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東日本大震災から7年 2018.3.9 毎日新聞「論点」

2018-03-10 23:35:22 | 東北大震災
論点

東日本大震災から7年

 東日本大震災の発生からまもなく7年を迎える。被災地では土地のかさ上げや防潮堤の建設が進み、復興住宅や商業施設も相次いで完成している。一方、いまだに多くの被災者が故郷を離れたり、仮設住宅での不自由な生活を余儀なくされたりしている。被災地の住民一人一人の暮らしや心の復興はどこまで進んだのか。

 
 
岩手県立大槌高3年、倉澤杏奈さん
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被災地に関心持ち続けて 倉沢杏奈・岩手県立大槌高3年

 私が住む岩手県大槌町では最近になって盛り土の上に家が建ち始めました。少し前までは何もなく、「本当に復興は進んでいるのか」と不安になることもありましたが、ようやく「復興」というゴールに近付き始めたと感じています。

 県立大槌高では2013年から生徒有志が参加する「復興研究会」という活動をしています。町内180カ所を年3回撮影する定点観測や県内外の高校生たちとの交流、防災の啓発活動などに取り組んでいます。今年度は全校210人中141人が参加しました。

 大震災は私が小学5年のときに起きました。町内の自宅は津波で流され、知人も亡くなり、「人は、あっけなく死んでしまうものなのだ」と痛感しました。中学では先生に誘われて、語り部活動をしました。町外での交流から学ぶことが多く、高校の復興研究会にもぜひ入りたいと思いました。住んでいた地域に再建された公民館で話をすると、震災前に戻ったような気持ちになります。しかし、遠くに避難している人は参加できません。住民同士のコミュニティーをもう一度築いていくことが大切だと感じます。

 研究会の活動で町を見ると、少し前向きな気持ちになりますが、住民の立場になると、家は建ち始めてもかつての雰囲気はなく、寂しさを感じます。以前あった店は流され、戻ってきていません。ぽっかりと心に穴があいた気持ちになります。他の多くの住民も、気持ちは元に戻っていないのではないでしょうか。私は今も仮設住宅で暮らしています。元の住んでいた場所には帰りたくても帰れない状況です。このような負担は誰にとっても小さくないと思います。

 私たちが研究会の活動を通じて伝えたかったことは「今後の災害で少しでも命を救いたい」という思いです。被災地の外で話すと、人によっては大震災の悲惨さ、深刻さが十分に理解されていないと感じることもありました。ですから、私たちがあのときの情景や感情を真剣に訴えることによって、少しでも震災のことが伝わってほしいと考えました。復興事業でかさ上げや防潮堤建設が進む地元も、それだけで大丈夫というわけではありません。自分たちに起きたことを伝承していくことは大切な意味があると信じています。

 さらに、私たちの活動を知った全国の人たちが、「震災で大変だったね」で終わるのではなく、この東北の小さな大槌町に関心を持ってほしいのです。復興が徐々に進む町のこと、そこで高校生たちが活動していることを心のどこかにとどめておいてほしい。それは被災地で暮らす人たちにとって、モノよりもお金よりも生きる活力になると思うからです。

 私はこの4月、隣の釜石市の企業に就職します。進学などで地元を出る同級生もいますが、研究会での活動を通じて「残ろう」と決めた人もいます。「地元を出るとしても、それぞれの立場で故郷の復興に貢献することが大事」と話す仲間もいます。私は、地元で働くことで故郷の復興を見守り、ほんの少しかもしれませんが、この地域を支えられればと考えています。【聞き手・永山悦子】

 
本間博彰・あさかホスピタルこどもの心診療部長

子どもに「終わりなき災害」 本間博彰・あさかホスピタル こどもの心診療部長

 大震災直後から5年間にわたって、宮城県子ども総合センターで「子どもの心のケアチーム」を組織し、県内の子どもたちを支援してきた。子どもが抱える心の問題は災害からの時間が経過するに伴って変わる。今も問題は継続しており、いつまで続くかは分からない。阪神大震災(1995年)では当時子どもだった人の心の問題は20年後も残っていた。震災は「終わりのない災害」と言える。

 県内を歩き、多くの子どもに会った。震災直後は恐怖心や不安など極度のストレスからパニックなどを起こす急性ストレス障害が多かった。数カ月たつと、苦痛を回避するためか、感覚が鈍麻し、ぼーっとした様子を見せた。1年たつと、落ち着かない▽衝動的になる▽不登校--など、震災が原因かどうか見分けが難しい症状が出始めた。それが今も続いている。

 沿岸部はもともと人口減などで衰退に向かっていた。そこへ巨大災害が襲い、衰退に拍車をかけた。荒涼とした故郷の風景に直面した大人たちは将来への希望や覇気を失った。そんな空虚感を抱える大人と一緒に過ごす子どもは大人と同じような精神状態になってしまう。子どもは純真で共感性が強い。小学校低学年までは親や学校の先生の精神状態に共感しながら育つ。「大人と自分は違う」と自覚するのは思春期になってからだ。

 その結果、子どもが備えるべき「ストレスに対処する力」が弱まり、日々の生活や課題に適応することも難しくなった。成長期はさまざまなハードルを越えねばならないが、そこに震災の影響も加わり、複雑な症状を起こすことになった。症状が似た発達障害と診断されてしまって、必要なケアを受けられていない例もある。

 生活環境の変化も心にダメージを与える。震災前の「日常」が消え、故郷を離れるなど「非日常」が続いている。両親が離婚した例も少なくない。福島県では放射性物質という不安が継続している。日常生活を失った子どもの心は震災の影響を受け続けている。

