杉原千畝 スギハラチウネ
劇場公開日 2015年12月5日
http://action-now.jp/archives/659より転載
ユダヤ人を救った「日本のシンドラー」杉原千畝物語(1)外交官を目指すまで
BY DN2015 · 2015.08.24
ユダヤ人を救う「命のビザ」までの道のり
杉原千畝が「日本のシンドラー」として広く世界にその名を知られることとなった「命のビザ」を発給したのは40歳の時のこと。自らの職を賭し、およそ6000人ものユダヤ人の命を救うまでの道のりはどのようなものだったのか。
杉原が外交官を目指すまで
杉原は1900年(明治33年)1月1日、岐阜県に生まれる。
税務署の職員だった父は小学校を全甲(現在のオール5)という優秀な成績で卒業した息子を医学の道に進めたいと希望しており、当時日本統治下の朝鮮の京城に赴任していたこともあり、息子には京城医学専門学校(現・ソウル大学校医科大学)に進学して医師になることを望んでいた。
しかし、杉原自身は医学に興味はなく、「英語の教師になりたい」と早稲田大学高等師範部英語科(現・早稲田大学教育学部英語英文学科)の予科に入学。
早稲田大学への進学は父の意に反したものだったので、実家から仕送りなど一切の援助はなく、学費や生活費をまかなうために早朝の牛乳配達などのアルバイトをしたものの、まったく足りずたちまち生活苦に陥ってしまった。
外務省の官費留学生となる
そんな折、偶然図書館で目にした地方紙広告で外務省留学生試験の存在を知る。
受験資格は「旧制中学卒業以上の満18歳から25歳の者」であったが、その内容は法学・経済・国際法から外国語2ヵ国語という具合で、旧制中学の学修内容とはかけ離れたものであり、実際は杉原のような大学在籍者や旧制高校修了者以外の合格は難しいものであった。
連日大学の図書館にこもり、猛勉強を重ねた末、難問を制して見事に合格した杉原は早稲田大学を中退し、日露協会学校(後のハルビン学院)に入学。
外務省の官費留学生として中華民国のハルビンに派遣され、そこでロシア語を学ぶ。学生の過半数は、外務省や満鉄、あるいは出身県の給費留学生であった。
ロシア語選択は当初の杉原の選択ではなかったが、今後のロシア語の重要性を説く試験監督官の勧めで決めたという。
当時の杉原は、三省堂から刊行されていた「コンサイスの露和辞典を二つに割って左右のポケットに一つずつ入れ、寸暇を惜しんで単語を一ページずつ暗記しては破り捨てていく」といった特訓を自分に課していたという逸話が残されている。
1924年(大正13年)に外務省書記生として正式に採用され、ハルビン大使館二等通訳官などを経て、1932年(昭和7年)3月に満州国政府外交部事務官となる。
順調に外交官としてのキャリアをスタートさせたかに見えた矢先の1931年(昭和6年)、事態が急転する。
日本が経営権を持つ南満州鉄道が爆破されたことを契機に、満州事変が勃発したのだ。
満洲事変とは、1931年(昭和6年、民国20年)9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発し、関東軍による満州(現中国東北部)全土の占領を経て、1933年5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争のことである。
鉄道の爆破は、関東軍が自ら引き起こした事件だったが、この機に満州を支配した日本は清朝最後の皇帝である宣統帝溥儀を執政に迎え、傀儡国家である満州国の建国を宣言する。
ハルビンの日本総領事館にいた千畝は、上司の大橋忠一総領事の要請で、満洲国政府の外交部に出向。
そこで「ロシア問題のエキスパート」としての立場を確立させる大仕事を任されることとなる。
ソ連との交渉で外交的大勝利
満洲国政府外交部で杉原が任された大仕事、それは中国とソ連 が共同所有していた北満州鉄道の譲渡交渉であった。
当初、ソ連の要求額が6億2500万円に対し、日本側が用意していた買収額はわずか5000万円。
実に10倍以上もの金額差だっ た。
交渉は困難を極めたが、その中で杉原は緻密な調査により、ソ連の高額な要求額の根拠を次々と否定。
その結果、譲渡額を最終的に1億 4000万円で決着させた。
外務省人事課が作成した文書には、この時の杉原の働きに関して「外務省書記生たりしか滿州國成立と共に仝國外交部に入り政務司俄國課長として北鐵譲渡交渉に有力なる働をなせり」 という記述が残されている。
これはまさに日本外交の大勝利といえる成果であった。
しかし、このとき得た名声が後に杉原のキャリアを邪魔することにもなったのだ。
後に本国の外務省に復職し、モスクワ大使館赴任を任命された際、ソ連がペルソナ・ノン・グラータを発動して杉原の入国を拒否。
他国の外交官の入国を拒否するという通達はまさに異例中の異例のことであったが、その理由は北満州鉄道譲渡交渉の時に杉原が見せつけた外交官としての手腕をソ連が恐れたためだと考えられている。
プライベートでは、1924年(大正13年)白系ロシア人女性クラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワと結婚するが、1935年(昭和10年)に離婚。同年、菊地幸子と再婚する。
なお、満州時代に杉原はロシア正教会の洗礼を受けている。正教徒としての聖名(洗礼名)は「パヴロフ・セルゲイヴィッチ」、つまりパウェル(パウロ)である。
この受洗は結婚に際してにわかに思いついたことではなく、実は杉原は早稲田大学の学生時代に早稲田奉仕園の信交協会(後の早稲田教会)に一時期属しており、満洲に赴任する前にすでにキリスト教と出会っていた。
この奉仕園の前身は「友愛学舎」と呼ばれるもので、バプテスト派の宣教師ハリー・バクスター・ベニンホフが大隈重信の要請を受けて設立したものである。
なお、友愛学舎の舎章は、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)である。
失意の中、満洲国外交部退官
しかしながら、日本外交きっての「ロシア通」という評価を得てまもなく、1935年(昭和10年)には満洲国外交部を退官。
その理由として、ロシア語が堪能だった杉原に対し、関東軍から破格の金銭的条件と引き換えに軍部のスパイになるよう強要されたことや、満州での軍人たちの目に余る暴挙への憤慨があったとされており、「驕慢、無責任、出世主義、一匹狼の年若い職業軍人の充満する満洲国への出向三年の宮仕えが、ホトホト厭」になり外交部を辞任したという。
杉原の手記には「当時の日本では、既に軍人が各所に進出して横暴を極めていたのであります。私は元々こうした軍人のやり方には批判的であり、職業軍人に利用されることは不本意ではあったが、日本の軍国主義の陰りは、その後のヨーロッパ勤務にもついて回りました」と激しい言葉で記されており、この頃から杉原は日本の軍国主義を冷ややかな目で見るようになる。
杉原にスパイになることを拒絶された関東軍は、報復として最初の妻であるロシア人のクラウディアが「ソ連側のスパイである」という風説を流布し、結果としてこれが離婚の決定的理由になった。
満洲国は建前上は独立国だったが、実質上の支配者は関東軍であったため、関東軍からの要請を断り同時に満洲国の官吏として勤務し続けることは、事実上不可能だったのだ。
ソ連と関東軍の双方から忌避された杉原は、のちに満洲国外交部を辞めた理由を妻の幸子に尋ねられた際、関東軍の横暴に対する憤慨から、「日本人は中国人に対してひどい扱いをしている。同じ人間だと思っていない。それが、我慢できなかったんだ」と答えている。
杉原千畝が「日本のシンドラー」と言われる所以となった「命のビザ」発行の5年前のことである。