へと揺らぐ。上半身脱ぎ捨てた服によって、さえぎるものなく感情を発散していたというのに。すでに、裸身は無防備でしかなくなっている。彼は、庇護の手なくしては生きることのかなわない子ども。信じる支(つか)えを失って、放心しても強がる癖は抜けなくて。人払いを要求するけれど。それすら彼女は毅然とはねのける。「あなたと一緒にいるわ」「少しだけあなたを好きになったわ」。そして。「簡単な頼みごとをしてくれれば出て行きましょう」。かすかな色気を含む一連の言葉は、甘く。疲れた意識に滑り込む。

言葉どおり、食事の依頼を引き受けて。ここでおとなしく待つようにと、優しく俊徳を椅子にいざなう。彼は、世話を許すのではなく、彼女だけには望むのだろう。だから、最後の台詞を口にするのだ。
(今更かもだけど、ここから隠します。反転表示で→)だが、舞台の光景はここで一変する。セットの幕が落ち。そこは瞬時に、整然とした虚無の空間に変わり果てる。彼女はそれに微笑を与えて去っていくのだ。たった独りで座る彼を残して。かすかな怒号に耳をすませ。それが三島氏自決前の市ヶ谷自衛隊駐屯地での演説なのだと気付くころに、暗転。

観劇後。5年前の舞台に思いを馳せた。藤原氏の肉体は、華奢な少年であったに違いない。ならば、叫びはもっと幼稚に響いたかもしれない。高橋惠子氏の桜間であれば。母性強く俊徳を包んだかもしれない。舞台に年齢はないというけれど。そうとも言い切れないことも多くある。藤原氏がしっかりとした青年になった分、妖艶な夏木氏が良く合っていた。

さて、明日は。お待ちかね(の人、いてくれるかな)。衝撃の役者、藤原竜也氏について。

近代能楽集/弱法師 1/3

2005-07-17 17:58:44 | 演劇:2005年観劇感想編
キャストはこちらの記事に。そろそろ千秋楽の時間。ネタバレ考慮なしでいきます。

子ども親権の主張を行う裁判劇。中央に調停員席。両脇に育ての両親の席と、実の両親の席。舞台の中心に、当事者である子どものための椅子が準備されているが。主役は不在だ。養親も実親も。どちらも、彼を本当に愛していることが、主張から感じ取れる。

このままでは埒があかぬと、俊徳が呼ばれる。客席通路にて、ピンスポットに照らし出される藤原竜也氏は。佇むだけで、息を飲ませる存在感を持つ。黒眼鏡をかけ、純白のスーツに身を固め。盲目のため。白い杖をつき、階段を進む彼に。思わず手を差しのべたくなり。だが、強い拒絶を察知して留まる。舞台の中心は、客席にあってはならない。用意された椅子に彼が辿りつくまでを、ひどく長く感じる。掛けるまでを見届けて、ほっと吐息する。

大人たちは、俊徳の目が見えないことだけを憂う。けれど。彼の絶望は、そんなところにはなく。藤原氏の、浅はかな二組の両親を貶めるための、地を這うような低い声に驚く。この世の終わりをみた人間の、奥底に横たわる絶望を絞り出せばこんなになるのかと思わせる声色。「目の開いている者は形しか見ない」と、謂われのない蔑みに甘んじる両親を奴隷と呼ぶ息子。場は常に、彼の作り出す空気に支配されている。煙草を要求し、「吸っている間は、煙のための時間」という言葉に、両親とともに安心する。それは。しばらくは彼から解放されて良いという許可だから。

調停員の桜間と二人で話すうち。夕刻が訪れ、室内は西日に照らされて真っ赤に染まる。触発されて、俊徳が語り始める。たった5才でみた地獄絵図を。真っ赤な戦火につつまれて、視力を失った日に最期に見たものを。幼い彼が、世界の終わりを信じて絶望したとて、仕方がなかろうと思える光景が。言葉と、視力をもたぬ瞳によって展開される。正気と狂気の間をさまよう精神。正常に戻った世界を見ることの叶わない、彼の中に持続する恐怖。

