異教の地「日本」 ~二つの愛する”J”のために!

言論宗教の自由が保障され、ひとりひとりの人権が尊ばれ、共に生きることを喜ぶ、愛すべき日本の地であることを願う。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

高市氏らはネオナチ非難すべき 在米ユダヤ系団体

2014-09-11 18:14:24 | シェアー

http://www.47news.jp/CN/201409/CN2014091001001178.html

47NEWS 2014年(平成26年)9月11日

高市氏らはネオナチ非難すべき 在米ユダヤ系団体

 【ロサンゼルス共同】高市早苗総務相らが極右団体代表の男性と撮った写真が団体ホームページに一時公開されたことを受け、ユダヤ系団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」(本部・米ロサンゼルス)のクーパー副所長は9日、「議員らは(同団体が掲げる)ネオナチの思想を明確に非難すべきだ」とコメントした。

 極右団体はホームページにナチス・ドイツの象徴「かぎ十字」やこれに似たマークを数多く掲載。議員側は男性の人物像などを「知らなかった」と説明した。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

写真は2011年の6月か7月、山田氏が保守的な議員への交渉のために訪問した際に撮影されたものと書かれており、両議員のスポークスマンは写真が本物であることや、彼らのオフィスで撮影されたことを認めたが、いかなる政治的影響も受けていないとネオナチとの関係を否定したと述べている。

no title


n-neonazi-a-20140909-870x766
コメント

高市早苗総務相総務相 ナチス賛美本『ヒトラー選挙戦略』に推薦文を書いていた!

2014-09-11 18:09:17 | シェアー

Hiroshi MatsuuraさんFBより

高市早苗総務相総務相 ナチス賛美本『ヒトラー選挙戦略』に推薦文を書いていた!

その本とは、小粥義雄氏の『HITLER(ヒトラー)選挙戦略』というもので、ヒトラー政治戦略研究会から刊行されたものだ。

そして、序文には「候補者と認知された瞬間から始まる誹謗、中傷、脅迫。私も家族も苦しみ抜いた。著者の指摘通り勝利への鍵は『強い意志』だ。国家と故郷への愛と夢を胸に、青年よ、挑戦しようよ!」などと書かれていた。....

https://twitter.com/KazuhiroSoda/status/509570768767053824

これはもう「ネオナチ疑惑」などという程度のものではない。

著者の小粥義雄氏は、自民党東京支部連合会の広報部長だった。

セクハラ事件に「金目」発言、脱法ハーブから無免許運転、果てはアイヌ人差別 … さすが「ヒトラーの選挙戦略」で躍進する自民党!

                                                      
↓「安倍女性閣僚騒動 -- ネオナチ党主の出版社と自民党との接点は10年以上前からあった!」
 Hiroshi Matsuuraさんの写真
コメント

安部政権 : 震災復興も、原発災害収束も、景気回復も、雇用・貧困の改善も、何の成果もなく

2014-09-11 17:27:25 | 紹介

日刊現代 9月12日(11日発行)より

*「安部政権は1年8カ月何もしなかった」

震災復興も、原発災害収束も、景気回復も、雇用・貧困の改善も、何の成果もなく

ただ株価が少し上がっただけだった

コメント

慰安所設置を命じる岡部直三郎中将の指示書

2014-09-11 01:31:05 | 紹介

…陸軍では慰安所を推進したのは派遣軍参謀副長岡村寧次と言われています。

http://www.awf.or.jp/1/facts-01.htmlより

―慰安所の設置

慰安所の開設が、日本軍当局の要請によってはじめておこなわれたのは、中国での戦争の過程でのことです。1931年(昭和6年)満州事変のさいの軍の資料をみると、民間の業者が軍隊の駐屯地に将兵相手の店を開くということが行われましたが、慰安婦という言葉はまだなく、軍隊自体の動きは消極的でした。
 翌年第一次上海事変によって戦火が上海に拡大されると、派遣された海軍陸戦隊の部隊は最初の慰安所を上海に開設させました。慰安所の数は、1937年(昭和12年)の日中戦争開始以後、飛躍的に増加します。

