異教の地「日本」 ~二つの愛する”J”のために!

言論宗教の自由が保障され、ひとりひとりの人権が尊ばれ、共に生きることを喜ぶ、愛すべき日本の地であることを願う。

【テレビ画像】 政府 翁長知事を提訴 ~「『銃剣とブルドーザー』想起させる」 2015.11.17

2015-11-18 16:28:53 | 沖縄

http://ryukyushimpo.jp/news/entry-173366.htmlより転載

「『銃剣とブルドーザー』想起させる」 代執行提訴に翁長知事

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
政府が代執行訴訟を提起したことを受け、見解を述べる翁長雄志知事=17日午後5時30分すぎ、県庁 
 
 

 米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設をめぐり、翁長雄志知事による埋め立て承認の取り消しは違法だとして、政府が17日に代執行訴訟を提起したことについて、翁長知事は同日午後5時半に会見を開き、「県民にとって『銃剣とブルドーザー』による強制接収を思い起こさせるものだ。今後、訴訟の場においてわれわれの考えが正当であることを主張・立証していく」と述べた。

 菅義偉官房長官がこれまで会見などで「すでに(仲井真弘多前知事による)行政判断は出ている」と言及していることについて、翁長知事は「埋め立ての承認および取り消しの審査権限は県知事にある。私が適法に行った承認取り消しを、政府から違法と決めつけられるいわれはない」と反論した。【琉球新報電子版】

 

 <関連 テレビ画像>
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

木下昌明映画批評 『放射線を浴びたX年後&2』 ~第五福竜丸事件・・・歴史はくり返される?

2015-11-18 15:26:35 | 福島、原発

LNJ Logohttp://www.labornetjp.org/news/2012/1211eigaより転載

木下昌明の映画批評『放射線を浴びたX年後』

●伊東英朗監督『放射線を浴びたX年後』
「第五福竜丸」事件の実態暴く――フクシマ「X年後」の未来は……

 2012-12-11

「3・11」以降に見た放射能問題を扱った数多くの映画のなかでも、伊東英朗監督の『放射線を浴びたX年後』は刺激的だった。一つの事件を介して、日本人とその社会のあり方を問うていたからだ。

 この作品は今年1月「NNNドキュメント」で放映されたテレビ番組を、新たな映像を加えて映画用に編集し直したドキュメンタリーである。1954年、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」がビキニの水爆実験によって被曝した事件を扱っている。この事件が、戦後文化の象微となったゴジラ映画誕生のヒントとなったことはよく知られている。

 だが、実は被曝したのは1隻だけでなく992隻に上った。しかも、船員の多くは若くしてがんで人知れず亡くなっていた。たとえば「第二幸成丸」の乗組員20人中17人が、「新生丸」では19人中17人が死亡している。それなのに米政府は、200万ドルの慰謝料を支払うことで“完全解決”を図り、日本政府が受諾し、一切の調査を打ち切って隠蔽した。翌年から、すべての魚が無検査で全国の食卓にのぼった。

 この事件を、高校教師の山下正寿とその教え子たちが28年かけて調査、記録していた。そのことを知った南海放送の伊東監督は調査に参加するとともに独自に船員家族の取材を始める。埋もれていた実態が次々と明るみに出てくるこのシーンが見どころだ。

 また映画は、米国から入手した機密文書によって、日本全土が放射性降下物「死の灰」に覆われていた実態も図面によって明らかにする。米国は、日本の米軍基地で死の灰を予知し、観測していたのだ。

 山下は語る。「こんな巨大な事件が、全体像が明らかにされないまま現代史に埋没するなんてことは、日本人としての資質が問われる」と。

 この映画から、フクシマの「X年後」が見えてきて誰しも愕然となろう。

 映画は現在、全国で自主上映されているが、東京では今年の目玉の一つとして上映される。フェスタは、映画や音楽を通じて身近な労働や生活を見つめ直す趣旨で毎年開かれている。他に、中川五郎のライブや3分ビデオ大会など。(木下昌明/『サンデー毎日』 2012年12月23日号)