けれど。桜間を演じる夏木マリ氏は。その場に凛と立ち、俊徳を真っ向から否定する力を持っている。そして、その力が俊徳に、現実世界を受け入れる隙間を作る。
愛情確認のために場を支配してきた俊徳。それに魅入られるだけの大人たち。だが、否定と愛は別次元にあることを知り、無防備に感情を晒して座り込む俊徳。彼のために場を去る桜間への台詞で舞台ははねる。「僕ってね。どうしてだか、誰からも愛されるんだよ」

続けます。たった45分の舞台が連載? というツッコミ、甘んじて(笑)受けます。

近代能楽集/卒塔婆小町

2005-07-17 03:06:52 | 演劇:2005年観劇感想編
蜷川幸雄プロデュース『近代能楽集』を観劇。公演詳細はこちらの記事に。

老女と詩人が、客席後方から両通路を通って登場。腰の曲がった老女に合わせ。それはもう、ゆっくりと。恋人同士の掛けるベンチで、捨てられた煙草を拾い集める醜い老女と。それを所在無げに見つめる詩人。老女の所業は、恋人たちの邪魔でしかなく。愛を見つめにきた詩人はとうとう声をかける。登場時から、不毛な会話の間中。舞台には椿の花の降る音が、続いている。丸ごと落ちる椿の、赤い色が、板の上に増えていく。

鹿鳴館、華やかなりし頃の話。老女は小町に、詩人は青年将校に。二人の恋物語が始まる。舞踏のシーンで手を合わせるときに。体半分にまで、折れ曲がっていた老女の腰は。すっきりと伸び。99歳は、19歳へと見事に変貌する。「お踊りあそばせ」と、優雅にさし出される指先。演じる壌晴彦氏は。近代の貴族令嬢の高貴さを、仕草でみごとに表現していて。彼女を褒めそやす周囲の言葉の数々は、すんなりと納得できる。今の時代に、こういうことを体現できる役者さんは、あと、どれほどいるだろうか。

舞台後方から、客席に斜めに向かう照明が。役者を照らし、両脇の白い壁に大きな影を作る。影絵となって恋物語は進む。深草少尉の百夜(ももよ)通い。99日で、小町を「美しい」と言って命を落とした深草少尉に、99年目に出会った詩人が重なる。純愛を求め、受け入れ。それでも。死を恐れ、恋から目覚めさせようとする小町。瞬間的に恋に身をこがす詩人には、高橋洋氏。申し訳ない。初見の記憶があまりに鮮明で。高橋氏に、井上倫宏氏を重ねてしまったのは、どうにもならないこと。ただ。それは、なんだか。小町の気持ちに思えたのだ。足元にひざまづく詩人に、彼女はきっと深草少尉の面影を追っている。

本当に喪われる命は。小町の信じる力のなせることなのか、詩人の運命だったのか。至上の恋を知り、美を語り。命尽きる。恍惚の表情のまま、ゆっくりと。小町の元に気持ちを置き残して、仰向けに、倒れ伏して、屍になる。満開の、もっとも美しい完全な姿のままに、花を落とす椿のように。こんな幸せも、なかろうと思う。「百年後、またどこかで逢う」「もう一度、貴女にめぐり逢う」という最期の言葉。ベンチに腰掛ける卒塔婆小町は。このまま、もう百年も待ちそうで。そのときの彼も彼女を美しいと言うのだろうか。独り残されて、老いさらばえて待ち続ける。もと美しかった女への憐憫の情で、いっぱいになる。

降り続ける椿の音は。初見時には、いびつに刻まれる「時」の音だと思ったのだ。その思いは変わらない。でも今日は。舞台が生む、まばらな拍手のような気もした。・・・いややわ。芝居が芝居やからって、詩人みたいなことをゆーてるしっ(照)。『弱法師』はまた明日。

