異教の地「日本」 ~二つの愛する”J”のために!

言論宗教の自由が保障され、ひとりひとりの人権が尊ばれ、共に生きることを喜ぶ、愛すべき日本の地であることを願う。

NHK【クローズアップ現代】震災6年 津波と原発事故 行方不明者捜し続けて(2.017.3.09放送) ~がんんばれ、NHK現場職員!!

2017-03-14 19:37:51 | 東北大震災

※森友学園といい、原発事故報道といい、最近のNHKは様子がかわってきているようの思える。以前程ではないが、NHKスペシャル、またクロヨンらしい番組が見れるようになったのでは。がんばれ、現場の職員!!

クローズアップ現代http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3948/1.htmlより転載

No.3948  2017年3月9日(木)放送

震災6年 津波と原発事故 行方不明者捜し続けて

6年前、この場所には、8.5メートルの津波が押し寄せました。
こうした津波に加えて、福島県は原発事故により、多くの人がその暮らしを一変させられました。

こちらのポスターは、原発がある大熊町で暮らしていた木村紀夫さんが、行方不明になった家族を捜すために作ったものです。
今回の東日本大震災では、いまだ行方が分からない人が2,550人以上に上ります。
私たちは、震災直後から木村さんを取材してきました。
津波で行方が分からなくなった大切な娘を、原発事故で十分に捜すことさえできずにいた、木村紀夫さんの6年間です。

震災6年 津波と原発事故 娘を捜す父 6年の記録

今も自宅が帰還困難区域となっている木村紀夫さん。
長野県白馬村で避難生活を続けています。

長女の舞雪さん。
震災当日は小学校に避難しており、命を取り留めました。
あれから6年。
失った家族の話題が出ることは、ほとんどありません。

木村紀夫さん
「なんでここに、紅しょうがが出てるの?」

木村舞雪さん
「忘れていた。」

仲よし姉妹だった、舞雪さんと汐凪ちゃん。
汐凪ちゃんは、明るく活発な女の子でした。

明るい性格の妻、深雪さん。
笑い声が絶えない家族でした。
そんな家族を引き裂いた、あの日の巨大津波。
隣町の職場から駆けつけようとした木村さん。

飛び込んできたのが、原発事故のニュースでした。
警戒区域となった自宅。
捜索の許可を待つ時間だけが過ぎていきました。

木村紀夫さん
「時間がたったことで、見つかる確率は低くなっていると思うし、原発がなければ、こんなことなかったので。」

ようやく立ち入りが許可されたのは、震災から3か月がたった時のことでした。
しかし、現場にとどまることができるのは、2時間だけ。

妻、深雪さんの車が見つかりました。

木村紀夫さん
「免許証がある。
間違いない。」

その後、深雪さんの遺体は、40キロほど離れた沖合で見つかりました。
しかし、汐凪ちゃんは手がかりさえ見つかりません。
木村さんは、町への一時立ち入りの許可が得られるたびに、捜し続けてきました。

汐凪ちゃんがお気に入りだった靴が見つかったのは、1年後のことでした。
靴が見つかった場所の一斉捜索を警察に依頼しようと考えましたが、放射線量が高く、断念しました。

木村紀夫さん
「捜索している警察官は若い子が多かった。
それを見ていて、当時、(放射)線量も高かったし、汐凪を探すために、ここを徹底的に探してくれとお願いできなくて。」

その後も木村さんは、誰にも頼ることなく1人、汐凪ちゃんを捜し続けてきました。
震災から3年の月日が流れたころ、娘の捜索を続ける木村さんを支援しようという動きが広がり始めました。

その1人、福島県南相馬市に住む、上野敬幸さんです。
木村さんが警察にも頼めずにいることを聞きました。

上野敬幸さん
「親が子どもを捜したいって、当たり前の感情でしょ。
それを正直に言うことができないなんて、本当に間違っていると思ったの。」

上野さんも津波で、両親と2人の子どもを失いました。

長女の永吏可ちゃんは、すぐに見つかったものの、長男の倖太郎くんは行方不明のままです。
娘の亡がらが戻ってきてくれただけでも、よかったといいます。

上野敬幸さん
「今でも永吏可を抱きしめる時もあるし、その時の感覚って、一緒なんですよ。
永吏可を抱きしめているという感覚が、自分の中であって。
木村さんも抱きしめたいだろうし、親だからね。
子どもにしたいことは一緒じゃないですか。」