〔付記〕 再録にあたって、若干の加筆をした。

 

========================

LNJ Logohttp://www.labornetjp.org/news/2015/1117eigaより転載

木下昌明の映画批評『放射線を浴びたX年後2』

第五福竜丸事件の隠された事実~被ばくから「X年後」を再び問う

 2015-11-17

 

 近年見た映画で衝撃的だった1本に『放射線を浴びたX年後』がある。これは南海放送(愛媛)の伊東英朗監督によるドキュメンタリーだ。

 1954年、米国の核実験で第五福竜丸が被ばくした事件では、1隻だけでなく延べ992隻が被害に遭い、多くの漁船員が亡くなっていたという事実。翌年、日本政府が米政府から200万ドルの慰謝料で“完全解決”を図り、魚の放射能検査を中止し、すべての魚が食卓に上がったという事実――映画は隠された実態を暴き、これまでの歴史認識を変えたのである。

 あれから3年、その続編『放射線を浴びたX年後2』が公開される。ここでは日本全土に降り注いだ死の灰はどうなったかの調査とともに、東京に住む川口美砂さん(59)の半生を介して「X年後」の今を浮かび上がらせている。

 川口さんの故郷は高知県室戸市の漁師町。そこで偶然、『X年後』をみて「私の父はなぜ死んだのか」と疑問を抱く。彼女の父は漁師で36歳で亡くなった。町では「酒を飲みすぎて早死にした」とうわさが立った。彼女は生き残りの元漁師たちを訪ね歩く。

 

 前作では、伊東監督が漁師町を1軒ずつ聞き取り調査していくと、「がんでずっと前に亡くなった」という返事ばかりで、これには驚かされた。だが、今作でも彼女の父と同じように早世したという話が多い。発見した父の航海日誌には「体が火のように燃える」とある。放射能の怖さは、長い時間をかけてじわじわ体を浸食するところにある。それによって、死は個人の不摂生のせいにさせられてしまう。

 カメラは、昔の父の仲間を訪ね歩く川口さんに寄り添い、漁師たちの当時の状況を明らかにしていく。そこで彼らの船員手帳は、事件当時のぺージが破られていることがわかる。それは「魚が売れんようになるけ、言うな」と上から口封じされたからだと。

 歴史はくり返されるのか――。

(『サンデー毎日』2015年11月22日号)

*愛媛・シネマサンシャイン大街道で公開中。11月21日から東京・ポレポレ東中野ほか全国順次公開。写真=映画ポスター。

 

 

 

 

 


【写真】 辺野古座り込み500日 1000人が集結「機動隊も来ないぞ」

2015-11-18 14:13:31 | 沖縄

琉球新聞  http://ryukyushimpo.jp/news/entry-173763.htmlより転載

千人が集結「機動隊も来ないぞ」  辺野古 座り込み500日 

 
キャンプ・シュワブゲート前で辺野古移設反対を訴える市民ら=18日午前、名護市辺野古
 

 【辺野古問題取材班】名護市辺野古への新基地建設に反対する市民らが米軍キャンプ・シュワブのゲート前に座り込みを開始して500日を迎えた18日午前、ゲート前では県議団や市町村議団、市民団体などから約千人が駆け付け、大規模な抗議行動が始まっている。
 20日まで3日間行われる。参加者はシュワブの3カ所のゲート前と国道沿いで新基地建設に反対し、拳を上げている。同日午前9時45分現在、県警と警視庁の機動隊はゲート前に姿を見せず、工事関係車両は基地内へ入っていない。

 通常なら機動隊による排除と工事車両の進入が行われる午前7時を過ぎても動きがないことから、沖縄平和運動センターの山城博治議長は「闘いは大きな成果を挙げている。機動隊が見えない」と強調し、午前7時47分には「(座り込みに参加する市民らが)ついに千人を超えた。やったどー」と宣言した。市民らは「千人集まれば機動隊も来ることができないんだ」などと強調し、全員で踊るなど喜びを表現した。
 市民らは基地内で機動隊などの動きがあるとして、引き続きゲート前を中心に座り込み、工事車両の進入に対し警戒を続けている。 大浦湾に設置されたスパット台船3基にそれぞれ作業員数人の姿があり、水中に掘削棒が下りていた。大型クレーン船で作業は確認されなかった。
 基地建設に反対する市民は辺野古沖に抗議船3隻とカヌー13艇を出して、抗議した。【琉球新報電子版】