電車男 #2

2005-07-15 00:24:30 | テレビドラマ
フジテレビ 『電車男』 
原作:中野独人
脚本:武藤将吾
出演:伊藤淳史,伊東美咲,小栗旬,六角精児,温水洋一,秋吉久美子 他


帰宅したら。まだやってた(野球で延長していたんだね)、ということで視聴。予想外に面白くて。30分間だけど、楽しめた。
電車男が、勇気を出して、エルメスをお食事に誘ってる。伊藤くんの挙動不審ぶりが、なんとも上手で。。もちつけ(落ち着け)! だなんて(笑)。思わず、ネットの住人化してしまうよ。お食事の約束をとりつけたところでの祝福の文字の嵐には。感動してしまったじゃないか。どうにもなじめない、あの、記号で作るイラスト(←調べました。アスキーアート)が。つい、良いものに見えてしまったじゃないか。

このところ、パソコンに向かっている時間が長くなっているし。文字だけでつながる関係というものが、ちょっと(←ちょっと?)理解できるようになってきているから、余計にそんな気になるんだよ。原作本は、出版時には、普通に読み流してしまったのだけど。今読んだら。また違った感想を持てるのかな、なんて思ったり。

ストーリーは。かなり、というか。まんまの展開なので、1回目を見逃していても大丈夫。ドラマでは、本には書かれなかったエルメス側の話が挿入されるんだね。たしかに。中谷美紀似の美人さんが、電車男と付き合う気持ちになった背景は、知りたいところではある。

それにしても。タイトルクレジット、流れるの早いよっ。覚えきれやしない。ということで、今日のヘッダーは手落ちだらけ。役者さんなんてほとんど好みの(←え?)記述だし。なんにしても。この調子なら見続けたいから、次回分は録画してみよう。

秋の。武田真治くん主演の舞台は、できるだけ観劇予定。
映画は見ていない。まだやってるのかな。行きたくなってきたなぁ(←かんたんなやつ)。佐々木蔵之介さんが出演しているんだよなー。誰か誘ったら、ノってくれるかな。

おとなの夏休み #2

2005-07-14 01:31:08 | テレビドラマ
日本テレビ 『おとなの夏休み』 渚のピンクレディ
演出:雨宮望


本日の音楽。ピンクレディ『渚のシンドバット』。懐かしさ全開。先週は『勝手にシンドバット』。ちなみに今のBGMは『KUWATA KEISUKE TOP OF THE POPS』。桑田くん、好き♪
海の家。順調だなぁ。とんとん拍子だなぁ。いいなぁ。なんて、ぼぉーっと見てる。食品衛生士(だったっけ?)の資格はあんなに簡単にとれるのかな。ま、いいかぁ。なんて具合。

中島知子氏演じる壽美子。とりあえず、癌ではなかったんだ。よかった! でも、若年性更年期障害という診断は。いくら「若」という文字がついていたって、落ち込むね。「そんなん、いややー」とか言って、一緒に飲める友達とかいないのかな。寂しいな。会社はやめられなくて。両立なんてできないとわかってるのに。海の家が、どうしても必要なんだね。
そっか。きっとこんな風に。寺島しのぶ氏の演じるみゆきにも、必要なんだね。

今回は。みゆきさんの、だんなさまが面白い。いるよね。ああいう理屈をこねる男性。「そういう記憶で勝負するのは反則だ。記念日とか思い出とか・・・男は牛みたいに反芻しないから」の言い方が、ちょっとツボ。かなり弱気に言い始めたくせに、終わりは強気だったよね。だけどさ。楽しいことを思い出さなきゃ、続けられない仕事だったりするじゃない? 主婦は。旅行くらい、もうちょっと頻繁に連れてってから言おうね。そういうセリフは。

たぶん、誰に肩入れすることもなく、感情移入することもなく見ているから。とても楽。感想だって、気の抜けてることこの上ないね。でも、こういうのもいい。なんたって、音楽が心地よくて。しばらくは。一週間に一回、夏休み気分を味わえるってことだ。
    <特記事項>
  • 秋山菜津子さん。お医者さまだったのか!
  • 課長の「俺が便所に誘ったらどうよ」に。「行きましょ」ってどうよ? オークラさん

