慶長五年(1600)に毛利秀元の居城として改修された串崎城
いい石垣なのに、あまり知られてないようで、検索しても公式な案内はほとんどありません
どうやら関ヶ原合戦後、防長二カ国に減封となり萩城を居城にした毛利輝元。毛利秀元(元就の四男)(※)は六万石を配分されて串崎城を改修し、長府藩祖となったようです。しかし、やがて元和元年(1615年)幕府による一国一城令によって櫛崎城は廃城。
そんな時期限定の串崎城。修理改修がなければ、慶長五年以降の石垣になります。
わずかな遺構ですが、結構重要かも
下関のホームページより
大内氏の家臣・内藤隆春(ないとうたかはる)の居城として使用された後、毛利秀元(もうりひでもと)が再建し、居城としましたが、元和(げんな)元年(1615)、一国一城制(いっこくいちじょうせい)によって解体され、今では整備された石垣が残されています。この城跡(しろあと)からは、長府の町と周防灘(すおうなだ)が見渡せます。
※毛利秀元は毛利元就の四男穗井田元清の長子で、長らく嫡男に恵まれなかった毛利輝元の養子となった人物である。後に輝元に嫡男秀就が誕生したことから別家をたてた。
いい石垣なのに、あまり知られてないようで、検索しても公式な案内はほとんどありません
どうやら関ヶ原合戦後、防長二カ国に減封となり萩城を居城にした毛利輝元。毛利秀元(元就の四男)(※)は六万石を配分されて串崎城を改修し、長府藩祖となったようです。しかし、やがて元和元年(1615年)幕府による一国一城令によって櫛崎城は廃城。
そんな時期限定の串崎城。修理改修がなければ、慶長五年以降の石垣になります。
わずかな遺構ですが、結構重要かも
下関のホームページより
大内氏の家臣・内藤隆春(ないとうたかはる)の居城として使用された後、毛利秀元(もうりひでもと)が再建し、居城としましたが、元和(げんな)元年(1615)、一国一城制(いっこくいちじょうせい)によって解体され、今では整備された石垣が残されています。この城跡(しろあと)からは、長府の町と周防灘(すおうなだ)が見渡せます。
※毛利秀元は毛利元就の四男穗井田元清の長子で、長らく嫡男に恵まれなかった毛利輝元の養子となった人物である。後に輝元に嫡男秀就が誕生したことから別家をたてた。