 

沖縄タイムス辺野古取材班https://twitter.com/times_henokoより転 

 

11月18日午前7時10分 ゲート前では、シールズ琉球の若者から沖縄戦を体験したお年寄りまで幅広い世代が座り込んでいます。議員も多数集まっています。名護市議長はウチナーグチであいさつし、不測の事態が発生しないよう「さり、うーとーとー」と御願(うがん)しました。

 

11月18日午前7時前、ゲート前で先ほど「700人カウントしました」と発表がありました。約400メートル先の第2ゲートまで人が続いています。続々と増えています。いつもなら機動隊が出てくる時間帯ですが、姿は見えません。


11月18日午前6時30分、新基地建設に反対する市民ら300人余がキャンプ・シュワブゲート前で抗議行動を始めました。抗議の座り込みは今日で500日。「団結すれば思いは叶う」と声を上げ、1千人の結集を呼び掛けています。

 
 =========================
渡瀬 夏彦さんFBより
 
 
 
 
 
 
 

【2015.11.18 辺野古ゲート前、1000人座り込み。スマホ写真館、その1】

すでにご存じの方も多いでしょうが、今朝は1000人を超える人が集結しました。
そのおかげで、午前10時を過ぎても、工事関係車両は、1台も工事用ゲートに現れていません。
ということはつまり、警視庁機動隊も、わたしたち市民に襲いかかってき...ていません。
人が集まれば、違法な新基地建設工事強行を、ゲート前で止めることが出来るということです。
しかし、工事車両はまだ名護市内のどこかで待機しているらしく、機動隊が襲いかかってくる可能性もあります。
山城博治さんは、しばらく前に「昼12時までこのまま座り込みたいと思います」と皆に告げ、大きな拍手が起こりました。
報道写真家の大御所・石川文洋さんは、「写真家としては(機動隊との揉み合いがなくて)物足りないけど、皆さんにおめでとうございます!と言いたいと思います」と語り、これまた拍手を浴びていました。

 
 
 
 
 
 

 

 


映画「杉原千畝」12/5公開~ユダヤ人を救った「日本のシンドラー」杉原千畝物語(1)

2015-11-18 12:53:29 | ご案内

杉原千畝 スギハラチウネ

劇場公開日 2015年12月5日

署名サイト ACTIONなう!http://action-now.jp/archives/659より転載

ユダヤ人を救った「日本のシンドラー」杉原千畝物語(1)外交官を目指すまで

杉原千畝が「日本のシンドラー」として広く世界にその名を知られることとなった「命のビザ」を発給したのは40歳の時のこと。自らの職を賭し、およそ6000人ものユダヤ人の命を救うまでの道のりはどのようなものだったのか。

 

 杉原が外交官を目指すまで

杉原は1900年(明治33年)1月1日、岐阜県に生まれる。

税務署の職員だった父は小学校を全甲(現在のオール5)という優秀な成績で卒業した息子を医学の道に進めたいと希望しており、当時日本統治下の朝鮮の京城に赴任していたこともあり、息子には京城医学専門学校(現・ソウル大学校医科大学)に進学して医師になることを望んでいた。

しかし、杉原自身は医学に興味はなく、「英語の教師になりたい」と早稲田大学高等師範部英語科(現・早稲田大学教育学部英語英文学科)の予科に入学。

早稲田大学への進学は父の意に反したものだったので、実家から仕送りなど一切の援助はなく、学費や生活費をまかなうために早朝の牛乳配達などのアルバイトをしたものの、まったく足りずたちまち生活苦に陥ってしまった。

 

