被爆の実相、写真で伝える 被爆者代表の深堀さん
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG09H15_Z00C17A8CC0000/ 2017/8/9 11:19 日本経済新聞 電子版
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「原爆が投下された1945年8月9日。私は16歳。爆心地から3.6キロ地点に学徒動員されていました。
11時2分、白い閃光と爆発音を感じて、慌てて机の下に潜り込みました。夕方帰宅命令が出て 山の中腹まで来たとき、逃げてくる多くのけが人に「山の向こうは一面火の海だから」と制止され、
翌朝、電車の線路に沿って、歩き始めました。長崎駅の駅舎は焼け落ち、
見慣れた町並みは消えてなくなり、別世界に迷い込んだようでした。
ようやくたどり着いた山王神社近くの親戚のうちは、倒壊していました。
その中で、家の梁を右腕に抱きかかえるようなすがたで18歳の姉は、息絶えていました。あのとき私が無理をしてでも家に帰っていれば、せめて、最後に声をかけられたのではないかと、今でも悔やまれてなりません。
その後、大学病院へ向い、さらに丘を越えると、
眼下に浦上天主堂が炎上していました。涙があふれるとともに、怒りを覚え
「ああ、世界が終わる」と思いました。
この平和公園の横を流れる川には折り重なって死体が浮いていました。」
「8月12日、母と弟と3人で、材木を井桁に組み、姉の遺体を荼毘に付しました。その日は晴天でした。頭上から真夏の太陽が照りつけ、顔の正面からは熱気と臭気が迫り、目がくらみそうでした。
母は、少し離れた場所で、地面を見つめたまま ただ、祈り続けていました。」
中略
「私は、核は、人類と共存できない、と確信しております。
2011年3月、福島第一原子力発電所の事故が発生し、国内の原発は一斉に停止され、核の脅威におびえました。しかし、リスクの巨大さにあえいでいるさなか、こともあろうに次々と原発が再稼働されています。
(カメラ、安倍総理大臣をとらえる)
地震多発国の我が国にあって、いかなる厳しい規制基準も、地震の前には無力です。
原発偏重のエネルギー政策は、もっと自然エネルギーに軸足を移すべきではないでしょうか?」
「戦後、平和憲法を国是として復興した我が国が、アジアの国々をはじめ、世界各国から集めた尊敬と信頼は、決して失ってはなりません。
また、唯一の戦争被爆国として、果たすべき責務も忘れてはなりません。
私は1979年、生き残った有志6人で、原爆写真の収集をはじめ、これまでに様々な人たちが撮影した4000枚を超える写真を収集検証してまいりました。
原子雲の下で起きた真実を伝える写真の力を信じ、これからも被ばくの実相を伝え、世界の恒久平和と核廃絶のために微力を尽くすことを、亡くなられた御霊の前に誓います。
平成29年8月9日 被爆者代表 深掘好敏」