放射線量の低下に伴い、立ち入りの回数も増える中で、次第に捜索の支援の輪が広がっていきました。

汐凪ちゃんの帽子や体操服、数多くの品が見つかるようになったのです。

木村紀夫さん
「家族のものがたくさん出てきて、そうすると、テンションも上がるんだよね。
俺だけテンションが上がるんじゃなくて、一緒に探してくれるボランティアの人たちも、本当にテンションが上がる。
そういうことを繰り返していくうちに、ちょっとずつ気分が変わってきて、自然と笑いも起きるようになって。」

ところが、汐凪ちゃんの捜索に影響を及ぼす、別の事態が持ち上がりました。
木村さんの自宅周辺が、除染で出た土などを保管する、中間貯蔵施設の候補地となったのです。
大量の土が運び込まれれば、汐凪ちゃんを捜すことはできなくなります。
木村さんは、汐凪ちゃんへの思いを訴えました。

木村紀夫さん
「津波で家族が流されて、いまも一人見つからない状況で探し続けていますし、これからも捜していくつもりです。
あそこが私にとって、いちばん3人とつながれる場所なんです。
それを人に手渡すっていうのは考えられない。」

津波によって、大切な家族を失った木村さん。
その後の原発事故で、ふるさとや仕事も奪われました。
あれ以来、木村さん自身の生き方も大きく変わりました。

自分の手で作った、まきストーブ。
少しでも電気を使わない生活を送ろうとしています。

木村紀夫さん
「きっかけとしては原発事故ですよ。
東日本大震災、それがなかったら、俺はこういう生き方をしていこうとは思わなかった。
変な言い方だけど、生活の一部みたいだ、3.11が。
それなしには、今はないよね。」

汐凪ちゃんの捜索に大きな進展がありました。
なかなか汐凪ちゃんの手がかりがつかめない中、木村さんは国の力を借りる、苦渋の決断をしました。
中間貯蔵施設の現地調査の際に、汐凪ちゃんの捜索を依頼することにしたのです。
まだ心の整理がつかない被災者も少なくない中、事故の後処理を急ぐ国。
複雑な気持ちを抱いていた、木村さん。

木村紀夫さんの捜索手記
“環境省にお願いするのは、ずっとためらっていた。
しかし、先の見えないがれきでの捜索をしてきた、ボランティアの仲間たちの気持ちと、ここにいるかもしれない汐凪のことを考えると、何としても見つけたい。”

国の捜索から3週間。
木村さんのもとに、知らせが届きました。
汐凪ちゃんの遺品らしきものが見つかったというのです。

ミッキーマウスがついたマフラー。
その中に、人の骨のようなものがくるまっていました。
木村さんは、マフラーに覚えがありませんでした。
しかし舞雪さんは、すぐに分かりました。

“そのマフラー、おそろいで持ってたよ。”

「汐凪ちゃんが見つかったことはホッとした?」

木村舞雪さん
「うん。
なんだろう、安心感が出たっていう。」

見つかった遺骨は、その後のDNA鑑定で、汐凪ちゃんのものと確認されました。
木村さんは、自らが撮った写真を見せてくれました。
砂にまみれた、3つの小さな歯。

木村紀夫さん
「もうちょっと汐凪を感じられるかなと思ったけど、こういう形になってしまうと、汐凪に会えたなという気持ちにはなれなかった。
実感が湧かない、これを見ても。
汐凪だという実感が。
これが寂しさを癒してくれるかというと難しい。」

汐凪ちゃんに会いたい。
その気持ちに突き動かされてきた6年間。
その歳月は、あまりにも長く、重いものでした。

汐凪ちゃんの遺骨が見つかった後も気持ちが晴れないという木村さんのもとに、捜索の仲間たちが集まりました。
捜索を今後どうするのかという話になりました。

「あそこに(捜索へ)行くことはいいこと?」

木村紀夫さん
「意義はある。
あそこにいると楽しいよ。」

汐凪ちゃんを捜し続ける行為そのものが、自らの力になっていたのではないか。
そう気付かされた木村さん。

木村紀夫さん
「皮肉な考え方だけど、汐凪が見つかるまで時間がかかったっていうことで、つながった縁って結構ある。
それがなかったら、これからどう生きていくか、やりたいことがなかったかもしれないし、なんか全部、汐凪の手の中で動いているような、そんな気もするし。」

木村さんは、今も毎月、大熊町に通い続けています。
新たな目標は、自らの手で汐凪ちゃんの遺骨を見つけること。
国の大規模捜索で掘り出された土を、1つ1つふるいにかけて捜し続けています。