外務省の官費留学生となる

そんな折、偶然図書館で目にした地方紙広告で外務省留学生試験の存在を知る

受験資格は「旧制中学卒業以上の満18歳から25歳の者」であったが、その内容は法学・経済・国際法から外国語2ヵ国語という具合で、旧制中学の学修内容とはかけ離れたものであり、実際は杉原のような大学在籍者や旧制高校修了者以外の合格は難しいものであった。

 

連日大学の図書館にこもり、猛勉強を重ねた末、難問を制して見事に合格した杉原は早稲田大学を中退し、日露協会学校(後のハルビン学院)に入学。

外務省の官費留学生として中華民国のハルビンに派遣され、そこでロシア語を学ぶ。学生の過半数は、外務省や満鉄、あるいは出身県の給費留学生であった。

ロシア語選択は当初の杉原の選択ではなかったが、今後のロシア語の重要性を説く試験監督官の勧めで決めたという。

当時の杉原は、三省堂から刊行されていた「コンサイスの露和辞典を二つに割って左右のポケットに一つずつ入れ、寸暇を惜しんで単語を一ページずつ暗記しては破り捨てていく」といった特訓を自分に課していたという逸話が残されている。

 

1924年(大正13年)に外務省書記生として正式に採用され、ハルビン大使館二等通訳官などを経て、1932年(昭和7年)3月に満州国政府外交部事務官となる。

順調に外交官としてのキャリアをスタートさせたかに見えた矢先の1931年(昭和6年)、事態が急転する。

日本が経営権を持つ南満州鉄道が爆破されたことを契機に、満州事変が勃発したのだ。

満洲事変とは、1931年(昭和6年、民国20年)9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発し、関東軍による満州(現中国東北部)全土の占領を経て、1933年5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争のことである。

鉄道の爆破は、関東軍が自ら引き起こした事件だったが、この機に満州を支配した日本は清朝最後の皇帝である宣統帝溥儀を執政に迎え、傀儡国家である満州国の建国を宣言する。

Emperor Henry Pu Yi, Puppet Monarch

ハルビンの日本総領事館にいた千畝は、上司の大橋忠一総領事の要請で、満洲国政府の外交部に出向。

そこで「ロシア問題のエキスパート」としての立場を確立させる大仕事を任されることとなる。

 

ソ連との交渉で外交的大勝利

満洲国政府外交部で杉原が任された大仕事、それは中国とソ連 が共同所有していた北満州鉄道の譲渡交渉であった。

当初、ソ連の要求額が6億2500万円に対し、日本側が用意していた買収額はわずか5000万円。

実に10倍以上もの金額差だっ た。

交渉は困難を極めたが、その中で杉原は緻密な調査により、ソ連の高額な要求額の根拠を次々と否定。

その結果、譲渡額を最終的に1億 4000万円で決着させた。

外務省人事課が作成した文書には、この時の杉原の働きに関して「外務省書記生たりしか滿州國成立と共に仝國外交部に入り政務司俄國課長として北鐵譲渡交渉に有力なる働をなせり」 という記述が残されている。

これはまさに日本外交の大勝利といえる成果であった。

しかし、このとき得た名声が後に杉原のキャリアを邪魔することにもなったのだ。

後に本国の外務省に復職し、モスクワ大使館赴任を任命された際、ソ連がペルソナ・ノン・グラータを発動して杉原の入国を拒否。

他国の外交官の入国を拒否するという通達はまさに異例中の異例のことであったが、その理由は北満州鉄道譲渡交渉の時に杉原が見せつけた外交官としての手腕をソ連が恐れたためだと考えられている。

 

プライベートでは、1924年(大正13年)白系ロシア人女性クラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワと結婚するが、1935年(昭和10年)に離婚。同年、菊地幸子と再婚する。

なお、満州時代に杉原はロシア正教会の洗礼を受けている。正教徒としての聖名(洗礼名)は「パヴロフ・セルゲイヴィッチ」、つまりパウェル(パウロ)である。

この受洗は結婚に際してにわかに思いついたことではなく、実は杉原は早稲田大学の学生時代に早稲田奉仕園の信交協会(後の早稲田教会)に一時期属しており、満洲に赴任する前にすでにキリスト教と出会っていた。