 陸軍では慰安所を推進したのは派遣軍参謀副長岡村寧次と言われています。
 その動機は、占領地で頻発した中国人女性に対する日本軍人によるレイプ事件によって、中国人の反日感情がさらに強まることを恐れて、防止策をとらねばならないとしたところにありました。また将兵が性病にかかり、兵力が低下することをも防止しようと考えました。中国人の女性との接触から軍の機密がもれることも恐れられました。


『岡村寧次大将資料第一 戦場回想編』1970年、302-303頁
 

昔の戦役時代には慰安婦などは無かったものである。斯く申す私は恥かしながら慰安婦案の創設者である。昭和七年の上海事変のとき二、三の強姦罪が発生したので、派遣軍参謀副長であった私は、同地海軍に倣い、長崎県知事に要請して慰安婦団を招き、その後全く強姦罪が止んだので喜んだものである。
 現在の各兵団は、殆んどみな慰安婦団を随行し、兵站の一分隊となっている有様である。第六師団の如きは慰安婦団を同行しながら、強姦罪は跡を絶たない有様である。

                                   

http://fightforjustice.info/?page_id=2354 より一部転載

慰安所設置を命じる岡部直三郎中将の指示書には、日本軍の軍規が弛緩し、強姦事件が頻発していた当時の事情が示されている。

入門編2資料_2

コメント

中曽根元首相が「土人女を集め慰安所開設」! 防衛省に戦時記録が

2014-09-11 01:30:23 | シェアー

 中曽根元首相、慰安婦関与は自著及び「海軍航空基地第2設営班資料」より明らか


私は苦心して慰安所を作った!中曽根康弘元総理「終わりなき海軍」より!

 

http://lite-ra.com/i/2014/08/post-413-entry.html

中曽根元首相が「土人女を集め慰安所開設」! 防衛省に戦時記録が

・・・・何かというと左翼のでっちあげとわめきたてて自分たちを正当化しようとする保守派やネトウヨのみなさんには申し訳ないが、これは捏造でも推測でもない。中曽根元首相は自分の“手記”の中で自らこの事実を書いており、しかも、防衛省にそれを裏付ける戦時資料が存在していたのだ。そこには、部隊の隊員によるこんな文言が書かれていた。

「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」

 まず、“手記”の話からいこう。中曽根が慰安所設立の事実を書いたのは『終りなき海軍』(松浦敬紀・編/文化放送開発センター/1978)。同書は戦中海軍に所属し、戦後各界で活躍した成功者たちが思い出話を語った本だが、その中で、海軍主計士官だった中曽根も文章を寄稿していた。

 タイトルは「二十三歳で三千人の総指揮官」。当時、インドネシアの設営部隊の主計長だった中曽根が、荒ぶる部下たちを引き連れながら、いかに人心掌握し戦場を乗り切ったかという自慢話だが、その中にこんな一文があったのだ。

「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである」

 おそらく当時、中曽根は後に慰安婦が問題になるなんてまったく想像していなかったのだろう。その重大性に気づかず、自慢話として得々と「原住民の女を襲う」部下のために「苦心して、慰安所をつくってやった」と書いていたのだ。

 ところが、それから30年たって、この記述が問題になる。2007年3月23日、中曽根が日本外国特派員協会で会見をした際、アメリカの新聞社の特派員からこの記載を追及されたのだ。

 このとき、中曽根元首相は「旧海軍時代に慰安所をつくった記憶はない」「事実と違う。海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」「具体的なことは知らない」と完全否定している。

 だが、これは明らかに嘘、ごまかしである。そもそもたんなる休憩や娯楽のための施設なら、「苦心」する必要があるとは思えないし、中曽根元首相の弁明通りなら、『終りなき海軍』の“手記”のほうがデタラメということになってしまう。だが、同書の編者である松浦敬紀はその10年ほど前、「フライデー」の取材に「中曽根さん本人が原稿を2本かいてきて、どちらかを採用してくれと送ってきた」「本にする段階で本人もゲラのチェックをしている」と明言しているのだ。