HEDWIG AND THE ANGRY INCH (3/3)

2005-07-12 00:02:51 | 演劇:2005年観劇感想編
7/11のつづき> 白い部分は隠しています:反転表示形式です
このステージの上での、三上博史氏は。ヘドウィグの喜怒哀楽の隅々までを、表現し尽くしていて。その全てを、歌と台詞に乗せて送り出してくれる。耳から入った声は、そのまま胸に響く。アタマで歌詞の意味を咀嚼しなくても。胸が感じて、痛む。

ヘドウィグがハンセルだった頃、母から聞かされた物語は。人は。元は、二組の手足と二つの顔を持っていた。けれど、神によって引き裂かれ、分離してしまう。人は。失った「カタワレ」を捜し求め、出会ったときに「愛」を知る、というもので。彼女は、全身に傷を負っても、手当てもせずに。この愛だけを探し、求め続けている。「笑ってなきゃ、泣いてしまうでしょ」くらいの、ぎりぎりなところで生きている。いっそ、あきらめてしまえれば楽なのにね。。

楽日だったからなのか。カーテンコールのお終いに、『三上博史』が歌ってくれた。彼の歌は、ヘドともトミーとも違って。とても繊細で。いいことなのかどうか。どちらの人格も、完全な芝居だったことがわかってしまう。彼の、役者さんとしての魂を。丸ごと差し出されて、受け止めていたのだとわかってしまう。彼は、ずっと独りで観客の感情をかき立てて。我々から跳ね返ったそれを、全身で受け止めて。より増して戻してきていた。こんな真剣勝負を、舞台の間近でしてしまったら。虜にならずにはいられないだろう。彼(彼女)のもとへ通うしか無いだろう。あらためて、ヘドヘッドの言葉の重さを知る。

残念なことに。三上氏は、この公演を最後にすると発言している。ヘドウィグのパワーが保てなくなるくらいなら、封印したいのだそうだ。並大抵の精神力では足りないのだろう。残念だと思う気持ちは強いけれど。ここまで役を愛せる純粋な彼を、素晴らしいとも思う。

あ、そうだ。最後列は、そう悪くもなかったよ。もう一列後ろには、当日券組の補助席があったから。中途半端な後席より、よっぽど熱かった。でもね。もしも、次があったら。そのときは頑張るね。もっと近くで、三上さんの表情まで、しっかり追ってみたいから。

結局。3夜連続となりました。おつきあい頂いたみなさま、感謝。ほんとにありがとう。

HEDWIG AND THE ANGRY INCH (2/3)

2005-07-11 00:19:22 | 演劇:2005年観劇感想編
7/10のつづき> ここは、というところだけ隠します。反転表示になっております。
東ドイツに生まれた少年ハンセルは自由を得て、ロックシンガーになる夢を叶えるため、アメリカ兵との結婚を決意。性転換手術を受ける。ところが股間には手術ミスで「怒りの1インチ(アングリーインチ)」が残ってしまう。渡米を果すも離婚、しがないロックバンドを組み、ベビーシッターなどをして暮らす。やがて17歳の少年トミーに出逢い、愛情を注ぐが、トミーはヘドウィグの曲を盗んでビルボードNo.1のロックスターに上り詰める。裏切られたヘドウィグは自らのバンド「アングリーインチ」を率いて、ストーカーのようにトミーの全米コンサート会場を追う…。
新しく踏み出すときには、大切なものを捨てなきゃと。勧めたのが母親だとは考えもしなかった。自分のパスポートを与え、名を渡してまで。母親は、息子に何を託したのだろう?