この奉仕園の前身は「友愛学舎」と呼ばれるもので、バプテスト派の宣教師ハリー・バクスター・ベニンホフが大隈重信の要請を受けて設立したものである。

なお、友愛学舎の舎章は、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)である。

杉原千畝

 

失意の中、満洲国外交部退官

しかしながら、日本外交きっての「ロシア通」という評価を得てまもなく、1935年(昭和10年)には満洲国外交部を退官。

その理由として、ロシア語が堪能だった杉原に対し、関東軍から破格の金銭的条件と引き換えに軍部のスパイになるよう強要されたことや、満州での軍人たちの目に余る暴挙への憤慨があったとされており、「驕慢、無責任、出世主義、一匹狼の年若い職業軍人の充満する満洲国への出向三年の宮仕えが、ホトホト厭」になり外交部を辞任したという。

杉原の手記には「当時の日本では、既に軍人が各所に進出して横暴を極めていたのであります。私は元々こうした軍人のやり方には批判的であり、職業軍人に利用されることは不本意ではあったが、日本の軍国主義の陰りは、その後のヨーロッパ勤務にもついて回りました」と激しい言葉で記されており、この頃から杉原は日本の軍国主義を冷ややかな目で見るようになる。

杉原にスパイになることを拒絶された関東軍は、報復として最初の妻であるロシア人のクラウディアが「ソ連側のスパイである」という風説を流布し、結果としてこれが離婚の決定的理由になった。

満洲国は建前上は独立国だったが、実質上の支配者は関東軍であったため、関東軍からの要請を断り同時に満洲国の官吏として勤務し続けることは、事実上不可能だったのだ。

ソ連と関東軍の双方から忌避された杉原は、のちに満洲国外交部を辞めた理由を妻の幸子に尋ねられた際、関東軍の横暴に対する憤慨から、「日本人は中国人に対してひどい扱いをしている。同じ人間だと思っていない。それが、我慢できなかったんだ」と答えている。

 

杉原千畝が「日本のシンドラー」と言われる所以となった「命のビザ」発行の5年前のことである。

 

 

 


小沢一郎代表に訊く…どうなる!?野党共闘!「11月22日の大阪のダブル選挙が終われば~

2015-11-18 01:00:33 | 政治 選挙 

We are all one http://samadi.cocolog-nifty.com/sahasrara/2015/11/post-d25e.htmlより転載

2015年11月18日 (水)

小沢一郎代表に訊く…どうなる!?野党共闘!「11月22日の大阪のダブル選挙が終われば、一般人にもわかる大きな動きがあるだろう」と小沢氏が発言!


 
11月17日放送のラジオ番組「荒川強啓 デイ・キャッチ!」に「生活の党と山本太郎と仲間たち」の小沢一郎共同代表が出演し、野党共闘について様々なことを語っていました。

主な内容は以下の通り。

<民主党の解党騒動について>
あの話は翌日にはポシャったのでしょう?報道があったのは聞いてたが、なかなか現実にはならないな、と思っていた。

<二大政党制について>
必ずしも二大政党でなくてもいいが、「政権交代可能な議会制民主主義を日本に定着させる」というのは、私のこの世界に入ってからの目標でした。しかし、細川政権も、民主党政権も、どちらも挫折してしまった。しかし、国民は今なお、現政権にに代わり得るものを望んでいると思う。だから、もう一度それを実現しなければならないと思っています。

<自公政権に勝つためには、来年の夏までにどのような形を作るのが望ましいか?>
野党が一つにまとまればベストだが、それは難しい。ただ、「自公政権ではダメだ」という政党が候補者をひとつにして戦えば、国民の支持は必ず集まる、と思います。「民主党は期待はずれだった」と思う人もいるだろうが、それでも「安倍政権では駄目だ、国民生活に視点を合わせた政権がほしい」という人はうんと多い。2009年の時以上に野党がまとまれば、国民の期待は非常に大きくなる。