「これは歯かなって。」

木村紀夫さん
「違う。
なんかこれ、植物ですよ。」

木村紀夫さん
「捜索自体も、ある意味楽しく笑いながらできてるし、不思議とそこに汐凪を感じたりもするんで。
なかなか出てこない。
俺まだ(遺骨を)一個も見つけてないしね。
おちょくられてるみたいで、汐凪にね。
そういう風に思えるようになったというのも、全然、今までと違うしね。
たぶん笑ってるんだろうなと思って。」

震災から6年。
汐凪ちゃんへの新たな思いが、木村さんの背中を押し続けています。

震災6年 津波と原発事故 娘を捜す父 6年の記録

ゲスト 天童荒太さん(作家)

天童さんは、福島の海に潜って、大切な人の遺品を捜すダイバーの小説を書かれたが、木村さんの捜し続ける姿を見て、どう思った?

天童さん:とても人間として大切な仕事をされているなと思いました。
人間にとって、本当の幸せというのは何なのかを考える時に、多くの人の死を見つめる中から思ったことは、大切に思う人と、ささやかだけど、共に過ごす時間。
怒ったり、あるいは泣いたり、笑ったり、けんかもするけれども、そこで、共に過ごす、ささやかな、豊かな時間こそが幸せだと思います。
けれども、それは時に、気づくのは大切な人を亡くされた時だったりするんですけど、ですから人間にとって本当に大切な仕事というのは、大事な人と過ごす、その時間を出来るだけ長く育んでいることと、もし、それを残念ながら途絶えた時には、忘れないように思い続けることだと思うんです。
ですから木村さんに限らず、大切な時間をなくされた方が覚えて、続けていこう、求め続けていこうとされるのは、とても人間として大切な仕事をされていると思いますし、木村さんは、そうした方の1つのシンボルのように受け止めました。

ようやく小さな骨と対面できても、まだやっぱり捜し続けるんだと その捜し続けるという行為そのものには、いったいどういう意味があると思う?

天童さん:木村さんを突き動かしているのは、お子さんに会いたいという気持ちとともに、自分の罪悪感とか、後ろめたさがあると思うんです。
どうして助けられなかったのか、どうして自分が守れなかったのかという悲しみと、自分が生きていることの後ろめたさがあると思います。
でも、そうした罪悪感とか、後ろめたさこそが、実は愛の証しなんですね。
深く愛してきたから、また、今も愛しているからこそ、そうした感情を抱くのであって、今も本当に、自分の中には罪悪感や後ろめたさが、うまく自分で折り合いがつけられないから、今も思っていらっしゃるでしょうけれども、それは、僕は大切な祈りの行為だと思うんです。
彼は、捜し続けることで祈ってきたと思うし、その祈りを多くの人は見守って欲しいと思いますし、今も多くの人が、祈り続けているのだろうと思います。

今回、木村さんの言葉の中に、汐凪ちゃんの骨と会っても、出会ったような気持ちになるのかなと思いきや、なかなかその気持ちになれなかったというふうに言っていた 復興というのは、いろんなことが整理されたり、解決されたりすることだけではないのではないか?それより、もっと大事なことがあるのではないか?ということを気付かされた気がしたが?

天童さん:共生社会という言葉があって、共に生きる、人々と共に生きる、豊かに共に生きるというのは、とても大切な考え方ですけれども、共に生きるためには、生きることの裏返しである、死というもの、共に死を思う、あるいは共に死を悼める共死(きょうし)とでもいうような考え方があってこそ、実は共生というものがあるのではないか。
木村さんが、VTRの中で怒っていらっしゃったのは、関係する企業とか、あるいは公的機関が当事者であるにもかかわらず、共に死を悼むことをしてくれない、あるいは共に死を思う姿勢を見せてくれないからこそ怒っていらっしゃったのではないでしょうか。
われわれは、後ろを振り返ることを怖がる上に、今、前へ前へと進む生き方をしていますけれども、むしろ、その生き方を顧みて、突然の悲劇で動けなくなった人たちを振り返ったり、あるいは、時にはその人の元まで戻って、一緒に立ち上がれるまで待つとか、あるいは一緒に歩けるようになるまで、ずっと共に側にいるというような生き方を多くの人が選ぶ時、この社会は今より、もっと優しく、また、この世界は今より、もっと美しくなると思います。
(前に進むことだけが、決して全てではない 後戻りしたりすることも大事なこと?)
共に死を思ったり、共に悼める、そういう世界の中で、われわれはもっと生きやすい、優しい世界を作っていけると思います。

 

 

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。