 いや、そんなことよりなにより、中曽根元首相の慰安所開設には、冒頭に書いたように、客観的な証拠が存在する。 

 国家機関である防衛省のシンクタンク・防衛研究所の戦史研究センター。戦史資料の編纂・管理や、調査研究を行っている研究機関だが、そこにその証拠資料があった。

 資料名は「海軍航空基地第2設営班資料」(以下、「2設営班資料」)。第2設営班とは、中曽根が当時、主計長を務めていた海軍設営班矢部班のことで、飛行場設営を目的にダバオ(フィリピン)、タラカン(インドネシア)を経てバリクパパン(インドネシア)に転戦した部隊だが、この資料は同部隊の工営長だった宮地米三氏がそれを記録し、寄贈。同センターが歴史的価値のある資料として保存していたものだ。
 
 本サイトは今回、同センターでその「第2設営班資料」を閲覧し、コピーを入手した。

 宮地氏の自筆で書かれたと思われるその資料にはまず、「第二設営班 矢部部隊」という表題の後、「一 編制」という項目があり、幹部の名前が列挙されていた。すると、そこには「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」という記載。そして、資料を読み進めていくと、「5、設営後の状況」という項目にこんな記録が載っていたのだ。

「バリクパパンでは◯(判読不可)場の整備一応完了して、攻撃機による蘭印作戦が始まると工員連中ゆるみが出た風で又日本出港の際約二ヶ月の旨申し渡しありし為皈(ママ)心矢の如く気荒くなり日本人同志けんか等起る様になる
 主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設気持の緩和に非常に効果ありたり」

 さらに「第2設営班資料」のなかには、慰安所設置を指し示す証拠となる、宮地氏の残したものと思われる手書きの地図も存在していた。

 それはバリクパパン「上陸時」の様子(昭和17年1月24日)と、設営「完了時」の様子(17年1月24日〜同年3月24日)を表す2点の地図資料だ。バリクパパン市街から約20km地点のこの地図から、中曽根たちが設営したと思われるマンガル飛行場滑走路のそばを流れるマンガル河を中心に民家が点在し、またマンガル河から離れた場所に民家が一軒だけポツリと孤立していることがわかる。

 そして2つの地図を見比べてみると、“ある変化”があることに気づく。「上陸時」から「完了時」の地図の変化のひとつとして、その孤立した民家の周辺に、設営班が便所をおいたことが記されている。さらにその場所には「上陸時」にはなかった「設営班慰安所」との記載が書き加えられている。

 つまり、上陸時に民家だった場所を日本軍が接収し、「設営班慰安所」に変えてしまったと思われるのだ。 

 もはや言い逃れのしようはないだろう。「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」という記載。それを裏付ける地図。中曽根元首相が自分で手記に書いたこととぴったり符号するではないか。

 しかも、「土人女を集め」という表現を読む限り、中曽根主計長が命じて、現地で女性を調達したとしか考えられないのである。

 実際、インドネシアでは多くの女性が慰安婦として働かされており、彼女たちは日本軍に命じられた村の役人の方針で、どんなことをさせられるのかもしらないまま日本兵の引率のもと連れ去られたことを証言している。そして、年端も行かない女性達がいきなり慰安所で複数の日本兵に犯されたという悲惨な体験が語られ、その中にはこのパリクパパンの慰安所に連れてこられたという女性もいる。
 
 つまり、中曽根首相がこうした“強制連行”に関与していた可能性も十分あるのだ。

 朝日新聞の訂正で勢いづいた保守・右派勢力は銃剣を突きつけて連行したという吉田証言が虚偽だったという一事をもって、強制連行そのものを否定しようとしている。さらには従軍慰安婦への軍の関与そのものを否定するかのような虚偽を平気でふりまいている。

 しかし、もし、強制連行はない、軍の関与もないといいはるならここはやはり、「土人女を集め」たという元主計長・中曽根康弘を国会に喚問して、どう「集め」たのか、「苦心」とはなんだったのか証言させるべきではないのか。一メディアの誤報をあげつらうより、そのほうがはるかに「歴史の検証」になると思うのだが、いかがだろう。
(エンジョウトオル)

 

コメント