舞台後方の扉を開くと。まばゆいライトが瞬いている。大きな歓声が、遠く聞こえてきて。そこがトミーのステージなのだとわかる。マイク越しの、トミーの声も聞こえてくる。いくら、期待を込めて耳を凝らしてみても。彼の話に、ヘドウィグの名前が登場することはない。傷ついているのだろうに。ヘドは、女のシナを作りながら、笑い飛ばしてみせる。お下劣な単語を、山ほど盛り込みながら。子どものころから今までの、悲惨な道のりを。殊更に明るく語って聞かせる。でも、それは強がりでしかなくて。。

あるところで。感情が最大限に膨れあがり、それに堪えかねて、ステージに、壊れて突っ伏してしまうヘドを。ただ、見守るしかない我々は。切なさに堪えかねて、泣きたくなる。
全てをむしりとって。生身を曝け出したときに。胸から何かを取り出して、潰したところまではわかった。が、それが何かというところまでは、後席からでは見えなかった。「それ」の正体が判明。「トマト」。吐き捨てるように語られた過去に、トマトは在った。群衆が、彼女に大量に投げつけた嫌悪感の実体。なのに、彼女は「そんなもの」を胸に入れなければ、女形が保てなかったという事実。見えていなかったものがわかって、つながったとき。遅ればせながら泣けてきた。できれば、あのときあの場で、一緒泣いてあげたかった。と、後悔の念で泣けてきた。(ソースは、昨日TB頂いた、徒然...観劇日記さま)

倒れ伏す間。ずっと響き続ける楽器の音は。全身を(椅子ごと)振動させるくらい大きくて。ひどく耳障りで、だけども救いだ。そして、彼女は立ち上がる。誰の手も借りることなく。独りで歩き出す。これは深い絶望の物語であるのと同時に。しなやかな再生の物語でもある。トミーが優しく歌う。みんなが静かに聞けば「彼女に」聞こえるかも、と言って優しく歌う。ヘドウィグはカタワレを探し続けるだろう。また、したたかに、下劣な話をしながら。内に、痛みや哀しみを内包したまま。ずっと歌い続けるのだろう。ならば、我々は拍手を送り続けよう。

三上博史氏のことを続けて書きたくて。ごめんなさい。昨日のタイトルを訂正しました。

HEDWIG AND THE ANGRY INCH (1/3)

2005-07-10 02:53:39 | 演劇:2005年観劇感想編
ロックミュージカル 『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』
劇場:シアタードラマシティ
期日:2005/7/9
作:ジョン・キャメロン・ミッチェル
作詞/作曲:スティーヴン・トラスク
翻訳/演出:青井陽治
音楽監督/編曲:横山英規
出演:三上博史,エミ・エレオノーラ,"THE ANGREY INCH"BAND


舞台上に登場したバンドメンバーによる音あわせが始まる。「HEDWIG!!」という呼び声に。客席をぬって主役は登場。満場の拍手、総立ちの客。ドラッグクイーンな、彼女のライヴが。さあ、始まる。

劇場に近づいたときから、違和感はあった。シルバーのウィッグをつけたヘドヘッドたち。客席にはペンライトがまたたいて。しょっぱなから総立ちらしいぜ、の噂は真実。チケットを取るときは、わざと最後列を選んだ。正解だと思、、ったのは。最初だけ。。あぁそうさ。思い出したよ。ロックもヘヴィメタもパンクも大好きだったよ。ライヴは、ノッていこうぜっ。テンション上がるよ、この音楽は。(雰囲気を味わいたい方は→映画のHPですが)

ロックシンガー、ヘドウィグは。なんとも細い足にハイヒール。細い腰と、突き出た胸に尻(←久しぶりのエロ視線)。どうやら我々は。シアタードラマシティに、ではなく。アメリカのリバーサイドホテルに、ヘドウィグを観に行った客らしい。ビッグネームのトミーとの、スキャンダラスな裏話でも聞けりゃいいかと、紛れ込んだ客らしい。