 心の問題は目に見えない。本人がつらくて、助けを求める信号を出していたとしても、気付いてもらえない子どもが被災地にはまだたくさんいるはずだ。私が診察する際も、こちらから出身地や7年前の経験を問いかけなければ、自らは語ろうとしない親子が多い。

 震災直後は全国から心のケアの専門家が支援のために現地入りしたが、7年もたてば関心は薄れる。被災地は精神医療が手薄な地域で、震災後はさらに担い手が減った。だから、子どもに日々接する学校の先生の役割は大きい。先生たちはもっと子どもの変化に関心を持ってほしい。「理由が分からない」とあきらめず、子どもの心の中へ思いをはせてほしい。親は子どもの様子に不安を感じたら、「心配だ」と声を上げてほしい。それが必要なケアにつながる。

 自然災害が多い日本では、災害へのハード面の対策は進むものの、災害によって人がどのように傷つき、立ち直っていくのかという視点に立った心のケアは構築されていない。東日本大震災の経験を無駄にしてはならない。【聞き手・永山悦子】

 
青木淑子「富岡町3・11を語る会」代表

感謝の気持ちで「口演会」 青木淑子 「富岡町3・11を語る会」代表

 きっかけは東日本大震災から1年ほどが過ぎ、中国や東南アジアの学生から「被害の実態を聞きたい」という依頼が続いたことだった。初めは富岡町(福島県)の社会福祉協議会の担当者が対応していたが、「避難生活を続けてきた町民自身が語り人となって体験を語ることこそ説得力がある」と思い、2013年に「語り人」事業を始めた。公募で18人が参加した。

 最初は「泣いてしまうかも」というためらいもあったが、やがて「話さないと忘れてしまう」と感じるようになった。それぞれが語り切れないほどのつらい経験をしてきているのだが、今では「避難していた時には多くの人のお世話になってきた。そのお礼返しになるのなら」という感謝の気持ちで「口演会」を務めている。87歳のおじいちゃんから、被災時に中学2年だった21歳の大学生まで現在は23人。県内や全国各地にとどまらず時には海外にも出かける。年間100回ほど、のべ約7000人の聴衆に被災者としての経験と今の思いを語り続けている。

 震災から7年という歳月の中で私たちも少しずつ変わった。地震と津波で福島第1原発事故が発生し、全町民が一斉に町外へ緊急避難した時期。避難所が閉鎖され、仮設や借り上げ住宅に移った時期。その後、復興住宅や避難先に新しい自宅を確保して生活を始めるようになった。

 昨年4月には町内の約3分の2の地域の避難指示が解除され、自宅に戻れるようになった。現在は登録上だけで約400人が住民票を富岡に移している。私自身も昨年7月から町の中心部で生活を始めた。便利とは言えないが、最低限の生活ができる環境は整いつつある。戻ってきた人の大半は「故郷で余生を過ごしたい」「先祖代々の墓を守りたい」と願う高齢者だが、一歩前進には違いない。

 一方で、帰りたくても帰れない大勢の人たちもいる。それぞれが「帰りたい」「帰れない」「帰るべきだ」「まだ帰るべきではない」「もう帰りたくない」……と悩み、戻った人との間に複雑な心の壁も生じている。原発事故による最大の被害は、放射能汚染による物理的な面もあるが、何よりもそれまで一致団結して平和に暮らしてきた住民の心がバラバラになったことだろう。住民の中に心のバリケードができつつある。

 国の復興事業は被災時の住民だけを対象にしているが、現在進む町の創生には新しい住民も加わっている。ぜひ、この新しい人たちも大切にしてほしい。復興とは壊れたものを旧状に戻すだけでなく、それを大事にしながら新しい何かを創造してゆくことだろう。新しい富岡を創生するには元住民に加えて新住民も大きな役割を担っている。特に若い人たちには福島の実態を知って、可能なことから参加してもらうことが重要だ。

 そうした新住民の若者が頑張っている姿を見せていけば、「自分も帰ろうか」と続く人も出てくるだろう。行政や東京電力は戻った人たちの決断を裏切るようなことはしないでほしい。時間はかかっても、いつの日か必ず、元気な富岡が返ってくることを信じている。【聞き手・森忠彦】


いまだに7万人超避難

 2011年3月11日、東北沖でマグニチュード(M)9.0の巨大地震が発生、太平洋沿岸を巨大津波が襲い、東京電力福島第1原発事故が起きた。災害関連死を含む死者は1万9533人、行方不明者は2585人。復興庁によると、今年2月現在の避難者は約7万3000人、うち約5万3000人が仮設住宅などに暮らす。福島県では17年4月までに帰還困難区域を除く大半の地域の避難指示が解除されたが、現在も約3万4000人が県外避難を続けている。


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 ■人物略歴

くらさわ・あんな

 1999年岩手県大槌町生まれ。大槌高復興研究会に1年から参加し、生徒会長も務めた。2017年に仙台市で開かれた世界防災フォーラム前日祭で発表。研究会は同年、「東北みらい賞」を受賞した。


 ■人物略歴

ほんま・ひろあき

 1950年生まれ。弘前大医学部卒。青森県内で地域医療に携わり、88年宮城県中央児童相談所。2001年宮城県子ども総合センター。センター所長も務める。16年から現職。専門は子どもの精神医学。


 ■人物略歴

あおき・よしこ

 1948年東京都生まれ。64年に福島県郡山市に移住。福島大卒。70年から福島県立高校で教諭(国語)を務める。2004~08年に県立富岡高校長。15年4月にNPO法人「語る会」を発足させ、代表に。

 

 

 

 


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