<共産党が言い出した「国民連合政府」は、実は小沢さんの仕掛けでは?>
そんなことはないが、以前から「共産党が全部の選挙区に候補者を立てるのは、結果として自民党の補完勢力になってるじゃないか」とからかってきた。今回は共産党が大転換してきたので、素晴らしい決断だと思った。「共産党に先を越されるなんて、他の野党は何をやってるんだ」とまた言っているんですが…。最近の首長選挙を見ても、野党がまとまった場合はほとんど勝ってる。小選挙区では野党が一本になれば圧勝できると思う。

<来年の参議院選挙までに具体的にやるべきことは?>
表から見ると遅々として進まないように見えるが、「このままではまた負ける」ということは、野党はみなはわかっている。今年中に各野党間のコンセンサスができればいいなと期待しています。

<オリーブの木とは具体的にはどんなものか>
今の既存政党はそのままに、例えば「オリーブの木」という名前の別の届け出政党を作って、どの政党からでも「オリーブの木」にそれぞれ個人の候補者が選挙の時に登録できるようにする。これは「二重党籍」になるが、法律上何も問題はない。それで自民党とオリーブの木が一騎打ちになるような形を作る。これでうまく行ったら(選挙に勝ったら)、政権運営もそのままの形で行こうということになるだろう。これがオリーブの木の考え方。選挙のためにこうして集まるのは良くないと言う人もいるが、そんなことはない。有権者にとっては選挙以外に選択の機会はないので、有権者にこうして選択の機会を与えるのは必要なこと。

<共産党とオリーブの木について>
共産党も、我々他の野党も、共産党がオリーブの木に中に入ることは考えていない。ただ、「今の与党、自公政権は駄目だ」という点は一致するので、選挙協力はする。つまり大きく分けて、自公、オリーブの木、共産党という三つのグループになる。

<具体的にはどこから手を付ければいいのか?>
維新の党のお家騒動が決着付けば、民主党以外でオリーブの木をやろうという話ができる。その上で共産党も選挙協力するとなれば、民主党だけ国民の声を無視するわけには行かなくなるだろう。そういう状況を作ることが大事。

<安倍政権のどこが問題か?>
安全保障、アベノミクス、両方共安倍政権がやっていることは、国のためにも国民にためにならない危険なもの。内閣の判断でだけで無原則に海外派兵するというのは、憲法にも反するし、国連憲章にも反するし、日米安保にも反する。他国の紛争のために日本が勝手に軍隊を出すというのは非常に危険で、きちっとした原則が必要。経済については自由競争至上主義が安倍政権の考え方で、企業が儲かればやがて庶民も豊かになるというが、内部留保がたまるだけで所得格差は開く一方。自由競争至上主義は単なる弱肉強食になるだけで、これは政治ではない。絶対にやめなかればダメ。

<安保法制は廃止ということでいいのか?>
もちろん廃止して、新しく憲法と国連憲章の理念に基づいた安全保障の原則を作るべきだと思う。

<野党間の政策の違いはどうする?>
オリーブの木で細かいところまで一致させる必要はない。安倍政権の作った安保法制は廃止、原発の再稼働はやめて、何年後かはともかく、再生可能エネルギーに転換していく…このぐらいは一致できるのではないか。

<小沢さんがどう動いているか、どこを見れば確認できる?>
僕があまり表に出るとまたやられるので、そのつもりはないが、維新の党の政権寄りの大阪のグループと、野党再編志向のグループがはっきりすれば、皆さんの目にも見える動きが出てくると思う。今まで与党寄りと野党寄りが混在していたが、22日の大阪の選挙以降ははっきり別れると思うので、やりやすくなる。

(以下略)

…もちろんこの段階で戦略のすべてを語ったわけではなく、言えないことも多々あったでしょうが、思った以上に率直に語ってくれたのではないかと思いました。「11月22日の大阪のダブル選挙が終われば、一般人にもわかる大きな動きがあるだろう」という発言はとても興味深いですね。果たしてどのような動きがあるでしょうか…?