ソウルフルな歌の合間のMCは。ヘドは、「なんだかぶちまけたい気分」らしく。おとなしく付き合うことになる。舞台上のスクリーンには、なんともタイミングよく絵や写真が映しだされるものだから、脳内補完は完璧で。いろいろが、すんなりと理解できてしまう。

わかったら、「はい」と答えなさいよと言われ。従ってみたら、ここはアメリカなのよ「Yeah」ぐらい言えないの?とダメだしをくらう。三上さんヘドが、たんすクロゼットから引っぱり出してきたという、昔なつかしの写真に笑ったら。「アジア系の顔立ちよね」なんて先回りされて、噴きだしたり。虚実いり乱れる客いじりに無性に楽しくなってくる。

書きたいことが山ほどあって、まとまらない。ちょっと冷やしてみるね。続きは明日にでも。

礎(いしずえ)

2005-07-09 00:02:24 | 演劇:2005年観劇感想編
劇団♪♪ダンダンブエノ 四周年記念公演 『礎』
劇場:IMPホール
期日:2005/07/08
作:倉持裕
演出:近藤芳正
出演:松嶋尚美(オセロ),酒井敏也,山西惇,近藤芳正


あなたの、とても大切な人が。何かを、ずっと言いたげにしているよ。ひどく言いづらそうにしているよ。あなたは、察してあげたいと思った。。

本日ソワレにて、日本列島大楽日。久しぶりに遠慮なく。人は。良くも悪くも、自分を基準に生きている。人の心を計るときにすら、そこからは逃れられない。富豪男は、先輩はきっと借金が言い出しづらいのだと思った。用意した、大金入りの鞄。後輩から貸されて、万が一にも先輩の気持ちを傷つけてしまわぬよう。他人を手配する。まるでメビウスの輪を描くかのような、上下関係の人間模様。
鞄の形をした、間抜けな善意を抱えて芝居は進む。時折。満天の星空に現われる、不思議な物体(←UFOなんて即物的に呼んではいけない♪)を見上げながら。芝居は進む。

結局。三ヶ月も言いよどんだ内容が。仲違いの仲裁だったと知って、男は落胆する。自分は、そんなことすら頼まれづらい男かと。あなたの中に住まう俺は、その頼みをされて一体どう答えるのかと。この謗(そし)りを受けた先輩は言う。おまえの中の俺は、何を言い出すのかと。おまえは俺が何を言えば満足するのだ、と。
片や、上下関係の上にいる、大学教授の夫は。もと教え子の妻に。なんとか自分の弱みを見せて同等になるべく、病気だと偽りを言う。オカド違いの愛情だと気付き、嘘だと告白し。妻が安心したと泣いてくれたとき。教授は、ようやく同じ高さで、安心して共に泣く。
大切なのは。人を想う心。きっとそのきもちこそが、にんげんの「いしずえ」なのだ。

カーテンコールで。「わたしは、良かった」と照れながらいう尚美ちゃんに。「そやな」という拍手がおきて。「またやろうね」と山西さん(久しぶりだったけど、やっぱり山西さんの芝居好きだぁ)と握手する二人に。「ええな」という拍手がおきて。なんだか、打ち上げに参加しているのかと錯覚したよ。素になっちゃうと、いきなり声がとおらなくなってしまう酒井さんと。なんとなく、こういうのが苦手そうな近藤さん。いいカルテットだったよね。

つい最近。メールで「ダンダンブエノは面白い」と、お墨付きをいただいたばかり。なぜか、本日急遽、夕刻より京橋にて打合せ。長引くか、おつきあい酒か、と思いきや。18時過ぎに、まさかの現地解散。そりゃあ、劇場まで歩いてみるさ。当日券の列が流れていれば、とりあえず並んでみるさ。劇場に一人で入ることは厭わないので(意外と多いんだよ)。ちゃっかり、席におさまった。「縁」ってあるよねぇ。縁の無いものって、すごく頑張っても、席にたどりつけなかったりするもん。
ダンダンブエノ。金曜夜の、疲れた脳ミソには効き目抜群で。縁のあった自分で、嬉しい。